ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

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退化する感覚

2007年02月14日 | 学習一般
先月書いた里山の古民家だが、4月から暮らせるようにいささかのリフォームを検討中。
もちろん流行の「古民家再生」ほど大がかりなことはできないので、最低限の補修+αくらいのものだが...。

隅の方の雨漏り箇所のトタンを張り替える。
アルミサッシになっている所も多いのだが、何カ所か残っている木枠の窓もすべてサッシに交換。
居間(10畳)の畳だけは新調したい。
脱衣所を通らないとトイレに行けない構造を、ちょっと直して使いやすく...。

と、ここまでで150万はかかりそうだ。
他にも直したい所はいくらでもあるが、きりがないので自分でできる所はDIYで頑張りたい。

冬に備えて寒さ対策はしっかりしたいところだが、やたら隙間が多い。
板壁や戸や軒下や...。
アレレ?ここのフスマがないぞ...。

外と障子1枚で隔てられているだけの所もあり、そのそばで寝ていた形跡が...。
寒くなかったのだろうか...。

現代風のいわゆる「高気密」住宅とは月とスッポンほどの隔たりがある。
夏は涼しそうだが...。
そう言えば、かの兼好法師も「家のつくりやうは、夏をむねとすべし」と言っていたっけ...。

そんなことを考えていた折、ネットである文章を見かけた。
細かい表現は忘れたが、大旨次のような内容だ。

「夏の暑さ、冬の寒さを感じなくていいのか。ひたすら快適さだけを求めて高気密・高断熱で床暖房...。冬でも家中暖かい。たとえば夜中にトイレに行くときには1枚羽織って行くというように、自分で調整する必要がほとんどない。そんな暮らしでいいのか。」

自らの感覚を頼りに自分で判断し、着る物を決めたり暖房を調整したりという当たり前の行動が、苦手になってきている日本人が多いのではないだろうか。
私もつい、着ていく服の選定に天気予報の最高気温や最低気温を参考にしてしまう。

幼い頃から快適な環境に慣らされている子どもたちは尚更だろう。
先人が持っていた生きるための様々な感覚は、便利な世の中になればなるほど退化して行くに違いない。
頼りにできるのは他の人や機械によるセッティングと情報だけである。
「あるある」の捏造に簡単に踊らされた日本人を見れば、その「自信(=自身)のなさ」がよくわかる。

不二家の賞味期限問題も、初め耳にしたときは、私はそれほど悪いことだとは思わなかった。
そもそも「賞味期限」や「消費期限」はお役所が機械的、画一的に定めたものであり、それを1日過ぎたからと言って品質が悪化しているとは限らない。
製造に携わった人は、自らの嗅覚や味覚で大丈夫と判断したのではないか?

大量生産の現場では、そういう「職人」は必要とされていないのかも知れない。
まだ十分に食することができても、期限を1分でも過ぎた物は廃棄処分にするのが正しい対応なのかも知れない。
しかし、本当にそれでいいのか...。何か間違っていないだろうか...。

本来保存食のはずの干し柿や新巻鮭にも「消費期限」が明示されていると言う。
感覚が退化してきたから期限表示が幅を効かすのか、期限表示があるからそれを頼りすぎて感覚が鈍ってくるのか...。
私は後者の方が強い気がしている。

どうも今の世の中のシステムは、地球に優しくないだけでなく、人類を滅亡の方向へ導いているものが多いと思う。
清潔を追究するあまり、ちょっとの菌にも脆くなったり...。

地球環境のためにも、生きる強さを身につけるためにも、ここらで大きな発想の転換が必要ではないか。
子どもたちには外遊びや手伝いを通して五感を鍛え、自らの判断に自信と責任を持てる人間になってもらいたいものだ。


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先を越された!

2007年01月28日 | 学習一般
先日朝日新聞と地元の信濃毎日新聞で、相次いで韓国と中国の教育に関する記事を読んだ。
日本以上に教育熱が高く、高学歴を求めての受験競争も激しい両国だが、最近になって過度の競争や詰め込みを見直そうという動きが始まっていると言う。

特に注目されるのは、塾やフリースクールなど民間教育機関の活動だ。
知識より知恵や情操面を伸ばすことを目標にしているところが多い。

韓国の「リーダーシップ講座」は、討論や体験学習などを行いながら問題解決能力を磨く塾。
「礼節学校」では儒教に基づいた礼儀や作法を通じて情操教育が施される。

中国の「孟母堂」や「現代私塾」は論語などの古典を教えていて、やはり礼儀作法や道徳教育を重視する。
「二千年を超す歴史を生き残った古典に民族の最高の知恵が残っているはずだ」という保護者の声も載っていた。

そして極めつけは韓国の「子供哲学教室」だ。
記事によれば、小学生から高校生を対象とした「考える力」を養う塾が増加中とのこと。
単に「考えること」を重視して成績を上げる、というだけではないコンセプトが「哲学教室」というネーミングから感じ取れる。
私が最終的に目指している“Thinking Scool”に近いような気がする。
韓国に先を越されたか...。

「増加中」ということは、子どもや保護者にそれなりに受け入れられているということだろう。
日本でもニーズは埋もれているだけなのではないか...。

何となく時期尚早と考えていた私は、少しのんびり構えすぎていたのかも知れない。
中韓両国の事例を参考に、「成績を上げること」を至上目的としない新しい私塾の創設を急ぎたいと思う。


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いかにラクして計算するか

2006年12月06日 | 学習一般
a=√3-2,b=√3+2のとき、a^b+ab^の値を求めよ。(^は2乗)

こういう問題が出ると、いきなりaやbに数値を代入し始める子がいる。
もちろんそれでも答は出るが、途中の計算が複雑になり、そこで計算間違いをする危険も大きくなる。
口を酸っぱくして「まず式を簡単にしてから」というのだが、直らない子はいつまでも見た瞬間に代入する。
先に与式をab(a+b)と因数分解すれば暗算でも解けるのに...。

×10や×100、÷100なども、いちいち割り算の筆算をする。
「2kmの4/5は何km?」と聞かれると、わざわざ2kmを2000mにしてから4/5を掛け、1600mをまた1.6kmに直す。
20x+60y=1200...①と6x-18y=180...②の連立方程式では、①×3と②×10として大きな数で計算する。

×10や÷100なら0を増やしたり小数点の位置を移動させるだけでいいし、2kmの4/5ならそのまま掛けて分数で8/5kmと答えればそれで終わりだ。
連立方程式は、①÷20、②÷6とすればうんと小さな数の計算になる(←両辺を大きくすることばかり考えている子が多い...)

要領が悪いというか、工夫が足りないというか...。
つまりは計算のセンスが育っていないということになるのか...。

数学の計算はいかにラクするか、ラクな形にできるかがポイントだと思う。
もちろん習い始めは地道な計算方法でじっくり学ぶべきであり、ハナからやり方だけを教え込むことは避けなければならない。
しかし、いつまでも上記のような遠回りを繰り返す子には、おる程度意図的に気づかせたりアドバイスすることも必要となろう。

小学校の教科書では、そのあたりの説明はないのだろうか?
...と思って調べてみたら、ちゃんと書いてある。
1200×150などを筆算でやる場合も、位を揃えずに0をどけておいて計算し、後から0を3つ足す方法が載っている。
なのに中学生になっても、0×1200をいちいち計算(?)してわざわざ0000と書く子が多いのはなぜなのか...。

様々な原因があるのだろうが、機械的に筆算をしたがる一因は、前にも書いた小学校での小数計算重視の傾向にあるのかも知れない。
小数ではどうしても筆算に頼ることが多くなる。
171÷456を小数で求めようとしてそのまま筆算にすると、計算が大変になる。
これは171/456と分数にして約分すれば3/8となって終わりである。
どうしても小数にしたければ、ここまで来てから3÷8を計算すれば簡単に0.375が求められよう。

この過程での約分の重要性がわかれば、171÷456のままで双方の数を3で割ってもいいということに気づくのではないか。
そこから発展すれば、20÷0.4は200÷4と同じだし、14÷3.5は28÷7で計算すればいいということが直観的にわかるレベルまで、早い時期に到達できるかも知れない。

私はとにかく筆算(特に割り算)をしたくないので、できるだけ分数を使うし、もっとラクに計算できる方法はないかと常に探している。
756円の物を買ったときに1056円とか1060円出すのも、小銭が増えるのがイヤであると同時に、自分がお釣りの計算をしやすいからである。

できれば中学に入る前に、ラクに計算するためにはどんな工夫をしたよいか考える習慣を身につけさせたいものだ。
やはり結局は、数量感覚を育てることが重要になるのかな...。


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お詫び

2006年11月08日 | 学習一般
前回の記事「必修科目未履修問題」については、ブログ上やメールで大きなご批判の声を頂きました。初めはカチンと来て反論しようとしましたが、そこでまともに反論さえできない自分に気がつきました。コメントを頂いた方にも失礼なレスで逃げていただけです。

皆さんのご批判を反芻してみて、そのどれもが深い考察の元になされたものであることを実感し、ようやく目が覚めました。

よく調べもせず、深く考えもせず、また人の意見の根拠に思いを巡らすこともなく、偉そうに断言する記事を掲載したことを心からお詫び申し上げます。特に、学習指導要領を変えればいいという意見は「言語道断である」と書いた部分は、多くの方のご意見を冒涜したものであり、また不快感を呼び起こす表現でした。申し訳ありませんでした。

顧みれば前回だけではなく、最近の私の記事は、独りよがりで格好をつけているだけの薄っぺらなものが多かったと思います。人の忠告に耳を傾けようともせず、ただ一人で生意気なことを書き並べていただけです。言葉にこだわるブログでありながら言葉の重みがわかっていなかった、論理的思考の大切さを訴えながら自分が実践できていなかったのだと思います。

なお、今回の件を反省するため、勝手ながら今月いっぱい新たな記事のエントリーを自粛させていただきます。また再開後も、確かな根拠なき暴論は二度と掲載しないとお約束いたします。

多くの方々にご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありませんでした。



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必修科目未履修問題

2006年11月02日 | 学習一般
この問題が全国的になってから、やはり一言書き残しておかなければと思いながら一週間が過ぎた。
対象者のあまりの多さに、当初救済策は考えないと言っていた政府も、ここに来て必要な時間数を削減する「徳政令」の適用を考え始めた。

マスコミの論調としては、生徒がかわいそう、生徒に負担のないようにというものが多いと感じる。
補習のうち何割かは大学入試が終わった春休みに行うことになりそうだ。

しかし、これでは学習指導要領を遵守してきちんと履修させてきた学校、学んできた生徒が馬鹿を見る。
今でさえ、なぜそういう立場の人間からもっと声が上がらないのか不思議なくらいだ。
入試までに正規の時間数を履修した生徒は、受験で優遇されるような措置を大学側は考えてもいいのではないか。

この問題は多くのブログでも採り上げられているが、気になる論調のものも少なくない。
一つは「なぜ世界史を必修で学ばなければならないのか」というもの。
これは論点のすり替え以外の何物でもない。
何が必修かという問題ではないのだ。
では、日本史が必修なら意見が変わってくるのか?
世界史と共に多くの高校で未履修が続出している「情報」についてはどう考えるのか?

もう一つの気になる論調は、学習指導要領が現実に即していないのであり、現場の実情に合わせて変えるべきだというものである。
これについては言語道断であると断言する。

言うまでもなく、高校は大学入試のためにあるのではない。
義務教育を終えた者が、さらに広い、あるいは深い教養を身につけるための高等学習機関である。
今の日本は「教養」を軽視しすぎているのではないか。
大学の「教養課程」も絶滅しつつある。
生物をろくに学ばないままでも医者になれる教育システムは、根本的におかしいのではないかと思う。

大学入試に直結する教科だけを効率的に学べばいいという考え方の高校が増えれば、やがてそれが中学にも降りてくる。
高校入試に必要なことだけ...。
小学校では中学で必要なことだけ..。
そう望む親や子が増えてきても不思議はないだろう。
かくして、まともな教養もない、人格的にも未熟な若者が量産されて行く...。

少し極論に過ぎたかも知れないが、今回の問題の根はそれだけ深いものだと思う。
私は、高校は本来やるべきことを徹底するべきだと考えている。
大学入試のことまで世話を焼く必要はない!
学校に面倒を見てもらわなければ入試にも対応できない生徒は、大学へ行く資格などないということだ。
入試に関係ない科目も履修しながら、一方で自分で受験勉強もきっちりできる。
そんな自立した生徒だけが大学生になれる...それが本当の姿だと思うのだが...。


長野県内でも多くの高校で未履修が明らかになった。
いわゆる進学校が名を連ね、そうでない高校の方がきちんと履修させている傾向が強い。
この状況をどう思われるだろう。
やはり進学校はそれなりの受験対策をしてくれている、と再認識するだろうか。
私はむしろ、だったら自分の子には「そうでない高校」で学んでもらいたい。
受験テクニックより幅広い教養を身につけてほしいと考える。

それにしても、歴史と伝統のある県内のトップクラスの高校がすべて未履修問題を抱えていたのは残念である。
ウチは高校のやるべきことをやるのみ、という気概を持った有名校が一校くらいあってほしかった。


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系統立てて覚える

2006年10月26日 | 学習一般
私の趣味の一つである「投扇興」では、扇を投げた後の扇と蝶(的)、枕(台となる箱)の位置関係により得点が決まります。
点数はマイナス20点からプラス50点まで...。

当然のことながらよく出る形は点数が低く、初級者は1試合10投しても0点や1点、せいぜい4点の技がほとんどです。
長くやっていても8点や11点が多くなるくらいで、30点とか50点はよほど運に恵まれないと出すことができません。
もっとも、ビギナーズラックで、初めてやった人が50点を出すことも珍しくはないのですが...。
(投扇興について詳しくは「ブックマーク」の(趣味のページ)を参照願います。)

で、競技をするためには、どういう形のときに何という名前の「役」になり何点貰えるか(これを「銘定」と言います)を覚えないと話にならないわけです。
初めは知っている人に一々判定して貰えば済みますが、自分が出した形が何なのか自分でわかった方が楽しいし、そうなれば行司(審判)もできます。

月例の練習会では皆さんに絵入りの銘定表をお渡しし、実戦の中で判定の仕方を詳しく解説しているのですが、面白いことに、すぐ覚えてしまう方と何ヶ月経っても迷っている方がいらっしゃいます。

私自身は何でもすぐに凝る方なので、ネットで調べたり、迷ったときはベテランの人にメールで相談したりして、あっと言う間に40種類(+加点バージョン8種類)の銘定を覚えてしまいました。

私の所属している流派では、それぞれの形に源氏物語の巻の名(ex.須磨、若紫、夢浮橋)が付いているので、その名が付いた由来(見立て)まで考えると記憶に残りやすくなります。(←かなりコジツケ気味のもありますが...)

そして何よりのポイントは系統立てて覚えること。
一つ一つバラバラに覚えていたのでは嫌になるし、試合中のとっさの判断にも支障を来します。

まず全体を大ざっぱに分けて代表となる銘定のもとにまとめます。
「絵合(えあわせ)」系(扇も蝶も落ちて重なる)、「御幸(みゆき)」系(扇が枕に立てかかる)など...。
あとは、何がどうなったら違う銘定になって得点が上がるのかを理解すればいいだけです。
よほど特殊な形だけは別に覚えなければなりませんが、これでよく出る形は完璧に記憶できました。
大会でも何とか行司を務めることができましたよ。

学校の勉強でも、覚えなきゃ始まらないことはたくさんあります。
図形の定義や定理、気体の性質、岩石の特徴、気候の特色、そして様々な歴史や公民の用語...。
もちろん漢字や英単語もそうですね。

すべてに言えることではないかも知れませんが、ここでもやはり一工夫があれば記憶の定着が違うのではないでしょうか。
概念の階層を分ける、大きくグループ分けする、そしてその中で共通点と相違点を明らかにしながら一つ一つの対象を配置する。
覚えるってつまり、頭に描いた絵図の中にそれぞれの居場所を見つけてあげることだと思うのです。

たとえば台形と平行四辺形の違いを明確にし、長方形、ひし形、正方形を平行四辺形の概念の中に位置づけする。
気体の性質なら、まず水によく溶けるか否かで分類し、さらに空気より重いか軽いかで分ける。
言葉を覚えるときは類語や反意語もついでにマークする。

こんなことを心がけるだけで勉強の能率は違ってくるのではないでしょうか。
何も○○式などという記憶術に頼らなくても、一般的なレベルでの覚える作業は、工夫次第で誰でも得意になれる気がします。
その工夫の仕方をアドバイスするのも私たちの役割の一つなんでしょうね...。


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必要悪?

2006年09月06日 | 学習一般
今や中学生の通塾率は7割と聞く。
もちろん「塾」の中身は様々だろうが、学校に通いながら何らかの「塾」にも行っている子が一般的ということになる。
大都市圏では、小学生の通塾率も相当な高さになっていることだろう。

広義にとらえれば、「教育」は本来家庭で行われべきものである。
日常生活で不自由しない、人間としてまっとうに生きて行く、というレベルまでの教育は家庭の責任であろう。

それ以上の「学問」は、かつては限られた層のものに過ぎなかった。
ところが時代が進み、庶民の間にも「読み・書き・そろばん」などのいわゆる「学力」を子どもに身につけさせたいという親が増えてきたのだ。

親に学があれば、それでも家庭教育で対処できたであろうが、そうでない親たちは寺子屋を始めとする外部教育機関に子どもを預けることとなった。
それがやがて学校に発展していく。

育児放棄や不登校などが増加しているとはいえ、現代の日本では100%に近い子どもが義務教育を受けている。
要求される学力を授業料無料の学校だけでつけることができれば、他の教育機関は不要のはずであった。

ところが大学進学を頂点とした「受験戦争」によって、「学校だけでは不十分」という不安が広がり始めた。
いわゆる「進学塾」がその不安をあおった面も多かろう。
一方で、マンモス学級による「新幹線授業」について行けなくなった子どもたちを対象に「補習塾」も登場する。

私が中学生の頃は、大都市はいざ知らず、地方都市では「塾」に通っている子などほとんどいなかった。
それが今では、小さな町にまで何らかの「塾」がある。
かつては敵視していた学校側も、共存を提唱しているところが珍しくなくなってきた。
学校の先生の子どもが塾に通っているという例も多いと聞く。

今や塾は必要悪なのであろうか?
進学塾にしろ補習塾にしろ、学校が改革されればなくてもいいものなのだろうか?

これにはYESと答える人が多いと思う。
学校ですべて事足れりとなれば、所得格差による不平等も生じないし、塾など不要になる...。

本当にそうだろうか?
塾など所詮それだけのものなのだろうか?
いつまでも日陰産業の域を出ないのだろうか?


むろん、そうである塾も多かろう。
しかし、学校教育がどれだけ充実しようが、親がお金を払ってでも子どもを通わせたい、あるいは子ども自身が通いたいと思うような塾もあるはずである。

進学に関する独自の情報網を持っている、各教科の知識が飛び抜けている、どんな子どもに対しても意欲を引き出すのがうまい...。
要は、学校が簡単にはマネのできない強みをどれだけ持っているかであろう。

私もそんな「必要善」としての塾を作っていきたい。
ただ、強みをどこに置くかは、上に書いたようなものと少し方向が違う。

キーワードは「学ぶ力」「教養」「研究」の3つ。
このうち要約力、論理的思考力、説明力などの「学ぶ力」については、このブログでも繰り返し述べてきた。
残りの2つについては、近いうちに記事を改めて言及したいと思う。
乞うご期待!


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子どもに好かれたい?

2006年08月30日 | 学習一般
先日、昔の全日本男子バレーボールチームの物語をテレビでやっていました。
東京五輪で銅メダルに終わってから、ミュンヘンで金メダルを獲るまでの一大プロジェクトの話です。

まだ「プロジェクト」という言葉自体も浸透していなかったあの頃、実に綿密に構築された計画のもとに悲願の金メダルを掴んだのだということがよくわかりました。
そう言えば「ミュンヘンへの道」というアニメ番組がありましたが、あれもプロジェクトの一環だったようです。

その番組の中で、当時の全日本代表監督だった松平康隆氏がこんなことを言っていました。
長期的な見通しで選手を育てていた氏は、その場でいい顔をして選手を甘やかすのではなく、たとえどんなに憎まれても後になって感謝されるような指導をしたといいます。
それこそ、鬼になって選手に接したのでしょう。

こういう、いわゆる「シゴキ」についてはいろいろ問題もあると思いますが、氏は上記のことを親子関係にもたとえて語っていました。

「今、いい親と思われたい」という気持ちで子どもに接していてはダメで、子どもの将来を考えて厳しくすべきところは厳しくする、「クソオヤジ!」と思われても譲れないところは絶対譲らない...。
そんなことの大切さを説かれていました。

今の世の中の親子関係を見ていると、この辺りのタガが緩んでいるように見えて仕方ありません。
ここで叱ったら反感を持たれるのではないか、あまり厳しくするのも可哀想...などと、子どもの顔色を窺い、変に「物わかりのいい親」になっている例が多いのではないでしょうか。

まだ必要ないと思っていても、「みんなが持っているから」と言われれば中学生にも携帯電話を買い与える。
勉強もきちんとしてほしいと思っていても、部活で疲れて眠ってしまえば「好きなことに打ち込んでいるんだから」と放っておく。

子育てとか教育についての確固たる信念が持てない、自信がないということもあるでしょうが、「子どもに嫌われたくない」と安易に迎合している面も少なくないと思います。

いつだったか、何の話の時だったかは忘れましたが、長男に「そんなこと言ってるから子どもに嫌われるんだよ!」と言われたことがあります。
私はすかさず言い返しました。
「子どもに好かれようなんて、これっぽっちも思っていない!」

核家族化が進み「ニュー・ファミリー」という言葉が出てきた頃から、「友だちのような親子関係」が一つの理想とされ、「親の威厳」とか「頑固オヤジ」などは時代遅れであるかのような風潮が広まったのだと思います。

もちろん私も親にはさんざん反抗したし、戦前の家長制度のような、有無を言わさぬ独裁制を支持するものではありません。
それでも、ここだけは譲れない、これだけは筋を通すというケジメだけは大事にしたいと思っています。

今はどう思われても将来のことを考えて...。
これは教育関係者にも求められる思想ですね。
「友だちのような先生」「和気あいあいとした楽しい塾」というだけでは、子どもたちは決して伸びないと思います。

ただ最近、「厳しくしてくれ」という親が減ってきているのも感じています。
自分たちが厳しくしていないから、子どもが耐えられないと思っているのでしょうか?
かくして、甘やかされた王子様、王女様が次々と世に送り出されることになります...。


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文武両道

2006年08月23日 | 学習一般
私は野球が好きだ。
若い人にはサッカーの方が人気があるようだが、相撲にも共通するあの「間」は野球ならではの魅力である。
打者と投手の心理の読み合い、駆け引きなどが興味深い。

4点差、5点差くらいでは、最後まで何が起こるかわからないというのも野球(特に高校野球)の醍醐味であろう。
ゴールがなかなか決まらず、入っても1点ずつ、しかも時間の制約があるサッカーではこうはいかない。

また、ルールは複雑で多岐にわたるが、これが実に良くできている。
たとえば無死で1塁に走者が出ても、送りバントだけでは本塁まで帰って来られない。
2塁に走者がいるとき、1アウトが2アウトになるとチャンスがしぼんだように思えるが、その一方で走者は思いきったスタートが切れるので、ヒットが出れば得点の可能性が高まる。
野球のルールは知れば知るほど面白い...。

高校野球も、いろいろ批判もあるし私なりに問題点も感じてはいるが、いざ始まると夢中になってしまう。
長男が高校球児だったこともあり、地方大会にも結構通う。
子どもたちの母校が負けても、決勝戦は夫婦で観に行ったりするのだ。

今年は阪神が不甲斐ないので、その分高校野球に力が入っているかも...。

さて、前置きはここまで...。

今年の夏の高校野球はいつも以上に面白かった。
終盤に逆転で決着がつくゲームが多く、決勝戦は再試合にまでもつれこんだ。
仕事の都合上、夜のプロ野球はほとんどテレビ観戦できないのだが、朝からやっている高校野球なら結構見られるので、ずいぶん楽しませてもらった。

優勝した早実の斉藤投手は、大人気で家にも帰れないようである。
確かに素晴らしい投手だった。
真夏の甲子園で延長も含んで4連投し、なおあのスピードとキレ、コントロール...。
今すぐにでも阪神に欲しいくらいだ。

おまけにあの顔立ちとクールな振る舞い...。
女性ファンが放っておくわけがない。
昔の坂本や荒木、松坂以上のフィーバーぶりも納得が行く。

さらに、忘れてはならないのが早稲田実業の生徒だということ。
失礼ながら、私が都立高校を受験した頃の早実は、偏差値的には今よりずっと低かったのではないかと思う。
私の中に「実業」という校名に対する偏見があったのかも知れないが、早稲田高等学院に比べたら容易に入れるというイメージがあった。

それが、30年経って様相が大いに変わったらしい。
国分寺市に移転し、男女共学になり、商業科を廃止し、新しい早実に生まれ変わった。
中等部まででき、高校の受験偏差値は今や高等学院を上回るそうだ。

野球部の生徒も、スポーツ推薦で入学した者だけでなく、一般入試の難関をくぐり抜けてきたつわものも少なくないという。
斉藤投手も、受験時の評定(中学での)は平均4.4だったという記事を読んだ。

入学してからも学業優先という校風があるようだ。
野球部も試験休みはしっかり取るし、テストの成績が悪ければ練習に参加できないという。
斉藤も夜中の3時まで勉強してテストを乗り切ったそうだ。

まさに文武両道!
甲子園にはときどき「進学校」としての実績を持つ高校が出てくる。
以前の国立(西東京)小松(石川)慶応(神奈川)、今回も出場した今治西(愛媛)、今回初出場の福岡(富山)などなど...。

長野県予選でも、県立のいわゆる「進学校」が上位に残ることは多い。
練習環境の整った私立の強豪に負けて甲子園までは届かないことも多いが、これこそが高校野球のあるべき姿ではないか。

先日部活の功罪についての記事を書いたが、要は勉強と部活の切り替えが如何にうまくできるかである。
「部活のせいで」「勉強のせいで」というのは言い訳に過ぎない。
両立できる生徒にこそ部活をやる資格があるのであり、両立できないなら学業を優先すべきであると私は思う。


しかし、斉藤投手は文武両道に加え、ルックスまで良いのがシャクの種ではある。
神は三物を与えたか...。


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効率的な勉強法?

2006年08月16日 | 学習一般
「ウチの子は勉強の仕方がわからないようだ」
「時間をかけて勉強しているのに成績が伸びない」
...生徒の親からこんな声をよく聞きます。
だから、効率的な勉強法をアドバイスしてほしいということです。

私は本来、勉強の仕方は万人に共通するものはなく、ひとり一人が自分に合った方法を模索しながら身につけていくものだと思っています。
誰かから「はい、この通りにやりましょう」と言われてそれに従って、それだけでみんなが効果が出るほど、甘いものではないはずです。

それでも最近あまりに上記のような声が多いため、「勉強の仕方」という栞を作って中学生に配布しました。
学校での授業の受け方やノートの取り方、家庭での学習法、塾の活用の仕方、そして国・数・英の具体的なポイントなどにも一応言及していますが、最も量を割いているのは<原則>の部分...。
こんなことが書いてあります。

1:人に頼るな!
2:「わからない」を楽しめ!
3:間違いをおそれるな!
4:「めんどくさい」は禁句!
5:「覚える」のではなく「理解する」!
6:たくさんやろうとするな!


つまりは、このブログでもずっと話題にしてきたような内容を生徒向けにまとめたものです。

中には「総論はどうでもいいから、もっと具体的な勉強法を教えてほしい」という生徒や親がいるかも知れません。
でも先にも書いたように、これらの原則の上に、あとは自分で工夫してほしいのです。

金儲けもそうですが、「どこかにもっとうまい方法があるはずだ」「楽に成功できる方法を知りたい」と、幻想ばかり追いかけている人間が増えているように思います。
少ない努力であまり苦労せずに効果が上がる勉強法などあるはずないし、仮にあったとしても、安易にそれを与える塾にはしたくありません。

学校や塾に、何かを与えてくれることを期待しているだけでは絶対に伸びません。
理解できないと先生の教え方のせいにする、家庭ではうまく勉強できないから塾に頼る...。
特に親がこういう考え方を持っていると、ちょっと通って効果が確認できないとすぐに塾を変わる、いくつもの塾を渡り歩いてどれも中途半端...という状態になりがりです。

はじめから「効率的な勉強法」を与えることばかり考えていては失敗します。
まずは家庭での学習習慣をつけること、そしてコツコツ努力することを惜しまない姿勢を育てることが大切ではないでしょうか。
根本にそれがあれば、やがて自分なりの工夫で効果的な学習法を見つけ出すはずです。
学校や塾に頼るのではなく、逆にどう利用するかという主体性が大切なのだと思います。


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部活三昧

2006年07月25日 | 学習一般
私の塾は中学生は週2回か3回、時間は午後6時から10時までで何時間いても構わない。
教科数も関係ないので、やる気のある生徒は4時間ビッシリで5教科学習することも可能だ。

部活を終えてから来る生徒も多い。
9時近くに来て10時半くらいまで粘っていく高校生もいる。
みんな部活と勉強を両立させようとがんばっているのだ。

幸か不幸か、最寄りの中学校は長野市の中でもいろいろなスポーツが強い方なので、運動部に入っている子が圧倒的に多い。

部活に加えて地域のクラブにも加入している数名は、週2回も通えないとのことで、特例で週1回で受け入れている。
週1回ではとても5教科をバランス良くとは行かないので、やむをえず数・英・国を優先することになる。

中3の今頃、部活を卒業した子どもたちは、ようやく高校受験を意識し始める。
それまで週1回しか来られなかった子も、今までの分を取り戻そうと週3回通い出すことが多い。
夏休み前にその態勢に入ってくれれば、3月までに十分何とかなるのだが...。

当然、最後の大会で早々に負けた子ほど、早くその態勢に入ることになる。
毎年この時期は複雑な心境だ。
2年と少しがんばってきた部活の最後の大会だから、できるだけ勝ち進んでほしいという思いの一方、少しでも早く勉強に専念してほしいとも思う。

特に、それまで週1回さえまともに来ていない子に対しては、本人には申し訳ないが後者の気持ちが強い。
いい加減、部活から卒業してくれ!そんなことやっている場合じゃないだろ!というのが偽らざる心境だ。

塾に来られなくても学校や家で十分な勉強ができているというのならいいが、たいていの場合はそうではない。
中2までの範囲が覚束ないことが多いので、学校ではお客様状態のことも多かろうし、家に帰れば疲れ切って寝てしまうというのが標準的なパターンだろう。

皮肉なことに、そういう子(orそういう子がいるチーム)ほど勝ち進むことになるわけだから、勉強への切り替えが遅くなる。
9月なってから本格的に受験勉強に取り組もうと思っても、基礎を固め直すだけで今年が終わってしまう...。

以前見学に行った横浜の塾の先生は、週4日も5日も練習がある部活と勉強の両立は難しいと公言していたし、周りでは部活禁止の塾もあるという話だった。
全国ではどうなのだろう...。

勉強に対してだけでなく、部活は家族のあり方にも大きな影響を及ぼしている。
土曜も日曜も、練習だ試合だと駆り出され、家族揃って出かけることもままならない。
さらに送り迎えや応援にと、子どもの部活中心の休日に振り回されている親も少なくないだろう。


「たかが部活」が子にも親にもこれだけ大きなウェイトを占めていることが、私にはどうしても異常な状況に思われる。
以前にも書いたが、部活やスポーツに打ち込むのは良いこと、という根強い信仰にとらわれて思考停止になっていないか。
世の風潮は部活の良い面ばかりを強調しすぎているのではないだろうか...。


せめて週のうち3日は休みとか、土・日のどちらかは休みとかできないものだろうか。
「部活命」の教師がいては無理かも知れないが...。


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一人でできるもん!

2006年07月07日 | 学習一般
子どもが小さい頃、自我が芽生えて何でも一人でやりたがることがあった。
親が手出しをしようとすると、「じぶん!」と言い放って拒否したものだ。
少しの寂しさと、我が子の成長に対する嬉しさが入り交じった思いだった。

子どもが狙われる犯罪の増加に伴い、登下校時に親などが通学路に立っている姿を見ることが多くなった。
これだけ異常な世の中になっては、他人事と思えない気持ちはよくわかる。
田舎だからといって安心などしていられないのだ...。

先日も塾の近くの横断歩道で、地区の安協役員と覚しきおじさんが下校の小学生を見守っていた。
子どもたちが横断歩道に差しかかる。
と、おじさんが通りかかる車を止めて、小学生を安全に渡らせた。

一見、何でもないようなことだ。
大人がいるのだから当然そうすべきと考えられる方もあろう。
でも、私にはよけいなお世話のように思われた。

その横断歩道にはこれまで大人は誰もいなかった。
それでも子どもたちは安全に渡っていた(と思う...)。
上級生が下級生の面倒を見ながら、自分たちで安全を確認して渡っていたはずだ。
子どもたちなりに危機意識が育っていたのではなかろうか。

大人が車を止めてやって何の心配もなく渡らせるという行為は、一見子どもたちのためのように見えるが、実は子どもの自立を阻んでいることにならないか?

もしかしたら私が知らないだけで、その横断歩道で最近事故があったのかも知れない。
しかし仮にそうだとしても、そのあと短期間だけ大人が誘導することに大きな意義があるとは思えないのだ。

四六時中待機しているわけではなかろうし、同じくらいの危険度で誰も付いていない場所もいくらでもあるだろう。
大人がいなくても自分で判断して安全に渡れる力をつけてやることが、真に子どものためなのではないだろうか。

大人が付いていてもいい。
せめて「見守る」とか「声をかける」程度にしてもらえないだろうか。
テレビの「はじめてのおつかい」のスタッフのように、危険がないように注意は配りながら決して手出しはしない、という具合にはできないものだろうか。

勉強も同じである。
学校や塾が手取り足取りお膳立てし、つまずかないように、わかりやすく...ばかりで接していては、子どもは決して自ら学ぶ人間にはなれない。
一見不親切のようでも、将来自分の力で問題を解決していける力を育てることを念頭に置いた指導が成されなければならない。

自分から積極的に学ぶ姿勢ができ、自らの力で調べたり考えたり表現したりすることを楽しめる。
そしてつまづいたとき、疑問を持ったときにそれらを解決する術(すべ)を知っている。
...そんなレベルになってくれれば、いつ塾を卒業しようと大歓迎だ。

もう君は一人でやっていける。
たまに相談でもあれば顔を見せればいい...。
すべての塾生をそんなふうに送り出したいものだと思っている。




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ジーコが残したもの

2006年06月26日 | 学習一般
ドイツW杯、日本は予選リーグで敗退という残念な結果に終わった。
あとは純粋に、世界のトップレベルの試合を楽しみたい。

そしてジーコが日本代表監督の座を去る。
最後は今回の結果を受け、その指導力に対する疑問の声が吹き荒れる中、きわめて簡単に交代劇が進められようとしている。
マスコミの注目は次のオシムに向かうばかりだ。

ジーコの采配については、私も選手起用などで納得の行かない面もあった。
しかし彼がかかげた「選手が考えるサッカー」という理念には、大いに共感するものがあった。

私はサッカーに詳しいわけでは決してない。
戦術面の細かいことはわからない。
だから、これはあくまでも教育論としての意見である。

前代表監督のトルシエのサッカーを表す「管理」「組織」というキーワードに対し、ジーコのそれは「自由」「個人」であった。
ジーコが就任してしばらくは思うような結果が出なかったが、W杯最終予選では彼の考えるサッカーが結実したという評価が多かった。

今回のW杯の惨敗で彼の理念が全否定され、一億総バッシングのようなムードが出始めていることに少々うんざりしている。
また管理型のサッカー待望論が主流になってくるのでは?と懸念しているのだ。
その方が、もともと「和」を好む日本人の気質に合っているのかも知れないが...。

ジーコの理念そのものは間違っていなかったと思う。
監督の指示のままに選手が一つの駒になって動く組織としてのサッカーは、一時的には強くなるかも知れないが、底力は育たないのではないか。
チーム競技である以上、組織としての動きが大切なのは当然である。
しかし、選手個人が思考を停止し、「指示待ち族」に成り下がってしまっては勝てるわけがない。

刻々と変わる状況に、何が最善か自分で判断して対処できる力を選手ひとり一人が持っている、それが結果として組織としての強さにも繋がっているというのが理想のチームだろう。
決して先に組織ありきではないと思う。

ビジネスの世界ではとっくにそういう方向へシフトしているのではないか。
先行きの不透明な時代には、トップの指示に従うだけの社員は要らない。
臨機応変に、自分の頭で考えることのできる人間が不可欠なのだ。

日本では伝統的に「和」が重視され、自分を主張することの大切さが軽んじられてきた。
こう書くと「主張ばかりでいいのか」という意見が必ず来る。
実際、果たすべき義務も果たさずに主張ばかりしている困った輩もいるが、だからと言って、批判を恐れて主張を自己規制するのも間違っている
(このあたり、失敗を恐れてシュートをしないフォワードにも関連...。)

つまり、きちんとしたルールに則って個々人が自分の考えをぶつけ合うディベイトのような練習が必要なのだ。
こういう訓練が最も不足しているのが、学校教育とスポーツの現場ではないだろうか。

自分たちで考えて勝つ経験を積み重ねることで、選手が育ちチームは強くなる。
進化したチームは、たとえ監督が替わろうと強さを維持できる。
本当に優れた上司とは、自分がいなくなった後も組織が好結果を残せるよう、部下ひとり一人を育てる人物であろう。
その人がいたときだけ強くても、名監督とは言えないのではないか。

日本が勝てなかったのは、選手個人の技量や精神の問題である。
ジーコの理念自体は正しかったのだ。
日本の教育のあり方を変えるためにも、ジーコ流が正しかったことを証明してほしかった。
それが一番残念である。

オシムがどんなサッカーを目指しているかは知らないが、やはり日本には管理型の指導が合っているのだという、時代に逆行するかのような声が高まらないことを期待している。
あくまでも子どもたちのために...。


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「愛国心」について考える

2006年06月05日 | 学習一般
教育基本法の「改変」について様々な意見がある。
(ここでは「改正」や「改悪」など価値判断が含まれた言葉ではなく、あえて「改変」で行く。)
特に注目が集まっているのが「愛国心」を明記するという点である。

さて「愛国心」とは何か?
文字通りに解釈するなら「国を愛する心」というだけだが、この定義が論者によってバラバラであるところに議論がかみ合わない主因がある。

「君が代」を歌い「日の丸」に敬意を表するのが愛国心?
日本の言動をすべて正当化し、他国を目の敵にするのが愛国心?
国の政策に反対せず、黙々と「お上」に従うのが愛国心?
伝統的な芸術に積極的に触れ、日本の心を再確認するのが愛国心?

すべて違う。
「君が代」を歌う、歌わないで愛国心のあるなしを判断されてはかなわない。
日本のやることには間違いないという盲目的な愛は危険である。
わび・さびの世界が性に合わないだけで非国民呼ばわりされてはたまらない...。

よく言われるように、愛郷心や愛国心などというものは強制されて身につくべきものではない。
都会で暮らせば故郷が恋しくなるように、外国へ行けば日本の良さが再確認できるように、自然に育まれているのがこれらの愛情ではないか。

まして「国を愛する態度」を評価しようとすれば、歴史解釈についての意見も政策に対する主張も、自由に言える空気は学校現場になくなってくる。
能や歌舞伎を見て、本当は退屈で仕方ないのに、評価を気にして「素晴らしかった」「日本の心に触れることができた」と感想を書く子が増えるのではないか。
それで愛国心が育っているとは到底思えない。

そもそも、国の言動に肯定的だあるだけが「愛する」ということではなかろう。
それでは溺愛して子どもを甘やかす親と同じである。
日本を愛するが故に批判的になったり怒ったりしなければならないときもある。
国を憂うることは国を愛することと同義ではないか...。

「愛の反対は無関心」という言葉を読んだのは、どなたかのブログでだったと思う。
「嫌悪」や「憎しみ」は、相手に関心があるからこそ生まれるものであり、興味がなければその感情さえ生まれない。
相手が何をしようが関係なし、というのが愛のない究極の形であろう。
真の「忠誠心」とは、ときに上司を諫めることではないだろうか...。

最近の日本人は実におとなしくなってしまった。
どんなにおかしいと思う政策があっても、どんな不祥事が明るみに出ても、表立った反対の声は一部の国民からしか上がらない。
特に若者のあきらめムードは甚だしい。
ことの善し悪しは別として、他の国のように政府の方針に反対して若者の暴動が起こることなど、今の日本では考えられないだろう。
いつから日本人はこんなに飼い慣らされてしまったのか...。

今、教育で重要なのは、子どもたちに闇雲に「国を愛せ」と迫ることではなく、まず「自分たちの国」という意識を強く持たせることである。
国の行く末に関心を持たせることである。
そして日本のことを真剣に自分の頭で考えられる、必要があればノーと言って行動を起こせる、そんな本当の「愛国心」を持った人間を育てることである。

そのためにまずは、歴史も地理も哲学も科学も、多くのことを学ばせる必要がある。
ひとり一人が自分の意見を持ち、議論を戦わせたり文章として表現する練習も不可欠であろう。
そして為政者にだまされず、盲従せず、国の将来のために責任を持った主張や行動ができるよう、民主主義教育を徹底すべきである。

それこそが教育の使命であり、「なぜ勉強するのか」の一つの答であると思っている。

もっとも今の日本を見ていると、「国を愛する心」より先に「親を愛する心」「子を愛する心」を何とかしなければいけないのかも知れない。
共同体の最小単位である家族が崩壊状態では、愛国心どころではないだろう...。


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聞く力

2006年05月23日 | 学習一般
英語などのリスニング能力なら「聴く」とするところだが、今回は「聞く」力についてである。
日本人が日本語を聞く力のことだ。
話者の声が小さいとか滑舌が悪いなどの理由で、発音が聴き取れない場合は除く。
言葉自体はしっかり聞こえているのに、聞く側の理解度は千差万別...。
これは「聞く力」に因る部分も多いのではないか、という話である。

もちろん、聴衆の総体的な理解度の大小は、話す側の責任であろう。
話の内容、構成、話術などは、聞く側の努力ではどうにもならない。
また、両者の相性や聞き手の予備知識の多少なども、理解度を左右する要因となる。
しかし、それらを考慮してもなお、「聞く力」の重要性に言及せずにはいられないのである。

講演会や説明会で、熱心にメモを取る人がいる。
話し手の顔を見ている時間より、下を向いている時間の方が長いのではないかと思うくらい、ひたすらペンを動かしている。

私はほとんどメモを取らない。
話を楽しむことに集中しているからだ。
メモを取るのは主にキーワード3、4語程度。
ときにキーセンテンスが混じることがあっても、全部で5、6行くらいだろうか...。

話す側にとっても、下を向いてメモを取り続ける人よりも、自分の顔を見て話に相づちを打ってくれる人が多い方が嬉しいのではないか。
少なくとも私はそうである。

今朝の信濃毎日新聞にこんな記事があった。

「ノートの取り方教えます~長野大新設学部1年生に」

授業のノートの取り方などを教える「講義入門」を1年生の前期必修科目とし、計15回行う予定だという。
「何も言わなくても学生が自ら学べる時代ではなくなってきている」
「高校までは板書を写すことが中心だったかもしれないが、大学では単語しか板書しないこともあり、ノートをうまく取れない学生もいる」
というのが開講の理由だそうだ。

「そこまでしなくてはいけないのか」と呆れる声もあるそうだが、私の率直な感想は「さもありなん」である。

授業で黒板に書かれたことを、もらさずそのまま写し取るのが「ノートを取る」ことだと思いこんでいる子どもが少なくない。
消される前に写すのに必死で、先生の説明などろくに聞いていない。
完璧に写し取って勉強したつもりになっているが、あとから復習しようとしてもよくわからない...。

講演会でメモを取るのに必死な人と同じである。
授業でも講演会でも、まずは話の内容に集中するのが先決ではないか。
要点をつかんで、これが大切ということだけを文字に残しておけばいい。
書くことに追われて肝心なことを聞き逃しているようでは、本末転倒も甚だしい。

写真を撮るのに夢中で、実際の風景を全く覚えていないという「観光」にも共通するものがある。
目の前にある実像を自分の目で脳裏にしっかり刻みつける方が、よほど思い出に残るのではないだろうか...。

小学校ではある程度実践されているのかも知れないが、中学生や高校生にも「聞く力」「メモる力」を育成する必要性を感じている。
長い説明文などを聞いて要点をメモする、質問に答える、疑問点を整理するなどの学習を多くするべきではないか。
生徒たちのこれらの力が高まれば、授業の効率もぐんと高まるはずである。

九州などでは、高校入試の国語にそのようなテストがあるようなので、中学でもそれなりの対応がなされているのかも知れない。
ぜひとも全国的に、英語のリスニングばかりでなく、国語を聞く力の養成にも力を入れてもらいたい。
とりあえず、塾でどう採り入れられるか検討中である。


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