今や中学生の通塾率は7割と聞く。
もちろん「塾」の中身は様々だろうが、学校に通いながら何らかの「塾」にも行っている子が一般的ということになる。
大都市圏では、小学生の通塾率も相当な高さになっていることだろう。
広義にとらえれば、「教育」は本来家庭で行われべきものである。
日常生活で不自由しない、人間としてまっとうに生きて行く、というレベルまでの教育は家庭の責任であろう。
それ以上の「学問」は、かつては限られた層のものに過ぎなかった。
ところが時代が進み、庶民の間にも「読み・書き・そろばん」などのいわゆる「学力」を子どもに身につけさせたいという親が増えてきたのだ。
親に学があれば、それでも家庭教育で対処できたであろうが、そうでない親たちは寺子屋を始めとする外部教育機関に子どもを預けることとなった。
それがやがて学校に発展していく。
育児放棄や不登校などが増加しているとはいえ、現代の日本では100%に近い子どもが義務教育を受けている。
要求される学力を授業料無料の学校だけでつけることができれば、他の教育機関は不要のはずであった。
ところが大学進学を頂点とした「受験戦争」によって、「学校だけでは不十分」という不安が広がり始めた。
いわゆる「進学塾」がその不安をあおった面も多かろう。
一方で、マンモス学級による「新幹線授業」について行けなくなった子どもたちを対象に「補習塾」も登場する。
私が中学生の頃は、大都市はいざ知らず、地方都市では「塾」に通っている子などほとんどいなかった。
それが今では、小さな町にまで何らかの「塾」がある。
かつては敵視していた学校側も、共存を提唱しているところが珍しくなくなってきた。
学校の先生の子どもが塾に通っているという例も多いと聞く。
今や塾は必要悪なのであろうか?
進学塾にしろ補習塾にしろ、学校が改革されればなくてもいいものなのだろうか?
これにはYESと答える人が多いと思う。
学校ですべて事足れりとなれば、所得格差による不平等も生じないし、塾など不要になる...。
本当にそうだろうか?
塾など所詮それだけのものなのだろうか?
いつまでも日陰産業の域を出ないのだろうか?
むろん、そうである塾も多かろう。
しかし、学校教育がどれだけ充実しようが、親がお金を払ってでも子どもを通わせたい、あるいは子ども自身が通いたいと思うような塾もあるはずである。
進学に関する独自の情報網を持っている、各教科の知識が飛び抜けている、どんな子どもに対しても意欲を引き出すのがうまい...。
要は、学校が簡単にはマネのできない強みをどれだけ持っているかであろう。
私もそんな「必要善」としての塾を作っていきたい。
ただ、強みをどこに置くかは、上に書いたようなものと少し方向が違う。
キーワードは「学ぶ力」「教養」「研究」の3つ。
このうち要約力、論理的思考力、説明力などの「学ぶ力」については、このブログでも繰り返し述べてきた。
残りの2つについては、近いうちに記事を改めて言及したいと思う。
乞うご期待!
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もちろん「塾」の中身は様々だろうが、学校に通いながら何らかの「塾」にも行っている子が一般的ということになる。
大都市圏では、小学生の通塾率も相当な高さになっていることだろう。
広義にとらえれば、「教育」は本来家庭で行われべきものである。
日常生活で不自由しない、人間としてまっとうに生きて行く、というレベルまでの教育は家庭の責任であろう。
それ以上の「学問」は、かつては限られた層のものに過ぎなかった。
ところが時代が進み、庶民の間にも「読み・書き・そろばん」などのいわゆる「学力」を子どもに身につけさせたいという親が増えてきたのだ。
親に学があれば、それでも家庭教育で対処できたであろうが、そうでない親たちは寺子屋を始めとする外部教育機関に子どもを預けることとなった。
それがやがて学校に発展していく。
育児放棄や不登校などが増加しているとはいえ、現代の日本では100%に近い子どもが義務教育を受けている。
要求される学力を授業料無料の学校だけでつけることができれば、他の教育機関は不要のはずであった。
ところが大学進学を頂点とした「受験戦争」によって、「学校だけでは不十分」という不安が広がり始めた。
いわゆる「進学塾」がその不安をあおった面も多かろう。
一方で、マンモス学級による「新幹線授業」について行けなくなった子どもたちを対象に「補習塾」も登場する。
私が中学生の頃は、大都市はいざ知らず、地方都市では「塾」に通っている子などほとんどいなかった。
それが今では、小さな町にまで何らかの「塾」がある。
かつては敵視していた学校側も、共存を提唱しているところが珍しくなくなってきた。
学校の先生の子どもが塾に通っているという例も多いと聞く。
今や塾は必要悪なのであろうか?
進学塾にしろ補習塾にしろ、学校が改革されればなくてもいいものなのだろうか?
これにはYESと答える人が多いと思う。
学校ですべて事足れりとなれば、所得格差による不平等も生じないし、塾など不要になる...。
本当にそうだろうか?
塾など所詮それだけのものなのだろうか?
いつまでも日陰産業の域を出ないのだろうか?
むろん、そうである塾も多かろう。
しかし、学校教育がどれだけ充実しようが、親がお金を払ってでも子どもを通わせたい、あるいは子ども自身が通いたいと思うような塾もあるはずである。
進学に関する独自の情報網を持っている、各教科の知識が飛び抜けている、どんな子どもに対しても意欲を引き出すのがうまい...。
要は、学校が簡単にはマネのできない強みをどれだけ持っているかであろう。
私もそんな「必要善」としての塾を作っていきたい。
ただ、強みをどこに置くかは、上に書いたようなものと少し方向が違う。
キーワードは「学ぶ力」「教養」「研究」の3つ。
このうち要約力、論理的思考力、説明力などの「学ぶ力」については、このブログでも繰り返し述べてきた。
残りの2つについては、近いうちに記事を改めて言及したいと思う。
乞うご期待!
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塾の先生が書きづらい事だったかもしれませんね。
学校ではもの足りず、さらに勉強したい人がゆくのが塾だったのかな。それがいつのまにか、現状になった。
小さい塾、大きい塾、つまりはどこに位置づけるかが必要になってきますが、私は小さい塾で密にするスタイルの方が好きですね。
を目指していきたいですね。頑張りましょう!
>キーワードは「学ぶ力」「教養」「研究」の3つ。…残りの2つについては、近いうちに記事を改めて言及したいと思う。
楽しみにしています。(^-^)/
全然書きづらくなかったですよ。
自分の塾のあり方を、もう一度考え直してみようと思っていたので...。
従来の「塾」の概念を超えた塾にしたいのです。10年かければ何とかなるかな...?
学校の今の状況は惨憺たるものですが、「だから塾に来る」というだけではシャクなのです。プラスアルファを身につけられる、なくてはならない「塾」を目指します!
僕は、いつか「志塾」を作りたいと思っています。政治家を育てたいわけではありません。いつのまにか忘れられてしまった、生きるための知恵を復活させることができればと夢見ています。
そうですね。不安を煽って金儲けのネタにしている...霊感商法と同じです。
それとは別の意味で「教育・医療・福祉が三悪」という意見も読んだことがあります。
「志塾」、前にも少しお話を伺いましたが、私の目指している塾とも重なる部分が多そうです。