「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

気楽な「社会運動」のすすめ―『みんなの「わがまま」入門』

2020年05月27日 | Life
☆『みんなの「わがまま」入門』(富永京子・著、左右社)☆

  昨年夏に購入しツンドク状態になっていたが、一気に読了。読んでいてとてもおもしろかったし、得たものも多かった。
  自分のような内部障害(自分の場合は先天性心疾患)を抱えている者は、なかなか口に出しにくい悩みを持っている人が多いと思う。例えば仕事である事を頼まれたとき、これは心臓に負担がかかりそうだからイヤだなと思っても断りづらいことがよくある。内部障害者は見た目が健常者とあまり変わらないことが多いので、楽をしようとしているのではないか、わがままを言っているのではないか、そう思われるのが怖くて躊躇してしまう。前もって障害のことを伝えてあったとしても、断ることで「やはり障害者はダメだ」と思われるのではないか、そういったことが何回も続けば雇用の継続にも影響が出るのではないかと心配の種は尽きない。実際この歳になるまで正規雇用で職に就いたことがない。ハローワークが「公共職業安定所」と呼ばれていた頃、職員から面と向かって「わがままを言っているのではないか」と勘ぐられたことは今でも忘れることができない。そもそも障害者ゆえに、前もって周囲に障害のことを事細かに説明しなければならない精神的負担もガマンしなければならないことなのだろうか。この事自体(そんなガマンはしたくないこと)も、やはりわがままを言っていることになるのだろうか。
  数年前、3年間ほど業務委託された小学校(首都圏)の補習講座の講師をアルバイトでつとめたことがある。名簿を見ると、明らかに韓国籍や中国籍と思われる名前やカタカナで書かれた名前の子どもたちが何人もいた。見た目はたいていの場合日本人とあまり変わらず、ふつうに日本語でコミュニケーションも取れる。逆に漢字で書かれた姓名なのに、顔立ちや髪の色が西洋人風の子もいて驚いたこともある。同じ小学校の子どもたちであっても、その背景には様々な事情が見え隠れしているように思われて、ちょっとしたことでも言葉遣いに気をつけていた。半世紀以上も前、自分が田舎の小学生だった頃は、その土地で生まれ育った子どもばかりで、希に転校生などが来ると非常に珍しく思ったものだった。しかし今では、わが田舎の小学校でも外国に出自を持つ子どもは少なくないようである。これは一つの例にすぎないが、グローバル化は都会だけのことではなくなっている。海外との交流が活発になり移動が容易になったという意味だけではなく、ほぼ同じ階層に属していた(各々が様々な層に属していても、各層が重なることの多い)人々による共同体が成り立たなくなっている、といった方が正確かもしれない。
  本来、人間は多様な属性を有している。その属性は見た目ではわからないことも多い。わたしの内部障害や外国に出自を持つ小学生のように。さらに現在はグローバル化の増長や共同体の変容によって、いっそう人々の多様性が増している。それにもかかわらず、日本人は「ふつう」という枠組みでものを考えることから抜け出せず、個々人の属性を捨象しているように思う。先ほど書いたように「各々が様々な層に属していても、各層は重なることが多い」と未だに思い込んでいる。あるいは「各々は様々な層に属していて、現在では各層が重なることは少なくなってる」実態が見えなくなっている。そのことが「わがまま」を言うこと、つまり何かに違和感を抱き意見を述べること、何事かを主張すること、さらには政治的発言や社会運動に対して抑制的に働くことにつながっている。本書は「わがまま」を「自分あるいは他の人がよりよく生きるために、その場の制度やそこにいる人の認識を変えていく行動」と定義し、いわゆる社会運動に対する違和感をわかりやすく解きほぐし、嫌悪感を取り除こうとしている。
  ところで、最初のきっかけははっきりしないが、二十歳を過ぎた頃か、三十前頃からだったか、フェミニズムに関心を持ち始めた。当時は「フェミニズム」よりは「ウーマンリブ」と呼ばれる方が一般的だったかもしれない。自分が「ふつう」ではなく差別される側にいることを自覚しはじめた頃で、やはり社会的に差別される側にいる「女性」に対して自己を投影していたのかもしれない。ちょうどその頃『セクシィ・ギャルの大研究』という刺激的なタイトルの本でデビューした上野千鶴子さんを知り、その後、上野さんを初めフェミニズム系の本を手に取ることが多くなった。もちろん難解な議論を理解できたとは言いがたいが、この世界には「障害者」や「女性」だけでなく、さまざまな「弱者」や差別が存在することを、フェミニズムへの関心を深める過程で知った。今で言うLGBTの人たちのことをかなり早い段階で知ったのも、フェアトレードやエコフェミニズムといった環境問題とリンクする取り組みや思想的系譜を知ったのも、フェミニズムとの関わりがあったからこそである。同時に科学と社会との関係についても興味を持ち始め、その二つが両輪となって社会に向かって目を開かせてくれた。科学自体も決して公正中立な存在ではなく、その権威性が「弱者」を生み出すことに加担しうることも知った。
  そういった「弱者」が当事者として声を上げ、それを支援する人々が社会運動を実践する姿にこころ打たれたが、自分自身が声を上げ何らかの社会運動に身を投じる勇気は全く持ち合わせていなかった。文章に「わがまま」を滲ませることさえ憚られた。今に至っても、ストレートな政治的発言を抑えようとしている自分がいる。他人の政治的発言への許容度は昔とは比べものにならないくらい上がったが、過激な物言い(その主張を支持する支持しないにかかわらず)には今でも引いてしまう。また、例えばネットでの署名に参加しても、結局は活動が実らず、落胆することも多かった。本書は、そんな自分でも良いではないか、と言ってくれているように思えた。社会運動をそんなに堅苦しく考える必要はないんじゃあないの、と提案し、自分を安堵させてくれた。著者自身が自らの過去を振り返りつつ、社会運動に参加せずに社会運動を研究しているからこそ、こころに響いてくるのではないかと思う。
  社会運動について堅苦しく考えること、何らかの違和感や嫌悪感、あるいは先入観を持つことと表裏の関係だと思うが、社会運動に対するありがちな批判についても、とてもわかりやすく丁寧に応えてくれている。「答え」ではなく「応え」である。つまり対応の仕方であり、社会運動に限らず人生のさまざまな場面においても役立つ方法だと思う。本書は中高一貫校での講演がきっかけとなっているため、中高生に語りかける口調で書かれている。例え話も学校生活での問題が多く取り上げられている。章末(章立ても○時限になっている)のエクササイズも実践的で、知識偏重ではない本来の社会科の勉強になりそうである。しかし、本書を中高生だけの読書に供するのはもったいない。むしろ「社会運動」と聞いただけで拒否反応を示し、眉をひそめてしまうような親世代や大人にこそ読んでほしいと思う。そしてさらに、何らかの生きづらさを抱えている人にとっても、生き抜くためのヒントを与えてくれるのではないかと思う。
  自分の「わがまま」体験に引き寄せて本書の感想を綴ってきたが、まとまりがなく結論など書けそうにないので、本書の最終章(5時限目)の最後から一部引用して終わることにする。

「私たちは、一見「ふつう」に見えるけれど、その実ものすごく多様で、しかもそれが見えにくいのが現代の社会だ、とお伝えしました。だからこそ「わがまま」を言うとき、自分が、社会問題の被害者なんだ、ということを、自らの経験や日常から語らなくてはいけなくなる。そうしないと、被害者であることすらわからないほどに、私たちの傷や痛みは「ふつう」に見えるその外見の奥底に沈んでいるからです。
(中略)
経験の語りをもってつながろうとするのが「わがまま」だとするなら、多様な人たちの多様性をそのままに、立場は全然ちがうけれど、でも尊重しようとするのが「おせっかい」なのではないかと考えています。そして、「わがまま」と「おせっかい」、どちらもこの世界のカラフルさを保ったまま、その色彩を鮮やかにする試みです」

追記:本書を知ったきっかけは、奇しくも上野千鶴子さんと著者の富永京子さんとの対談(全4回)をネットで読んだことだった。この対談も興味深く一読に値する。

  


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