「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

「年暮る」

2015年12月31日 | Monologue & Essay
  
  風音はしなかったが、屋根の一部のトタンを打つ雨音を少しうるさく思いながら床に就いた。夜更けにいちど目を覚ましたが、トタンを鳴らす音は続いていた。それでもやがて意識は遠ざかり、つぎに微睡みからもどってくると、雨音はポツリポツリと小さく、間隔も長くなっていた。障子窓が白みをおびてきて、床のそばの時計の針も見えてきた。針が8時を回ったところで、おもむろに床からはなれた。ひとり住まいで、何もすることがない日は気楽なものだ。
  用をたして、窓を開けてみると、向かいの瓦屋根にうっすらと雪がつもりはじめていた。まだ黒い表面が見えているところもある。降る雪を見るのは、この冬になって初めてだ。雪粒はさほど細かくなく、ふわっと舞いながら降りてくる。開けた窓から入り込む冷気も、まだまだ身を縮めるほどではない。真冬のしんしんとした雪の降る日は、窓を開けると冷気が肌を刺してくる。雪粒も細かい。細かいのに、ちょっと目をはなすと、屋根や木々や道路が真っ白になっている。
  屋根瓦と降る雪を見ていたら、東山魁夷の「年暮る」を思い出した。京都の町家に降る雪を遠景で描いた日本画の名作だ。この歳になると、ちょっとした風景が懐かしくなってくる。「風景」が「情景」になるとでもいうべきか。それにどこかで見た日本画を重ねると、感慨もひとしお深くなってくる。そんなことを思いながら写真を撮ってみた。名作をまねるつもりなどさらさらないし、そもそもあちらは遠景で、こちらは近景だ。
  しばらくして、また窓を開け眺めてみた。道路は黒く濡れているだけで、いっこうに雪がつもる気配はない。それでも、屋根瓦は雪が一面につもりはじめていた。屋根瓦につもる雪の時間変化がおもしろくなり、またシャッターを切った。またしばらくすると、綿雪が瓦のほとんどを覆っていた。年の瀬は日暮れも早い。つぎにシャッターを切ったときには、さきほどまで明るい灰色だった雪空もやや暗くなってきた。いつのまにか雪も止みはじめた。周囲があきらかに暗くなってきたのを見計らって、最後の一枚を撮った。雪は止んでいた。瓦屋根につもった綿雪と、薄紫のような色合いが相まって、少しばかり幻想的な夕景に見えなくもない。
  朝から晩まで、瓦屋根につもる雪の写真を撮るなど、暇人だからこそできるというものだ。いつのまにか歳をとり、今年は身体の自由も自然と制限されるようになってしまった。否応なしに暇人となったからには、暇人なりの楽しみをみつけなくてはならない。来年はこんな「情景」を撮ることがふえるかもしれない。















  あとで思い出したことだが、瓦屋根を近景で描いた日本画の名作に福田平八郎の「雨」があった。こちらは雪ではなく、雨がポツリポツリと降りはじめた情景で、この作品も味わい深い。写真を撮ろうと思ったとき、魁夷の「年暮る」とともに、この「雨」の記憶もどこかにあって、二つが重なり合っていたのかもしれない。



↓福田平八郎「雨」





  


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