このご本をお読みになればわかると思いますが、
「悪魔」とは、「煩悩」「欲望」のことです。
釈尊も、「悪魔」と闘い続けました。
「降魔成道(ごうまじょうどう)」と一般的には言われ、
「悟り」を開かれた釈尊は、「悪魔」に打ち勝ち、
そののちは伝道者として歩まれた、と言われています。
しかし、原始仏典に於いては、「降魔」ののち、「悟り」を開かれたものの、
それからも、「悪魔」はたびたびやってくるのです。
いかに人間の「煩悩」「欲望」というものが強いか、
がわかります。
釈尊でさえそうなのですから、私も含んで、皆さんの場合、
「煩悩」「欲望」に打ち負かされた日々を送っているのではないでしょうか?
ここに本文中の経典を引用して、このエントリを終えたいと思います。
「わたくしもまた、かつて正覚を得ないボーディサッタ(さとりを得る前の仏)であったとき、
みずからは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、
みずからは老いるものでありながら、老いることがらを求め、
みずからは病むものでありながら、病むことがらを求め、
みずからは死ぬものでありながら、死ぬことがらを求め、
みずからは憂えるものでありながら、憂えることがらを求め、
みずからは汚れたものでありながら、汚れたことがらを求めていた。」
―「マッジマ・ニカーヤ」
「悪魔」とは、「煩悩」「欲望」のことです。
釈尊も、「悪魔」と闘い続けました。
「降魔成道(ごうまじょうどう)」と一般的には言われ、
「悟り」を開かれた釈尊は、「悪魔」に打ち勝ち、
そののちは伝道者として歩まれた、と言われています。
しかし、原始仏典に於いては、「降魔」ののち、「悟り」を開かれたものの、
それからも、「悪魔」はたびたびやってくるのです。
いかに人間の「煩悩」「欲望」というものが強いか、
がわかります。
釈尊でさえそうなのですから、私も含んで、皆さんの場合、
「煩悩」「欲望」に打ち負かされた日々を送っているのではないでしょうか?
ここに本文中の経典を引用して、このエントリを終えたいと思います。
「わたくしもまた、かつて正覚を得ないボーディサッタ(さとりを得る前の仏)であったとき、
みずからは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、
みずからは老いるものでありながら、老いることがらを求め、
みずからは病むものでありながら、病むことがらを求め、
みずからは死ぬものでありながら、死ぬことがらを求め、
みずからは憂えるものでありながら、憂えることがらを求め、
みずからは汚れたものでありながら、汚れたことがらを求めていた。」
―「マッジマ・ニカーヤ」