或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

「ブッダの人と思想」~第二章”悪魔との対話”

2013-10-28 23:58:03 | 日記
このご本をお読みになればわかると思いますが、

「悪魔」とは、「煩悩」「欲望」のことです。

釈尊も、「悪魔」と闘い続けました。


「降魔成道(ごうまじょうどう)」と一般的には言われ、

「悟り」を開かれた釈尊は、「悪魔」に打ち勝ち、

そののちは伝道者として歩まれた、と言われています。


しかし、原始仏典に於いては、「降魔」ののち、「悟り」を開かれたものの、

それからも、「悪魔」はたびたびやってくるのです。

いかに人間の「煩悩」「欲望」というものが強いか、

がわかります。


釈尊でさえそうなのですから、私も含んで、皆さんの場合、

「煩悩」「欲望」に打ち負かされた日々を送っているのではないでしょうか?


ここに本文中の経典を引用して、このエントリを終えたいと思います。


 「わたくしもまた、かつて正覚を得ないボーディサッタ(さとりを得る前の仏)であったとき、

  みずからは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、

  みずからは老いるものでありながら、老いることがらを求め、

  みずからは病むものでありながら、病むことがらを求め、

  みずからは死ぬものでありながら、死ぬことがらを求め、

  みずからは憂えるものでありながら、憂えることがらを求め、

  みずからは汚れたものでありながら、汚れたことがらを求めていた。」

                       ―「マッジマ・ニカーヤ」

「ブッダの人と思想」を読み始めて

2013-10-27 23:17:28 | 日記
先のエントリで触れたように、

中村元さんのプログラムは、

アンコール放送(=再放送)である。


全7回、ということで、

元々全12回であった本放送から選ばれたものが放送される。


私は興を惹かれてしまったので、

「NHKから出版されてはいないのか?」と、

調べてみた。

すると、本放送をベースとした書籍が出版されている。

勿論すぐに買いに行った。

全12回だから、12章立て、であった。


第一章を読了して、やはり、というか、当然、というか、

挫けながらも、正しく生きていく、

というのが、人間として、あるべき姿、基とすべきもの、

だと身につまされた。


勿論、文中にあるように、「3歳児でも知っていること」、だが、

「80歳の老人でも、為すことは難しい」、のが、

真理、であり、あるべき、目指すべき、人間の姿、

なのである。


上述の通り、まだ第一章を読了した時点ではあるが、

章末の、経典の言葉を引用して、私が身につまされる典型、

皆さんもそうかもしれない事を、示して、このエントリを終えることにする。



「まだ悪の報いが熟していないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。

 しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。

 『その報いはわたしには来ないだろう』とおもって、悪を軽んずるな。

 水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。

 愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、

 やがてわざわいにみたされる。」

                 ―「ダンマパダ」119、121

やはり仏教に還るのか

2013-10-26 22:36:41 | 日記
中核病院の元副院長であり、現在、

デイケア専門クリニックの院長である先生とは、

月に一回、面談がある。


いろんな話をするのであるが、

人によってもさまざまであるようだ。


私の場合、哲学、宗教、思想、の話が多い。

それで以前、NHKの「こころの時代」を勧められたことがある。


そして今回の「こころの時代」は、

「中村元 ブッダの人と思想 セレクション(1)」、

であった。


これは、平成7年に放送されたものの、アンコール放送である。

ブッダ、つまりは釈尊の事であるが、その、元々の教え、

「初期仏典」を基本とした、「仏教そのもの」、を、

解説、説明してくれているプログラムである。


先生のお話に、「仏教は元々、単純で当たり前だが、

忘れてしまいがちな、人間のあるべき姿を説いたもの」、

という言葉があった。


中村元さんは、まさにその「初期仏典」での、

「本来の仏教」を、教えて下さった。


色々な哲学、宗教、思想、を経巡ってきたが、

結局は、仏教に還ってきそうである。


単純だが、人としてあるべき姿を、端的に伝えてくださっていると思う。

意外とこの「単純に」、というのが難しいことだと思う。


漢籍からの翻訳が多く、お坊さんも普段は、

漢訳仏典を使うことが多いと思われる日本に於いて、

原典の日本語訳をしてくださった中村元さんは、

まさに、私の「廻心」とまでは、いきなりいかなくとも、

曇っていた眼(まなこ)を、綺麗にするきっかけを作ってくださった、

と言える。


勿論、この番組を勧めていただいた先生にも、

感謝、である。

nicht nur N-kun, sondern auch H-kun

2013-10-25 18:38:58 | 日記
結局昨日は本文を書かずに済ました、

「N君やまい考」、

ですが、多分周りの人ならわかっているであろうことが、

このエントリのタイトルです。


構想していた本文中に、「同類」として、

「H君」、

も登場するはずでしたが、知らない人にはわからないでしょう。

でも、今日、二人とも、私とは挨拶も話もしませんでした。

勿論私からする義理もありません。一応、「親しい」と思われている関係ですが。


で、今日もまた、バカなことをしていました。

N君もH君も、「パンセ」によって、

「切って捨てられる」、

のですが。


ま、今日も本文はありません。今私は、心地いいので、あげつらう必要がないからです。

せいぜい、「精神科デイケアライフ」を、「自分たちなりの方法」で、愉しんでくださいな。

気を遣って、「死ね」?

2013-10-24 21:44:10 | 日記
 「ボケるよりリスク低い? 世間は「ツッコミ過多」傾向に」

 「AERA 2013年9月30日号」

より。


締めに、

「ツッコミのうまい人はそういった気遣いができる。気遣いのないツッコミはただの『揚げ足取り』」、

とあります。


メジャーどこの芸人が、

「死ね」「死んでしまえ」「死んだらいいのに」、

と言うのには、気遣いがあるんでしょうか?

ツッコミはツッコミでも、安直、じゃないでしょうか。

しかも、「死」というものを、これだけ簡単に使ってしまうのは、


「脳みそタケヤ味噌」、


以下じゃないでしょうか。


世界的にはどうなんでしょう?

ツッコミ文化は日本だけのものでしょうか。

もしほかの国にもあるとすれば、

こんなに安直に、「死」という言葉を使うのでしょうか?

こんな精神が、

「日本独自の文化」、

だとすれば、まさに、

「日本は野蛮人の集まり」、

と言われても仕方ないでしょう。

レベルも低い、低俗な民族、と言われても仕方ないでしょうな。

N君の病(やまい)考

2013-10-24 19:35:26 | 日記
なぜ精神科デイケアに通っているのか、

他のメンバーからは分からないN君ではあるが、

ちょっと化けの皮がはがれたような気がした今日の朝だった。


「音楽の時間」というプログラムで、―



ここまで書いて、今の彼女から電話があった。

とてもハッピーになってしまったので、

上述の文などどうでもよくなった。

だから、ここでやめておく。

一つだけ書いておくとすれば、

やはり、「パンセ」からの論理展開ではあった。

パスカル「パンセ」~その4

2013-10-19 03:02:36 | 日記
入門書を読み終え、とうとう「パンセ」本体を読み始めた。


いきなり耳が痛かった。

自らの偏向した精神が糾弾されているような感覚がする。

でも、「断章五」に於いて、「自己弁護」に使えてしまえそうな文言が出てきた。


「彼らは、私が自分の時計によって判断しているのを知らないのだ。」。

パスカル「パンセ」~その3

2013-10-18 21:59:32 | 日記
同じく、現時点での理解の範疇内の筆記である。


結局は、人間皆同じ、と書かれているように思う。

だから、統合失調症である私にとっての、

外界の捉え方、他者の理解、自己の分析、

といったものも、大して健常者や他の障害者とも変わりはない、

と思える。


「パンセ」では、「自己愛」=「自我」がベースであると書かれている。

つまりは、皆同じく、「自我ベース」の人生である。

だから、誇大妄想や自己卑下、といったものは、持つ必要性がない。

関係妄想や被害妄想も同じく。

つまり、そのように思われる他者の言行も、自分と大して変わらぬ心で、

行われているだけなのである。

そこに引っかかってしまいがちなだけで、別に他人が笑っていようが、

意味ありげな話をしていようが、自分とは無関係なのである。


当たり前、と思われるかもしれないが、統合失調症の場合、

「何か自分に対して行われている」、「自分は特別な存在」、

と、自分に関連付けて理解してしまいがちなのである。

そこを取っ払ってしまえば、何の苦もない。


入門書を読み終えて、本丸の「パンセ」に挑んだとき、

「同じ人間」として、健常者と変わらぬ読み方ができるか、

更に、「一般的」「普遍的」な捉え方ができるか、

そこが問われてくると思う。

また、そうありたい、と思う。

そうなりつつある、と感じてもいる。

パスカル「パンセ」~その2

2013-10-18 20:34:09 | 日記
まだまだ入門書の途中ではありますが。


「パンセ」によると、人間が恐れる究極のもの、

そこから離れるために、人間の思考、活動がある、というもの、

それが、「死」。

「死」そのもの、というよりも、

「死を考える」こと自体が恐怖であり、

そういうことをしないために、人間らしい生活、というものがある。


だから、恋愛だってそういうものの中に含まれるわけで、

純粋理論として、恋愛は肯定される。


ある意味、私は「死」を恐れていなかった。

しかし、今の彼女との恋愛の中で、

「死んじゃいけない」、

と思うようになった。

そこに幾許かの関係性を、「パンセ」の中に見出した。

つまり、今の彼女との恋愛は肯定されるものであって、

恋愛の中に生きる、ということも、「人間らしい」、

と言えるように思えた。

だからこそ、「死んじゃいけない」し、「死を考える」ことは、

避けなければならない。

情動的にも、彼女を残して早死にすることは、自分でも認められない。

今の彼女にも感謝だし、「パンセ」にも感謝、である。

パスカル「パンセ」

2013-10-18 19:12:18 | 日記
Y.M.さんのセクハラ話なんて、

しょうもないこと、

を書くつもりなんかはなくて、

本当はこっちの方が、本題。


おわかりのように、私は、

統合失調症患者、

ではあるが、本が読めないほどではない。


で、あるきっかけで、「パンセ」、を知った。

実は私は、パスカル、と言えば、物理学者、

としか思ってなかった。

だがこの本に出会って、面白い、と思った。

まぁ実際には、入門書、を読んでいる段階で、

「パンセ」自体はまだ読んでいないのではあるが。


面白い、と書いたが、一般的にわかりやすく言えば、

興を惹いた、

というべきだろう。

色々と考えさせられるし、刺激的である。


今までは、どちらかと言うと、「老子」、にハマっていて、

「無為」こそ目指すところ、であったのだが、

一気に180度、転回してしまった感がある。

まぁ、「老子」や、その流れをくむ、「禅宗」、

への興味も、失せたわけではないが、

西洋哲学にも、興味が出てきた、と言えるかもしれない。


まずはとにかく、「パンセ」。

これが私にとっての、「箴言集」、となるかもしれない。

だからこそ、Y.M.さんへの感覚も、「パンセ」を読んでいくことによって、

変わっていくかもしれない。まぁ、今はまだ、「何ゆうてるんやろ」、

としか思えない、Y.M.さんであるが。

ある意味、笑える

2013-10-18 18:25:58 | 日記
私に無差別のキスをしてきたのは、

Y.M.さんだが、この人が、今日、面白い言葉を口にしていた。


「セクハラ」、


である。

これは笑える。

じゃあ、「あんたがしてきたあの行為は、セクハラじゃないの?」、

と問い返せる。


何の話かいちいち聞く必要性もないので、内容は知らないが、

「セクハラ」と言われても仕方ないことをした人物が、

「セクハラ」について語るというのは、とても面白い。


まぁ、もちろんの如く、精神科デイケアですから。

そういう人もいますわな。

「1984」を望むのか?

2013-10-12 04:31:31 | 日記
NHKの、

「グローバルディベートWISDOM『監視される世界~ネットが変える国家と民主主義~』」、

を見て。


まだ第一部しか見ていないが、本当にこれでいいのか?

アメリカの情報当局や、それに加担した企業は、まさに、

「1984」で描かれる、「ビッグブラザー」による監視管理社会、

及び、その影響下にある、「相互」監視管理社会、

を実現しようとしているようにしか思えない。

しかも、アメリカの世論調査では、今回の、「情報当局による全世界通信傍受」について、

「是」と「非」が、半々になっている。想像力が欠如しているのか?何も考えていないのか?

更に驚いたことには、番組での世論調査(勿論、ほとんどが日本人であろう)の結果も、

ほぼ同じ、なのである。

「自分はやましいことをしていないから大丈夫」、とでも思っているのかもしれないが、

この言葉を知らないのかもしれない。

「痛くない腹をさぐられる」。

まぁ、日本は、明治体制(明治から敗戦まで)による、「軍国主義」、

がまだ残っているのかもしれないし、「ファシズム」や「ナチズム」と手を組んだことを、

未だに「覚えている」というか、逆に、「あの頃はよかった」なんて思っているのかもしれないが。

また、江戸時代も含んで、「隣組」「村八分」「連座制」などが、

未だに息づいている、旧態依然とした、「前近代的ムラ社会」国家、なのかもしれない。

こりゃ近隣諸国から警戒されて当たり前ですなぁ。「国防軍」が実現できるかどうか。


まだ第二部を見てはいないけれども、「この程度の人間」、が半数を占めるのが日本人、

ということですな。アメリカも同じだけれども。両国そろって、

「帝国主義」と言われても、仕方ないですな。甘んじて受けなさい、「是」とした人々。

僕が死のうと思ったのは

2013-10-01 18:43:50 | 日記
ちょっと、世間からは遅れてるけれども、

中島美嘉さんの、

「僕が死のうと思ったのは」、

を聴き、歌詞を読みました。

カップリングの、「Today」も同じく。


何か、この二曲に自分が凝縮されているような気がします。

「だから、これからこうする」という風には、

今のところはなってはいませんが。


少なくとも、「自己認識ができた」というか、

「他者による自己総括の洗礼を受けた」というか。


変に考えすぎると、

またいつものような、

「思考ゲーム」、

が繰り広げられるだけのような気もするので、

「真摯に受け止める」、

だけにとどめておいた方がいいのかもしれません。


結論はありません。人生、についてですから。

ただ、何か変わるかもしれない、という可能性だけは、

ある、と言えるでしょう。