同じく、現時点での理解の範疇内の筆記である。
結局は、人間皆同じ、と書かれているように思う。
だから、統合失調症である私にとっての、
外界の捉え方、他者の理解、自己の分析、
といったものも、大して健常者や他の障害者とも変わりはない、
と思える。
「パンセ」では、「自己愛」=「自我」がベースであると書かれている。
つまりは、皆同じく、「自我ベース」の人生である。
だから、誇大妄想や自己卑下、といったものは、持つ必要性がない。
関係妄想や被害妄想も同じく。
つまり、そのように思われる他者の言行も、自分と大して変わらぬ心で、
行われているだけなのである。
そこに引っかかってしまいがちなだけで、別に他人が笑っていようが、
意味ありげな話をしていようが、自分とは無関係なのである。
当たり前、と思われるかもしれないが、統合失調症の場合、
「何か自分に対して行われている」、「自分は特別な存在」、
と、自分に関連付けて理解してしまいがちなのである。
そこを取っ払ってしまえば、何の苦もない。
入門書を読み終えて、本丸の「パンセ」に挑んだとき、
「同じ人間」として、健常者と変わらぬ読み方ができるか、
更に、「一般的」「普遍的」な捉え方ができるか、
そこが問われてくると思う。
また、そうありたい、と思う。
そうなりつつある、と感じてもいる。
結局は、人間皆同じ、と書かれているように思う。
だから、統合失調症である私にとっての、
外界の捉え方、他者の理解、自己の分析、
といったものも、大して健常者や他の障害者とも変わりはない、
と思える。
「パンセ」では、「自己愛」=「自我」がベースであると書かれている。
つまりは、皆同じく、「自我ベース」の人生である。
だから、誇大妄想や自己卑下、といったものは、持つ必要性がない。
関係妄想や被害妄想も同じく。
つまり、そのように思われる他者の言行も、自分と大して変わらぬ心で、
行われているだけなのである。
そこに引っかかってしまいがちなだけで、別に他人が笑っていようが、
意味ありげな話をしていようが、自分とは無関係なのである。
当たり前、と思われるかもしれないが、統合失調症の場合、
「何か自分に対して行われている」、「自分は特別な存在」、
と、自分に関連付けて理解してしまいがちなのである。
そこを取っ払ってしまえば、何の苦もない。
入門書を読み終えて、本丸の「パンセ」に挑んだとき、
「同じ人間」として、健常者と変わらぬ読み方ができるか、
更に、「一般的」「普遍的」な捉え方ができるか、
そこが問われてくると思う。
また、そうありたい、と思う。
そうなりつつある、と感じてもいる。