或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

「高校生からの仏教入門」

2012-02-26 21:45:19 | 日記
もう少しで読了しますが、今は、この「高校生からの仏教入門」、を読んでいます。

「高校生から」とあるように、易しく説明されていますが、

内容は大人にとっても、「入門書」、として充分だと思います。

著者の方が、実際の学校教師でいらっしゃるので、

このように、うまくまとめられているのだと思います。

勿論、「仏教入門」とはありますが、基本的には、

浄土真宗本願寺派の入門書です。

ただ、構成が、「お釈迦様のご生涯、み教え」、「仏教の伝播」、

「親鸞聖人のご生涯、み教え」、となっているので、

一般的な仏教入門書としても通用すると思います。


とにかく、「他力」「本願力」、であることが思い起こされ、

このブログでの表現自体も、ちょっと本義から外れてしまっているところがある、

と思わされています。

仏教自体の基礎知識が乏しい、と思っていたので、この書を求めましたが、

充分満たされたのではないか、と思います。

勿論、一朝一夕には築きあげることなどはできないでしょうが、

「最低限の仏教基礎知識」は得ることができたのではないか、と思います。

浄土真宗本願寺派についても、色々と考え方、捉え方、

で誤っていたところがあった、と思います。


読了してから書いた方が良かった、とも思いますが、

早く書きたかった、という思いが抑えられなかった、

というのが本当のところです。

これから先を読んでいくことによって、

またいろいろと気付かされ、考え直させられるのだろうと思います。

ブログタイトルとは、全く関係あらへんこと書きますわ

2012-02-24 23:37:35 | 日記
「ファン」の定義を自分でややこしくしてしまったから、

メディアに登場する人たちに対して、

「一体、なんてゆうたらえぇんやろ?」、

という状態に陥っているのではあるが。


とにかく明言すべきかどうか、

さえも分からなくなってきてはいるが、

ちょっと一つのエピソードだけでも書いておこう。


最近また聴き始めたラジオ局のネット放送がある。

その放送では、当たり前なのかもしれないが、CMがない。

あと番組中の楽曲もない。

確かに、「トークを聴きたい」、というのが主眼ではあるけれども、

楽曲は聴きたいなぁ、と思う。無理なのかもしれないが。


ただ、以前不思議な状況下にあった。

知らない人がいるかもしれないが、

放送エリア内のラジオならネットで聴ける、

「ラディコ」、

というものがある。

上述の番組を私は、当たり前だが、放送局のネットラジオで聴いていた。

だが、ある時期、何故だか「ラディコ」が、

「放送エリア:東京」となっていた。

地元の放送は聴けないのだが、東京を放送エリアとするのその放送局の番組は、

「ラディコ」で聴けるようになっていた。

だから、CMも楽曲もあり、ネットラジオでは全く知ることのできなかった、

本放送ではBGMがある、ということも知った。

しかし、また突然、放送エリア認識が、地元に戻った。

これで再び、ネットラジオで聞くしかないのではあるが、

地元の放送は聴くことができるようになった。


でもやっぱり残念やなぁ。

あのままやったら本放送を、「ラディコ」で聴けたのになぁ。

まぁネットラジオで聴けるだけで、僥倖と言うべきかもしれない。

「仏事の小箱」~その後

2012-02-23 00:41:16 | 日記
「仏事の小箱」、読了しました。

著者の方が、あとがきで謙遜していらっしゃいますが、

仏教、勿論ですが特に浄土真宗本願寺派について、

知っておくべきこと、心がけておきたいこと、

などなどが、ぎゅっと詰まっています。


それで、次に読もうと思っているのが、

「高校生からの仏教入門」です。

「仏事の小箱」で、幾度も「なるほど」、と思わされましたので、

やはりもっとちゃんと基礎から学んでいくべきではないか、

と考えました。


「聖典註釈版七祖篇」が、ちょっと止まったままになってしまっていますが、

出先で読むには少し大部のような気がしますし、

やはり、家で読みたい、と思ってしまうのです。

次は、道綽禅師の「安楽集」なので、こちらも並行して読んでいってもいいかもしれません。

なぜなら、「聖典註釈版七祖篇」に収録されている著述は、基本的に、

「おひとり、一つずつ」、となっていて、

続く、善導大師のみが、かなりの数の著述を収録されているからです。

道綽禅師の著述を読み終えれば、一段落がつくのです。


あと、やはりネットでのご法話を聴聞するだけでなく、

ちゃんとお寺へ行って、ご法話を聴聞することが大事、だと思いました。

「仏事の小箱」に書かれてあったのですが、

浄土真宗においても、「修行」、というものが存在すること、

その最たるものは、「自らご法話を聴聞をしにお寺へ足を運ぶ」、

という事が知らされました。

ご法話の聴聞が重要なことは知っていましたが、

やはりそうなのだと再確認できました。

でもなかなかご法座への参加というものができません。

機会はあるはずなのに、なかなか行く事が出来ない、

そんなことで、門徒、と言えるのかどうか、との思いもありますが、

何とか行けるときには行くようにしたいと思います。

これもまた、「言うは易し、行うは難(かた)し」、

という風に、私の中でなってしまっているのかもしれません。

施本「報恩講2011」

2012-02-19 04:33:58 | 日記
施本「報恩講2011」、読了しました。


様々な縁ある人たちから、色々な「恩」を受けて今に至る私。

それにひきかえ、ほとんど「報恩」できていないと言える私。


多くの「恩」を受けながらも、

どうしたら「報恩」できるのかわからずにいた私。

少しは、今の私ができる「報恩」に、気づかせていただいたような気がします。

でも、「言うは易し、行うは難(かた)し」。

いきなり、「御恩報謝」の中で生きていくことはできないでしょう。

「心がけ一つ」、なのだとは思うのですが、なかなか難しい。

「煩悩」にまみれているせいでしょうか。


少しは、方向性が見えたような気がしたので、

これからは何とか、「恩に報いる生活」、というものをしていきたいと、思っています。

今回は愚痴ってませんよ

2012-02-19 00:52:58 | 日記
今度はまた、別のCMに瞋恚を抱いたが、meine Liebsteも言っていたのだが、

「言わせたい奴には言わせておけばいい」、

という事で、別に今回は、ここで執拗に書き続けるようなことはしない。

まぁいくつかのTV番組ってそんなもんだろうし、

CMだっていくつかそんな程度のものはあるんやからね。

そんなものに執着(しゅうじゃく)して煩悩を増大させていくようなことを、

私自身がする必要はまったくと言っていいほどない。

見守っていて下さる阿弥陀様、申し訳ないほどに支え続けてもらっているmeine Liebste、

また浄土真宗本願寺派の関係者の方々、

そんな皆さんに対して悲しませるようになるであろう様なことは、

自らする必要はない。逆に安心(あんじん)していただく事こそが、

まっとうな道なのだと思う。

ただまぁ「煩悩具足の凡夫」であるからして、

聖道門の方々のようにはいかないし、また私が目指しているのは浄土門の方であるし、

これからも色々とあるかもしれないが、できるだけ安穏に過ごしていく、

また世の中が安穏であるように願い、言動に表わしていくことこそが、

求められるのであろうと思う。

「仏事の小箱」

2012-02-18 18:18:14 | 日記
「願いと力」、読了しました。

ご門主様のお考えが、少しは分かったつもりです。


「仏事の小箱」、読んでいる途中です。

このご本は、書店では手に入れることができません。

本願寺津村別院の、「御堂さん」編集部、にお願いしないといけません。

月刊誌の、『御堂さん』の一コーナーとして掲載されているものを、まとめられたものです。

このご本を読んで、本当に、「自分はまだ、入門準備者なのだな」、と思わされました。

仏教、浄土真宗、本願寺派、についての基礎知識というものが、詰め込まれています。

一つのテーマについて、2ページで解説されており、

全体としては、ジャンル別にまとめられています。

まだ読んでいる途中ではあるのですが、

必要不可欠な基礎知識を得ることができ、

本当に、良いご本だと思います。


最後に。

「仏事」、とありますが、

第一印象は、イコール「法事」、

つまりは、「葬式」や「年忌法要」、だと思ってしまう人が多いのではないでしょうか。

私見ですが、「仏事」、とあるのは、

「仏様についてのこと、およびそれに連なる浄土真宗本願寺派についての様々なこと」、

だと思います。

ですから、浄土真宗本願寺派について、少しでも関心がある方にとって、

「必読書」、なのではないか、と思います。

ちなみに、文章も分かりやすいですよ。

七祖の方々~その5 「讃阿弥陀仏偈」

2012-02-14 23:44:30 | 日記
「讃阿弥陀仏偈(聖典註釈版七祖篇)」、読了しました。

これは曇鸞大師の信仰告白のようなものではないかと思いました。

最初に阿弥陀様への帰依を謳われ、

続くのは、「大経(仏説無量寿経)」に描かれる、

阿弥陀様や、その他の方々、仏国土の様子、

そのそれぞれに賛美と礼拝をしていらっしゃいます。

最後に、龍樹菩薩への賛美も行われています。

あと、随所に「お正信偈(正信念仏偈)」での文言が出てきます。

これはやはり、「お正信偈」に於いて「本師」と書かれているように、

曇鸞大師が親鸞聖人にとって、もうお一方、「本師」と書かれた法然聖人と同じように、

七祖の方々の中でも、特別な方であることを表しているのではないか、

と思いました。

今生自体が輪廻しているような気がします

2012-02-13 21:37:32 | 日記
また煩悩が爆発してしまいました。

ご本山のご法話を聴くと、再び、慚愧の念が湧き上がってきます。

「煩悩具足の凡夫」とはこういうものなのでしょうか?

一体何度繰り返せばよいのか。

一生でしょうか。

特に私は煩悩が多く、大きいのかもしれません。

この世との縁が尽きる時まで、往生させていただくまで、

このようなことが、繰り返されていくのかもしれません。

エーザイは自虐的?

2012-02-12 16:37:07 | 日記
スカイナー噺にすっかり時間を取られてしまっているが、

ちょっと考え方を変えてみると、

「エーザイは自虐的なのではないか?」、

ということに気が付いた。


まさに「鼻につく」もので、

「二度と来ないで」、と言いたくなるような、

「うるさい」CM、

こそ、まさしく、

「エーザイ・スカイナー」のCM、

なのではないかと。


これを承知でやっているのだとしたら、

エーザイはかなりの自虐的な企業ということになる。

マゾ企業、ってーのもなかなか面白い。

こういうブログを書かれて逆に、

心地よくなっているのではないだろうか。


いやはや、面白い企業体質ですなぁ。

「質より量」?

2012-02-12 16:15:56 | 日記
前のエントリで、

「量より質」、

と書いたが、一般的には、

「質より量」、

かもしれない。

ただ、「質を差し置いて、量に走る」、

というのは、ただの私企業にとってはある意味、

「是」、なのかもしれないが、

少なくとも私は、

「量より質」、

だと思っている。

いや、そういうよりも、

「良質のものを、多量に」、

という考え方かもしれない。


私の仏教理解、浄土真宗理解、本願寺派理解、といったものは、

「良い」、と思われるものを、

「多く」、体得することが、

「是」、であるとしているつもりである。


ま、こんなふうに世俗の煩悩に根差すエントリを書いていること自体は、

「是」、とは言えないだろうが、

エーザイの姿勢もまた、

「是」、とは言えないのではないだろうか。

来ました来ましたスカイナー

2012-02-12 15:47:41 | 日記
早速やってきましたねぇ、「スカイナー」の「AC連発」的状態。

TBS系列で、「サンデージャポン」から「アッコにおまかせ」にかけての時間帯。

2パターンとも、数分毎に。

カネが無いのは確かやろうね。

「番組提供」としてではなく、

「時間帯指定の自由枠」やから。

ただ量が多いんやね。「量より質」という言葉があるけどね。

まぁカネもないし、使い回しでいいから、

比較的視聴率があるだろうところへの、集中砲火。

去年よりは少ないパイを、できるだけ安く、荒稼ぎしたいんやろうね。

まぁ「利潤の追求」というところでいえば、まさに「会社」、であって、

ある意味潔いかもしれない。逆に言えば、「恥も外聞もない」、ってことになるけどね。

商売

2012-02-12 00:43:42 | 日記
何か書きたくなったので、書いてみよう。


エントリタイトルの、「商売」。

派生した意味などは置いておくとして、

一般には、

「モノやサービスなどを提供して、対価を得る」、

という意味で使われる言葉だろうと思う。

しかし、原義に立ち返ると、その意味も、派生したようなもの、

だと言える。


元はと言えば、中国でできた言葉。

中国三千年、とか、中国四千年、とか言われるが、

一応、中国統一は、「秦(しん)」の始皇帝によってなされたとされている。

体制など、私は知らないが、実際にはそれ以前にある程度の中央国家ができていた。

たしか「史記」によるものだとは思うが、

「夏(か)」「殷(いん)」「周(しゅう)」、がそれである。

「周」は春秋戦国時代と重なる部分があるので、

実質、それほど長くはなかったと思う。

それでも、中国三千年、と言われるのは、「周」が存在したから、ということ。

では、「殷」はどうかというと、大分前に、

「殷墟」というものが発見され、存在したことが確認された。

それで、中国四千年、と言われるようになった。

これでいくと、「夏」も存在したんだろうな、と思う。

確定すれば、中国五千年、と言われるようになるだろう。

お正信偈では、「中夏(ちゅうか)」という言葉で、中国を表している。

「夏」の事はよく分からないが、「殷」について、ここから少し書いてみたいと思う。


「殷」とは外部で用いられた国号であって、「殷」の人たちは、そう自称はしなかった。

彼らは、「商」と自らを呼んでいた。

ここからようやくエントリタイトルに沿った話になっていくのであるが、

「殷」の人たちは、「周」に政権が移った際、色々なところへと出向いて行ったらしい。

そして、彼らは、「商売がうまかった」、と聞き及んでいる。

「殷」の人たちが自称した、「商」。

つまりはその人たちは、「商の人」=「商人」なのである。

「商売」も、「商」の人たちが「売っていた」、からそのように言われ、

派生して、モノを売ることを、「商売」、と呼ぶようになったのである。

そして、「商売」に携わる人たちの事を、「商人」、と呼ぶようになったのである。


ちなみに、結論はない。

「書きたかったから」、書いたのであって、無目的的である。

やっぱりまだまだ煩悩は抑えられない

2012-02-11 20:39:05 | 日記
去年も書いたかもしれないが、「スカイナー」のCMって、ひどいね。


花粉たちが鼻へとやってくる。

そこへ、多分「スカイナー」を表しているのであろう、

アメフト選手がブロックをしてくる。

そして一言、

「二度と来ないで」。


これ、去年と同じ。経費節減?

今年は花粉の飛散量が、去年よりかは少ない、との予想で、

自分たちの儲けが減るのではないか、という拝金主義?

「二度と来ないで」とは言っても、来年も来るよ、絶対。

逆に、来なかったら本当に自分たちの儲けが減ってしまうんやけどなぁ。

あと、スギ花粉症がそろそろ始まりそうな時期に始まったのは、

まぁ「利潤を追求する」資本主義の会社としては、当たり前か。

それに「花粉症」って、この時期のスギだけじゃなくて、

いろんな花粉が一年中飛んでいて、別に「季節もの」ではないんやけどね。

ただまぁ、スギ花粉症の人が多いからこうなってしまったんやろうけど。

そこがまた、「利潤の追求」、なわけだ。


あのCMって、そんなに好評なのか?

もう一つの、「固定観念的」ドイツ人、とおぼしき人とドーベルマンが出てくるものも、

今シーズン、既に見た。

そこまで金を使いたくないのかなぁ?予算が削減されてるとか?

そういうのはまぁ内部事情だから、視聴者や患者さんたちにはわからないだろうけれども。


少なくとも私としては、3.11以後の、「AC連発」、と同じように感ぜられて仕方がない。

待てるか、待てないか

2012-02-10 23:42:09 | 日記
これは、ある月刊誌で特集された言葉である。

どのような月刊誌かというと、

浄土真宗本願寺派本願寺津村別院刊行の、

『御堂さん』、

である。

私は、今年の1月号からの年間購読を始めた。

同時に、ある程度のバックナンバーもそろえた。

そのなかで、2008年2月号の特集が、

このエントリタイトルである。

まだこの号自体、読了していないのではあるが、

特集は読み終えた。

これにはいろいろと考えさせられた。

今回の注文においても、初めに本願寺出版社に対して、

悪態をつくようなエントリを書いてしまったほどではないにせよ、

催促、と取れるようなメールを送ってしまった。

そして、この特集である。

私は、「待てなかった」、のである。

「待つ」ことの大切さ、というものを痛感させられた。

できることなら皆さんにも読んでもらいたいので、

内容や概略は書かないでおくが、

人生においても、

「待つ」こと、

というのが必要な時がある、

と思った。

七祖の方々~その4「往生論註 巻下」

2012-02-07 23:45:16 | 日記
「往生論註(聖典註釈版七祖篇)」、読了しました。

「巻下」は、ちょっと難しいところがあったような気がします。

やはり、入門者がいきなり聖典であり、更にその基となる聖典の注釈書でもあるものを読むというのは、

早すぎたのかもしれません。

「お正信偈」に「本師」とあるのは、源空聖人と、この「往生論註」の述者である曇鸞大師です。

親鸞聖人の「鸞」の字も、曇鸞大師からいただいたものかもしれません。

そのような方の書かれたものですから、浄土真宗にとってかなりの重要性があると思います。


読後感としては、「私はやはり、煩悩具足の凡夫に過ぎないのだ」といったところでしょうか。

他に書かなければならないことが一杯あるとは思いますし、

少し聴きかじった程度ではありますが、たとえ話をしてみたり、

といったことを考えてはいたのですが、

何だか畏れ多いような気がしてきて、これ以上は何も書けません。


ただ、「信心は賜ったものであり、お念仏するのは自ら発しているお礼に違いはないが、

それすらも阿弥陀様からの回向によるものだ」、

との思いが強くなって行くのを感じた、

とだけ書いておきます。