最近は、基本的に「ブッダの人と思想」のご紹介になっているが、
ここ幾つかの、「若(バカ)者」たちへの論述を振り返ってみれば、
私の未熟さは勿論ではあるが、ご紹介している手法にも問題がある、
という事に気付いた。
やはり、「仏教の祖」としてのブッダについてのお話なのであるから、
その「悟り」、およびその背景、そこへ至るまでの道程、など、
「キモ」となる個所について、一切触れていなかったのが問題。
「若(バカ)者」にもわかるように書くべきであった。
ならばなぜそれをしなかったのか、というと、実際に、
「キモ」だからである、としか言いようがない。
全ての章について、完全にご紹介、という事をすれば、
このご本自体を手にする人が減ってしまう、と言える。
このご本を読まなくとも、私のブログを読めばわかってしまう、
ということになってしまえば、本末顚倒である。
私は、このご本、および元となった番組のご紹介をして、
出来るだけ多くの人に読んでほしい、見てみてほしい、
と思ったから始めたわけなのだから。
それでもかなり引用はしているし、恣意的、とのそしりもあるかもしれないが、
内容のご紹介もしているつもりである。
ブッダは、対機説法、という手段で伝道をした。
教えを説く相手の、資質、素質、環境、立場、思考法、などなど、
いろんな形で、それでも元となる真実は一つ、として。
だからいろんな経典が残っている。皆に同じことを言っていれば、
もっと経典の数は少なかっただろうし、理解できた人も少なく、
これほど仏教は広まらなかっただろう。
それが逆に、所依の経典を別にする様々な宗派が立ってしまった原因なのではあるが。
単純に、「家の宗派」と考えずに、「自分が納得できた宗派」に属すればいいのである。
対機説法なのであるから、自分にあったものを選ぶ、というのが本来の、
仏教のどの宗派に属するのか、といったことになると思う。
ただし、このブログでご紹介しているのは、「原始仏典」を基としたものであり、
「宗教」と言えるのかどうかは読了してみるまで分からない。
少なくとも、「哲学」として、「人生訓」として、興味を持った方には、
受け取っていただけるのではないだろうか。
実際にこのブログで、仏教に興味がわいた方がいれば、幸いである。
ここ幾つかの、「若(バカ)者」たちへの論述を振り返ってみれば、
私の未熟さは勿論ではあるが、ご紹介している手法にも問題がある、
という事に気付いた。
やはり、「仏教の祖」としてのブッダについてのお話なのであるから、
その「悟り」、およびその背景、そこへ至るまでの道程、など、
「キモ」となる個所について、一切触れていなかったのが問題。
「若(バカ)者」にもわかるように書くべきであった。
ならばなぜそれをしなかったのか、というと、実際に、
「キモ」だからである、としか言いようがない。
全ての章について、完全にご紹介、という事をすれば、
このご本自体を手にする人が減ってしまう、と言える。
このご本を読まなくとも、私のブログを読めばわかってしまう、
ということになってしまえば、本末顚倒である。
私は、このご本、および元となった番組のご紹介をして、
出来るだけ多くの人に読んでほしい、見てみてほしい、
と思ったから始めたわけなのだから。
それでもかなり引用はしているし、恣意的、とのそしりもあるかもしれないが、
内容のご紹介もしているつもりである。
ブッダは、対機説法、という手段で伝道をした。
教えを説く相手の、資質、素質、環境、立場、思考法、などなど、
いろんな形で、それでも元となる真実は一つ、として。
だからいろんな経典が残っている。皆に同じことを言っていれば、
もっと経典の数は少なかっただろうし、理解できた人も少なく、
これほど仏教は広まらなかっただろう。
それが逆に、所依の経典を別にする様々な宗派が立ってしまった原因なのではあるが。
単純に、「家の宗派」と考えずに、「自分が納得できた宗派」に属すればいいのである。
対機説法なのであるから、自分にあったものを選ぶ、というのが本来の、
仏教のどの宗派に属するのか、といったことになると思う。
ただし、このブログでご紹介しているのは、「原始仏典」を基としたものであり、
「宗教」と言えるのかどうかは読了してみるまで分からない。
少なくとも、「哲学」として、「人生訓」として、興味を持った方には、
受け取っていただけるのではないだろうか。
実際にこのブログで、仏教に興味がわいた方がいれば、幸いである。