或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

割り切ってみようかな?

2011-04-29 22:52:04 | 日記
もっと簡単に考えてみようか。

お勤めを行う宗派・お寺、と、

参拝を行う宗派・お寺、

のふたつに分けてしまっても、

そんなに問題はないのではないか?

あ、あともともとの、うちが檀家の宗派・お寺、もあるか。

この3つに分けてみても、問題はないのではないか、と思えてきた。

参拝寺のほうへ、近々行ってみようかな。

お参りする仏様は同じなのだから。檀家寺は違うんだけど。

仏教徒に立ち返る

2011-04-29 07:55:02 | 日記
トルストイによって、私はキリスト教に教化されていく過程にあった。

しかし今、私は仏教の入り口に立っている。

既に、ある宗派の総本山への参拝もした。

その宗派について書かれた書籍があまりない。探してはみたものの。

また、私はそのお寺のご本尊に対してではなく、同じお寺に祀られている別の仏様に、帰依している。

ただ、家でのお勤めは、その総本山のお寺の宗派の形式をとっている。

これも私の背景にあるものから、そのお寺へ参拝したのではあるが、

よくよく調べてみれば、その私の帰依した仏様をご本尊とするお寺が、近くにあった。

ただ、宗派が違う。しかももっとマイナーなのか、全くその宗派について書かれたものがない。

同じお寺へ参拝を続けたものか、ご本尊として祀られているお寺を参拝していくか、迷っている。

ただ、そのお寺は宗派を超えた存在のようだ。

同じ仏様に対する信仰という事では同じであるが、お寺自身も宗派も違う。

あと、もともとのうちの宗派とは両派とも違う。

もう一度総本山の方へ参拝して、それから近くの方のお寺へ参拝を続けることにした方がいいのか?

しかし、同じ仏様であることに違いはない。そこがちょっと考えさせられてしまうのであるが。

これも「縁(えにし)」として、割り切ってしまえばよいのだろうか?

この迷いは、私に課せられた問題なのかもしれない。

宗派に関わりなく参拝できるのであるから、ご本尊として祀られているお寺の方へ、一度行ってみればよいのかもしれない。

ジャンルに適当なものが無かったもので

2011-04-23 02:23:51 | 日記
こないだの「はねトび」によって、私の人生が変わるかもしれない。

新コーナーの、偉人達の名言を当てるコーナーで、

マザー・テレサの言葉が出題された。

確か「世界平和のために、私たちは何をできるか」だったと思う。

答えは、「まず家族を愛しなさい」、だったはず。

私にはそれができていない。全くもって、不十分である。

確かに大事なことではあるが、私にはそれを遂行することができない。

ただ、ふと思った。

「なぜ私はキリスト教にこだわっているのか」。

家族愛が実践できなくても、家族と同じ宗教でいることもまた、大事なのではないか、と。

神道はあくまでも「八百万の神」でそれほどしっかりとした教義も存在しないようである。

なら、「葬式仏教徒」である家族と同じく、仏教に立ち返ればよいのではないかと。

ただもちろん、「葬式仏教徒」としてではなく、御仏に対する信仰と、在家信者としての生活をおくってゆけばよいのではないか?

「大日如来は宇宙の法」、であるという。

これは「主の思召し」と似通っている。

基本的に宗教の柱となるものは、似たりよったりである、という事も耳にする。

トルストイは、大学入学時には東洋言語を専攻していたらしい。

のちに転部するものの、そこに共通点を見出すこともできる。

私の家族はほとんど「葬式仏教徒」であるから、既に亡くなった者は、もちろん戒名を持っている。

戒名は死者につけるもの、と思っている人も多いかと思うが、

死後に「戒(いましめ)」を受けただけであって、お坊さんたちは生前に「戒」を受け、その戒名を名乗っているのである。

これから私は、仏教徒として生きていこうと思いだした。

在家仏教徒の「戒」も、キリスト教の「戒」と共通する部分がある。

ただ灯台下暗しで、意外と仏教に対する知識が少ない。

逆に言えば、これから勉強する価値は、キリスト教に対するのとそれほど違いはない、ということになる。

ただキリスト教と同じかそれ以上に、分派が激しい。

一体これからどの宗派を学んでいくのか、まだきっちりとは決めていない。

だが、時間はたっぷりとある。途中で死んでしまっても、ちゃんと「戒名」がいただけるだろう。

仏教徒として死んでいくことは、ほぼ間違いないだろう。

「光あるうち光の中を歩め」を読むと、キリスト教に傾倒している人たちは、

キリスト教徒でありたい、と思ってしまうようだ。

幸か不幸か、この作品をまだほとんど読んではいない。

かなりトルストイによって教化されてしまっていたが、

マザー・テレサの一言によって、一気に転回したと言える。

実際にはいろいろと私の背景もあってそうなったのではあるが、

力強い一言であったと言える。

Danke schön, Mutter Teresa !

もう始まる

2011-04-21 18:59:34 | 日記
「VS嵐」の番宣CMで、

松潤と大久保さんがキスしかける感じになってるけど、

プラスワンゲストが芸人なら、

何とかその人がキスして、なんやかんや、

ってーすべきなんだろうな。

お、そろそろ始まる。

なんじゃそれ

2011-04-20 22:11:51 | 日記
なんか、5つのレースでの1着を当てる馬券ができるらしいですな。

どういうこっちゃ。

「射幸心をあおらない」のが「是」、とされてきたのに、

宝くじでもそうだけど、最高賞金が億単位、ってーのが増えてきましたな。

くじの種類だけ増やして、賞金の上限だけおさえる、ってーので「射幸心はあおっていない」のか?

わけがわからん。日本はどうなっとるんじゃ?

キャリーオーバー制のあるやつでも、当たった時には全額出せばえぇと思うが。

もう充分、「射幸心をあおって」いまっせ、お偉方たち。

てか、これが「規制緩和」とか「自由化」なのか?おかしくね?

あらら

2011-04-18 16:53:26 | 日記
「コクトーは合わぬ!」と言って、カミュも一緒くたにしてトルストイに戻ってきたが、

わからぬ。

今までの、小説を読んでいるつもりで読んでいると、足許をすくわれた。

わけがわからぬ。

ある程度、ちゃんとした心構えで取り組まないと、「人生論」は読破できないと思う。

岩波文庫版が悪かったのか、どうなのかもわからない。

というか、新潮文庫版はまだ読んでない。岩波文庫版しか手許になかったというのが原因だが。

というわけで、新潮文庫版「光あるうち光の中を歩め」を買った。

うちには新潮文庫版「人生論」がちゃんとあるが、

まずは、「光あるうち光の中を歩め」を読もうかな、という状況である。

そして今度は、新潮文庫版の「人生論」を読んでみよう。

そのときは、ちゃんとした心づもりでいないと。

コクトー「恐るべき子供たち」及びカミュ不条理三部作と「ペスト」

2011-04-18 07:58:24 | 日記
コクトーの「恐るべき子供たち」、ほんの2~3行読んだだけで、何か違和感を感じた。

Weil ich versuche, einen Tolstoianer zu werden ?

トルストイにハマったか?

よって、エントリ名の5作品は無期限読書中止とする。

そのかわり、やはり「人生論」を読むこととする。

Jetzt ist es für mich besser, sein Buch zu lesen.

Man darf nicht Zukunft denken, sondern nur Gegenwart.

Wie Iwan der Narr.

新潮文庫版「悪魔」読了

2011-04-18 05:51:13 | 日記
この作品は、新潮文庫の「クロイツェル・ソナタ 悪魔」に収録されています。

死後出版されたというこの作品も、「クロイツェル・ソナタ」と同じく、

「性と愛」が主題とされています。

旧約聖書の「汝姦淫することなかれ」、をより徹底した、

新約聖書の「汝姦淫することなかれ」、が表出しています。

現代日本のように、直接的な姦淫だけでなく、自慰行為を手助けするようなメディアが氾濫している状況において、

それを利用することは姦淫にあたるのでしょうか?

新約聖書の「汝姦淫することなかれ」および後続するイエスの言葉に対する現代においての解釈は、

自慰行為及びそれを誘発、後押しするようなものに対しても該当するのでしょうか?

少なくとも「悪魔」においては、直接的な姦淫を誘発するものに対して心が揺れた時点で、

姦淫したことになります。

各教派によって違うのかもしれませんが、自慰行為に対するスタンスといったものが知りたい、と思います。

しかし、ふと欲求に突き動かされた自慰行為と、自慰行為を誘発するようなものに対して心が揺れることに対して、

同じ解釈になっているのでしょうか?

オナニーという言葉は、聖書中に登場する「オナン」という人物が語源となっているようですが、

これは、いわゆる自慰行為を指しているのではなく、膣外射精を指している、と聞きました。

この二つは全く違うもの、と言えるでしょうが、という事は、私が考えるべきは、

射精に対してどういう立場をとるべきか、という事なのかもしれません。


ここで一旦トルストイから離れます。

あと「人生論」を読むつもりですが、これは長編なので後回しにして、

コクトーの「恐るべき子供たち」を読むことにします。

この作品も、岩波文庫版と光文社古典新訳文庫版があるのですが、

まずは光文社版の方を読むことにします。こちらの方が分厚いんですが。

ちょっと思ったんだけど

2011-04-16 02:33:38 | 日記
前のエントリの内容からすると、

霊魂の存在自体を否定しているように思える。

という事は、宗教の否定ではないか?

ちょっと複雑になってきたぞ。

ただ、キリスト教的に見れば、

善き人は天国へ、

悪き人は地獄へ、

罪を贖うべき人は煉獄へ、

となっている(はず)。

という事は、霊魂はこの世には存在しない、という事になり、

心霊現象を起こすこと自体、ありえない、という事になる。

これで何とか説明がつくかな?

ちょっと無手勝か?

完徹は無理だろうな

2011-04-16 02:03:58 | 日記
まだ1時過ぎたところだし、完徹というほどの時間じゃないよな。

しかし駄文は続く。

以前書いたかもしれないけど、打鍵するのが何か好き。

最初のマシンと比べると、今のパソコンはものすごい性能なんやね。

いわゆる、日進月歩、とゆうやつですな。

でも、あのころはあれで充分満足していたんやもんなぁ。

今のパソコンは、ブラックボックス化、というか、あまりに複雑すぎて、直接ハードウェアをいじる、

なんてことがそう簡単にはいかんのやもんなぁ。

って勉強不足かな?

一時期パソコンから遠のいていた時期があって、その頃が「Win95」で大騒ぎの時期なのかな?

BASICベースが染み付いてしまっているのかもね。

あとマシン語で直接叩いてたんやもんね。

PEEKとかPOKEも、今は昔の物語。

あとネットが一般的になり、ブロードバンド化が進んでいるこのご時世、

セキュリティとかも詳しくは把握していないのかもね。

「パソコン通信」なんてものもあったなぁ。

何かじじむさくなってしまったかな?

明らかに自分のために今、打鍵をしているな。

これは公開の場、での発言、なんやけどなぁ。

こんなことつらつらと書いていてもいいもんかいなぁ。

それよりも、早く「悪魔」を読め、と自分でも思うけど、

こうして打鍵はできても、本を読んで、それを楽しんだり記憶したりするのができない状態。

だからこそ、こんな駄文を書き続けているんやけどね。

このエントリは無茶苦茶やなぁ。

というか、ちょっと前からこんな感じか。

一切有用なことは書いてないな。

この文章を読んでも、何の得にもならんわな。

でも書き続けている。別に自動書記の状態に置かれているわけではないんやけどね。

自動書記、これっていわゆる摩訶不可思議な状態のことやったっけ。

ネットでも自分が知らぬ間に打ち込んでた、なんてことがあるかもね。

心霊現象か。

信じておりません。

たたり。信じておりません。

大体、無関係な人に対する場合に、たたりで亡くなったとする。

そうすると、たたられて死んだ人も、同じ状態なわけだから、

最初にたたった側とたたられて死んだ人が、同じベースに立つことになる。

死んだことがないのでわからないが、たたられて死んだ人が、その人をたたった人に対して、

死んだ者同士、けんかになるのではないか?と思うのである。

「死」を恐れるゆえに、その様なたたりと言ったものを恐れるわけで、

同じように死んでしまえば、同じ土壌の上にいることになってしまう。

たたった側が、たたりで殺すことによって成仏する、というのなら事情は変わってくるが。

それでも、「成仏」とは仏教徒の間でしか通用しない。

大体、死後に戒名などをつけるが、これは出家したお坊さんたちに対してつけられているもので、

無宗教であろうと、信仰心がこれっぽっちもなかろうが、お坊さんたちと同じレベルに立つことになる。

「死」や「死者」、およびそれによる「たたり」、が怖くてそのようになっているのであるが、

これは大昔からあるもので、まだ完成された宗教のないような時代でも、丁重に死者を弔ってきた。

これも自らに対しての「死」の恐怖から出たものである。

勿論、死者を悼む気持ちがあることは確かではあるが。


おぉ、何かエントリ名をつけないといけないようなテーマを書いているのではないか?

もしかすると、このエントリが今までで一番長いかもしれない。

テーマなしのフリートーク。脱線列車が行く。


そろそろ2時か。やっぱ眠いな。でもおなかすいた。こんな時間に食べるのは不健康ではあるが。

あー、どうしよ。

とりあえず、このエントリは終わらせた方がいいな。

思いっきり場違いな文章が連なってるしね。

そろそろやめにした方がいいだろう。

でもまた書くかもよ。

眠れないので

2011-04-16 01:01:57 | 日記
眠れないので、ちょっと打鍵し続けようかな、と。

Mein Ziel ist nicht ein Tolstoianer zu werden,

sondern es ist ein Mensch wie Tolstoianer zu leben.

同じようなことの繰り返しかもしれないが、

まぁ眠れない夜の駄文として読んでいただければ、幸いである。

Ich bin noch nicht ein Christ,

aber meine Sätze sind vielleicht wie so.

Nachdem ich Tolstoismus gekannt hatte,

meine Meinung sich veränderte.

Bin ich Buddist oder Shintoist oder Christ ?

Ich auch weiß nicht.

Ich bin ich.

Also muss ich nicht so viele Sachen denken.

Aber Werke von Tolstoi lese ich,

so denke ich viele Sachen.

単純に「海外作品を読む」とゆうよりも、

「トルストイ主義について勉強する」、という姿勢になっているかもしれない。

コクトーやカミュなどは以前から気にはなっていた作家ではあったが、読むことはなかった。

どうせドイツ語を時折書くのだから、ヘッセやカントとかを読んだ方がいいのかもしれない。

でも、Schicksalでトルストイの作品に出会ってしまった。

だからもう、ローマカトリック系トルストイ主義信者、と言ってしまった方がいいのかもしれない。

なぜロシア正教会系トルストイ主義信者と言わないのかというと、

今までに何度かローマカトリックのミサに参加したり、色々と書物を読んだりもしたから、と言える。

「教会否定」は、当時のロシア帝国と癒着したロシア正教会への批判であったはずだから、

オーソドクスになってもいいのではあるが、いまだにロシア正教会はトルストイを破門したままだという。

どちらかというとソビエトに受け入れられたトルストイであったがゆえに、そうしたままなのかもしれないが、

ちょっと石頭過ぎるのではないだろうか。そろそろ受け入れてもよいのではないか、と思うのであるが。

いまだに、私のようにトルストイに共鳴してしまう者が多数出てきているのかもしれない。

ただ、トルストイは、敬虔なキリスト教徒であり続けた、という事実は覆らない。

まだ世界中に、あるいは新たに、トルストイ主義を信奉する人々が多いのかもしれない。


眠れない、からと言って色々と好き勝手書いているが、そろそろ眠らないといけないのではないか?

明日に響く。

性欲、物欲、金銭欲

2011-04-16 00:05:11 | 日記
欲望は、数限りなく存在する。

動物的なものから、社会的なものまで。

性欲は、人には繁殖期というものがないので、いつでも顔を出す。

物欲は、最小限に必要なもの以外にも生ずる。

金銭欲は、あきらかに人間社会にのみ存在する。

他にも挙げていけば数限りなくあるので、ここではこの3つだけを列挙してみた。

仏教的に言えば、煩悩かな?

しかし、まず無欲という人は、ほとんど存在しないだろう。

現代日本の物質や情報の氾濫する場においては、欲望がなかなか抑えられぬはず。

しかし、無欲になればいい、というものでもないと思う。

社会の発展とともに、欲望はその種類を増やし、強さを増大していく。

原始共産主義には戻れない私たちにとって、欲望は是か非か。

そういう私も勿論煩悩の塊だと言える。

ただ、少しずつ欲望を減らしていこうとは思っている。

トルストイ主義にまでは到達できなくとも。

また、無理に欲望を抑えることは、心身ともに良くない状態をもたらすのではないか。

できる範囲で、欲望を減らしていく。これが私の今のスタンスである。

しかし、トルストイの作品を手に入れること自体が、物欲と知識欲の発露ではないか?

また、トルストイの作品に接したことで、海外作品への興味を増大させていることは確かである。

今まであまり海外作品には興味がなかったのではあるが、トルストイによって、開眼した。

トルストイを読み終えたら(長編は後回しにするつもりではあるが)、コクトーとカミュが待っている。

他にも関連している作家の作品を読んでいくことになるかもしれない。

これは娯楽なのであろうか?

トルストイ主義を忘れない限り、ただの娯楽作品には手を出さないだろう。

ただ、書籍への興味を久しぶりに持ってしまったがために、乱読していくかもしれない。

またそこで、自らの主義主張が変わっていく可能性もある。

単純に、感化されやすい、と言ってしまえばよいのかもしれない。

果たしてトルストイへのスタンスを維持したまま、他の作家の作品を読んでいくことができるのかどうか。

自分への試練かもしれない。

光文社古典新訳文庫版「クロイツェル・ソナタ」読了

2011-04-15 18:55:25 | 日記
解説にもありますが、「性と愛」に尽きます。

ひたすら主人公の独白が続きますが、

19世紀末ロシア貴族の思想のもとで、

さまざまな思考がされている、と言えるのではないでしょうか。

以前にも書きましたが、この「クロイツェル・ソナタ」と「イワン・イリイチの死」は、

心が痛みます。

現代日本人はほぼ、「没落貴族」的な生活をおくっているので、

このような作品には、さまざまな影響を受けるのではないか、と思います。


次に読むのは、新潮文庫版「クロイツェル・ソナタ 悪魔」ですが、

そろそろ入手できる、岩波文庫版「イワン・イリッチの死」と同様、

翻訳の読み比べ、が目的なので、「悪魔」の方を読むつもりです。


ところで、なかなか「トルストイ主義」、を実践するのは難しいでしょうね。

上っ面だけをまねてみても、無意味でしょうし。

ただ、トルストイ自身、完全に「トルストイ主義」を実践できていたかどうか、

各書の解説などを読んでみても、「そうだ」とは言い切れないような気もします。

この、光文社古典新訳文庫版「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」が、

そのトルストイの苦悩を表しているのではないでしょうか。