或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

私にとっては、「トンデモ本」ではなかった

2012-10-16 00:10:34 | 日記
日本史の授業で、

「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」、

というものを習ったのを思い出す。

源氏、平氏、藤原氏、橘氏、が有力な氏族であったと。

橘氏は凋落していったが、

「源平藤」、は未だにその子孫たちが残っているだろう。


「源平」はどうしても対立したものと考えられてしまうが、

元はと言えば、どちらも、

「天皇家から臣籍降下した家柄」、

である。

だから時代をさかのぼれば、双方とも天皇へと直結する。


ただ、武士の家柄、となってしまって、双方は対立することになる。

「源平交替説」というものも耳にする。

貴族化した平氏が政権を握り、

源頼朝によって、幕府が開かれ権力を握り、

平氏出身の北条氏が、後継ぎの絶えた頼朝の家系の代わりに執権として君臨し、

天皇家の南北朝対立から、源氏の流れの足利氏が政柄を握り、

戦国時代では平氏の流れと自称する信長が天下統一を目指し、

基本的に信長の政策を継承していただけの秀吉も平氏として振る舞い、

源氏の流れと称する徳川氏が後を継ぐ。

本当にうまいこと「源平交替」が行われている。


ではその間、藤原氏はどうだったのか。

政柄を握っていた貴族である藤原氏は、「公家」として脈々と生き延び続ける。

徳川幕府が滅び、天皇中心の維新政府が立ち上がった時には、

「華族」として、特権階級に居座り続けた。

これは第二次大戦の敗戦まで続く。


その後もまだ「源平藤」の流れを汲んでいると自称する者、

実際に「源平藤」の子孫である者、は未だに代を重ねている。


まぁそのようなことを私はずっと思っていたのではあるが、

面白い本に出会った。

既に有名、あるいは、「トンデモ」として片づけられる、

関裕二氏の本である。

関史観は面白い。

今のところ私は「関史観入門書」と言われる、

「ここまで解けた!『古代史』残された謎」、

しか読了していないのだが、本当に面白い。

事実、そうではなかったか、とも思わされている。


若いころ、「信長殺し、光秀ではない」という八切史観に触れて、

光秀ファンになって今に至るのだが、

関史観における展開によっては、一般的に「悪人」とされる人物や氏族に対して、

ファンになってしまう可能性は十分にある。


実際には、関史観に出会う前に、

「蘇我氏四代の冤罪を晴らす」と言う遠山史観に出会っている。

これにも私は飛びついた。

蘇我氏は悪人でもなんでもない。聖徳太子(厩戸王子:うまやどのみこ)の方が当時における反体制派であって、

権力欲にまみれた俗人であった、との解釈に賛同した。


ただここで一つ問題がある。

私は浄土真宗本願寺派信徒である。

開基である親鸞聖人の意を決するきっかけとなった、

夢における聖徳太子の顕現、といったものに対して、どう理解するべきか。

結局、この事によって太子信仰は広がりを見せ、

遠山史観における「聖徳太子」は報われたことになる。

関史観で「聖徳太子」がどう扱われているのかは、

まだ核心に触れるところを読んでいないのでわからないのだが、

少なくとも、「現在の太子信仰」が崩れ去ることは確かであろう。


ちょっと私の立脚点も揺らぎ始めているのだが、

どう理解し、どう行動していくか、

読み進めて納得してしまえば、また新たな立脚点を見つけることになるだろう。


「トンデモ」と言われるようなものでも、

少なくとも一人の人間の人生に於ける考え方、立脚点、その他もろもろ、

一気に変えてしまう力を持っているものもある、

という事を知ってもらいたい。

対「北野武氏発言」極反論

2012-10-12 19:43:11 | 日記
もう煩悩に染まりまくってしまう、とわかってはいるのだが、

どうにもこうにも書かずにはおれない。

ではいきますよ、極論。


北野氏の発言によると、「最近の映画館は音響設備がすごくて、映画館へ直接見に来てほしい」、

というところから、

「ネットでごちゃごちゃとテレビ番組などに文句なんか言うな」、

つまりは、「カネも払ってないのに文句をたれるな」、との結論に至る。

まぁここまでは前のエントリと同じことなのではあるが。


ここから一気に視点を変えると、

「最新音響設備の映画館でのみ、見てほしい」、

つまり、

「俺の本当の『映画』というものは映画館でしかわからない」、

ということになる。

つまりつまり、DVDや地上波で放送されたりするものは、

「北野武映画」ではない、

ということになる。

つまりつまりつまり、DVDや地上波になったら、

「見てほしくない」、

と展開できる。

だから、もう私は「北野武作品」のDVDを買うこともレンタルすることも、

地上波で放送されていても、絶対に見ない。

だって「北野武氏」自身がそう展開できる発言をしたのだから。

私一人が見ないぐらいでは何の影響もないでしょ?

実際なんか今回の作品は好評で好調なようで。

いやめでたしめでたし。私は一生見ないけどね。

いつの間にやら私の真宗観

2012-10-11 00:18:49 | 日記
このブログに於いて、「常識をわきまえているから、非常識な発言ができる」と書いた。

この文言で調子づいた人もいるだろうが、一部の人たちは勘違いをしていると思う。

「常識をわきまえていないのに、非常識な行動をとる」人たちがいる。

ただただ感情のおもむくまま、獣のように悪行に走る人々がいる。

まぁ「善悪」、という概念自体が絶対的なものではないが故に、

恣意的、自分の都合、などなどで行動している人たちである。

私は別に、「悪行」の励行をしているわけではない。

「発言」と書いた。「行動」とは書いていない。

行動としての悪、というものには、対処すべきである。

発言に於いても、浅薄な考えから出たものが後を絶たない。


国家に於いては、「仮想敵国」なるものを設定し、そのための防衛、先制攻撃、といったものが想定される。

「外敵」を作ることによって、内部、集団の結束が図られる。

これは国家に限らず、人間集団に於いて、よく用いられる常套手段である。


小さなころから刷り込まれる「勧善懲悪」という考え方。

ヒーローものなどで、テレビでも頻繁に使われる。

しかし、本当の「善悪」とは何か。

自分にとって都合の良い、うまく利用できるものを「善」と言い、

不都合なもので、異質であったりするものを「悪」と言う。

ただそれだけに過ぎぬ概念を「錦の御旗」として生活していくというのは、都合が良すぎる。


真宗的には、「人間皆全て、悪人である」、という立場に立つ。

だから「悪人正機」という言葉ができた。別に「悪行」を奨励しているわけではない。

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」で有名な「歎異抄」ではあるが、

「本願ぼこり」と呼ばれる、「お念仏をしているから何をやってもよい」、ということにはならない。

お念仏を唱えようが、信心を賜ろうが、人間は「悪」から抜け出すことはできない。

そのように言えば、「それなら好き勝手に悪行でもなんでも自分の思うとおりに生きていく」、

と考える人もいるだろう。

そういう人のために、浄土真宗があるのだと思う。

肉食妻帯長髪、なんでもOK。まぁ今の日本では他宗派でもそうなっていたりするが。

先鞭をつけたのは「浄土真宗」。

750年もの歴史がある。当初から根本はほぼ変わっていないと言えるだろう。

時代とともに、様々な問題にぶち当たったり、折り合いをつけてきた面もあるだろう。

しかし法然聖人をもといに、親鸞聖人がさらに深化させたと言える、浄土真宗。

これからも、私を含めて、「悪行三昧」な人間たちを導いて下さると思う。

「北野武氏映画館来訪者増加希望発言」再考

2012-10-10 20:33:03 | 日記
まぁ映画については、門外漢と言っていいだろうから、最近の「映画館」というものをよくは知らないのだが、

「音響が凄い」、とのこと。

まぁ他にも、客が来てほしい(金銭欲、自己顕示欲、優越感などなど)ということから、

DVD・BDで見るのを良しとしないのだろうし、

音響を映画館並みにしているようなお金持ちの事は別物扱いしているのであろう。


で、「音響」に戻りますけど、本当に、本当に、映画館で見る方が、家でDVD化されたものを見るよりもいい、

と言い切れるのだろうか?

ここで冒頭に戻るのだが、「映画館」にもピンキリ、があるのではないか?

そんな最新の音響設備を全映画館が備えていて、

シネコンのようなところでも、全てのスクリーンに於いて、

最高の音響設備が整えられている、と断言できるのであろうか?


とにかく私はそこに引っかかった。そこんとこどうよ。

あ、ちなみに22時にはテレビを消すので、TBS「ニュースキャスター」とかで話されても、届きませんので。

そこんとこよろしく。

「ネチケット」について

2012-10-10 20:11:54 | 日記
基本的に私は、「常識をわきまえていなければ、非常識な発言はできない」、という立場。

同じように、ネット社会における情報発信で、守るべきとされる暗黙のルール、が「ネチケット」なわけだが、

それをタブーとせず、わかりながら破る、というのもまた一興ではないか、と思うのだが。

勿論私のような、一個人一私人がするからまだ目をつむってていてくれる人がいるのだとは思うが、

メディアがそれをしだしちゃおしまい、だな。

ま、そんなこと言っちゃあ「ゴシップ誌」、「週刊誌」の類は食っていけなくなるけれども。


それでも慚愧はしますよ。

「本願寺出版社」エントリしか読んでない人にはわからないだろうけれども、

「本願寺出版社~その後」エントリというものを幾らか後の方に書きました。

前者しか読んでいない人は、後者の方も是非。

まぁこれは大分以前になるので、現在の「真宗理解」とは違っていると思いますが。


ところでBBSなどで、平気で「ネチケット」を破っている人たちがいますけどね。

「めざましテレビ」への苦言が抑えられた

2012-10-10 07:10:15 | 日記
「SNSを使っての就活」をテーマにしたコーナーでの、

至極当然な、私でさえもちゃんとわかっている上での注意点を、

さも「特別な注意点」のように発言しているのを見聞きして失望した。

まぁここには書かないし、反論もしないではおくが。

一つだけ書いておくとすれば、

「ネチケット」、

という言葉がもう以前からある、

という事を知らないのではないか?

と思わされた。


ちょっと前の、『「念ブツ」再考』エントリでの結論のように、

「めざましテレビ」も、

報道やワイドショー的な側面を持ちながらも、

ただのバラエティ番組に過ぎない、

と理解した。

まぁ、だから許せる範囲なわけだ。ただ、今日はもう見ない。

「念ブツ」再考

2012-10-05 00:13:00 | 日記
「笑っていいとも」でなぜ、あのコーナーが、「念ブツ」というタイトルと、スタイルをとったのか。

よく、最高の経典として、「妙法蓮華経(=法華経)」が挙げられる。

これを「お念仏」と似たスタイルとして、

「お題目」という形で、「南無妙法蓮華経」と唱える。

ならば、あのコーナーは、「題目」でも良かったのではないか。

しかし、そうはしなかった。これには理由があると思う。

「お念仏」と「お題目」とでは、どちらかというと、

「お念仏」の方が、日本人にとっては、

人口に膾炙している、

からではないだろうか。

「なもあみだぶつ」、「なむあみだぶつ」、「なんまんだぶ」、

など唱え方にもいろんなパターンがある。

日本人に、「お念仏」というものが染み付いているのではないだろうか。

まぁ明らかにあのコーナーでしていることは、

「お念仏」とはかけ離れているとは思うのではあるが、

それだけ日本人にとって、「お念仏」というものが、「重要なもの」、

であるとの認識があるのであろう。

日本人の特殊な宗教性、宗教観といったものがあるが故に、

ある意味、「お念仏」のパロディとして、使われているのではないだろうか。

広い心で見れば、それだけ、「お念仏」に対して日本人が持っている感覚が、

「特別なもの」、であるとの証左である、とも言える。

また、「念ブツ」に対してクレームなどによる打ち切り、変更、

といったものが無いのも、あくまでも「念ブツ」という「お念仏」のパロディではありながらも、

自らに染みついた、「お念仏」というものに対しての心理、

といったものから出ている、と捉えた方が、良さそうである。

「また変なことやってる」、というバラエティへの寛容さが出ている、とも言える。

「教育」の悪弊

2012-10-02 15:58:13 | 日記
よくよく見聞きして考えてみると、気付くことがあった。

「子どもは空を体現している」、

のではないかと。

大人は何かと有無をつけたがる。

そんな大人たちに育てられ、教育された子供たちは、

もはや空ではなく、有無をつけたがる存在へと変わっていく。


「私はそんな教育なんてしてませんよ」、という人でも、

公(おおやけ)や私(わたくし)を問わず、

日常会話や井戸端会議を問わず、

その人が話したことを、子どもたちは聴いている。

それが「教育」の一環として働いているのである。


教師や保育士、年長の子、父親もそうではあるが、

やはり一番そういう影響を及ぼすのは、

母親である。


極端な例は、戸別訪問をする宗教の信者など。

子どもを引き連れてやってきたりする。

そこまでいくと、洗脳かもしれない。


そこまでいかなくても、ごく日常の中で、

上述のように、子どもは大人から「教育」を受けている。

子育て、というものはまことに難しい。

私も含め、ほぼ全ての人間が、悪弊の中にいるのであろう。

さて、北野武氏が嫌う「地上波批判」だが、こういう場合はどうだろう

2012-10-02 14:20:35 | 日記
以前書いたが、「笑っていいとも」にて、

「他力本願寺」なるコーナーがあり、

今各局がすがる「クイズ番組」でも取り上げられるような、

「現在でも使われている本義」と「もう慣用化されてしまったかもしれないと思える誤義」である、

「他力本願」についてクレームが来たことによって、

名前を変えたか、やめたかしたことがあったが、

また似たようなことをやっている。


今回は、「念ブツ」、とあくまでも、

「念仏の事を指しているのではない」、

という逃げ道を作りながら、

それでも浄土真宗のお坊様にネタを唱えさせる、

というコーナーである。


「念仏」ではなく、「念ブツ」だから、ただ単に、

「ブツブツ言ってる」という意味に捉えさせたいようなのではあるが、

どうしても視聴者は、「念仏」とのつながりがあるように思うだろう。

ただ、見聞きしていたらわかるのではあるが、

明らかに「念仏」ではなく、あれは「読経」に近い。

「偈」を唱えている、という捉え方もあるかもしれない。

というか、「神道の祝詞(のりと)である」と言った方がぴったりだと思える。

やはり、日本人が持つ「特殊な宗教性」の上に成り立っている、と言えるだろう。


ただ、一つ気になることがある。

テロップには、「浄土真宗」の文字とお坊様のお名前が出るのではあるが、

「何派」かは出ないのである。

確かに浄土真宗は、法然聖人を基(もとい)として、親鸞聖人が開いたと言えるのではあるが、

時代が下るにつれて、分派してきた。

あのお坊樣は一体、「浄土真宗何派」なのだろうか?


これでは、例えば「笑っていいとも」として紹介されたうえで、

SMAPの中居君が出てくるようなものではないか?

確かに中居君は「笑っていいとも出演者」である。

しかし、火曜日しか出ていない(日曜の「増刊号」や特番を除く)。

何曜日かによって、司会のタモリさんは変わらないが、番組のコーナーが違うし、イメージも違う。

それでも、「笑っていいとも代表」として中居君が出てくる、

というのとあんまり根本は変わりない。


ちなみにタモリさんは曹洞宗らしいが、意識していないかもしれないけれども、問題がある。

確かに曹洞宗は、道元禅師によって開かれた禅宗の一派であり、対外的には、

「曹洞宗」として何の変りもなく、「曹洞宗なら全く同じ」と思われがちである。

しかし、曹洞宗には本山が二つある。永平寺と総持寺である。

そして、内部的には「永平寺派」と「総持寺派」に分かれているところがあるようである。

タモリさんは、「曹洞宗永平寺派」なのか、「曹洞宗総持寺派」なのか。


全くもって、「日本人的特殊宗教性」を体現している、と言えるコーナーである。


外国の方にとって、日本の「仏教」はかなり異質に映るらしい。

日本浄土仏教に始まり、明治政府によって半ば強引に進められた、

一般的に言われる禁忌、「肉食妻帯」を始めとして、

どうしても、タイなどの上座部仏教のイメージとの違いが強いのだという。

他のアジアの仏教国の人々もそうらしい。まぁそこは「浄土真宗」の特性でもあり、

「日本の大乗仏教」という形として、広まっていったところであり、

やはり、「日本の特異性」と言えるのかもしれない。


でもやっぱりあのコーナーでやってるのは、

「念ブツ」という名の「念仏」でも、「読経」でも、「唱偈」でもなく、

「神道の祝詞」と言った方が当てはまっていると思う。

無理やり「念仏」につなげようとする意図が見えて、

何か違和感を感じる。

「スマスマ2.5hSP」北野武氏発言論考

2012-10-02 00:49:41 | 日記
私たち現代の庶民は、「没落貴族」である。

芸術家には昔、貴族などのパトロンがいて、生計を立てていた。

現代では基本的に、庶民の金銭を糧とすることで、

芸術家は生計を立てている。

テレビを始めとするメディアも同じである。

視聴率を上げるのに必死になっているのは、

直接的なパトロンである、広告を出している企業などに、

頼っているところが大きいからである。

見ている人が多ければ多いほど、企業もその番組の広告主となろうとする。

それだけ多くの人に、自社製品を購入して欲しいからである。

つまり、私たち庶民は、メディアの間接的なパトロンなのである。

パトロンにも色々な人がいて当たり前。

何をやろうが「オールOK」な人もいれば、

クレームをつけたくなる人もいる。

これは貴族をパトロンとしていた時と、それほど変わらない。


ビートたけし氏・北野武氏、の発言は、

「テレビ局にカネも出してないのに、ごちゃごちゃネットで言うな」、

と要約できる。

つまり、カネを出している、広告主の企業から何か言われれば、すぐさま気に入られるように変える、

ということになる。


CMは、視聴者に訴求して、何かを買わせたり、何らかの自社に有利な言動をとってもらおう、

というものであるから、CMに対しての視聴者のごちゃごちゃ発言は、

企業も気に掛ける。


北野武氏の発言は、

「映画は庶民がお金を払って、劇場までわざわざ来てくれる」、

というところから、「批評OK」ととれる。

では、BS・CSの有料放送であれば、視聴者は批評してもよいことになる。

民放各社の地上波放送に於いて、ごちゃごちゃ言うな、ということになる。


という事は、DVD化されたりして、購入やレンタルをしてみた人たちは、

カネを払っているのであるから、「批評OK」ということになる。


自らの周りの状況も色々と変わっていっているので(諸行無常、諸法無我だからね)、

これはいいきっかけになったかもしれない。

ただの「にぎやかし」としてかけている番組は別として、

基本的に私としては、「批評したくなるような番組」は、

できるだけ見ないようにするのが北野武氏の発言にも合致する。

これからは漫然とテレビをかけるのではなく、厳選して、

「見たい番組」以外はできるだけ見ないようにしよう、と思う。


しかし、見たい番組にも、何か「一言申す」、という感情が芽生えることがあるのも否定できない。

上述のように、「間接的なパトロン」なのであるから、それは別にかまわないともいえる。


社会自体がごちゃごちゃしている時代で、ごちゃごちゃ批評するのもまた、然り、

と言えなくもない。


因縁生起(=縁起)によってその場その場で現象、状態、状況、といったものができていて、

万物は存在などしていない、と言う訳なのだから、

ある意味クレームや批評もまた、縁のものである。


ただ、縁が起こる前には、因という直接原因があることを忘れてはいけない。

メディア批評も、現代社会批評も、結局は、

「言わずにおれない」、

という人たちによって行われているのであり、

「子どもに見せたくない番組」、「最悪の番組」、

などと言われるのにも、因があって、批評者に於いて縁があるから出てくるのである。


「面白くなければテレビじゃない」、

確かフジテレビの昔のキャッチコピーだったと思うが、

万人にとって「面白い番組」などありえない。

不平不満が出るのも当然のこと。

メディアで飯を食ってる人たちもそれぐらいはわかるだろう。


で、メディアは第四の権力である。

それだけ影響力も大きい。世の中を誘導することも珍しくない。

実際言い出せば、報道さえも恣意的であると言える。

しょうもない事をやっているバラエティは置いておいて、

「制作者が取り上げたい報道」、「制作者が望む恣意的なインタビューに偏向した報道」、

「制作者の頭の中で、固定観念としてこびりついてしまっている価値観でしか取り上げない報道」、

などなど、実例はいくらでもある。



まぁ今回、なんだかんだと書いてきたが、逆に、

「少なくとも私の思うところを吐き出した、私の恣意的な文章」、

であるともいえる。

煩悩に満ちた人間たちにとっては、ある程度好き勝手出来るネット空間というものは、

セーフティネットの一つとして機能しているのではないだろうか。

私もなかなか煩悩は捨てきれない。

人間である以上、煩悩を捨てることなどできないのであるが、

少しはマシにしながらも、この身このままで往生させていただく、

という生活を続けていくことこそが、肝要なのかもしれない。

Twitterのアカウントを削除しました

2012-10-01 23:35:19 | 日記
SNSを利用したなりすましなどが多くなっているようで、

別にまぁ実害はないとは思うのだが、

Twitterを退会した。

以後、Herr bleistift、Benjamin IIIなどが使われている場合、

私ではない、という事をここに宣言する。

ただ、一応私の現在のハンドルネームが、

Herr Bleistiftであることには変わりない。

見極めは各利用者の判断に委ねる。