瞋恚はおさまった。だから、
書く必要なんて、どこにもないんやろうけどね。
あの時点でも、ちゃんと、「瞋恚」、と確認できていて、
「貪瞋癡」、という三毒である事は分かっていたわけやし。
一応、収束する時間が短くなってきた気がする。全てに於いて。
病気の症状もね。
でもまぁ、「異常性」、が発現することに変わりはないわけで。
一般生活でも、精神病由来にしても。だから、
「障害者」、なわけで。
まだまだそこは変わりない、というか、変われない、というか。
あと、神田橋さん、という精神科医がいる。
この方の著書の中にもあるが、
「精神病」=「精神」「こころ」の病気、
と捉えがちになってしまうのは、間違い、とのこと。
正しくは、
「精神病」=「脳」の病気、
とのこと。
他の臓器の病人と、何の変りもない、
単に、「脳」、という臓器の病変を抱えている、
というだけ。
「こころ」、
というものの捉え方が、どうしても、
「特別扱い」、
されてしまっているのが、おかしい、と。
腎臓病で、人工透析が生きていくために必要なように、
糖尿病で、食餌制限や、各種の薬が必要なように、
骨折で、「寛解」のため、患部を正しく接合させるためにギプスで固定し、リハビリするように、
「精神病」と呼ばれているものは、単に、「脳」という臓器の病気であって、
薬といったものが必要となり、
「脳」という臓器の治療法としての、心理療法や、リハビリが必要であり、
「寛解」がその目指すところ、だと言える。
仏教ではどうとらえているか。
それほど通暁しているわけではないし、
「こころ」をどうとらえているのか、
一般社会と同じなのか、時代的に変わりはないのか、
そういったところまでは、ちゃんと知っているわけではないが、
基本中の基本、というところの、
「六根」、
は知っている。
これは意外と知っている人も多い、と思う。
あるいは、そうとは知らずに、頭の中に入っている人が多いかもしれない。
六根とは人間を構成するものであり、よく、
「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら霊山などを登る人も多いだろう。
よく読誦や写経される「般若心経」にも出てくる。
この「六根」とは、人間に迷いを生じさせる、感覚器官や意識、の総称である。
「眼耳鼻舌身意」がそのすべて。
視覚器官、聴覚器官、嗅覚器官、味覚器官、触覚器官、などと並んで、
意識・精神作用も同列に挙げられている。
ここに私は、仏教では、「精神病」も、俗説的な、
「業」ではなく、「六根のうちの一つの不調」、
と捉えられている、と考えている。
ただまぁ、「差別しやすい」から、「差別する」人間たちが多いだけで、
本当のところは、一年前に書いた、「被差別民」と同じように、
何のいわれもない「差別」である。他の「病気」と同じく、
単に、「一つの臓器」が不調なだけなのだから。
ちょっと精神病論の梗概のようになってしまったが、
別に論文とかを、書くつもりはない。
ただ一つ言えることは、「瞋恚がおさまった」ということだけ。
ただ、あのオバハンには、ちょっと対抗措置をとるかもしれないけどね。
実際には、最近、私への接客としてのレジにさえ、
出てこなくなってはいるが。
別にこれ以上責める気はない。ちょっと私の気が済むまで、
「対抗措置」、
をとるだけのこと。
これにて、一件落着。
(追記)
「統合失調症」については、ウィキペディアに詳しい。
しかも、どんどん内容が充実していっている。
意外と私がその一因になっていたりするのならば、
「広告塔的」存在意義、があると言えるのかな。
ちなみにちゃんと、私はこのブログの今のタイトルに、
「或る、」との一語を添えている。
「統合失調症患者」全員が私のようではない、との宣言でもある。
まだまだ未知の病気であり、
「十把一絡げ」、
の感がある病名なので、患者によって、様々ではある。
「差別する人」は、自分に自信がない、とか、いわゆる「負け組」だと自認している、とか、
単に、「自分の事情」で、「俺よりも下の奴らがいる」、
と決めつけて、自己満足に浸るしか、自らを肯定しえない、
まさに仏教的に言えば、「慈悲」の対象、「いつくしまれ、あわれまれる」人々、
なのだろう。
書く必要なんて、どこにもないんやろうけどね。
あの時点でも、ちゃんと、「瞋恚」、と確認できていて、
「貪瞋癡」、という三毒である事は分かっていたわけやし。
一応、収束する時間が短くなってきた気がする。全てに於いて。
病気の症状もね。
でもまぁ、「異常性」、が発現することに変わりはないわけで。
一般生活でも、精神病由来にしても。だから、
「障害者」、なわけで。
まだまだそこは変わりない、というか、変われない、というか。
あと、神田橋さん、という精神科医がいる。
この方の著書の中にもあるが、
「精神病」=「精神」「こころ」の病気、
と捉えがちになってしまうのは、間違い、とのこと。
正しくは、
「精神病」=「脳」の病気、
とのこと。
他の臓器の病人と、何の変りもない、
単に、「脳」、という臓器の病変を抱えている、
というだけ。
「こころ」、
というものの捉え方が、どうしても、
「特別扱い」、
されてしまっているのが、おかしい、と。
腎臓病で、人工透析が生きていくために必要なように、
糖尿病で、食餌制限や、各種の薬が必要なように、
骨折で、「寛解」のため、患部を正しく接合させるためにギプスで固定し、リハビリするように、
「精神病」と呼ばれているものは、単に、「脳」という臓器の病気であって、
薬といったものが必要となり、
「脳」という臓器の治療法としての、心理療法や、リハビリが必要であり、
「寛解」がその目指すところ、だと言える。
仏教ではどうとらえているか。
それほど通暁しているわけではないし、
「こころ」をどうとらえているのか、
一般社会と同じなのか、時代的に変わりはないのか、
そういったところまでは、ちゃんと知っているわけではないが、
基本中の基本、というところの、
「六根」、
は知っている。
これは意外と知っている人も多い、と思う。
あるいは、そうとは知らずに、頭の中に入っている人が多いかもしれない。
六根とは人間を構成するものであり、よく、
「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら霊山などを登る人も多いだろう。
よく読誦や写経される「般若心経」にも出てくる。
この「六根」とは、人間に迷いを生じさせる、感覚器官や意識、の総称である。
「眼耳鼻舌身意」がそのすべて。
視覚器官、聴覚器官、嗅覚器官、味覚器官、触覚器官、などと並んで、
意識・精神作用も同列に挙げられている。
ここに私は、仏教では、「精神病」も、俗説的な、
「業」ではなく、「六根のうちの一つの不調」、
と捉えられている、と考えている。
ただまぁ、「差別しやすい」から、「差別する」人間たちが多いだけで、
本当のところは、一年前に書いた、「被差別民」と同じように、
何のいわれもない「差別」である。他の「病気」と同じく、
単に、「一つの臓器」が不調なだけなのだから。
ちょっと精神病論の梗概のようになってしまったが、
別に論文とかを、書くつもりはない。
ただ一つ言えることは、「瞋恚がおさまった」ということだけ。
ただ、あのオバハンには、ちょっと対抗措置をとるかもしれないけどね。
実際には、最近、私への接客としてのレジにさえ、
出てこなくなってはいるが。
別にこれ以上責める気はない。ちょっと私の気が済むまで、
「対抗措置」、
をとるだけのこと。
これにて、一件落着。
(追記)
「統合失調症」については、ウィキペディアに詳しい。
しかも、どんどん内容が充実していっている。
意外と私がその一因になっていたりするのならば、
「広告塔的」存在意義、があると言えるのかな。
ちなみにちゃんと、私はこのブログの今のタイトルに、
「或る、」との一語を添えている。
「統合失調症患者」全員が私のようではない、との宣言でもある。
まだまだ未知の病気であり、
「十把一絡げ」、
の感がある病名なので、患者によって、様々ではある。
「差別する人」は、自分に自信がない、とか、いわゆる「負け組」だと自認している、とか、
単に、「自分の事情」で、「俺よりも下の奴らがいる」、
と決めつけて、自己満足に浸るしか、自らを肯定しえない、
まさに仏教的に言えば、「慈悲」の対象、「いつくしまれ、あわれまれる」人々、
なのだろう。