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脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

四畳半のアパート暮らし3(幼少期)

2015年04月02日 10時20分40秒 | わが半生
皆さんは【トロリーバス】ってご存知ですか?これを知っている人は50代以上の方でしょうね♪『チンチン電車』は路面電車で知っている人も多いし阿倍野では今でも走っています。昭和30年代 大阪市内にボンネットバス以外にトロリーバスというものが走っていました。バスの天井の上からアンテナ4のようなものが出ていて道路の上には電線のようなケーブルが走っています。丁度、ロープウエイのようなものが”バス”になっているとイメージしてみてください。私の家の近所を走る幹線道路には、そんなトロリーバスなるものが走っていまして記憶では鴫野駅から緑橋~蒲生~京橋付近の路線だったと思います。懐かしい・・・ふと思い出したので(^^♪また家には電話がありませんでしたので大家さんの家にかかってきて、いわゆる【呼び出し】です。時々、東京の祖母から母宛に電話が入るのですがアパートの路地を出た幹線道路を渡ったところの正面が大家さんの家ですが信号もない道路を大家さんは渡って来て母4に伝え母は「すみません」と言いながら一緒に道路を渡って大家さんン家で電話を祖母と話していたようです。大家さんも親切にしてくれてました。そんな大家さんを気がねしてか祖母の電話料金を負担させるのに気がねしてか母は時々、買い物帰りに公衆電話から東京の祖母へ電話していました。父も地方に行ってばかりで寂しかったにかも知れませんね。当時、東京~大阪の電話料金って凄く高いんです。電話機の上に、たくさんの10円玉を用意して話しながら左手の10円を次々と入れるのですが、その都度”カチャッ♪”っと10円が落ちるような音がしていました。その音も数秒ごとに聞こえるんです。当時、国鉄(今のJR)の鴫野~京橋1駅でしたが子供運賃が10円でした。そう思うと電話が、どれだけ便利で高価であったか・・・母の実家は東京の目黒にありまして割と裕福だったようです。そんな母も貧困生活と育児疲れで私が赤ん坊の時・・当時は新幹線など、とても乗れないので東海道線の急行??で数時間かけて何度か里帰りもしてたようですが私が物心ついた時には早々と帰らず、その代わりに映画とパチンコでストレス解消していたようです。そんな私も小学校に進学。大阪市立城東小学校と言います。入学式に母と行きました。すると、どこのお母さんも着物を着ているのです。当時のお母さんは入学式や卒業式・・祭事ごとは着物を着ていました。でも・・ウチは貧乏だったので母はセーターにスカート・・やっとの思いで買った、とっておきのパンプスを履いていましたが、ホンマ。。母一人がセーターにスカート姿。今でも当時の入学式記念写真を見ると母だけ・・たぶん母も辛かったんだろうと思います。母は私には一言も愚痴らなかったのを覚えています。1年5組 野村学級・・覚えているもんですねぇ~・・初めての先生。女性でしたが少し目の細い方でキツそうな印象でした。入学式が終わり母と学校の門を出るとチラチラ小雪が舞っていたのを鮮明に記憶しています。『A君♪ 帰りにノートとか鉛筆削り買って帰ろう♪』そう言って微笑んでくれた母・・学校に必要なものを全て買ってくれました。母は内職で貯めていたお金で何とか揃えてくれたのでしょう・・鉛筆削りは私が大好きだった手塚治虫の【鉄腕アトム】のキャラクターのものを買ってくれました・・鉛筆1ダースに下敷・ノート数冊etc・・嬉しかったなぁ~入学式を終えた数日後、地方に板前修業していた父が返ってきたのです。