私は命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。
なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、
肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。
しかし、その中に息はなかった。
そのとき、主は仰せられた。
「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。
神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。
この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」(エゼキエル書37-7~9)
今から50億年以上前、人間は単なる細菌の一種だった。
しかしそれが、海をはいずり回るミミズのようなものになり、
さらには自由自在に遊泳する魚の如きものとなり、
遂には陸に上がり、手足を発達させ、爬虫類となった。
腹ばいで歩いていた存在が、徐々に手足を下にすえて、
四足歩行となり、手だけで森を飛び回る猿の如きものとなった。
地球の地質学上の激変もあってか、木から下りて二足歩行となり、
尻尾をひっこめて、手を自由自在に使うようになり、
脳を肥大化させ、毛むくじゃらの体毛を失い、
現在の如きスマートな(?)人間となった。
こうして40億年以上もかけて、人類はその形態を獲得するに至ったのである。
そして人類史が始まって6000年間、倫理を定め、規則を整え、
法制度を確立し、人権を認め、科学が飛躍的に前進し、
普通に生活していれば餓死しない、平和な世の中を得るに至った。
戦争と平和、戦中と戦後、様々な違いはあれども、
現代日本人はみな、肉体的には最も安楽な世界に生きている。
比較的善良なる両親の下に生まれ、その両親は我々を無為に殺害することなく、
必要最低限の教育は受け、知識をいかようにでも獲得できて、
妻をめとり、夫を得て、即座にテレビやネットなどで情報を得、
信教の自由はあり、居住及び職業選択の自由はあり、恋愛の自由もあり、
物質的・肉体的な意味で、すべての自由を手にするに至った。
しかし、その中に、息はなかった。
生まれたきたことの意味をしみじみと感謝し、
日々喜びもって生きることのできる人間は、果たして幾人いるか?
すなわち、本当に「生きている」人間は、この広い世界にどれだけいるか?
本当に精神的自由を獲得した人間は、果たして幾人いるか?
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ伝1-3・4)
「永遠のいのちとは、彼が唯一の真の神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ伝17-3)
(神の恩恵により)イエス・キリストを知るまで、
人間は死人の如きものである。
いのちが何であるか、真の神が誰であるか、
この世の生が何であるかを知らない、「生ける屍」である。
イエス・キリストを知った時、人は本当の意味で、
この世の生を始めることができる。
キリストなき人類進化も社会進歩も文化向上も教育改革も、
実のない幻想の産物に過ぎない。
わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。
(エゼキエル書37-14)
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なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、
肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。
しかし、その中に息はなかった。
そのとき、主は仰せられた。
「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。
神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。
この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」(エゼキエル書37-7~9)
今から50億年以上前、人間は単なる細菌の一種だった。
しかしそれが、海をはいずり回るミミズのようなものになり、
さらには自由自在に遊泳する魚の如きものとなり、
遂には陸に上がり、手足を発達させ、爬虫類となった。
腹ばいで歩いていた存在が、徐々に手足を下にすえて、
四足歩行となり、手だけで森を飛び回る猿の如きものとなった。
地球の地質学上の激変もあってか、木から下りて二足歩行となり、
尻尾をひっこめて、手を自由自在に使うようになり、
脳を肥大化させ、毛むくじゃらの体毛を失い、
現在の如きスマートな(?)人間となった。
こうして40億年以上もかけて、人類はその形態を獲得するに至ったのである。
そして人類史が始まって6000年間、倫理を定め、規則を整え、
法制度を確立し、人権を認め、科学が飛躍的に前進し、
普通に生活していれば餓死しない、平和な世の中を得るに至った。
戦争と平和、戦中と戦後、様々な違いはあれども、
現代日本人はみな、肉体的には最も安楽な世界に生きている。
比較的善良なる両親の下に生まれ、その両親は我々を無為に殺害することなく、
必要最低限の教育は受け、知識をいかようにでも獲得できて、
妻をめとり、夫を得て、即座にテレビやネットなどで情報を得、
信教の自由はあり、居住及び職業選択の自由はあり、恋愛の自由もあり、
物質的・肉体的な意味で、すべての自由を手にするに至った。
しかし、その中に、息はなかった。
生まれたきたことの意味をしみじみと感謝し、
日々喜びもって生きることのできる人間は、果たして幾人いるか?
すなわち、本当に「生きている」人間は、この広い世界にどれだけいるか?
本当に精神的自由を獲得した人間は、果たして幾人いるか?
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ伝1-3・4)
「永遠のいのちとは、彼が唯一の真の神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ伝17-3)
(神の恩恵により)イエス・キリストを知るまで、
人間は死人の如きものである。
いのちが何であるか、真の神が誰であるか、
この世の生が何であるかを知らない、「生ける屍」である。
イエス・キリストを知った時、人は本当の意味で、
この世の生を始めることができる。
キリストなき人類進化も社会進歩も文化向上も教育改革も、
実のない幻想の産物に過ぎない。
わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。
(エゼキエル書37-14)
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いいですね。
いっつもすっきり、ばっさり切ってくださるので、小気味良いです。
これからも、ますますその調子でバッサバッサとみことばを用いて切リまくってください。
応援してます。