遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

井上靖詩論のための備忘メモ          

2017-12-23 | 近・現代詩人論
        

(1)
 北陸のこの地にみぞれが降りだす十一月の頃になると、きまって井上靖がはじめて書いたという詩のことが思い出される。井上が高校二年のとき(金澤の旧制第四高等学校時代)のこと。室生犀星の詩集『鶴』を読んで、すごく感動し、自分も詩を書こうとおもいたって書いた詩を当時新聞の紹介でみた『日本海詩人』という詩誌のもとをたずねる。昭和四年(一九二九)のことであった。井上文学の出発はこの一編の詩からはじまったのだ。(本人も著書の中で述懐している。)
 『日本海詩人』とは、石動町(現、小矢部市)に住む大村正次(明治二十九年~昭和四十九年)が主宰する雑誌であった。発行期間は短かったが大変に、充実した詩誌であった。大村は石動町に住んでいて、中学教師のかたわら詩誌「日本海詩人」を主宰し、地方の詩運動の推進者として活躍していた。そのときの井上の作品「冬の来る日に」は井上泰のペンネームで翌年四月に「日本海詩人」に掲載された。この日の出来事が、のちの第四詩集に「青春」と題しておさめられている。
その詩はつぎのようにはじまっている。

詩を書いた一枚の原稿用紙を懐にして、私は田舎の中
   学の教師をしている詩人のもとを訊ねて行った。夕食
   のご馳走になり、その家を辞すと、戸口は吹雪いていた
   両側の人家が固く表戸をおろしている通りを、私はマン
   トを頭からかぶって駅へと急いだ。待合室にはいると、
   そこに居た角巻の女と二人で、ストーブに寄って、終列
   車を待った。石動という駅であった。

この詩については、後半部分も含めて後ほどふれることにして、まずは大村について記しておきたい。大村はこの詩誌の発行をつうじて、埴野吉郎、方等みゆき、久湊信一、宮崎健三らを育てたと同時に井上靖の詩的出発をも促したことになる。(埴野、宮崎両氏は、私の若いころにおつきあいいただいた詩
人として、忘れられない方々である。)さらには大村正次の詩活動についてしらべると、大正四年、師範在学中に室生犀星が主宰した「卓上噴水」に鳳太郎の筆名で詩を発表。その後は「サラマンダ」や「沙羅樹」の同人詩に拠り、やがて「日本海詩人」に加わり、昭和三年の秋に上梓した詩集『春を呼ぶ朝』で反響を呼んだが、数年後には挫折し、惜しくも詩筆を断っている。
ここで、井上靖の作品「青春」の後半部分にふれるまえに、もうすこし先に述べた埴野吉郎と宮崎健三についての紹介を、稗田菫平氏の刮目すべ著書『とやま文学の森』を参考に書き写しておきたい。
埴野吉郎(明治四十一年~昭和五十七年)は、七年に『緑の尖兵』を上梓。稗田氏は「この詩集は圧縮された表現の中に、高潔できびしい生命感を盛り込んで、昭和初頭における県詩壇の最も注目すべき詩集」であると述べている。

心に響く今日の名言-高村光太郎

2017-12-23 | 心に響く今日の名言
「感ずる心がなければ言葉は符牒にすぎない。路傍の瓦礫の中から黄金をひろい出すというよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であった事を見破る者は詩人である。」
(高村光太郎『緑色の太陽』248より)