遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡(60)

2017-12-03 | 昭和歌謡曲の軌跡
浜村美智子の〈ディーォ〉のカリプソが一斉を風靡した。それ以前、昭和30年マンボ・ブームが起こっていたが、このカリプソの爆発的流行は、あたらしいリズムを求めて奔走する光景を音楽界にもたらし、チャチャチャ、ボサノバ、ツイスト、スクスク、どどんぱ、等々起こっては消えていく行く流行現象を生み出した。

34年11月9日にラジオ東京の「東京ダイヤル」でマダム・キラーの異名をもっていたDJの竹脇昌作(無我の父)が、自宅の物置で首吊り自殺をとげ、49歳の短い生涯を終えたのは、きわめて印象的な事件であった。

昭和33年もう一つのブームはオーストラリアで考案されアメリカ経由で日本に入ってきたフラフープがある。この玩具は歌舞伎の「助六」や文楽の狂言にまで登場。
翌々35年にはだっこちゃんが登場、(メーカーが正式に登録したのがウインキー)
フラフープをヤりすぎた少女の死、と言うニュースが流れて一気に下火となる。
わずかの期間でで売り上げは550万個、約一億円であったという。
こうしたブーム現象の頂点にたったのが、ロカビリー旋風であった。

アメリカで50年代に流行したリズム&ブルースがロックンロールに移行し、これが日本の音楽シーンに昭和30年代に導入されると、日本ではそれまでカントリー&ウエスタンを得意として唄っていた歌手たちもロカビリーを手がけ、先前に紹介したジャズ喫茶を中心に、若者のの人気を集めていた。

ロカビリーとはロックとヒルビリーの混血音楽を意味し、エルヴィス・プレスリーのヴォーカル・スタイルから生まれたものである。

1966年1月28日、全米中継のCBSテレビ公開放送「どーシー・ショー」に初出演し、黒人のように激しいリズムとビートのきいたロックロールを、セクシーに腰を振りながらプレスリーはうたった。メロディがポップスを主流としたミュージック・シーンへの、それは異端児的挑戦とも云えた。だから、大人達は俗悪きわまるテレビの冗談とおもったが、若者達はその爆発的なパワーに魅せられて、髪形やファッションまで真似るようになる。

こうして14曲の全米第一位を含み124枚のシングルと100枚の越えるLPを送ったエルヴィス旋風の幕は切って落とされた。

「ハートブレーク・ホテル」「ハウンド・ドック」「ラブ・ミー・テンダー」「監獄ロック」「思い出の指輪」「アイ・ニード・ユー・ソー」「ワン・ナイト」「イッツ・ナウ・オブ・ネバー」「悲しき悪魔」「キス・ミー・キック」「ラヴ・レター」「インザ・ゲットー」等々のヒット曲は全世界の若者にアピールしていく。


60年代を制覇したザ・ビートルズは「僕はエルヴィスが目標で、彼以上のスターになりたかった」と告白している。コニーフランシスとともに50年代最高のシンガーに成長したエルヴィスは「燃える平原児」「ブルー・ハワイ」「ガール!ガール!ガール!」「夢の渚」「アカプルコの海」「ラスベガス万歳」「青春カーニバル」「ハレム万歳」「カリフォルニア万歳」等々61年~68年にかけて次々と映画に出演した。また、NBCテレビの特別番組「エルヴヴィス・プレスリー・スペシャル」は72%という驚異的視聴率を記録した。

このプレスリーの影響の日本的形態として出現したのが「ウエスタン・カーニバル」であった。ここからロカビリー旋風がまきおこる。

心に残る今日の名言-夏目漱石

2017-12-03 | 心に響く今日の名言
「雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って漂うて居る内にかたちはきえてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかもしれない。」
(夏目漱石『草枕』10より)