先の詩では、中国、初唐の詩人駱賓王の反乱に失敗して行方不明であることが、さりげなく詩行にまぎれこんでいて、まさか駱賓王の長編「帝京編」をこのとき意図していたわけではないと思うが、上村詩の「しめった文明」批判が「チッチキ、チッチキ」やまがらの鳴き声にのって読者にやわらかく響く。漢字とひらがなの絶妙な使い分けが視覚と聴覚をやわらかく刺激する。この詩の底流に西脇順三郎の「旅人かえらず」を重ねて見ることは容易だろうが、それはスタイルの上だけで意図する内容はまったく正反対であるのではないだろうか。上村詩には自らの身体の衰弱を、言葉で克服するというのではなく、自然を通じて永遠というもうひとつの命につながる。といった言葉の切ない延命装置が感じられる。まさに言葉は生命なのだ。
冷たい日本の尾てい骨に
ぶらさがった自在鍋を男根でたたきながら
ジョン・ケージーの鼓膜について
思いをめぐらしているかもしれない
東京では人類の尻尾がみえぬだろう
ふるさとのかすむ野へかえってこい (「野がかすむころ・6」最終行)
そういえば荀子の性悪説は
土を破って出る筍のようなものだ
老子をてのひらにのせて
屈に見るありて信にみるなし
といったというが (「野がかすむころ・7」部分)
この詩が書かれた六十年代の潮流に、上村さんといえどもその影響を受けている。
その先の世代である五十年代の詩の歴史的役割と見られている「感受性そのものの祝祭としての詩」の代表的な詩人である大岡信が六十年代の詩の特徴をかつてつぎのように総括してみせた。
「風俗現象としてきわめて私的なモチーフとを強引に結合し日常と非日常とを暴力的に言葉のなかで 混合し、具体的な喚起力に富んだ、そしてまた夢あるいは悪夢の意外性にたえず惹かれている私的 世界に親近する、といった特徴がある」
上村詩にもまさに私的なモチーフを日常と非日常との強引な結合ということではそのとおりかもしれない。しかも夢夢の意外性にひかれた私的世界への接近も、まさにその通りというべきかもしれない。むろん、そのような総括されたことばでこの上村詩の総てをいいつくしたたことにはならない。同時代の霧の彼方から「時代は感受性に運命をもたらす」という堀川正美のことばが私の耳元でかすかに響いている。ふり向けば、萍少年が佇んだのは現実にはみえないばかりか、たたずむはずの萍少年もすでに記憶のなか住人であり、さらに東京で暮らした頃の萍少年もはるかに現実の野から疎外されている。
この、二重三重の疎外感から逃れるためにはあらゆる過去を断ち切るか目をつぶって忘れるしかない。
現実直視によって自らの幻想と化すことから逃れることが、詩を書きつづけることではなかったか。
だから、
眼を閉じてはいけない。閉じれば過去が一層はっきりみえてくる。
しかり、
明日の光を見続ける。一日でも、一分でも、一秒でも長く生き続けるために。過去をふり向き懐古する時間などない。得意なカメラのレンズを通して現世のすべてを写し取るようにのぞき込みながら、反転するこの世の影像に限りない命を焼き付けるためにも。
「幻の皮をめくる思いたちきれず」(20)」
「人生とは転んだら起きねばならぬものか」(22)
(以下続く)
冷たい日本の尾てい骨に
ぶらさがった自在鍋を男根でたたきながら
ジョン・ケージーの鼓膜について
思いをめぐらしているかもしれない
東京では人類の尻尾がみえぬだろう
ふるさとのかすむ野へかえってこい (「野がかすむころ・6」最終行)
そういえば荀子の性悪説は
土を破って出る筍のようなものだ
老子をてのひらにのせて
屈に見るありて信にみるなし
といったというが (「野がかすむころ・7」部分)
この詩が書かれた六十年代の潮流に、上村さんといえどもその影響を受けている。
その先の世代である五十年代の詩の歴史的役割と見られている「感受性そのものの祝祭としての詩」の代表的な詩人である大岡信が六十年代の詩の特徴をかつてつぎのように総括してみせた。
「風俗現象としてきわめて私的なモチーフとを強引に結合し日常と非日常とを暴力的に言葉のなかで 混合し、具体的な喚起力に富んだ、そしてまた夢あるいは悪夢の意外性にたえず惹かれている私的 世界に親近する、といった特徴がある」
上村詩にもまさに私的なモチーフを日常と非日常との強引な結合ということではそのとおりかもしれない。しかも夢夢の意外性にひかれた私的世界への接近も、まさにその通りというべきかもしれない。むろん、そのような総括されたことばでこの上村詩の総てをいいつくしたたことにはならない。同時代の霧の彼方から「時代は感受性に運命をもたらす」という堀川正美のことばが私の耳元でかすかに響いている。ふり向けば、萍少年が佇んだのは現実にはみえないばかりか、たたずむはずの萍少年もすでに記憶のなか住人であり、さらに東京で暮らした頃の萍少年もはるかに現実の野から疎外されている。
この、二重三重の疎外感から逃れるためにはあらゆる過去を断ち切るか目をつぶって忘れるしかない。
現実直視によって自らの幻想と化すことから逃れることが、詩を書きつづけることではなかったか。
だから、
眼を閉じてはいけない。閉じれば過去が一層はっきりみえてくる。
しかり、
明日の光を見続ける。一日でも、一分でも、一秒でも長く生き続けるために。過去をふり向き懐古する時間などない。得意なカメラのレンズを通して現世のすべてを写し取るようにのぞき込みながら、反転するこの世の影像に限りない命を焼き付けるためにも。
「幻の皮をめくる思いたちきれず」(20)」
「人生とは転んだら起きねばならぬものか」(22)
(以下続く)
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