遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡(15)日本調歌謡

2017-10-10 | 昭和歌謡曲の軌跡
■日本調歌謡

日本調と言われる日本独自のジャンルである。昭和8年に「島の娘」の小唄勝太郎、「天竜下れば」の市丸、「ほんとにそうなら」の赤坂小梅の、いわゆる鶯芸者が、ほとんど同時期にデビューした。そしてそれぞれがヒットを放ったので、レコード会社は競って芸者歌手を求め、〆香、美ち奴、豆地よ、君英、音丸などがつぎつぎとデビュー。
またレコード初期から活躍している藤本二三吉、喜代三とともに日本調歌謡が流行歌の世界を席巻しました。これはまた、和洋合奏を流行歌の世界に導入したことにあります。

 

海軍軍楽隊を除隊後、家業をついだり文字鉄道局に就職したりしていた大村能章は、対象15年に上京、松竹のオーケストラに入り、無声映画の伴奏などをしていました。演奏の合間に作曲をしていましたが、昭和10年、東海林太郎の「旅笠道中」が大ヒットして一躍脚光を編みます。大村能章は生涯に8000曲を越える多くの作品を世に送り〝能章メロディ〟と呼ばれますが、その特質は「野崎小唄」の合奏にある三味線の連弾きに典型的に見られるように、和洋合奏を流行歌の世界に導入したことにあります。

和洋合奏は大正13年頃から無声映画の伴奏として出現しています。
それ以前は洋画には洋楽器、邦画には歌舞伎の下座音楽的なものが使われたいました。ところが、マキノ時代劇(現在、津川雅彦が叔父の時代劇を受け継ごうとしていますが)が、阪東妻三郎とくんで「先決の手形」「血桜」「雲母坂」「雄呂血」等々の作品を世に送り、人々を熱狂させた昭和13年頃から昭和初頭に掛けて、大河内伝次郎、月形龍之介、市川右太衛門、片岡千恵蔵、林長二郎(後の長谷川一夫)らが続々とスクリーンにデビュー、チャンバラ映画は全盛期を迎えます。

〈昨日チャンバラ 今日エロ・レビュー モダン浅草 ナンセンス〉(西条八十作詞、中山晋平作曲「真東京行進曲」昭和5年11月発売)とうたにまで唄われるようになります。
これらの剣劇シーンはリアリスティックなスピードを身上としたものであったから、従来の下座音楽では処理できず、和洋合奏が生まれたのでした。やがてトーキー時代を迎えるまでのみじかいあいだですが。

こうした中で、芸者歌手を背景として、大村能章は主に東海林太郎と組んで日本調歌謡にひとつの定型をつくりました。この独自の日本メロディはさまざまの工夫をこらしながら現在にまで続いています。(次はナンセンス歌謡に移ります。)
(つづく)

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