遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

無名の詩人舟川栄次郎論(5)

2009-12-28 | 富山昭和詩史の流れの中で
6)『夢の橋』と遺稿集
 戦後、昭和二七年に随筆集『障子と鶴』と、童謡的な詩で構成された『夢の橋』を発刊するが、その十年後に逝去している。享年五十八歳であった。さらに十数年たって「水曜会」のメンバーによって舟川栄次郎遺稿集が発刊される。
 『障子と鶴』は棟方志功の版画が数枚添えられていて、用紙は旧泊町近在南保村蛭谷
の和紙である。巻末記には「生前なにひとつ報いることの出来なかった、父母の霊に捧げる。とあり「私の同人誌「白萍」から抜いた者で、読み返すとその時その時の心のすがたをみるよううで、郷愁に似た思いにかられる。ー略ー(昭和二十七年弥生)」十七編の文章をまとめた六十六頁の小型の随筆集である。

 このように舟川の著書をみていくと、戦前の詩集『潮騒』が舟川栄次郎の頂点と見ることもできる。と同時に、戦後は詩や散文や童謡詩の世界に自らを追い込んでいったようにもみえる。彼の周辺から若い詩人は生まれてこなかったのは単に地方という北陸の文学的土壌のせいだろうか。彼の居住に集まった人々の中からなぜ彼を越えるような詩を書く人々が生まれなかったのか。舟川は自らの詩にだけ心を削って、必死で書き続けることが地域の文化的向上という今では古い言葉だが、そんな名目にそって仲間と一緒に同人誌をつくりつづけたのであったか。。戦後、舟川の後から誰ひとりとして詩の書き手が現れないと云うことが不思議に思えてならない。
  戦後まもなく舟川の住んでいた泊町(現、朝日町)の近くの魚津市には高島順吾の「骨の火」や「エーミヤ」といった当時は前衛詩誌といわれた詩の同人誌が活況を呈していたはずだし、そのもう少し先の滑川市では高島高の「文学組織」があった。いわゆる県東部にあって同じく詩を書く者が全く未知の詩人として存在していたと言うことが、現在ではどうも考えにくいことだが、翻って戦後間もない頃は、同じ富山県に住みながらも他市町村との情報のない日常の暮らしが存在していたのだろうか。それともそれは詩を書く者の矜持とでも云うべきもであったか。予想も出来ないことだ。

 昭和三十年、舟川栄次郎が五十歳のとき『夢の橋』を上梓したのだが、かつての詩友であった源氏鶏太が、さっそく書評を北日本新聞(昭30・7・22付)に寄せている。

「詩集『夢の橋』には、いい詩や文章が、たくさんのっている。何れもが、東洋的であり、かつ北国的である。二十数年前、お互いに詩を書きハジメたころから、それが舟川君の特質であった。(略)舟川君と私は三十年に近い友人関係にあり、私は彼の業績については、たいてい知っているつもりであった。作品をそのつど読んでいなくても、彼が、どの程度の詩人であるか知っているつもりであった。しかしこんど『夢の橋』を読んで、私の予想をはるかに越えていることを痛感しないではいられなかった。」と賛辞を送っている。後に源氏鶏太の富山訪問に合わせて『夢の橋』出版の集いが開催され、地域の詩友や著名人で祝ったと記録されている。
 この詩集の編集後記に、舟川栄次郎は「北陸の一隅にあって、清貧と病躯と戦いながら」さらに「社会より汚れを去り、美しく住みよい世をつくらんと」不撓不屈の情熱を傾けた天稟の詩人であるとして、橘益永同人が紹介している。この文章から、体の丈夫でないこともわかり、それほど豊かな暮らしではなかったのかもしれないと、想像をめぐらすしかなかった。だが、詩人としての真の役割を担おうとしていた舟川栄次郎の一つの志がはっきり見えてきたようにおもえる。
 それは、この文章を書くために、舟川栄次郎が主宰した同人誌という詩神に魅入られたかのようなその生涯について、朝日町の図書館ですべての著書(詩集と同人誌)をかり出して呆然と眺めていた。あのときの高揚感はなんだったのか。(もはや見ることのかなわない詩人の魂に呼びばれたかもしれないあの夏の日よ。詩友の寺崎弘文君が同行してくれた。図書館では貸し出しは禁止ということで、主要な作品のすべてのコピーをお願いした日のことを思い出している。)
 いま、これらの詩集と詩人に対する心からの賛辞を読み返すと、当時の詩人というものの資質や役割と言ったイメージは、現在も根強く地域の中に息づいている。それは詩人にとって幸いなことであるか、そうではない邪魔なだけかは、はかりしれない。しかし世間的なまなざしによる近代詩人像に縛られた舟川栄次郎は、戦後さらに近代詩から現代詩(戦後詩)へと踏み込むことを、どこかで断念したのでなかったかと思われてしかたがない。
そのことは舟川にとって決して不名誉なことではない。それどころか町内のあらゆる人々から慕われていたことの方が遙かに人間として充実していたのだと思う。地方にしっかり根付きながら同人誌「うきぐさ」という詩神の存在にすべてを捧げた詩人の姿は、尊く思えてならないのだ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿