遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲(47)戦後編・新人③

2008-10-18 | 富山昭和詩史の流れの中で
〝岡ッパル〟の愛唱で戦後の一時期に全盛を極めた岡晴夫は、流しモノでは「男の涙」、民謡調歌謡では「アンコ可愛や」、得意なマドロスものでは「港に赤い灯がともる」など広範囲な分野でヒット曲を連発し、マドロスもの港ものでも、高倉敏の「恋のマドロス」、鶴田六郎の「港の恋歌」、田端義夫の「シリーズもの「かよい船」「玄海ブルース」「海のジプシー」のような作品が22年から25年に懸けて次々とヒットし、また長津義司が田端義夫のあたらしい面を引き出した「ふるさとの灯台」、柴田つる子の代表作「港に灯のともる頃」二葉あき子の「霧の港のノスタルジア」のように従来の表現の枠をひろげた作品も生まれました。

童謡歌手から流行歌手に移行した菅原都々子は、21年「片割れ月」で独自の境地を開拓し26年大映映画主題歌としてつくられた哀調のワルツ「江ノ島悲歌」で出その人気を確定しました。
戦時中、テイチクは日本と韓国のとのヒット曲交換を行っていたが、そのおりに紹介され、菅原都々子自身の熱望によりレコード化したのが「連絡船の唄」でありました。
アクの強いビブラートを誇張した都々子節は、一種の頽廃的官能を内包しており、岡晴夫に続く、まさに戦後を象徴する唱法として人々に強く支持されたのです。

「月がとっても青いから」(昭和30年)を始め「憧れは馬車に乗って」「憧れの住む町」のような青春の面でもビッグヒットをはなったが、特に「江ノ島悲歌」「連絡船の唄」のような大ヒットが一連の〝悲恋もの〟と呼ばれる菅原都々子独特の世界を形成した。(彼女は今年(2008年)で第一線を退くと言う宣言をNHKの番具の中で発表している)

こうした菅原都々子の〝悲恋もの〟の背景には、明らかに朝鮮戦争があります。
この戦争は日本に藻大きな影響をあたえた。その政治的な意味にまではふれないが、経済界にとってはまさに「神風」であった。こうした状況下で、社会相を写す流行歌的表現があった。「君と行くハワイ航路」(灰田勝彦・暁テル子)、「ハワイ航空便」(宇都美清)、「ミネソタの卵売り」(暁テル子)と言ったアメリカ憧憬の流行歌がつくられました。
その典型ともいえるのが、池真理子の「ボタンとリボン」です。
ボブ・ホープとジェーン・ラッセル主演の「腰抜け二丁拳銃」の日本公開は24年だが、その主題歌を池真理子は早くから注目、レコード発売は翌年8月であったが、子供にまで愛唱される大ヒットとなりました。

この成功が奈良光枝の「赤い靴のタンゴ」につながって居ることは想像できます。
コロムビアの創立25周年記念事業の一環としての、全国歌謡コンクールの課題曲八曲の中のひとつとして制作された作品で、西条八十・古賀政男コンビが作詞作曲にあたり、「青い山脈」とともに奈良光枝の代表的レパートリーとなりました。その原点には映画「赤い靴」イギリス映画でバレリーナーの悲恋ものが下敷きとなっているのです。

さらに、特需景気が歌謡史上逸することが出来ないのが「トンコ節」です。
もともと「炭坑節」にヒントをえて、「タンコー」を「トンコ」にかえてあたらしいお座敷ソングをねらい、西条八十・古賀政男のコンビにより作られた〝ナンセンス歌謡〟です。

昭和22年の第22回コロムビア新人歌手に合格した久保幸江を楠木繁夫に配して24年1月に発売された当時は全く話題にならなかった。しかし、先述の特需景気により九州地方からじわじわ話題になりこの唄を全国ヒットにもちあげた。
久保幸江は「トンコ娘」とよばれて、コロムビアからテイチクへ移籍していた楠木繁夫に変えて加藤雅夫を配して再吹き込みをおこなった。
ただ、日本民間放送連盟は放送禁歌に指定(歌詞が卑猥だとして)がそのような世論の良識派を嘲笑するかのように大ヒットとなる。その後も「初恋トンコ娘」という映画が作られ、また「ヤットン節」が作られ、翌27年神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」に代表される一連のお座敷歌謡へとつながっていきます。




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