遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

中原中也ノート6

2019-07-26 | 近・現代詩人論
 雨がふるぞえー病棟挽歌

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

  俺はかうして、病院に、
  しがねえ暮らしをしては、ゐる。

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。
  らんたら、らららら、らららら、ら
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

  人の、声さえ、もうしない。
  まくらくらの、冬の、宵。
  隣の、牛も、もう寝たか。
  ちつとも、藁のさ、音もせぬ。

  と、何号かの病室で、
  硝子戸、開ける、音が、する。
  空気を、換へると、いふぢやんか。
  それとも、庭でも、見るぢやんか。

  いや、そんなこと、分るけえ。  
  いづれ、侘しい、患者の、こと、
  ただ、気まぐれと、いはば気まぐれ、
  庭でも、見ると、いはばいふまで。

  たんたら、らららら、雨が、降る。
  たんたら、らららら、雨が、降る。
  牛も、寝たよな、病院の、宵、
  たんたら、らららら、雨が、降る。 (了)

中也はおそらく狂気と狂気でないものの境界線を彷徨いつつあったとみるべきだろうか。愛児の文也の死後に、衝撃のあまり神経衰弱に陥ったということだが、もしかすると中也の深い悲しみは文也のなかに入り込んで同一化してしまったようにみえないだろうか。生きて帰らぬ我が子と同一化したその目でこの世を見つめると言う悲しみの局限化で「たんたら、らららら、」とオノマトペは意味の違った音をひろい上げ特別の感情をあらわしている。悲しいような切ないようなあるいはなぜかうれしくはずむような微妙な心の振動。精神病棟でのことばにならない感情は中也にしか表現できないものであるかもしれない。わずか三十年でこの世を去った中也は、世間がどう評価を下すかと言うことの前に肉親への愛の深さを甘受することの方にこそ大切な詩作の根拠があるように思える。    (未)

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