鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺

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栗村哲象博士著「通幻・仙英両禅師顕彰碑物語」

2013-01-07 10:14:30 | 【永明寺合併寺 香林寺】
  曹洞宗の高名な「通幻禅師」・「仙英禅師」は鳥取県岩美町浦富の出身で、その生誕地は何れも筆者の近所にある。「通幻禅師」(1322-1391年)は生誕と同時に母を、そしてまた幼時に父を失い、苦学立行、遂に大本山總持寺第五世となられた高僧で、鳥取市景福寺を始め多くの寺を開創し、通幻派の派祖と仰がれ曹洞宗最多の寺院を擁したとされている。
  また「仙英禅師」(1794-1864年)は鳥取市景福寺(第三十三世住職)、次いで滋賀県 清凉寺の住持となり、彦根藩主 井伊直弼公の参禅師として公とは親子にも似た師弟関係があり、後の大老 井伊直弼公に、日本を欧米列強の侵略から守るには開国より他に道無し、との決死的決断をなさしめた近世稀に見る傑僧であった。
  両禅師の顕彰碑建立が計画されたのは、大東亜戦争の最中、ミッドウェー沖の大敗戦、ガダルカナル島を巡る敗戦に次ぐ敗戦が報じられていた昭和十七年の晩秋であった。計画立案は、長年の小学・中等の校長・町村長(四期十六年)の勤めを終え、それを予てから退職後の仕事と予定した栗村嘉水(筆者の祖父1872-1944年)が進めた。
  その動機は勿論、郷土出身の両禅師の顕彰にあったが、祖父の在任中に満州事変・支那事変・大東亜戦争に際会、そのつど大勢の出征兵士を励まし送り出したが、無念にも英霊となって帰還した多数の兵士を弔う縁とすること、更に「仙英禅師」に因み大東亜戦争終結の英断を下す人物の一刻も早い出現を祈願することにあった。
  早速、祖父は鳥取市景福寺の方丈様(元 永明寺の方丈様の眞應天龍大和尚)の教示を仰ぎつつ、碑文の原案を作成し、碑文の完成は大本山總持寺に依頼、書は東京芝高輪 泉岳寺に依頼した。昭和十八年六月に畳三畳程もある、立派な碑文の原書が我が家に届き、奥座敷いっぱいに広げられて家族一同緊張して拝見したことをついこの間のように思い出す。祖父は早速 趣意書を作成、送って協賛を仰いだのは、澤田家本家の澤田虎蔵氏、浦富出身の兄弟大使として戦前より有名な澤田節蔵(ブラジル大使・後に初代東京外国語大学長)・澤田廉三(フランス大使・後に初代国連大使・日韓全面会談日本代表)の両氏、オックスフォード大出身の実業家の澤田退蔵氏、澤田御兄弟姉妹の方々をはじめ、澤田家一統の東大卒業後 米国の大学に留学、国際関係評論や世界の偉人伝作家として活躍した澤田謙氏等々国際的視野抜群の方々を主としていた。
  紙面の関係で年長の澤田節蔵先生(1884-1976年)についてのみ述べれば、氏は信念を貫き地位に恋々としない英傑とも言うべき外交官中の外交官で、昭和の初頭 米国で何百回も英語で講演し米国の日本人移民排斥等の非を訴え、また日本の国際連盟脱退に最後まで反対(ために「親英派」と目された)、更に日独伊三国同盟に最後まで反対、又 対米戦阻止の工作は勿論、終戦の斡旋をソ連に依頼するのは最も危険とし、依頼すべきはバチカンと強く主張。これらの判断は歴史的に見て全て正しく、又 反日運動の激しかったブラジルに左遷されながら、同国を見事に親日国に変革された等々、稀に見る我国外交官中の外交官であった。このような同郷の士による顕彰碑建立は時節柄、真に意義深いものと言うべきであったろう。昭和十八年夏、戦争は既に敗色漂い軍需物資以外の超重量物の輸送許可を得るのは極めて困難な状況の中、建碑用の巨大とも言うべき石材は瀬戸内の業者に発注された。ところが九月十日に鳥取大地震が発生、鉄道線路が広範囲に寸断、輸送中の石材は遂に行方不明、顕彰碑建立は事実上完全に頓挫。祖父は大変気落ちし戦争の行方を案じながら、半年後に無念の内に亡くなった。その後 日本は陸・海・空軍共々敗戦に次ぐ敗戦、遂に終戦。戦後は社会経済の大動乱、我が家にも戦争の直接間接の被害(戦没者三人)が出、生活苦のため顕彰碑のことなど長らく家人はもとより誰も考え及ばなかった。
  ところが昭和三十三年に至り、澤田廉三先生が国連大使等の大任を終えられ、暫し時間的余裕を得られた時、戦時中の通幻・仙英両禅師顕彰碑建立計画の顛末に想いを馳せられた。
  しかし前述の我が家にあるべきと思われていた碑文の所在が杳として不明となっていた(節蔵・廉三両先生を始め多額寄付者は生前には遂に未見)。止む無く廉三先生は新たに通幻・仙英両禅師顕彰碑建立を決意された。独自に先ず「佛洲仙英禅師之碑」の建立(昭和三十三年)を発起されこれに時の文化町長 石河大直氏が全面的に協力され、終に岩美中学校の裏山の峠に建立が実現した。次いで廉三先生は、通幻禅師の顕彰碑を計画されたがその矢先に、昭和四十五年惜しくも急逝された。その後、町の自治会が先生の遺志を継ぎ「母子愛之碑」として生誕地に昭和六十三年建立した。
  ところが其の直後、皮肉にもあれ程探しても見つからなかった碑文が予想もしなかった所の役場の倉庫から、不死身の如く出現、新聞等に大いに報じられた。碑文は一体何処をどうさ迷っていたのか、今もって不思議でならない。
  只、推測の域に過ぎないが、敗戦後、家人(病を得て除隊になっていた陸軍中尉の叔父)が我が家の行く末を案じ、死去(昭和二十五年)の直後に、大事なもの(碑文)で我が家に置いておけばどうなるか分からないからと言うことで、誰か見舞い客にでも、役場で保管を依頼したのはないか、としか考えられない。何故なら筆者を初めとするその他の家人は、この件について誰も、何も知らされていなかったからである。
  碑文の発見後、幸いにも早速、鳥取市景福寺から通幻禅師六百回忌の記念事業として、同碑文による顕彰碑建立の要請があり、筆者は勿論、快諾。平成二年四月、同寺の山門前に通幻禅師・仙英禅師の顕彰碑が、「追遠碑」として遂に半世紀ぶりに堂々建立されたのであった。祖父の想いが遂に現実のものとなった。祖父は地下でどんなに喜んだか知れない。景福寺には感謝してもしきれないところである。なお仙英禅師の生誕地には、最近町内会の集会所が建てられ「せんえい」と名付けられ、禅師は今に偲ばれている。今日、我が国が直面する戦後未曾有の難局の打開に、為政者に是非この碑にあやかって欲しいと願うのは筆者一人ではなかろう。最後に筆者の希望を述べさせて頂くならば、役場の倉庫(?)に表装され保管されているという同碑文は、永明寺に於いて保管され展示されたいものと思う。

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  以上の玉稿は、永明寺檀家の栗村哲象先生(鳥取大学名誉教授・農学博士)より賜りました。栗村先生がおおせのとおり、岩美町役場に保管されている「追遠碑」の碑文原書が永明寺で保管され、展示公開される日が訪れるように岩美町役場へ働きかけていきたいと思います。

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