goo blog サービス終了のお知らせ 

幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「埼玉の逆襲 『フツ―でそこそこ』埼玉的幸福論」谷村昌平著 "先ずは知ることから”

2020-01-20 01:38:08 | 本の紹介
・6世紀の埼玉古墳群(鴻巣から行田にかけて)辺りが武蔵野国の中心地

・1632年には、川越、岩槻、忍の三城のみ

・埼玉には中仙道と日光街道

・海なし、個性無し、郷土愛なし?
 県南部の人は郷土愛が低め(埼玉都民)

・埼玉県(浦和)と入間県(川越)
 入間県は群馬県と統合され熊谷県に県庁も熊谷へ、しかし旧武蔵国の地域は埼玉県へ。
 熊谷県は群馬県へ(群馬は一度熊谷県に)

・銀行設立は85番目(第八十五国利銀行)、40年後に武州銀行設立。

・朝ドラのご当地アンカーは80作目「つばさ」。最後の県

・町のキャッチフレーズ
 蕨市「江戸時代から続くウナギの味、和楽備茶漬けで町起こし!」
 日高市「昔ながらの醤油作り、神蔵が守り継ぐ築400年の古民家」
 ときがわ市「しいたけをあなたに」
 八潮市「白玉粉製造」

・当初「大宮駅」はなかった。
 上野、王子、浦和、上尾、鴻巣、熊谷の6
 東北線が引かれる時に大宮駅誕生

・新幹線反対抗争で勝ち取ったのが「埼京線」

・県庁位置をめぐる仁義なき争い
 岩槻に県庁が置かれる予定だった。
 旧岩槻藩士が他藩の人間に乗り込まれることに反対し、県庁の予定地であった香林寺の住職に圧力をかけ、これに身の危険を感じた県令の野村盛秀が岩槻への赴任を避けた。
 第二次世界大戦後の1948年県庁移転計画が具体化したおき、県会でわずかな差で浦和に屈します。

・明治維新、大宮、浦和あたりが「大宮県」として編成されました。中仙道の宿場町「大宮宿」として、氷川神社の門前町として栄えていた。その後、お隣の浦和宿や川越宿が名乗りを上げ県庁は浦和になり県名も「浦和県」に。
両者(大宮と浦和)のいがみ合いは現在も絶えることなく進行中。

・埼玉三大名前が出てくる人
 ・渋沢栄一
 ・塙保己一
 ・畠山重忠

・ダサいたまというのは東京、千葉(ちばらぎ)

・ベッドタウンの地の利で「若い県」への変貌

・意外や「農業県」埼玉

・県内生産、人口ともに全国5位!

・名物四天王
 ・草加せんべい
 ・狭山茶
 ・川越イモ
 ・深谷ネギ

・名所四天王
 ・「小江戸」川越
 ・夜祭 秩父
 ・ライン下り 長瀞
 ・埼玉古墳群

感想
埼玉県に住んで、30年になります。
郷里が18年、大阪周辺で7年、愛知岐阜で9年なので埼玉県が一番長くなりました。
でも埼玉県について知らないことが多かったです。

埼玉三大偉人となると、畠山重忠ではなく、荻野吟子さんになります。
荻野吟子さんは初めて正式な女性医者です。
当時は女性は医者の試験を受けられなかったのを、働きかけて医者の試験を受けられるように様々な努力をされました。
渡辺淳一著「花埋み」に詳しく書かれています。

三大偉人の記念館など場所を訪れました。
ずーっと埼玉に住んでいる人でも知らなかった人が多いです。

岩槻に県庁があったら、ずいぶんと変わっていたでしょうね。
当時の人に先を読む力がなかったために未来の発展の可能性を消しました。
鉄道を敷くときも反対したため発展が遅れた場所も多くあります。
ただ、どちらが良いかはわかりませんが。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。