幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「仕事力入門-プロと言われた人たちの生き方-」 ”神の手 福島孝徳と佐野公俊の対談”他

2015-02-28 01:51:32 | 本の紹介
常に前進 常に挑戦
 脳外科手術で神の手を持つと言われるお二人、福島孝徳(デューク大学教授)と佐野公俊(総合新川崎病院福院長)の対談記事がありました。お二人とも努力がすごく、お休みなしで働き、年間数百の手術をされています。常に新しい良い方法がないかとの工夫も続けながら。その中でも、福島先生の頭蓋底手術は8,500例、佐野先生の動脈瘤手術は3,400例にもなっています。
一に努力、二に努力、三に努力、すべて努力で、努力がもう90%だと。5回やって覚えられないなら、10回、それでもダメなら20回やりなさい。

医療社会学者 アーロン・アントノフスキーがナチスの強制収容所から生還した人たちの健康調査を継続的に行ったところ、一部の人たちはとても長生きしたことがわかりました。そして、その人たちに共通して3つの特性を持っていたと報告しています。
1)有意味感
 つらいこと、面白味を感じられないことに対しても、意味を見出せる感覚。
明日ガス室に送られるかもしれない中でも、自暴自棄にならずに、今日の労働に精を出せること。
我々のレベルに置き換えると、望まない部署に配属されても、「将来なんかの役に立つかもしれない」と思って前向きに取り組めることといえます。
2)全体把握感
 「ひとまず夜がくればこの過酷な労働も終わりだ」とか、「いつかは戦争が終わって開放されることもあるだろう」と思えること。先を見通す力、とも置き換えられるかもしれません。
 仕事に転じれば、例えば今週は忙しくて土日出勤になっても、「なんて忙しいんだ」と思うのではなく「今週は休めなかったけど、来週のこの辺は少し余裕ができるから、そこで休めるな」など、先を見て心の段取りが取れること。
3)経験的処理可能感
 最初はこんなことは絶対にできないと思っても、「そう言えばあの時もできないと思ったけど、以外とできたよな。今回もできるんじゃないかな」と思えること。
 初めて手掛ける仕事でも、過去の経験からこの程度まではできるはず、でもその先は未知のゾーンだと冷静に読める。
 ただ、その未知のゾーンも、あの時の仕事の経験を応用すればできるかなとか、あの人に手伝ってもらえそうだなと把握できる感覚です。

SOC(Sense of Coherence)の育て方~
 一般的にストレス対処能力を測る物差しとされていますが、簡単にいってしまえば、「きっとうまくいくに違いない」という情緒的余裕と経験に基づく楽観性ではないかと思います。
 基本的には人間のSOCは幼少期の経験が大きく影響します。要するに愛されて、共感されながら育ったかどうか、ということです。
 また、SOCを高めるには、他者に学ぶことも一つの方法です。例えば「なぜこんな仕事を自分がやらなければならないのか」と感じた時、「あの先輩も最初はそう感じた仕事が後になってすごく役立ったとか言っていたな」と思えることで気持ちの切り替えに繋がります。うつ病など、精神的な病に苦しんでいる人は、「自分はうつ病だ。自分は弱い。ダメだ・・・」、あるいは「なぜ自分ばかりこんな目に遭うのか」と自分にフォーカスを当てすぎて、周りが見えなくなっているのです。

人生の要諦は心術にあり;道場六三郎VS坂井宏行対談
 仕事場の人間関係でも一番大切なのは、人に好かれることで、もっと言えば「使われやすい人間になれ」ということだろう(道場)
 僕はいつもこう思っていた。人の二倍は働こう。人が三年かかって覚える仕事を、絶対に一年で身に付けようと(道場)
 どんな小さなものにも喜びと感謝を持つ心を忘れてはいけない(道場)
 当時の僕は、きょう与えられた仕事はきょう中にやってしまう、クリアする、明日に延ばさないということを常に心掛けていた(坂井)
 仕事に惚れたら軸はぶらすな。この軸がぶれると二流になってしまう(坂井)

師弟感奮興起物語;荒川博VS汪貞治対談
 習い方が上手いとは、習う素直さがある人だ(荒川)
 教える人間というのはね、ある意味では弟子に尊敬されるぐらいの努力をしてないといかん。それぐらいの努力をしないと誰もついてきてくれないよ(荒川)
 よく「人間だからミスはするもんだお」と言う人がいますが、初めからそう思ってやる人は、必ずミスをするんです。基本的にはプロというには、ミスをしてはいけないんですよ(王)
 我々教わる側からしたら、その人のことを信じて、やる。信じてついていく。だから教える側は、相手に「信じさせる」ということが大切でしょうね(王)

感想;
その道のプロは、並大抵でない努力をしてきているということが皆さんに共通していました。
才能があるないよりも、まずそれだけの努力をしたかどうか。
実績を残している人の言葉には重みを感じました。
”言葉は誰の口から発せられたかによって重みが変わる”






 


「ビクトール・フランクル22の言葉 生きる意味」 諸富祥彦著 ”夜と霧”

2015-02-27 02:37:49 | 本の紹介
1)ひたひたと押し寄せてくる慢性的な空虚感から目を逸らしてはならない
 ⇒空虚感を感じたらそれを考えることが重要。それは何かを教えてくれているサイン
2)幸せは、求めれば求めるほど逃げていってしまう
 ⇒幸せになりたいと幸せを追求しても幸せになれない。何かに熱中する、誰かのために何かをする。そうしていると幸せを実感する。
3)人間の本質は「自己超越性」 すなわち「我を忘れて」誰かや何かに関わっていくことにある
 ⇒”亡己利他”と通じる。己を亡くし、誰かのために行動する。
4)苦悩そのものが問題なのではない、「何のために」苦悩するのかの叫びに答えのないのが問題なのである
5)あなたの内側を見つめるのをやめてください。大切なのは、あなたの心の中に潜んでいるものではなくて。「未来であなたをまっている」ものです
 ⇒内側を見つめすぎる=心配し過ぎる ことは自分を苦しめるだけの場合がある。それよりもこれからできることに目を向ける。
6)人生の価値は、たとえ一瞬でも「精神的な高み」に昇ることができたかで決まる
 ⇒「創造価値」「体験価値」「態度価値」がある。
7)愛は、人間の実存が高く昇りうる最高のものである
8)あなたは「苦悩する人間」を「愛する人間」に変えてくれました
 ⇒ヴィクトル・フランクルが亡くなった時に、妻エリーに伝えたメッセージ
  ナチスの強制収容所で妻を亡くし、失意の状況にいた(苦悩する状態)。そんなフランクルに愛を与えてくれた。
9)人生は、暗闇の中で演じられている一つのステージのようなもの
 ⇒希望という光を自ら見出すことが必要
10)過去の「思い出」は、何にも替え難い貴重な財産である。「生き抜かれた過去」は、時間の座標軸に永遠に刻み続けられる
11)人生の意味を疑うのは、その人の高い精神性の証である
12)あなたがどれほど人生に絶望しても、人生があなたに絶望することは決してありません
 ⇒どんな状況におかれても、価値を見出すことができる。
13)人間は、強制収容所のような極限状態に置かれると、その人の精神性によって、天使と悪魔に分かれて行く
 ⇒ナチスに協力するユダヤ人もいたし、自分が生きるだけで精一杯の状況でも仲間のことを助ける人もいた。
14)あなたを待っている「何か」がある。あなたを待っている「誰か」がいる
 ⇒信じること。信じているとそれに出会う。
15)仕事の価値はその大小で決まらない。心を込めて取り組めば、今の仕事が天職に「なる」
16)たとえ一瞬でもいい。どれほど深く、また高い体験をしたかが、人生の価値を決める
17)「変えられない運命」に対してどのような態度をとるかで、人生の価値は決まる
18)人間が人生の意味を問うのに先立って、人生の方から人間に「問い」が発せられて来ている
19)「自己中心」「幸福中心」の生き方から、「人生の呼びかけ」に応える生き方、「意味と使命中心」の生き方へと転換せよ
20)失われた時間、失われた機会は、二度と戻ってくることがありません。人生で最も貴重な財産は「時間」なのです
21)人生を意味あるものに変えるのに遅すぎることは決してありません。たとえもしあなたが。明日死刑になる殺人犯だとしても・・・
22)悩んで悩んで悩み抜け。苦しんで苦しんで苦しみ抜け。絶望の果てにこそ、暗闇の中に一条の希望の光が届けられてくるのだから

あるカウンセラーが、老いて間もなく亡くなった方のカウンセリングをしていた時のことです。
おばあさんは「もう人生は終わりだ。こんなヨボヨボになってしまって、私なんかもう何の価値もない」と言うわけです。
これに対して「あなたの最高の思い出は何ですか。あなたが一番幸福だったときのことを教えてください」とカウンセラーは尋ねます。
おばあさんは語り始めました。「私の人生の最高の思い出は・・・私は音楽の教師でした。ある音楽会で、私が教えた子供たちとイメージとおりに曲を演奏することができました。あのときが、私の教師人生で最高の瞬間でした。ああ、あれももう、過去のことです・・・」
するとカウンセラーは、「何をおっしゃるのですか。いまでもあなたは教師です。あなたの人生の本質は教師のままなのです。いまおっしゃった音楽会のシーン、その最高の思い出こそ、あなたの人生の一番のエッセンスが詰まった瞬間です。その瞬間がどれだけ素晴らしかったかによって、あなたの人生全体が素晴らしいものになったんですよ」
おばあさんはとても幸福な表情に包まれながら、安らかに自分の死を迎えることができたのだそうです。

ロゴセラピー(ヴィクトル・フランクル)についてのエッセイ
ロゴセラピー(ヴィクトル・フランクル「夜と霧」)

「愛があるなら叱りなさい」 井村雅代著 ”叱り方にも工夫が必要”

2015-02-26 02:06:13 | 本の紹介
叱るのは「その場で即」が大原則
 過去のことを持ちだしたりしない。今起きたことに限定して叱る。
叱る時は全員の前で筋を通す。
 チームを相手にしている場合は、よほどのことがない限り、みんながいるところで、しかも全員にはっきろと聞こえるように叱る。同じミスを犯したAとBという二人の選手に対して矛盾すようなことを言ったら、彼女たちは混乱し、私に対する信頼も失くしてしまいかねない。
性格に合わせて、叱り方にも強弱がいる
 叱っていい人とほめたほうがいい人という色分けは、いっさいしていない。それも大切な鉄則。その鉄則を破ったら、メンバー一人ひとりの間に不信感が広まり、チームはたちまち統一を保てなくなってしまう。叱り方にはある程度、個々の性格を考慮して「さじ加減」をしている。

強い心、感動する心を育てたい。
心をひとつにするために。
 過去の成功にしがみつかず、新しい何かに挑戦する。レベルは中間でなく、トップに合わせる。
人の上に立つからには。
 自分がわからないことははっきりとわからないと言って次回までに調べる。苦しい時は一緒にいてあげる。

感想;
上達させたい。一人ひとりへの愛情を感じました。それがあるから、また選手もそれを感じるから付いて行くのでしょう。
叱られても泣かないようになるのだそうです。泣くと体力を消耗するだけと意識して行ったそうです。
泣くなら、そのエネルギーを練習に費やそうとするのだそうです。



「東京ローズ」 ドウス昌代著 "反逆罪の汚名を着せられて”

2015-02-25 00:02:08 | 本の紹介
マッカーサーが厚木に到着した時、従軍記者も同行していました。記者が日本でインタビューしたい人物が3人いました。日本の責任者の天皇陛下、戦争を開始した責任者東条英機、そしてもう一人が東京ローズでした。

東京ローズは、日本軍が太平洋戦争中におこなった連合国側向けプロパガンダ放送の女性アナウンサーに、アメリカ軍将兵がつけた愛称(ウィキペディア)。複数の女性が担当したと言われています。

アイバ戸栗ダキノさんは日系二世として米国で生まれ、アメリカの市民権を得ていました。母の妹の体調が悪いので母はお見
舞いに行きたかったが、母自身も体調が悪く、娘のアイバさんが母に代わって日本に行きました。訪問している間に日米開戦になり、アイバさんは米国に帰れなくなりました。何か仕事をしないといけないとのことで情報を集めるモニター施設に職を得ました。その後あるきっかけで、プロパガンダ放送のアナウンサーになりました。東京ローズの一人になっていました。

従軍記者は何とか東京ローズを探そうとして、アイバさんにインタビューをすることができました。ところが、その記事が米国では反逆者のタイトルで記事で報道されました。アイバさんは米国籍を持っていたためでした。米国に強制帰国させられ裁判で有罪、禁固10年が決定しました。実際は米兵が聞いていた東京ローズの声とは一致していなかったが、スケープゴゴードにされてしまった。模範囚として6年半で出所したがそれ沈黙してくらしていました。

米国での日本人強制収容が間違いたったの見直しがあり、東京ローズの裁判も間違いだったと判断され名誉が回復しました。当初は反逆者の汚名を着せられたアイバ・戸栗であったが、晩年の2006年1月には、「困難な時も米国籍を捨てようとしなかった“愛国的市民”」として退役軍人会に表彰され、その8か月後に90歳で亡くなりました。

感想;
人生はどんなきっかけで道が変わってしまうかわかりません。罪のないのに刑務所に入れられることもある。
戦争は、多くの人の生命を奪い、人生を狂わしてしまう。人はなぜ戦争を繰り返してしまうのでしょう。

「なかったことにしたくなかった 実父から性虐待を受けた私の告白」 東小雪著 LGBTご存知ですか?

2015-02-24 01:19:11 | 本の紹介
東小雪さんは元タカラジェンヌです。初舞台の時に、靴に縫い針が入れていて、それを知らずに履いて刺さったそうです。その痛みは心の痛みにもなり、その舞台がフィナーレを迎えるまでいられなくて、飛び出しました。そこから苦しみ、お酒や薬に頼ってなかなか立ち上がれませんでした。

彼女は演劇やミュージカルをやりたいと思い、劇団四季に入りたいと思っていましたが、母から「あんたは無理」と言われ諦めていました。そんな時に宝塚の雑誌に出会い、私がやりたいのはこれだと思ったそうです。母親は宝塚に関しては「あんたは無理」と言わなかったのもやってみる気持ちにが強まりました。

中学3年から高校3年の4年間が宝塚音楽学校受験のチャンスで高校2年生だった彼女には2回しかチャンスがありませんでした。1回目は途中までは行ったのですが、落ちました。目指して来た人の中での20倍の競争率です。落ちて、専門に学ばないといけないことに気付き、宝塚にある予備校にも通い、また地元(金沢)で必要な学校にも通いました。その努力が報われ、91期生として入りました。

宝塚音楽学校は2年間で、1年先輩の本科生が予科生(新しく入った学生)を虐めと思われるほど本科生が予科生に対して指導をするのが習わしになっています。彼女は一度辛くて苦しくて実家に帰り、その後戻っています。本科生になったら、虐められ辛かったことを忘れて虐める側に回ったそうです

19歳の時から精神科に通うなどしていました。また同性愛に関心も持っていました。医者に通う中で、実父から性的な虐待を受けていたことに気付きました。父とお風呂には中2まで一緒に入っていて、いろいろされたことがフラッシュバックのように蘇って来ました。医者の治療や周りの支えにより少しずつ社会生活に復帰してきました。お母さんにも実父の性虐待のことを伝えましたが、母は知っていたようで、でも認めてくれませんでした。

LGBT(レズ・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)の活動を知り、今はその活動にも参加しています。身体的性、性自認(自分はどちらと思っているか)、性的指向(どちらを、両方愛せるか)がそれぞれ違っています。

同棲していた彼女とディズニーランドで結婚式を上げたいと思って、東京ディズニーランドに電話したら、女性同士でも結婚式は挙げられるが、どちらかが男性の服装をして欲しい。パレードする時に周りの目があるのでと言われました。同棲している彼女に電話を代わって交渉すると確認するので待って欲しいと言われました。その後、ディズニーランドより社内で検討、米国本社に確認したら女性二人がドレスで結婚式があげられるとの返答が来て、初めて女性同士の結婚式をあげました。

感想;
小さい時の性虐待が、知らず知らずの内に彼女を苦しめ、それがわからないところで彼女も苦しみ続けて来られたのだなと思いました。ようやく、実父などかの性虐待をカミングアウトする人が出て来ましたが、それもできずに苦しんでいる人が多いのだと思います。