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「九州大学生体解剖事件 70年の真実」熊野以素著 ”「仕方がなかったなどというてはいかん」”

2022-01-28 04:42:48 | 本の紹介
第一外科の助教授であった伯父は実験手術に抵抗し、四回あった手術のうち参加したのは初めの二回(正確には一回半)であった。しかし裁判では首謀者の一人として死刑判決を受けた。
叔父に深い影響を受けて育った私は、伯父がついに語らなかった九大事件の真相を知りたいと思っていた。
九大事件の裁判記録は日本側に残されておらず、わずかな関係者の証言と米国国立公文書館の裁判資料を読む以外に真相に迫る方法はないとされていた。ところが六年前のことである。私は、国立国会図書館が1998年に米国からこの裁判資料を入手し、マイクロフィルム化して保存していることを知った。複写を取り寄せ、読み進むうちに、私はこの中に誰も読んでいないと思われる再審査資料が多数含まれていることを発見した。(2015年4月15日発行)

・赤岩教授の仲人で医学部の先輩の妹である中山蕗子と結婚した。二人の間には二男一女が生まれ、平和な家庭生活が続いた。

・鳥巣を九大に呼び戻したのは、赤岩教授から第一外科を引き継いだ石山福二郎教授であった。

・鳥巣にも絶対服従の宣誓書への署名を求めた。
「君の将来のことは自分の全責任をもって世話するつもりである」

・石山は「私は九州帝国大学外科部長として畏くも天皇陛下からこの教室をお預かりしている。私たちはアングロサクソンと戦う使命を持っている。医学=メスでもって!」と訓示し、学生を鼓舞し、医局自体を戦場とみなし、軍隊式の統率を行なっていた。

・(1945年5月5日)落ちていくB-29から搭乗員11名(12名という説もある)が次々とパラシュートで脱出していき、最後に機長が脱出した。

・『生体解剖-九州大学医学部事件』上坂冬子著
小森軍医見習士官から「九大に連れていきたいがら捕虜を引き渡してもらえないか」と旨の申し出を受け、生体実験を望んでおり、機会をうかがっていたということである。
事実は逆だという説もある。
首謀者は佐藤大佐である。
西部軍関係者は「大学の石山教授から小森を通じて医学研究のために捕虜を送るよう要請があり、佐藤大佐が承知した」旨証言している。

・実験手術に関する書類は西部軍と九大がともにすべて処分したので、細かい日時は証言を突き合わせることで特定された。

・「石山先生がまた捕虜の手術をされるようなことがあっても、あなただけは決して手術に参加なさってはいけません! もし私が、米軍軍人の妻でありましたなら、なぜ夫は手術されたのだろうか、手術されなかったら自分の夫は死ななかったかもしれないと思います。戦争の最中でも、米国軍人の捕虜を医学の研究に使ってはいかんと思います。戦場で軍人が殺されるのは仕方ありませんが、手術で死んだらお気の毒です。どんな理由があっても、あなだだけは捕虜の手術に参加なさってはいけないと思います」
妻の言葉は鳥巣の胸に深く刻み込まれた。

・「手術の中止を!」
教授室に入った鳥巣は勇気を振り絞って聞いた。
「先生、また、先日のような手術をなさるのですか?」
実験手術とは言えなかった。石山はうなずいた。
「あのような手術は軍病院でするべきではないでしょうか。もし手術に九大が関係しとるということがわかれば、あとで大変なことになると思います。捕虜は軍のものです。軍のほうで適当に処置すればよいのではないでしょうか」
教授の顔色がさっと変わった。
「この手術は軍から直接依頼を受けてやるのである。君らはわしの命令に従えばよいのだ。あれこれ言う立場ではない」
「捕虜を大学に連れてくることはやめるように軍に話してください。先生の言うことなら軍も聴くと思います」
「何を言うか、先ほど軍から、『捕虜を連れてきている』と電話があった。いまさらやめられるか!」
なおも言い募ろうとする弟子に向かって、怒りもあらわに、
「これは軍の命令なのだ」
それは絶対の切り札だった。
「手術をするから手伝え!」
引き下がるほかはなかった。
・・・
ふと、時計を見ると三時を回っていた。手術が始まってもう一時間たっている、。前回は一時間ちょっとで終わった。「もう終わっているかもしれない」。鳥巣はふらふらと立ちあがった。足は解剖実習室に向かっていた、。
期待は甘かった。・・・
「鳥巣君! 早く消毒を」
石山教授の声が飛んだ。鳥巣はほとんど反射的に命令に従った。拒むことはできなかった。

・こうして8名の捕虜が生体実験で殺された。・・・
九大で殺された捕虜を含め、仮説収容所にいた40数名は二度と故郷を見ることはなかった。次々と西部軍によって殺されたのである。最後に残った10数名も8月15日の玉音放送後に殺された。捕虜虐待の証拠隠滅のためである。

・捕虜殺害の隠蔽工作チームを結成、

・石山教授は8月17日に医局員を呼び、緘口令を敷き、証拠となるものは全て焼却させた。

・露見すれば第一外科全体がこの事件の責任を問われるのだ。鳥巣も不安だった。ただ、彼の不安は「もし事実が露見したら、みなはどうなる?」ということであり、自分自身のことはあまり心配していなかった。自分は反対したし、参加を拒否したのだから罪に問われることはないだろう・・・。
まして、自分が教授の命に従い佐藤へのメッセンジャーを務めたことが、のちに「隠蔽工作」の中心人物の一人とされる証拠になろうとは、思いもつかぬことであった。
問題の投書をしたのは誰か?・・・不明のままである。
投書は一通ではなかった。

・鳥巣が黙秘したのは、大学卒業以来15年も身を置いてきた第一外科を守らなければならないという意識からである。

・なぜこのとき本当のことを言わなかったのか、鳥巣は後にこう語っている。
「恩師石山教授の一大事になる故に秘密にしてくれと依頼されていたし、先づ自分より陳述する情にしのびず『ノー』と答えた」
一方、平尾助教授はどうしていたのか。彼の取り調べも逮捕直後から行なわれた。
海水実験のことを聞かれた後、
「アメリカの捕虜を手術したか?」
「しました」
「患者が死ぬ前に誰かが切開部を開いただろう、誰が開いた?」
「小森です」
「肺を切除する必要があったのか?」
「必ずしも必要ではなかったと思う」

・石山教授の自殺の波紋
事件の真相が解明されない結果となる。

・捕虜を使っての生体実験に罪悪感を持たない医師が多かったという事実である。

・蕗子は不安だった。夫は自分が反対したことや、ほとんど参加していなことが他の人の証言で明らかになると信じているようだ。

・すでに行われていたBC級戦犯裁判は通常の裁判とはまったく異なり、細かい事実の認定よりも、直接の責任を誰に取らせるのかということに力点が置かれていた。

・この時点ですでに、「平尾助教授が鳥巣と一緒に石山を止めに行ったことにする」という工作が始まっており、・・・。

・偽りの証言
この取り調べで鳥巣は事実と違う重要な証言をした。以前の供述書では鳥巣は二回目の手術の前に一人で石山に「手術中止を」訴えに行ったと述べていた。それを翻し、平尾健一助教授を二人で止めに行ったと証言したのである。

・ところで、鳥巣はなぜこんな証言をしたのだろうか。
彼はこの時点で自分は無罪だと思っていた。・・・
その信念から他の人を気遣う気持ちの余裕があった。彼は逮捕前に妻に、「手術をした人々の方」が心配だと語っている。

・1948年3月11日、横浜で「生体解剖事件」の裁判が始まった。
横浜地方裁判所は占領軍に接収され、BC級戦犯を裁くための軍事法廷とされていた。
ここで裁かれた事件の中で三つが有名である。3名の米軍捕虜を殺害した「石垣島事件」、「フィリッピン戦線で炎天下捕虜1,100人あまりを死なせた「バターン死の行進事件」、そしてこの「九大事件」である。

・控訴や上告はできない一審制であるが、「確認」という手続きがあった。有罪の被告は減刑の嘆願書を出すことができる。

・戦争捕虜について国際法は、殺したり虐待したりすることを固く禁じ、その階級に応じた適切な待遇を与えなければならないとしている。また、彼らが国際法に違反する罪を犯したとされるならば、裁判を開いて犯罪事実を立証しなければならない。これはヨーロッパの戦争の歴史の中で形作られてきたもので、「全力をあげて戦った末に降伏することは恥でも何でもなく、むしろ名誉なことである」という考えに基づく。
日本も第一次世界大戦頃まではこの国際法を守っていたようであるが、軍部ファシズムの台頭とともに、「生きて捕囚の辱めを受けず」というファナティックな教条が支配的となって、数々の捕虜虐待事件が起きたのである。

・「軍隊は決して責任を取らないものだ」と鳥巣は後年、著者に語った。

・「証人は呼ばない」
弁護には最初から矛盾があった。軍人グループと九大グループを同時に弁護しなければならないのである。

・手術に反対しただけでなく、参加しなかった医師がいたということ、またそれを理由として罰せられた形跡がないということは、「誰も逆らえなかった」というストーリーに不都合になる。
弁護団は、鳥巣の要求した証人喚問も、蕗子や貫助教授の証人喚問もさせないことをすでに決めていた。

・鳥巣は知らないで参加して、実験手術と気づいた。だから教授を諫めた。中止してくださいとお願いした。途中から参加を拒否もした。しかし結局、手術を阻止することはできなかった。あのときもっと強く教授に迫っておれば、あるいは・・・いや、自分はそうはしなかった。

・「でも、あなたは他の方々と立場と行為がちがうんです。ありのままに証言して公正な裁判を受けてください」
必死に蕗子は夫に迫った。しかし、鳥巣は首を振るばかりだった。

・弁護団の協力は得られず、時間的余裕もないので翻訳者に頼むこともできない。他の家族と違い、蕗子は経済的に追い詰められていた。無収入で、被災して売るものもない。巣鴨通いの費用は鳥巣の実家に出してもらっている。三人の子どもの保護は実兄に頼んでいる。しかし兄の病院も空襲で焼け落ち、小さな医院を開いて、九人の子どもを養っているという状況である。余裕はない。もちろん旅館などには泊まれないので、親戚の家に滞在している。・・・
自分で英訳するしかない。蕗子の在学当時の県立女専には英語の講義があった。・・・
昼は裁判の傍聴に通い、夜は嘆願書を一語一語英語に直す作業は続けた。

・「この嘆願書は法廷に出すわけにはいかない」と突き返した。・・・
どうしたらいいのか、悩みながら歩く蕗子に声をかけたのは、検事側の平林通訳である。「鳥巣さんはなぜ何も言わないのだろう」と不思議に思っているという。
蕗子はとっさに嘆願書を差し出した。平林は丁寧に読んだ。
「これを検事さんに見せてもいいですか」・・・
日を経ずして連絡があった・
「検事は言われました。ミスす鳥巣の嘆願書は真実かもしれない。だがドクター鳥巣自身が何も言わないので、どうすることもできない。しかし、もしミセス鳥巣が希望するならば、検事側から証拠書類として法廷に出してあげてもよいと」・・・
こうして、ペン書きの嘆願書は掲示側証拠として法廷に出されることになった。・・・
嘆願書が法廷に提出されると、(他の被告)家族たちの非難は爆発した。・・・
さすがの蕗子も打ちのめされた。周囲の勧めもあって、東京を離れることになった。・・・
唯一の救いは、平林通訳の言葉だった。
「西部軍関係担当のソープ弁護士が『ミセス鳥巣の嘆願書どおりだったらドクター鳥巣は無罪だ』と言っておられますよ」
ソープ弁護士はサイデル主任弁護士に逆らえなかったが、蕗子には同情を禁じえなかったのだろう。

・1948年8月27日
横山中将と佐藤大佐および九大の鳥巣、平尾、森の計5人は絞首刑、その他は終身刑囚4,重労働14、無罪7名

・宣告の瞬間、「棍棒で後ろからいきなり頭をなぐられたようだった」と鳥巣は以前に語っている。

・蕗子は次々と証拠を提出するため、毎月上京した。・・・ただ再審査請求を受け付けられている限り処刑はないだろうという観測から、嘆願書を出し続けるほかない。

・上京の費用は大変な負担だった。何か収入の道を講じなければ経済面から行き詰ってしまう。
蕗子の兄・弘道は、蕗子に教員になることを勧めた。
蕗子は県立女専を卒業するときに、師範学校、中学校、高等女学校の教員免許を申請し、取得していた。『学校を卒業した証にもらっておけ』と言った父の言葉が懐かしく思い出された。 ・・・
1949年4月、蕗子は地元の中学に就職した。30の半ばを越えた新米教諭に職員たちは温かく接した。事情は知られていたから、上京の便を図ることもしてくれた。

・「合同裁判だから仕方がなかった」
「すべて事実です。ミセス鳥巣の言うとおりだ」(サイデル弁護士)
なぜそんなことをしたのか。蕗子は三島夫人を介して質問と抗議を浴びせた。
「合同裁判だから仕方がなかったのです」
やり取りをバーゲン検事はは熱心に聞いていた。

・三島夫人から手紙が来た。
「鳥巣さんに関する誤解はだいたい解けたようですが、鳥巣さん自身の口から何もいわないのでどうにもならないとのことです。直接巣鴨に面会に行きましたが、家族だけしか面会を許されないので、がっかりしました」
さっそく蕗子は夫に手紙を書いた。

・10年に減刑
鳥巣太郎は、絞首刑から10年に減刑された。

・1954年1月11日、出所の日を迎えた。・・・
蕗子が休暇を取って夫を迎えに来た。

・「仕方がなかったなどというてはいかん」(『生体解剖-九州大学医学部事件』上坂冬子書)
「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。・・・。言い訳は許されんとです」

・1987年7月、叔母は自宅で倒れ重体となった。伯父の懸命な看護も空しく、9月に他界した。76歳だった。伯父の傷心は深かった。

・1993年春、伯父は伯母の許へ旅立った。享年85歳であった。

感想
九大生体解剖事件は知らなかったです。
NHKのドラマを見て知り、それで本を読みました。

読んで思ったことは下記です。
1)絶対やってはいけないことは上からの命令でもやってはいけない
仮に仕事を失ってもやってはいけない。
2)日本は捕虜の国際ルールを無視して虐待・殺害をしていた。
  このことを学校教育できちんと伝えていない。
3)捕虜になることは恥じることだとして、一般市民にも自決させた(沖縄)。
4)罪を犯したなら、正直にありのままを告げる。
  嘘はいけないしましては証拠隠滅もいけない。
 (森友問題では改竄、隠滅を行った)
5)731部隊の捕虜の人体実験関係者はデータを米国に渡すことで罪を逃れたが、捕虜を人体実験で殺したことに違いはない。
  その時の医師たちは大学や研究所に戻って教授などになった。
6)鳥巣氏の人の良さというか、判断の甘さというか、それに比べ婦人の蕗子さんはすごいと思いました。夫人の熱意と努力と行動力が無ければ夫は処刑されていました。
それだけでなく、生体解剖をして捕虜を殺した首謀者のナンバー2としての汚名も晴らせることもできませんでした。
それは家族にとって大きな重荷になっていたでしょう。
そのことが鳥巣氏にはわからず、家族のことまで思いやる余裕がなく自分の罪の意識と戦うことだけと精一杯だったようです。
7)ただ、嘘の証言(二人で諫めに行ったなど)で他の人の刑が軽くなったので、他の人のために行動したといえますが、やはり嘘で刑を軽くすることは、同じく「やってはいけない」ことだったと思います。

自分が鳥巣氏のような機会に遭遇したら、同じ間違いをしないようにすることだと思いました。
本を読むことで学ぶとは、まさにそれをすることなのでしょう。

昨今、多くの会社やお役所で不正なことが行なわれています。
上は指示するかプレッシャーかけるかで、実際に手を染めるのは現場です。
不正を指示した人が出世することもあります。
それでは不正はなくなりません。
そして手を染めた人が苦しみます。
やはり手を染めると会社や国をおかしくします。
ぜったいやってはいけないこととやって良いことを認識する判断力と不正をしない勇気を持ちたいものです。

『海と毒薬』遠藤周作著
この本は読んだことがありましたが、731部隊を題材にしていたと勘違いしていました。
九大生体解剖事件を題材にしていることを知りました。

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