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和歌山の工場でも原料出荷 小林製薬が説明を修正 ”小林製薬は品質保証できていない会社?”

2024-03-31 19:01:33 | 小林製薬紅麹

 「紅こうじ」を使ったサプリメントによる健康被害を巡り、小林製薬は31日、和歌山県にある子会社の工場でも1月以降に原料を出荷していたと明らかにした。これまでは和歌山からは出荷していないと説明していたが、修正した。  

 小林製薬広報部によると、和歌山県の工場には、12月に閉鎖した大阪工場の設備や従業員が移った。和歌山からの詳しい出荷状況は明らかにせず「今は原料を出荷していない」とした。  健康被害の原因の可能性がある「プベルル酸」は大阪工場で昨年4~10月に製造された原料に含まれていたとされる。

感想
 和歌山県の工場は「出荷していない」と発言されていましたが、間違っていたようです。
 意図的に隠ぺいしたのか、それとも和歌山県の工場で出荷していることをQA(品質保証部)が知らなかったとすると品質保証はまったくできていない、Out of Control状態です。
 小林製薬の他の製品は大丈夫なんだろうか?と疑問が浮かんできました。

「アウシュヴィッツの音楽隊」シモン・ラックス&ルネ・クーディー共著 ”歴史を知り、同じ間違いを繰り返さない”

2024-03-31 03:51:51 | 本の紹介
・ナチの収容所から生きて通った者はごくわずかの数しかいない。この事実は、夢想だにしなかったような世界に直面して人間性がまともに反応した場合どうなるかということの証明となっているだろうか。一体どれだけの数の人々が収容所に着いて数日いやしばしば数時間のうちに耐えきれずに死んでいったことだろう。アウシュヴィッツに生き残ることができたという人は、誰でも、ただ幸運、忍耐、意志、抵抗というようなことだけで生きのびられたのではない。たしかにこういう要素も私たちが助かったうえに大きな働きをなしている。だがもし私たちが収容所に入った瞬間、稲妻のようなヒラメキで次の事実を理解しなかったら、これらの要素も決して十分ではありえなかったはずである。すなわち、ここでその場で屈してしまわないためには、私たちがそれまでもっていたモラル、“人間性”、文明の諸前提というものの大部分を捨て去り、あらゆる手段をあげてこらから入っていかなければならない新しい社会に、その思考方法に、その習慣に、その感情に、その教育理念に、そしてその法則に同化しなければならないのだということを理解しなかったら。

・この楽隊ではどれほど技量がすぐれていても、決して“古参度”によって決まっているあの身分序列をどびこすことは出来なかった。

・朝と晩の演奏は、氷が張ろうと、風が吹こうと一切かまわず、どんな天気の日でも限りなく続けれた。私たちの演奏ぬきで収容所部隊が収容所から出ていったり、帰ってきたりするというのは、ドイツ人たちには考えられないことのようだった。霧のある日は、それが晴れるまで収容者部隊は出発を止められた、霧のために逃亡が容易になるからである。そういう時は、行進曲開始の命令があるまで私たちは延々と何か気晴らしになるような曲を演奏し続けなくてはならなかった。

・私たちの楽隊は今では四十名以上になり、私たちの活動はかつてないほどドイツ軍当局から高く認められた。朝夕二回、部隊の出発と帰還の際の演奏の他に、新たに私たちは毎日曜の午後、後悔演奏会を開いた。これは原則としては親衛隊員たちのためのものだったが、収容者たちも私たちの演奏台のまわりに群がっていっしょに楽しんだ。練習も今では週三回になり、フランツ・デニシュも相変わらずいやがらせは止めなかったものの、ほぼこの改善に同意していた。

・この悲惨な光景と平行して、私たちは定期的に収容所内でひどくショッキングな試練をうけ、知るまいとしても知らないではすまされない恐ろしい現実につれ戻された。
 選別! ニ、三週間ごとに身体検査が当局の手で行なわれるのだった。そこで弱い者、病気の者、疫病にかかった者等、もうドイツ軍に有益な労力を提供することができなくなった者、一般に“ムスリム”という軽蔑的な名で呼ばれるようになった者は冷酷に健康な者たちから別にされ、ニ、三日の間を置いてからトラックで火葬場に送られるのだった。私たち楽員もこの容赦ない選別をうけ、その結果、私たちは良い健康状態にあったにもかかわらず、時々、ひとりふたりとメンバーが欠けていくことがあった。私たちは皆この選別におびやかされない者はなかった。なぜならこの“ムスリム”の基準はきわめて曖昧であり、取消しのきかない死の宣告は全く検査にあたる親衛隊の医者の気分次第だったからである。

・私たちはこの譜面台に見覚えがあった。それはチェコ人の収容所にあったものだった。それを見た瞬間、私たちは前の晩から流れていた恐ろしいい噂が本当のことであるのを知った。四千人のチェコ人たち全員が一夜のうちにガス室に送られて殺されたのだった。六か月の間、私たち皆にうらやまれるような暮らしを送ったあとでたった一夜のうちに・・・。

・こうして私たちは、演奏時間がくるごとに、生きたバベルの塔が目の前を動いていくのを見ることになった。すなわち、ロシア人、ポーランド人、フランス人、オランダ人、ギリシャ人、リトアニア人、その他あらゆる国籍の人間が一団となって、遠くから聞こえてくる私たち楽隊の演奏に送られ、静かに滅亡の地へと進んだのである。
 この壮大な絶滅計画は、やがて毎日何ダースもの汽車で到着し始めたハンガリー人の氾濫で絶頂に達した観があった。これらの汽車にはそれぞれ二千から三千の犠牲者がつめこまれていたのである。私たち、以前からの収容者にとっては、この見るに耐えない事実もすでに親しみ慣れてきた光景のはずだった。だが実際に、これら死を宣告された人日の行列に向かいあって、何もなすことができずに立つことに、私たちは最初の頃と同じような恐怖でふるえあがった。頭が破れそうだった。一方には、収容所の外からやってきて即座に皆殺しにされる人間の集団だあり、もう一方には、収容所内部でよりゆっくり、より計画的に、より経済的に、より効率的に死へと追い込まれていく人間の集団がある――この二つの集団がこうして今並び立っているということをどうしても冷静に受けとめることができないのだった。

・アウシュヴィッツでは死人にこと欠かない。それでこういう死人たちから剥ぎとってきた品物でやがて市場が開かれるようになった。・・・
 まっすぐガス室に送りこまれる何万という人間からとってきた品物を加えると、最後には、巨大な経済市場ができあがった。

・しかしここでの労働管理は前に述べた通りだったから、まともに働こうものなら、数日のうちに弱りきって、その結果は、殴られるか、選別でおとされるか、いずれにせよ抹殺されるのを逃れるわけにはいかなかった。ここで生きていくためには監視人の目を盗んで働くふりをしながら怠け、一方で調達に力をいれて物資を補給しながらやっていくより他に道はなかった。

・だが、病人のうちに間もなく回復し仲間のところに帰れる見込みのある者がいる時でも、管理の慣習上、定期的に入院患者はひとり残らずベッドから追いだされて火葬場にやられてしまうのだった。完全に治って退院しようとしている病人もいっしょだった。

・ジプシーは皆慢性の煙草中毒にかかっていた。私たちはしばしば八歳から十二歳ほどの年齢にしか達していない男の子や女の子が、煙草を吸ったり、吸がらをせびっているのを見た。娘たちは煙草を手に入れるたまえに、どんなものとでもひきかえに身を売っていた。最も美しい娘でも煙草十本が相場だった。もっとずっと安い、煙草一本か二本、時は半本という値の娘もいた。中にはほんの一口、二口吸わせるだけで体をまかせる者さえいるという噂だった。
 これは周知のことだったので、そのためにジプシーの収容所へ作業に行きたがる者もずいぶんいた。アウシュヴィッツ第一収容所の慰安所が当局手で設けられていたが、そこには誰でもが行けるわけではなかった。監督部局から定期的にかわるがわる許可のおりた者だけが行けるのだった。このためジプシー収容所はあらゆる種類の訪問者でにぎわい、その様子はアラビアの市のようだった。

・親衛隊員は誰もが音楽好きだったが、その流儀はさまざまだった。

・アウシュヴィッツとそこで運命のめぐりあわせによって私が立ちあうことになった恐るべき大量殺人のことを思いおこす時、私は自分自身の遍歴など大したものではないと思わざるをえない。、私はある巨大な大厄災を生きのびたひとりの難破者にすぎず、私の運命はごく近親の者と私自身にとってしからかかわりのないことなのである。だが、どれほどささやかなものであれ、何とか私は自分の生を保ち続けることができた。そしてそれはひとえにドイツ人が音楽に対してもっている気狂いじみた愛のお蔭だと思わざるをえないのである。

 いつまでも私はアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所長が私たちの出発を見送って投げかけたあの苦しみを悲しみに満ちた別れの言葉を忘れないだろう。
「私の素敵な音楽隊よ!」

・収容所から生きて通った者はごくわずかの数しかいない。この事実は、夢想だにしなかったような世界に直面して人間性がまともに反応した場合どうなるかということの証明となっているだろうか。一体どれだけの数の人々が収容所に着いて数日いやしばしば数時間のうちに耐えきれずに死んでいったことだろう。アウシュヴィッツに生き残ることができたという人は、誰でも、ただ幸運、忍耐、意志、抵抗というようなことだけで生きのびられたのではない。たしかにこういう要素も私たちが助かったうえに大きな働きをなしている。だがもし私たちが収容所に入った瞬間、稲妻のようなヒラメキで次の事実を理解しなかったら、これらの要素も決して十分ではありえなかったはずである。すなわち、ここでその場で屈してしまわないためには、私たちがそれまでもっていたモラル、“人間性”、文明の諸前提というものの大部分を捨て去り、あらゆる手段をあげてこらから入っていかなければならない新しい社会に、その思考方法に、その習慣に、その感情に、その教育理念に、そしてその法則に同化しなければならないのだということを理解しなかったら。

・この楽隊ではどれほど技量がすぐれていても、決して“古参度”によって決まっているあの身分序列をどびこすことは出来なかった。

・朝と晩の演奏は、氷が張ろうと、風が吹こうと一切かまわず、どんな天気の日でも限りなく続けれた。私たちの演奏ぬきで収容所部隊が収容所から出ていったり、帰ってきたりするというのは、ドイツ人たちには考えられないことのようだった。霧のある日は、それが晴れるまで収容者部隊は出発を止められた、霧のために逃亡が容易になるからである。そういう時は、行進曲開始の命令があるまで私たちは延々と何か気晴らしになるような曲を演奏し続けなくてはならなかった。

・私たちの楽隊は今では四十名以上になり、私たちの活動はかつてないほどドイツ軍当局から高く認められた。朝夕二回、部隊の出発と帰還の際の演奏の他に、新たに私たちは毎日曜の午後、後悔演奏会を開いた。これは原則としては親衛隊員たちのためのものだったが、収容者たちも私たちの演奏台のまわりに群がっていっしょに楽しんだ。練習も今では週三回になり、フランツ・デニシュも相変わらずいやがらせは止めなかったものの、ほぼこの改善に同意していた。

・この悲惨な光景と平行して、私たちは定期的に収容所内でひどくショッキングな試練をうけ、知るまいとしても知らないではすまされない恐ろしい現実につれ戻された。
 選別! ニ、三週間ごとに身体検査が当局の手で行なわれるのだった。そこで弱い者、病気の者、疫病にかかった者等、もうドイツ軍に有益な労力を提供することができなくなった者、一般に“ムスリム”という軽蔑的な名で呼ばれるようになった者は冷酷に健康な者たちから別にされ、ニ、三日の間を置いてからトラックで火葬場に送られるのだった。私たち楽員もこの容赦ない選別をうけ、その結果、私たちは良い健康状態にあったにもかかわらず、時々、ひとりふたりとメンバーが欠けていくことがあった。私たちは皆この選別におびやかされない者はなかった。なぜならこの“ムスリム”の基準はきわめて曖昧であり、取消しのきかない死の宣告は全く検査にあたる親衛隊の医者の気分次第だったからである。

・私たちはこの譜面台に見覚えがあった。それはチェコ人の収容所にあったものだった。それを見た瞬間、私たちは前の晩から流れていた恐ろしいい噂が本当のことであるのを知った。四千人のチェコ人たち全員が一夜のうちにガス室に送られて殺されたのだった。六か月の間、私たち皆にうらやまれるような暮らしを送ったあとでたった一夜のうちに・・・。

・こうして私たちは、演奏時間がくるごとに、生きたバベルの塔が目の前を動いていくのを見ることになった。すなわち、ロシア人、ポーランド人、フランス人、オランダ人、ギリシャ人、リトアニア人、その他あらゆる国籍の人間が一団となって、遠くから聞こえてくる私たち楽隊の演奏に送られ、静かに滅亡の地へと進んだのである。
 この壮大な絶滅計画は、やがて毎日何ダースもの汽車で到着し始めたハンガリー人の氾濫で絶頂に達した観があった。これらの汽車にはそれぞれ二千から三千の犠牲者がつめこまれていたのである。私たち、以前からの収容者にとっては、この見るに耐えない事実もすでに親しみ慣れてきた光景のはずだった。だが実際に、これら死を宣告された人日の行列に向かいあって、何もなすことができずに立つことに、私たちは最初の頃と同じような恐怖でふるえあがった。頭が破れそうだった。一方には、収容所の外からやってきて即座に皆殺しにされる人間の集団だあり、もう一方には、収容所内部でよりゆっくり、より計画的に、より経済的に、より効率的に死へと追い込まれていく人間の集団がある――この二つの集団がこうして今並び立っているということをどうしても冷静に受けとめることができないのだった。

・アウシュヴィッツでは死人にこと欠かない。それでこういう死人たちから剥ぎとってきた品物でやがて市場が開かれるようになった。・・・
 まっすぐガス室に送りこまれる何万という人間からとってきた品物を加えると、最後には、巨大な経済市場ができあがった。

・しかしここでの労働管理は前に述べた通りだったから、まともに働こうものなら、数日のうちに弱りきって、その結果は、殴られるか、選別でおとされるか、いずれにせよ抹殺されるのを逃れるわけにはいかなかった。ここで生きていくためには監視人の目を盗んで働くふりをしながら怠け、一方で調達に力をいれて物資を補給しながらやっていくより他に道はなかった。

・だが、病人のうちに間もなく回復し仲間のところに帰れる見込みのある者がいる時でも、管理の慣習上、定期的に入院患者はひとり残らずベッドから追いだされて火葬場にやられてしまうのだった。完全に治って退院しようとしている病人もいっしょだった。

・ジプシーは皆慢性の煙草中毒にかかっていた。私たちはしばしば八歳から十二歳ほどの年齢にしか達していない男の子や女の子が、煙草を吸ったり、吸がらをせびっているのを見た。娘たちは煙草を手に入れるたまえに、どんなものとでもひきかえに身を売っていた。最も美しい娘でも煙草十本が相場だった。もっとずっと安い、煙草一本か二本、時は半本という値の娘もいた。中にはほんの一口、二口吸わせるだけで体をまかせる者さえいるという噂だった。
 これは周知のことだったので、そのためにジプシーの収容所へ作業に行きたがる者もずいぶんいた。アウシュヴィッツ第一収容所の慰安所が当局手で設けられていたが、そこには誰でもが行けるわけではなかった。監督部局から定期的にかわるがわる許可のおりた者だけが行けるのだった。このためジプシー収容所はあらゆる種類の訪問者でにぎわい、その様子はアラビアの市のようだった。

・親衛隊員は誰もが音楽好きだったが、その流儀はさまざまだった。

・アウシュヴィッツとそこで運命のめぐりあわせによって私が立ちあうことになった恐るべき大量殺人のことを思いおこす時、私は自分自身の遍歴など大したものではないと思わざるをえない。、私はある巨大な大厄災を生きのびたひとりの難破者にすぎず、私の運命はごく近親の者と私自身にとってしからかかわりのないことなのである。だが、どれほどささやかなものであれ、何とか私は自分の生を保ち続けることができた。そしてそれはひとえにドイツ人が音楽に対してもっている気狂いじみた愛のお蔭だと思わざるをえないのである。

・いつまでも私はアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所長が私たちの出発を見送って投げかけたあの苦しみを悲しみに満ちた別れの言葉を忘れないだろう。
「私の素敵な音楽隊よ!」

感想
 音楽隊に入ることで、少しでも生き残れるチャンスが増えるのです。
カポ”は親衛隊員が同胞のユダヤ人を管理するために収容者の中から選びました。
カポは同胞のユダヤ人に厳しくあたりました。そうしないと生き残れないからです。
生き残るためには自分のことで精一杯でした。
 また”調達”(殺害された人の持ち物)で物資を得ないと生き残れなかったようです。

 親衛隊員は収容所の記録を消すために、ガス室の仕事に携わった人を全員殺害しました。自分たちの罪を消すために。

 でもそんな中でも、他の人のことを考えた人が親衛隊員にも収容者にもいたそうです。ごくごくわずかですが。

 ナチの強制収容所の体験を書いた『夜・夜明け・昼』の3部作
それによりノーベル賞を受賞したエリ・ヴィーゼル。
 『夜と霧』ヴィクトール・フランクル著
『エヴァの震える朝 15歳の少女が生き抜いたアウシュヴィッツ』エヴァ・シュロス著
エヴァ・シュロスさんの母親がアンネ・フランクルの父親と再婚
を読みました。

 ヒトラーが問題だったのはその通りですが、ヒトラー一人ではできないのです。
ユダヤ人600万人、それ以外のジプシー(ロマ人)や捕虜や戦争反対者、精神障害者の多くが殺されました。
その命令に従って実際に手をかけた人が多くいたのです。
その命令に従わないと自分が殺されるのです。
 自分だったら、どうしただろう?
 そのときに考えるより今、そういう社会に、政治体制になる前に声をあげないとどうしようもなくなるのです。

 日本でも憲兵が「戦争反対者」を引っ張っていきました。
新聞法」で新聞の発行や書物の出版が自由にできなくなりました。
小林多喜二氏、伊藤野枝氏など多くの無実の人が拷問死で殺害されました。
殺害した人は罪に問われていません。
そうなってからは声をあげることができないのです。
選挙に行って、一票ですが、それでどうなるものでもないのですが、声をあげないといけないのでしょう。
おかしなことをおかしいと言わない社会がおかしくなって行くのでしょう。
 
 そのためにも歴史を知る、そして考える。そして行動することが大切なのでしょう。

 ドイツ人は音楽が好き。
人を殺害して、音楽を楽しむ。
戦争は人をおかしくさせてしまうようです。

「うつ病」はどのように遺伝するのか…「日本の研究者」が世界で初めて発見した「その仕組み」 ”「うつ病になりやすい体質」は遺伝することが判明しており、その遺伝率は 30%~50%と考えられています”

2024-03-30 09:51:15 | 社会

---------- うつ病には、「うつ病になりやすい」人と、そうでない人がいて、「うつ病になりやすい体質」は遺伝率30~50%で遺伝することがわかっています。この遺伝率は高血圧や糖尿病と同じ程度なので無視することはできません。しかし、その仕組みはまったくわかっていませんでした。 うつ病の原因がヒトヘルペスウイルス6(HHV-6)のSITH-1(シスワン)遺伝子であることを発見した東京慈恵会医科大学・ウイルス学講座の近藤一博教授らの研究チームは、今回、「うつ病になりやすい」人とそうでない人は何が異なるかを発見し、「うつ病になりやすい体質」が遺伝する仕組みを、世界で初めて解明しました。その遺伝の仕組みは、これまで知られていなかった、全く新しいメカニズムでした。 

研究の概要

 うつ病は環境と体質の2つの原因で発症し、同じ環境にあっても、うつ病になりやすい人となりにくい人が存在します。「うつ病になりやすい体質」は遺伝することが判明しており、その遺伝率は 30%~50%と考えられています。これは高血圧や糖尿病の遺伝率と同程度です。しかし、うつ病の遺伝に関しては、通常の遺伝で知られている、親から子への染色体の伝搬では説明がつかず、その遺伝の仕組みは全く不明でした。  今回、東京慈恵会医科大学・ウイルス学講座の小林伸行准教授と近藤一博教授らの研究グループは、うつ病の原因となるヒトヘルペスウイルス6 (HHV-6)のSITH-1遺伝子には、うつ病を引き起しやすいタイプとうつ病を起こしにくいタイプが存在し、これが「うつ病になりやすい体質」やその遺伝に関与することを発見しました。  
 うつ病を引き起しやすいタイプのSITH-1遺伝子は、SITH-1が発現しやすい遺伝子変異を持っており、うつ病患者の67.9%がこのタイプのSITH-1遺伝子を持つHHV-6に感染していました。影響力を示すオッズ比は5.28で、このタイプのHHV-6に感染している人は、そうでないタイプのHHV-6に感染している人の約5倍、うつ病になりやすいことが判りました。  
 また、HHV-6は新生児期に主に母親から感染し、その後、一生涯ウイルス感染が持続することが知られています。うつ病を起こしやすいSITH-1遺伝子は、HHV-6とともに親から子に伝搬することで遺伝に関係することも判りました。  
 この発見は、メンデル遺伝として知られている染色体の親から子への伝搬による遺伝のメカニズム以外にも、親に持続的に感染している常在微生物(マイクロバイオーム)の子への伝搬が遺伝のメカニズムになり得ることを示す世界で初めての発見であるとともに、HHV-6のSITH-1がうつ病の原因となることをさらに確実とする証拠でもあります。  
 この発見により、原理的にはうつ病の遺伝については、新生児期に「うつ病を起こしにくい」HHV-6をワクチンとして接種することが可能であると考えられます。また、これまで Missing Heritability(失われた遺伝率)と呼ばれ、謎とされていたうつ病の遺伝のメカニズムが明らかになり、解決策が得られたことで、うつ病に対する社会的偏見が減ることが期待されます。  なおこの研究は、2024年2月9日(日本時間:2月10日)に米国科学誌 iScience(Cell press)に掲載されました。

研究の詳細 うつ病の遺伝と関係するHHV-6 SITH-1遺伝子のR1A繰り返し配列
図1 上:HHV-6遺伝子の構造 下:繰り返し配列R1の構造
 うつ病の原因であるSITH-1遺伝子はHHV-6のゲノムに存在し、3種類の繰り返し配列R1、R2、R3に囲まれています(図1上)。我々は、SITH-1のタンパク質コード領域(SITH-1 ORF)の発現に最も関係すると考えられるR1領域に注目しました。  R1領域には12塩基からなる繰り返し配列が複数種類、存在し、その種類や繰り返しの数は、SITH-1タンパク質の発現に関係します(図1下)。水色でハイライトしたR1A 配列(SITH-1遺伝子の発現を抑制する繰り返し構造)の繰り返しの数が「うつ病になりやすい SITH-1」と関係します。  ちなみに、R1A配列の繰り返しの数は、HHV-6が感染している個人個人によって、2回から27回のバリエーションが見られました。
R1A繰り返し配列の数が減少するとSITH-1は発現しやすくなる

図2 R1A配列の繰り返し数とSITH-1発現
 研究対象者(うつ病患者および健常人)の SITH-1 発現を、SITH-1に対する抗体価(抗 SITH-1 抗体価)で測定し、各対象者に潜伏感染しているHHV-6のR1A配列の繰り返し数との相関関係を調べました(図2)。  この結果、R1A 配列の数が多いほど SITH-1 の発現が少ないことがわかり、R1A は SITH-1 の発現を抑制する機能があることがわかりました。
R1Aの繰り返し配列の数が17以下になるとうつ病を起こしやすい

図3 R1A配列の繰り返し数とうつ病との関係
 次に、研究対象者に感染しているHHV-6のR1A繰り返し配列の数と、うつ病との関係について検討を行いました。この結果、R1A の数が 17 以下(R1A≦17)になると、うつ病を発症しやすいことがわかりました(図3)。  うつ病患者がR1A≦17である率は67.9%、オッズ比は 5.28でした。このことは、うつ病患者の約7割で、うつ病の発症とR1A≦17のHHV-6が関係し、感染している HHV-6がR1A≦17であった場合は、うつ病になる率はそうでないHHV-6に感染している場合の約5倍になることを示しています。
R1A の繰り返し配列の数が17以下のHHV-6はうつ病の遺伝と関係する
図4 HHV-6 によるうつ病の遺伝の概略図

 HHV-6 は新生児期に主に母親から感染し、その後、一生涯ウイルス感染が持続することが知られています。このため、R1A≦17のHHV-6が親から子に伝搬することで遺伝に関係する可能性があると考えられます。  遺伝について検討するために、うつ病患者の家族(祖父母、兄弟、子供)にうつ病患者がいるかどうかを調べました。その結果、R1A≦17 の HHV-6 を持つうつ病患者で家族にうつ病患者がいる割合が 47.4%であったのに対し、R1A>17 の場合は家族にうつ病患者はいませんでした(図4)。このことから、R1A の繰り返し配列の数はうつ病の遺伝に関係していると考えられました。  R1A≦17 の HHV-6 の仕組みをまとめるとこの図のようになります。R1A≦17 の HHV-6 を持つうつ病患者を親、特に母親に持つ子供は、新生児期に親から R1A≦17 の HHV-6 に感染し、一生涯 R1A≦17 の HHV-6 が体内に潜伏感染するという、うつ病になりやすい状態が続くことになります。これを外側から観察すると、うつ病が遺伝していると認識されると考えられます。

今後の展開
 この発見により、新生児期に「うつ病を起こしにくい」HHV-6 をワクチンとして接種するなどの方法で、「うつ病を起こしやすい」HHV-6 が親から子に感染することを防御することで、原理的には、うつ病の遺伝を抑制することが可能となります。これまで、うつ病の遺伝は Missing Heritability(失われた遺伝率)と呼ばれ、そのメカニズムは謎とされてきました。このような正体不明の現象は、社会的偏見に繋がりやすいという性質があります。今回の研究によってうつ病の遺伝のメカニズムが明らかになり、解決策が得られたことで、うつ病に対する偏見が減ることを期待します。

感想
 うつ病もウイルスを通してかかりやすさが親から子へと引き継がれるようです。
ただ、遺伝率30~50%ですので、そのウイルスを持っているからうつ病になるとはかぎらないし、そのウイルスを持っていないからうつ病にかからないということではないようです。かかりやすさのようです。
 うつ病は弱いからと勘違いしている人もいますが、そうでないことが少しずつ医学の研究で解明されてきたようです。
 それにしてもウイルスは人間と共存しているようです。
このウイルスが悪いということではなく、うつ病にはかかりやすいけど、何か強みを持っているかもしれません。そのためにずーっと人と共存して生きてきたように思います。
 ひょっとしたら、”優しさ”が強いとか。
メンタルを病む人には優しい人が多いように思います。


プベルル酸、記者の追及でようやく認める 小林製薬、遅れる対応 ”死者5人に/プベルル酸の過去のロットの調査はしたのかどうか?の質問がない”

2024-03-30 03:11:22 | 小林製薬紅麹

小林製薬が製造・販売した「紅麹」成分のサプリメントで健康被害が相次いでいる問題で、29日に会見を開いた小林章浩社長ら。しかし、情報を積極的に出さない姿勢が目立ち、青カビから生成される天然化合物「プベルル酸」の存在を認めたのも、記者側からの指摘を受けてのことだった。自主回収の判断が遅れたことに関しても、小林氏は「最善を尽くした」と述べ、全面的な責任を否定した。 

■原因物質 
 「25日にプベルル酸の(原因としての)可能性に気付いた。取り扱ったことのない物質。紅麹の成分と相互作用で悪影響を及ぼした可能性を否定できない」。会見で、同社の梶田恵介・ヘルスケア事業部食品カテゴリー長はこう述べた。 梶田氏は当初会見で、「未知の成分」について「さまざまな(物質の)構造体で仮説を立てているが、腎疾患を引き起こすか不明」と話すにとどめ、具体的な物質名は伏せていた。 しかし、29日に厚生労働省から発表があったことを記者から追及され、プベルル酸の存在を初めて認めた。 

■製造工程 
 「大阪工場」(大阪市)では平成28年にグンゼから事業を引き継いでから紅麹原料を製造し、協力会社でサプリなどの製品をつくっていた。昨年9月以降の製造分に被害が集中していたとされ、同工場内で何らかの「異変」があった可能性がある。 この点について、会見では山下健司・執行役員(製造本部長)は未知の成分が「昨年4~10月の製造分に散らばっている」と説明。グンゼから事業を引き継いで以降、菌株や製造法自体は変わっていないが「品質管理のプロセスは独自に見直していた」とした。 外部から異物が混入した可能性については「衛生管理は定期的に担当者が巡回して確認している」とする一方、「工場内は無菌というわけではなく、カビが存在することはある」と話し、可能性を否定しなかった。 

■自主回収 
 紅麹の健康被害では、今年1月15日に最初の症例報告があったにもかかわらず、自主回収が今月22日までずれ込んだことに批判が上がっている。小林氏は社内のガイドラインでは問題がなかったとの認識を示しつつ、「もっと早く公表していれば(死者を)防げたのではないかという指摘には言葉がない」と述べ、広報対応について「大変問題だった」と話した。 経営責任を問われると「原因究明と再発防止が私たちの責任。リーダーとしてしっかり進めたい」と話すにとどめた。今後、被害者対応や原因究明への姿勢で厳しい目が注がれることになる。(牛島要平、井上浩平、清水更沙)

感想
 自主回収まで2か月以上 小林章浩社長
「因果関係が分からず、社内のガイドラインや医師、弁護士への相談から自主回収に該当しないと判断した」
 医師、弁護士が「回収しなくてよい」とアドバイスしたなら、レベルの低いというか、危機管理のない人になります。
 弁護士と言っても、ジャニーズ事務所の最初の第三者委員会報告、宝塚歌劇団の第三者委員会報告、弁護士がいるのに酷い、レベルの低い報告でした。
 世間の批判を浴びて、態度を180度変更しました。

 プベルル酸が入手できないと、どれだけ入っているかは測定は難しいです。ただ、HPLCのピークが分かっていたのですから、HPLCで分取したはずです。そして構造解析したと思われるので、それを標準にして量を全ロットで調査できるはずです。
 そういった質問がなかったのが残念です。

「紅麹」サプリ被害、死者5人に 時事通信社
小林章浩社長は29日、大阪市内で記者会見し、「社会問題にまで発展していることを深くおわびする」
 「社会問題にまで発展・・・」をお詫びするのではなく、犠牲者をだしていること/公表と回収が遅れたことをお詫びすることではないでしょうか?
 この時点に及んでも小林製薬は隠しているのは問題です。物質が分かれば対処する方法が見つかるかもしれません。
 いまだに小林製薬の態度は問題です。
弁護士がついているのに情けないです。
よっぽど酷い弁護士かもしれません。

 青かび発生していたら培養液に青色が見つかったはずです。
製造段階の異変や普段と違うことがあったかどうかの調査は品質保証でするのですが、やっているはずですが。

プベルル酸 ウイキペディア
1932年にBirkinshawとRaistrickがP. puberulum Bainierから産生されるC8H6O6の化学式を持つ化合物が存在することを報告し、これをプベルル酸と命名した。P. aurantio-virens Biourge、P. johannioli Zaleskiなど複数のアオカビの培地からプベルロン酸(英: puberulonic acid)と同時に得られることが知られている。プベルロン酸は水存在下で100°Cに加熱すると脱炭酸によりプベルル酸となる。
なおプベルロン酸はHeLa細胞に対して細胞障害性があることが報告されている。
プベルロン酸

小林製薬健康被害の厚労省の会議資料 ”52社+173社公表”

2024-03-29 09:05:55 | 小林製薬紅麹
議題
(1)小林製薬の回収命令の対象となった製品の原因究明について
  (小林製薬から説明)
(2)(1)以外の小林製薬の紅麹を原料とする製品の対応について
(3)その他

資料
配布資料
議事次第・委員名簿・座席表[340KB]

(配布資料)
資料1 小林製薬提出資料(机上配布)

(参考資料)
参考資料1  小林製薬の紅麹を含む健康食品に対する対応の経緯[371KB]
参考資料2  紅麹を含むいわゆる健康食品の取扱いについて(令和6年3月26日付け健生食監発0326第6号)[609KB]
参考資料3  小林製薬(株)が把握している健康被害状況(延べ数)[256KB]
参考資料4  通知に基づき自治体から厚労省に報告された件数[186KB]
参考資料5  通知に基づき自治体から厚労省に報告された情報一覧(机上配布)

新開発食品評価調査会及び指定成分等含有食品等との関連が疑われる健康被害情報への対応ワーキンググループのYoutube配信について
URL:https://youtube.com/live/fOxO7WyH8uU
    (頭撮りのみ配信します)
    (ライブ配信は終了しました)
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  • ※会議の様子をYouTube(厚労省専用チャンネルMHLWchannel)においてライブ配信にて冒頭のみ公開致します。当日の会場における傍聴はございません。
感想
 ようやく公表しました。
もっと早く公表できたのですが。
でも、遅くなってもよい判断かと思います。

 原因がわからない。範囲が特定できない。健康被害が起きている。
この場合はすぐに止める。そのためにも使っている人に伝えることですから。

 小林製薬が一番まずかったのは、原因究明を優先して、止めることを後回しにしたことではないでしょうか。
 同時平行で行うことです。
 公表が遅れたのは人員不足とことですが、人材不足だったように思います。
社内に物造やそれにかかわるQAの人材がいなかったのでしょう。
製造を他社に委託していた弊害が露見したように思います。