4つの収容所を、2年半の強制収容所体験をしたフランクル。
何のために生きるかを問うのではなく、生きること自体が私たちに何を期待しているかが問われている。苦しむことにも意味がある。
今を生きる意味として何を人生から尋ねられているのか?
物とか金銭的な豊かさは必ずしも人間の幸せに結びつかない。
何が幸せかを考えるのにロゴセラピーが向いていると思う(勝田茅生)。
収容所体験から何を考えたか。
最初に書いた『精神科医のメンタルケア(『死と愛』/『人間とは何か』』)には10ページほど、強制所の体験を書いた。友だちが、その個所をもっと書いたらと言ってくれた書いたのが、『夜と霧』
ドイツにたまたま留学していた霜山徳爾が本屋で見つけて訳した。
2万か所の強制収容所。自国ドイツ人に見せられないのでポーランドの南に大きな強制収容所を建てた。それがアウシュヴィツとビルケナウ。
看護師テリー・グローサーと出会った。
急患があり、約束の夕食に遅れた。そしたらテリーが言った。
「ああ、やっと帰ってきたの。手術は上手くいったの? 患者さんの具合はどう? 待っていたので一緒に夕食にしましょう」
この言葉でフランクルは結婚したいと思った。
子どもを授かったが当時ユダヤ人は子どもを産むことができなかった。
結婚から2か月後強制収容所へ家族4人が入れられた。
この駅からユダヤ人が強制収容所へ運ばれた。
47,035人、生き残ったのは、1,073人だけ。
チェコにあるテレージェンシュタット。赤十字が見学に来た模範のところ。
文化人が特に入れられていた。赤十字が見ることのできる建物だけは立派。そしてそこが多くなると他の収容所へ移動させた。
コートの裏側に原稿を隠し持っていた。
フランクルはテレージェンシュタットで講演し、「生き抜く意味」を伝えた。
孫がフランクルの講演会で参加者の一人の女性が「私は13歳であなたの祖父の励ましの言葉をテレージェンシュタットでの講演で聞いた。絶望の中でも希望を失わないでほしい」と。
それが生きる力になったと。
テレージェンシュタットでフランクルの父が肺炎になり、もう助からないと。痛みで苦しむ父にに隠し持っていたモルヒネを注射した。
父に「痛みは?」と尋ねたら「もう痛くない」と。
父に接吻して立ち去った。これが最後になると判っていた。
母とはフランクルが他の収容所に移され、生き別れになった。
テレージェンシュタットは建物が素晴らしい。ヒトラーからのプレゼントとして、プロパガンダに利用された。それ以外は悲惨だった。。
こんなひどいところに入れられるとは、ショックだった。これから入る人のために、一人ひとりに「勇気をもって生きてください。あなたにどんな役割が待っているか知れないから」とフランクルは入ってくる人に伝えた。
それは、家庭教育、お母さんからの教育で、人に寛容に接する優しさを身に着けていた。
母と2年一緒にいて、フランクルが移動させられると母が聞いて、「わーっ」と泣き崩れた。フランクルは母に「祝福して下さい」と言った。
23歳のテリーは夫と離れることを避けるため、自分から移動を希望した。フランクルに黙って彼女自身が決めた。
アウシュヴィッツの第二収容所、ビルケナウに着くと、男女別に分けられた。
妻と別れるときに、「たとえどんなことがあっても生き抜いてほしい」と伝えた。
親衛隊に辱めを受けても生き抜いてほしいとの意味だった。
妻に身に着けるものをプレゼントしていた。そのチャームは地球を形どっていた。「全世界は愛で回る」と刻まれていた。
列は左右に分けられた。親衛隊が左、右へ。ほとんど左へ。
夜になってその意味を知った。友人の行方が分からないといったら、「あそこだ」と数百メートル離れた煙突を指した。煙突から天に向かったと。
就労に耐えられないと判断されたものは即ガス室へ。
アウシュヴィッツの1日目、禁止されていた靴を枕にして寝るものもいた。糞にまぎれるのはお構いなくだった。正常な意識がなくなっていった。
4日しかいなかったが、そこはさらにひどい場所だった。さらに隠し持っていた原稿を取られたのがひどくショックだった。
社会的尊厳を奪われた。
与えられた囚人服のポケットに紙切れがあった。
それは祈り「なんじのすべての力を出して神を祈れ」と書いてあった。
理論として打ち立てたロゴセラピーを「試してみよ」と神に言われたようにフランクルは思った。
自分を超える超越的なものに気付いた。
精神的な次元からの呼びかけ。
自分が生き残るだけでも精いっぱい。心と体だけでも大変な状況。そこへ精神次元の問いかけ。
まなざしを外に向けて。今の状況状況下での問いかけを感じた。
「ロゴセラピーの有効性をためしてみよ!」
かつ家族のためにも生きのびないといけない。
誰かのために、何かのために。それを軸にした。
4日でそれまでの価値観をひっくり返させられたようだった。
もう一度生きる意味を考えさせられた。
4日後、テリーを残したまま、カウフェリンの強制収容所へ移された。ガス室はなかったが過酷な労働が待っていた。
コンクリートやセメントを運ぶ。戦闘機を作るための工場だった。
そこで多くのユダヤ人が命を落とした。
119104がフランクルの番号と名前、そのリストに十字架のついた人は亡くなった人である。
突貫工事で多くの人が亡くなった。
白昼夢と夢だけが過酷な労働を忘れる時だった。夢から覚めると人間の尊厳を奪われる現実が待っていた。
睡魔に勝てずにつるはしに持たれた一瞬、監視兵に見つかり、私など馬頭する意味もないと、石を私に投げつけた。
家畜に「働く義務を」を思い出させるような行為だった。
苦痛から何とか自分を守る意味を見つけようとした。
足が凍傷でも数キロ先の作業所へ苦痛に耐えながら歩いて行くとき、私は思った。講演会に招かれ私は語る「強制収容所の心理学」を想像した。このトリックのおかげで、自分の体験が心理学実験になると意味を見いだそうとした。見方を変えて、これを自己距離化とロゴセラピーでは言う。
トイレに行く時間もなく、服におしっこした。その瞬間だけ温かく感じた。
カウフェリン強制収容所で病気になった人は近くのシュルクハイム収容所へ移された。
自分も長くはないと思い、医師としての働きを最後にしたいと思いフランクルもシュルクハイム強制収容所に希望して移った。そのころはもうユダヤ人を絶滅させる考えはなく、労働力としてみていた。そのため病気になった人を殺さずに移した。
そこでフランクルも発疹チフスを発症した。
意識を失うと外へ出されてそのまま死ぬ。
仲間がくれた紙切れに、高熱にうなされながら、失った原稿のキーワードを書き込んでいた。「医師によるメンタルケア」
失われた原稿を再度書こうという意識が自分を持ち続けさせた。
これが自己距離化、自分の苦しさを少し和らげることができる。
距離を置いて、自分の置かれている状況を眺めてみる。
チフスにかかっても眠り込まないようにした。眠り込むことは死を意味した。
心と体では限界。精神次元でやろうと。
意味のある目標があれば、人間は過酷な状況下でも生きる意味を燃やし続けることができる。
家に帰って、疲れて、子どもの相手をするのも自己距離化。
それはどこにでも見つけることができる。
これを理解した人は生きようとする。
暗闇の中で自分の光を見つけようとする。
その光に気付くことができるか。
ロゴセラピーは希望を大切にするセラピーとも言えるのではないか(小野正嗣)。
4月27日、解放の日。
母や妻との再会を想像した。
外国人の労働者が向こうからやってきた。
「全世界は愛を中心に回る」とのチャームを持っていた。
妻テリーに与えたものとまったく同じものだった。
それを持っているお金を使って譲ってもらった。
テリーと再会した時に見せるのを楽しみにした。
ウィーンに帰ろうとしたとき、母エルザは死んでいたことを知った。
フランクルがアウシュヴィツに送られた4日後に母もアウシュヴィツに送られ、そのままガス室に送られ殺された。
兄も殺されていた。
妻テリーはビルゲンシュタット強制収容所で解放まで生きのびたが衰弱がひどくて亡くなっていた。
「これほどの試練を受けるのには何か意味がある。何かが僕に期待している。何かが僕を運命づけている」
友人たちはフランクルが原稿を作成できるようにタイプライターを見つけた来た。その時のフランクルの借用書が残っている。
解放から8か月後「医師によるメンタルケア」が完成した。
そしてロゴセラピーを発展させた。
1945年4月27日解放後、母と妻の死が大きな絶望になった。収容所にいた時よりも大きな絶望だった。
再会を喜び合おうと信じていた。それができなくなった。
友だちがフランクルが自殺すると思って、タイプライターを。
自殺してはいけないと思っていたフランクル自身が自殺を考えていた。
フランクルは義務で書いていた。
部屋の窓ガラスは空爆で壊されで段ボール。暗い中、フランクルも暗闇の中にいた。
教授になるには論文を出さないといけない。「精神科医によるメンタルケア」が論文として、精神科医の職を友だちが探してくれた。
フランクルも悲しみや絶望を経験し、沈んでいたとき。周りの友だちが手を差し伸べてくれた。
著作の中で、人間に対する信頼のエピソードが書いてある。
現場監督が小さなパンをくれた。それは自分の朝食から。残して分けてくれたものだった。
パンそのものよりも、その人が示した人間らしさに感動した。
ガス室を発明したのも人間、ガス室に毅然として祈りの言葉を口にして死んでいったのも人間。
ある収容所跡地は墓地となっていて多くの人がそこに眠っている。
そこに祈りの場所が住民によってつくらた。テリクハイム。
フランクルも何度か訪問した。
フランクルのことを覚えてた人がいた。
64歳のフランクルだった。
「このあたりの住民が良くしてくれた。国や民族で人を決めつけることはしない」
フランクルは講演で「収容所長だったホフマン氏、町の薬局で自腹を切ってユダヤ人のために薬は買って与えた。そういう人もいた」と話した。
「皆は例外だと言う。そうです例外です。こうした例外が必要なのです」。
フランクルは「相手を責める前に心から相手を理解しようとしたい」と言っていた。
「まっすぐで力強いスピーチ。相手を許すことをフランクルから教わった。このことが次世代に伝えることだと理解した」(フランクルを覚えていた住民)。
苦難に直面する人の支えになっている。
なぜ今フランクルの思想を知ることに意味があるのか。
豊かな世界、しかし、排他的、一部の人だけが守られている。
しかし助けを求めている人へのまなざしがない。
強制収容所は人間尊厳を奪った。
「しかし今の世界も同じようなことが起きていないだろうか。希望と愛をもたらすロゴセラピーは私たちが知り、学びたいものではないだろうか」(小野正嗣)。
フランクルが晩年まで過ごした部屋には、フランクルがいた収容所の絵、亡くなった妻テリーをモデルにした絵、像「苦しむ男」これは壊された教会から見つけたものが、飾っていた。
苦悩とどう対面するか。
自分を超えた何かへの愛。より人間らしく、それが生きる力に。
豊かさの中に芽生える空虚感。そこにロゴセラピーが働きかけることができるのではないだろうか。
感想;
フランクルの妻テリーさんは、フランクルがアウシュヴィツに移動させれると、もう二度と会えなくなると実感されたのでしょう。自分より夫フランクルが生きのびない。だったら、少しでも一緒にいたいと思われたので、死ぬリスクの高いところへの移動を希望されたのではないでしょうか。
テリーさんもフランクルに再開することを希望にして解放まで頑張って・・・。
しかし、体力が持たなかった。このような人がたくさんいたと思います。
解放されてからも多くの人が体力がなくて亡くなっていったそうです。
フランクルの体験を過去とせずに、今の問題として考えることが今、そして未来を少しでもよりよくしていくために必要なのだと思います。
そのためにはまず知ることだと思います。
生きる意味を問うのではなく、人生の方から生きる意味を問いかけている。
この状況下で。
どんな状況下でも意味は見つけられれる。
希望の光があるはずだと。
ロゴセラピーは光を見つけるためのヒントを与えてくれるセラピーだと思います。
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