本「いしぶみ 広島ニ中一年生全滅の記録」 より
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に広島に原爆が投下されました。
その日に軍の命令で子供たちが作業に駆り出させられていました。
広島テレビ放送 TVでも放映されました。
・東京から疎開してきた船倉浩太郎君はその日に限って、学校を休みたいと。台所の片づけをしながら男の子が意気地がないのと言ったら、いつの間にか学校に行っていた。
・故選浩行君は足に怪我をしていたので10日まで休むつもりだったが、学校に行ってノートの整理をすると行ってでかけ、途中空襲警報が出たので戻ってきたが解除なり出かけた。
・神名禎ニ君は身体検査の結果精密検査が必要だと6日かならず病院に行って検査を受けるために作業を休むように言ったが、私が出勤した後、作業に行くのは国のため、働けなくてもみんなのお弁当の番人くらいできるから病院に行くのは作業のない日にすると言って出かけて行った。
・広島ニ中一年生の作業は家を壊した後の後片付けだった。それまで空襲が一回しかなくいずれ大空襲があるから、火災が広がらないように空き地をつくるために家を壊す作業を行っていた。集合時間は8時10分頃、B29爆撃機エイラ=ゲイが原子爆弾を投下したのが、8時15分。皆がいたところから、500m北東の位置で、原子爆弾が投下されたのを見ていた。
・河野幹雄君はピカッと光ったら目が見えなくなっていた。
・下野義樹君は爆発と同時に黒く焼けた人が多かったのを見た。1/3のの生徒が一瞬に亡くなった。
・脇坂邦男君のお父さんが新大橋の東づめに着いたのは午前1時半、名前を呼ぶと「お父ちゃん」とわが子と思えないやけどにくずれた顔で返事しました。翌日の午後2時半に亡くなった。
・中谷君の近所だった堀正樹君はとうとう帰ってこずどこで死んだかいまでにわかりません。
・松井昇君は川から出た後、上級生が自転車でかけつけ寄宿舎に収容され、親類の助けで家に帰ったが、進め、進め、やっつけろ、と手をしきりにふりまわし、最後には、お母さん、おばあさん、とそれこそ声をかぎりに肉親の名を呼びつづけて死にました。
・桜美一郎君が広島ニ中一年生の最後の死亡者でした。11日午前8時。本川土手に整列した広島ニ中一年生、321人と4人の先生はこうしてひとり残らず全滅しました。
広島平和公園の本川土手に広島ニ中一年生の碑があります。
慰霊碑より
”なぐさめの 言葉知らねば ただ泣かん 汝がおもかげと いさをしのびて”
原子爆弾も戦争があったから、使われたのだと思います。
歴史は、戦争がもめごとの解決になるどころか、より悲惨な結果を導いていることを証明しています。いまだに戦いがあります。武器を提供している人々(国)があります。
TVで、被ばくされた英語の先生だった方が英語で海外の人に被ばく体験を話されていました。高齢なのと被ばくの影響が出て体調をくずされています。「私が死ぬと語り継ぐ人がいない」と言われていました。
戦争は二度と起こしてはならない、国間の問題の解決に軍事を使ってはいけないことが、亡くなって逝かれた方への私たちの役目のように思います。