「語源を知れば日本語がわかる」 柚木利博著 より
・「目からウロコが落ちる」
新約聖書 使徒行伝第9章18節
「直ちに彼の目より鱗(うろこ)のごとき物落ちて再び見ることを得」より
・「あのプロジェクトはオクラになった」
芝居の千秋楽を略して楽と言う。客の入りが悪くて早く千秋楽になってしまうと「ラクになってしまうと」。それにおが付いた。
・「後継者には彼に白羽の矢が立った」
もとは人身御供の家に立てられた不幸な矢。神が選び出した娘の家の屋根に白い矢が立てられた。犠牲者を選ぶのから、多数の中から選ばれたとなり晴れがましい意味に変わった。
・「どう考えてもまゆつばものの話」
この行為は、古くからおまじないとして行われてきた。狸や狐が人間を化かすと考えられていて、寂しい場所を一人で通るようなときは、まゆにつばをつけた。当時つばには霊力があると考えられていた。それから騙されないように「眉唾」と呼ぶようになった。
・「それはひどいこじつけだ」
故事を引き合いに出して理屈をつけることから
・「くだらないことを言うなよ」
美味しい酒は「下り酒」、まずい酒は「下らない酒」。
当時、関東で造られた酒は不味く、関西から来た(京から下る)酒が美味しかったことから、「下り物」として珍重された。
・「彼はでたらめばかり言う」
でたらめのめはサイコロの目。サイコロを振ると何の目がでるかわからないことから、江戸末期から、でまかせやいい加減なことを言うようになった。
・「一生懸命に努力する」
鎌倉幕府から安堵された一か所の領地を生命をかけて必死に守った。それで一所懸命と呼んだ。それが近世になり一所が希薄になり一生に変わった。
・「ちやほやしすぎるのは彼女のためにならない」
蝶よ花よとして育てる。中国語で蝶花を「チィエホア」と呼ぶ。「枕の草紙」239段に「みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける」と出て来るようになった。蝶が先になったのは江戸時代の近松の浄瑠璃になってからである。
・「あこぎなまねをしやがって」
あこぎは漢字で「阿漕」。伊勢の阿漕ケ浦の禁猟区のことである。伊勢神宮へ奉納する魚をとる場所として一般の人が漁をすることは禁止されていた。あるとき平次という男が、病気の母親に魚を食べさせたいと思い、禁猟区で密漁を繰り返した。やがて発覚して捕えられ罰として海に沈められた。「伊勢の海あこぎが浦に引綱も度重なれば人もこそしれ」(「源平盛衰記)八)と詠まれたり、能「阿漕」が作られた。それが、隠れてする悪いことの意味が強まった。母思いの行動がこんな意味に使われるようになった。
・「スポーツの醍醐味は、まさにそこだ」
仏教の経典に登場する牛乳からいろいろ造って行く過程の最後の味である。
1.乳味、2.酪味、3.生酥味(しょうそみ)、4.熟酥味、5.醍醐味
現在ではどのような味かはわからないが、仏教で至高の真理にあたる。
・「いわくつきの品物を買ってしまった」
孔子の論語は子曰(しいわく;言うこと)で始まる。秘密の事情を打ち明けるときはおおむねよくない事情である。それから好ましくないものを言うようになったかと。
感想;
最初の意味から変わって使われるようになって来た言葉も多いようです。
・情けは人のためならず、・役不足、・潮時、・確信犯、・気の置けない など
今は元々の言葉と違って使っている人が多いということは、どちらの意味がコミュニケーションツールとして良いのかは難しいところです。
今は両方の意味が使われていますので、知っておかないと誤解を招くことも起きます。自分が思っている言葉のニュアンスが相手の思っているニュアンスと違うと、コミュニケーションがぎくしゃくする場合も出て来ます。自分の発した言葉を相手がどう受け取るか(envision)を想像することがコミュニケーション齟齬のリスクを下げる方法のように思います。
メールがコミュニケーションツールとしての役割が増えて来ました。メールは書いた言葉を相手がどう解釈するかになりますので、送信する前にこのメールを受け取った相手はどう思うだろうかと想像するだけでも、コミュニケーションが円滑に行くように思います。