フランクルの弟子 ルーカスのゼミナールの資料より
(「教育のロゴセラピー5」勝田茅生著)
エリザベス・ルーカスがイタリアでゼミナールを開いたときに、ある男性に出会った。この人には生まれたときから両腕がなかった。それでもこの人は、自分の障害をそれほど苦にしていなかった。というのも手の代わりに足を使って物を拾ったり、ドアを開け閉めしたり、文章を書いたりすることが出来たからである。ある駅で彼はルーカスの見ている前で、改札口でおもむろに靴を脱いだかと思うと、足で切符を機械に差し込み、それを自分のズボンのポケットに突っ込み、それからすぐまた靴をはいた。
そして、この男性は自分の子ども時代のことを話してくれた。彼がまだ幼かったころ、朝起きると母親がズボンとシャツを持ってきて、「どうやってこれを自分で着たらよいか、やってごらん」と言った。そして彼の兄たちが母親に、「お母さんどうして助けてあげないの、厳しすぎると思わない?」と聞くと、母親は目に涙いっぱい浮かべて言った。「こうするのが、彼を助ける唯一の方法なのよ」。
このお母さんは、自分の子どもが自分の力で何とかして洋服を着ようと一生懸命に努力しているのを間違った同情や甘やかしで、この子どもの精神的な強さを骨抜きにしなかったのです。子どもはこの母親の躾を通して、自分の力で何でもすることができるようになりました。健康な子どもをもつお母さんが、自分の子どもに対して保護過剰になったり、援助の手を差し伸べすぎたりするとき、このような聡明な母親のことを考えたいものです。
放任された子どもや、甘やかされた子どもは、何かを諦めるということを学ばずに育ってしまうのです。それが必要だとわかっていても、意味あることを実現するために自分の衝動や快楽への欲望を抑えられない人間になってしまうのです。そして、このような子どもたちは社会に出て自立していくときに、自分が不健全に育ってしまったということに気がつくことさえないのです。いろいろなことがうまく運ばないのは、いつも自分ではなくて、環境や周囲の人間のせいだと考えるからです。
感想;
子どものことが心配で、子どもが失敗しないように親が事前にいろいろ手伝うことがよくあります。そうすると子どもは失敗を体験しませんので、失敗した時、気持ちをどう対処するか、失敗をどう自分で責任を取るか、失敗後にどうしていくかを学ぶことがありません。
生きていると失敗はつきものです。失敗をしながら学んで行きます。親は目先の子どもの失敗を恐れて、子どもが失敗から学び、独り立ちして行くチャンスの芽を摘み取っているのかもしれません。親がフォローできる間に、子どもが失敗から学ぶ体験をさせることが必要なのでしょう。