平常心を失わない技術 保坂 隆著 より引用(であるをですますに)
恨みや怒りを感謝の思いに変える
2004年のアテネ・オリンピックでは野口みずき選手が優勝しました。男子の優勝者を覚えておられるでしょうか?男子マラソンでは、ブラジルのバルデルレイ・デリマ選手を覚えておられるでしょうか?ゴール直前の36Km地点で沿道から一人の男性が飛び出しデリマ選手に体当たりを食らわせたことは覚えておられる方も多いと思います。
警備員が男を捕えるまで、もがくことしかできませんでした。ようやく男が捕えられて、デリマ選手は走り始めました。しかし、すっかりペースを崩されて、後続のランナーに次々抜かれ、結果は三位の銅メダルでした。男が表れるまで二位に40秒以上の差を付けて独走していました。男が表れなかったら金メダルを取っていた可能性は高かったと言われています。
デリマ選手は初出場のアトランタではシューズが合わず47位、二度目のシドニーでは練習中に足を痛めて75位と惨敗していました。こうした苦難の末、周到な準備をしてアテネ大会に望んでいました。
これにはブラジル政府は猛攻撃しました。国際陸上競技連盟に「デリマ選手にもう一つ金メダルを贈るように求めましたが却下されました。これを不服としたブラジル側は、スイス・ローザンヌのスポーツ仲裁裁判所に提訴しようとしたところ、当のデリマ選手が、「提訴しなくていい」と止めました。「今回のことで誰も責めようとは思わない。どこでもあり得る事件であり、たまたまそれがマラソンレース中に起こっただけのこと。たしかにあの後、レースに集中できず、最後まで走りきることさえ困難だった。でも、最後まで走り切れて、祖国にメダルを持ち帰ることができた。それだけで本当にうれしく感謝している」
こうしたことが起これば、ふつうはまず誰かを責めるものだ。このケースなら、ぶつかってきた男を恨み、警備体制がお粗末だったオリンピックの運営側を責めるのではないでしょうか。三度目のオリンピックで、8年かけてようやく手に入れかかった金メダルが、とんだアクシデントで消えてしまったのですから。「もう一つ、金メダルを」と裁判所で闘う道も開かれていました。だが、起こってしまったことをいつまでも引きずっている限り、その事実から解放されることはないのです。心は乱れ、ことがあるごとに恨みや怒りが込み上げて来ます。それくらいなら、あるがままの結果を受け止め、そのことにピリオドを打ってしまった方がいいのです。
その後、国際オリンピック委員会は、デリマ選手のスポーツマンシップを讃え、近代オリンピック再開の功労者クーベルタン男爵の名前を冠したメダルを贈呈しました。
感想;
結果は過去で、結果に拘っていると今を無駄に過ごし、未来も暗い。お釈迦様が、「過去も未来もない。あるのは今だけだ」とのことばにもありますが、なかなそう思えなく、かつ実践できないです。「過去は今をいかすために存在し、未来は今の結果だ」と頭でわかっているつもりでも、感情がイライラし未来の不安が頭から消えません。イライラしていることで体調も悪くなる場合があります。
ロゴセラピーでは、人生に自分から意味を見出すのではなく、人生が自分に意味を尋ねて来ると考えます。その問うてきた人生の出来事に、何か意味を見出し価値を見つけて行くと考えます。
まさに、デリマ選手は過酷な出来事を受け容れ、意味を見出されたのではないでしょうか。金メダルは多くの選手が取ります。その時はマスコミにもたくさん映像にも紹介されます。しかし、その後だんだんと皆の記憶から消えて行きます。デリマ選手の過酷な出来事、それを受け容れた彼の対応はオリンピックが続く限り、その後の世代の人々にも引き継がれるのだと思います。