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★セブ島の旅★ホテルの自室へ

2012年11月12日 | ★旅行★外国
プランテーション・ベイ・リゾート&スパは敷地がとても広いので、受付ロビーからR3の部屋までは(写真1・絵図の左側点線参照)電動カートで案内されます。

敷地内には電動カートが走っていて頼むとお迎えも来てくれます。また、カレッサと言う馬車も走っています。勿論無料ですがご利用は昼間のみです(写真11と12)。

カレッサは別名ホース・タクシーとも呼ばれている馬車でセブでも下町に行かないと見かけなくなりました。 また庶民の足として利用されているようです。

電動カート

電気モーターを動力源とする電動輸送機器(electric vehicle; EV)の一種である電気自動車は、車載電池から電力を得る電池式電気自動車と、走行中に電力を外部から供給する架線式電気自動車とに大きく分けられる。

電池式電気自動車は、外部からの電力供給によって二次電池(蓄電池)に充電し、電池から電動機に供給する二次電池車が一般的である。車両自身に発電装置を搭載する例としては、太陽電池を備えたソーラーカーや、燃料電池を搭載する燃料電池自動車があるが、2012年現在、実用化されていない。

























カレッサ

馬に引かせて人や荷物を運ぶ車の総称。乗用馬車、荷馬車、鉄道馬車、郵便馬車、自家用馬車などいろいろの種類がある。二輪車と四輪車があり、それを引く馬の数は二頭立て、四頭立て、八頭立てなどがあった。

馬車は古代メソポタミアあたりで考え出されたといわれている。その用途はもっぱら戦闘用の戦車としてであり、エジプト、ギリシア、ローマなどでは数頭の馬に二輪車を引かせ、戦車として用いたほか競技用としても使用した。
これらは二輪車の車軸の上に腰掛をしつらえて座れるようにした簡単な造りのものであった。古代中国の漢民族は駟馬(しば)とよぶ四頭立ての馬車を戦車として使った。

またこれより前の殷(いん)の時代にも馬車は用いられており、殷墟(いんきょ)の王墓からは二頭立て、四頭立ての馬車が射手や御者を乗せたまま葬られているのが発掘されている。
中国古代の馬と車のつなぎ方は、北方系のトナカイや犬をそりにつなぐ方法と同じで、メソポタミア辺のつなぎ方とは異なる。

馬車が一般庶民の交通機関としての役割を果たすようになったのは、中世のヨーロッパにおいてである。15世紀ごろに運搬用の本格的な有蓋(ゆうがい)馬車が現れ、16世紀後半にはステージワゴンとよばれた大型馬車がイギリスでつくられた。

さらに鋼鉄のスプリングが発明され、定期駅馬車が走るようになった。これ以後、馬車の使用はますます盛んになり、18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパの主要都市を結ぶ馬車の交通網が発達した。
そして19世紀初頭にはレール上を走る鉄道馬車がイギリスに出現した。

一時に多量の荷物を運ぶことのできる馬車は、ヨーロッパだけでなく新開地のアメリカでも用いられ、幌(ほろ)馬車は西部開拓史に大きな役割を果たした。

日本における馬車の歴史は新しい。運搬の手段として馬は古くから用いられ、古代律令(りつりょう)制においては駅制が整備され、駅馬も制度化された。しかし、これは車を引かせるものではなかった。馬に人が乗ったり、馬の背に荷物を乗せて運んだのである。

こうした車を使用しない馬の使用はずっと後まで続いた。畜力による車としては牛車(ぎっしゃ)があった。しかし牛車に乗れる者は貴人に限られ、一般庶民は徒歩がほとんどであった。駕籠(かご)や馬の背を利用できるのも限られた人たちであった。

荷物を運ぶのも人や馬の背によって行われ、駅から駅を付け通しする中馬(ちゅうま)制度も車を用いるものではなかった。

日本における馬車の出現は幕末になってからで、横浜居留地の外人が私用に使ったり、外国の公使館が幕府のある江戸とを往復するために用いたのが最初といわれる。こうした馬車の使用を見た横浜の川奈幸左衛門ら数名が、1869年(明治2)2月乗合馬車の営業を出願し、出願者が共同で成駒屋(なりこまや)という店名で、1870年9月営業を開始した。

2頭立てで乗客は六人、東京までの所要時間4時間、運賃は75銭であった。1872年には東京市内でも一区一銭の馬車営業が、浅草雷門と新橋間を三区制として開始された。これは二階建ての馬車で二頭の馬で引いた。しかし馬車が横倒しになり死亡者を出す事故を起こしたため、二階建ての馬車は禁止された。

東京市内を走る乗合馬車は警笛としてラッパを吹き鳴らしたが、これは当時の新しい風物として人気を博し、落語家4世橘家(たちばなや)円太郎がこれを高座で吹いて評判をとったため、乗合馬車は円太郎馬車ともよばれた。1873年には郵便馬車会社が開業し、郵便物と魚とを乗せて東京―高崎間を16時間で運行した。

その後、各地で馬車営業がおこるとともに郵便馬車会社もおこり、1881年には東京―大阪間の路線も完成し、長距離陸上輸送が開始された。また、華族や高級官僚は自家用馬車をもつようになった。1882年には鉄道馬車が新橋―浅草間に開通し、80年代後半~90年代には馬車の全盛期を迎えた。

しかし馬車の普及と並行するように鉄道が開通し、路線が延び、また電車、自動車の急速な発達などによって、大都市周辺や主要街道を中心として馬車の短い歴史は終わる。

一方、地方都市や農村における荷物の運搬手段として普及した荷馬車は運送馬車とよばれ、昭和20年代までもその機能を保ち続けた。自動車の普及が地方に及ぶのが遅かったこととともに、農村では農耕馬を飼育し、その馬に運送車を引かせることができたという事情もあった。

しかし自動車の普及により運送馬車はトラックなどの自動車にとってかわられ、農耕機具にも動力が取り入れられるようになって馬が利用されることは少なくなり、運送馬車も姿を消した。現在はわずかに観光資源として短い距離を観光客を乗せた馬車が走るだけになってしまった。

着いた部屋の前は真水のプールが左右に有りました。


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