『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦12月25日  久之浜の歳の市

2008年05月22日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月25日の項には、
次のような記述がある。久之浜の市についてのものだ。

久ノ濱モ、是日バカリノ市タツナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月25日 久之浜でも、この日、一日限りだが、歳の市が開催される。

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陰暦12月25日  平 久保町市 

2008年05月20日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月25日の項には、
次のような記述がある。
平の久保町で行われる歳の市についてのものだ。

是日 久保甼ニ一年一度ノ市立ツ。
正月物ノ賣買。
久保甼市トテ遠近ヨリ群集夥シ。
此日、甼小路ヘ牛馬ヲ禁ズ。其雜沓知ルベシ。
久保甼ノ市ヲ過シ、翌廿六日ヨリ城下ハ日市ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月25日 この日、
平の久保町で一年に一度の市が催される。
正月に必要な物の売り買いが行われる。
この市は「久保町市」と呼ばれ、
遠近から多くの人々が押し寄せる。
この日、久保町への牛馬の出入りは禁止されるが、
それによっても、
この市の人出の多さを計り知れることが出来るというものだ。
久保町の市が終わり、
翌日の26日からは
磐城平城下の町々で歳の市が開催される。
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陰暦12月  納豆づくり

2008年05月13日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。「干納豆づくり」についてのものだ。

廿五日 大豆ヲ煮テ納豆トシ、米ノ粉ヲカラミテ、
正月雜煮ノ膳ニ付ル。是ヲ干納豆トイフ。
又、柚ノ皮、とうがらしヲ刻ミ、塩ヲ混和シ、酒ノ肴トス。
寡婦、貧困ノ儕ト雖モ、是日、納豆ヲ煮ザル事ナシ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月25日 この日、大豆を煮て納豆にし、
それに米の粉をからめ、正月に雑煮と一緒に食べる。
いわゆる「干納豆」である。
また、柚子の皮と唐辛子を小さく刻み、
それに塩を混ぜる。これは酒の肴にする。
一人暮らしの未亡人でも、また、貧しい家でも、
この日には必ず納豆を作る。
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陰暦12月  お歳暮

2008年05月08日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。「お歳暮」についてのものだ。

中旬以後、親戚、親友互ニ相餽遺(ヲクリモノ)ヲナスヲ
單ニ歳暮ト唱フ。
卒歳ヲ祝賀スルノ礼ナリ。
此餽遺ノウチニ男子ノ生レタル家ヘハ破魔弓ヲ贈リ、
女子ノ生レタル家ヘハ羽子板ヲ贈ル。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月の中旬以後、
親戚や親友同士が互いに贈り物をし合う。
これを単に歳暮と呼ぶ。
無事に一年の終わりを祝うのである。
このなかで特に男の子が誕生した家へは破魔弓を贈り、
女の子が誕生した家へは羽子板を贈る。
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陰暦12月  寒さの凌ぎ方

2008年05月01日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。

冬分ハ農商家トモニ焼火ニ寒氣ヲ防グ。
男女奉公人ニ臥具ヲ持タルモノ少シ。
冬モ着ノマヽニテ爐邉ニ臥ス。
火燵(コタツ)ハ冨家ト雖モ、之ヲ設クルモノ甚少シ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

冬の間は農家でも、商家でも、
薪を燃やして暖をとり、寒さを凌ぐ。
男も女も奉公人で夜具を持っている者は少なく、
着の身着のままで、囲炉裏の近くで横になって寝る。
裕福な家であっても、
炬燵を持っている家はとても少ない。

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陰暦12月  かやで

2008年04月22日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
「萱手(かやで)」についての記述である。

屋根ヲ葺ク者ヲかやでトイフ。
たちつけヲ着、一尺餘ノ小脇指、
鍔イカニモ小サク、銅拵ヘナルヲサス。
是ヲ野差トイフ。竹割リ、縄キリ、之ヲ用ユ。鎌ハツカハズ。
葺口ヲタヽキ揃ユル板ヲがんぎトイフ。
たちつけトハ、山袴ニテ、又、かるさんトモイフ。
村民ノ山野ニ出ルモ、皆之ヲ着、田畠耕鋤ニモ着ル者多シ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

屋根の萱葺きを仕事を生業とする者のことを
「萱手(かやで)」という。
萱手は「たちつけ」という作業着を着、
長さ30センチメートルほどの小さな刀で、
銅で作られた小さな鍔が付いているものを腰に差す。
これを「野差(のざし)」といい、竹を割ったり、
縄を切ったりする際に用いる。鎌は使わない。
また、屋根に葺いた萱を平に揃える時には
「がんぎ」という板を使う。
「たちつけ」というのは、「山袴」のことで、
「かるさん」ともいわれる。
村の人たちが山野で作業をする際や
田畑を耕す際にも着用することが多い。
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陰暦12月  強い北西の風にそなえた家造り

2008年04月18日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。

冬春ノ間、西北ノ風烈シク、
或ハ屋根ヲ吹剥キ、塀穡ヲ吹倒スアリ。
故ニ宅地ノ西北ニハ多ク樹木ヲ植テ、之ヲ防グ。
之ヲ家圍(ヤガコヒ)トイフ。
家屋ノ構造、破風作ヲナサズ。
大概、茅屋根ニテ四方葺ツメニシ、
上ニ烟突(ダ)シヲアグル。
ぐしニハ芝塊(シバグレ)ヲ載ス。
ぐしトハ屋棟ヲイフ。風ニ破レヌ為メナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

冬から春にかけ、いわき地域では西北の風が激しく吹き、
屋根を吹き飛ばされたり、
塀や生垣を吹き倒されたりすることがある。
そのため、家々では屋敷の西北側にたくさんの樹木を植え、風を防ぐ。
これを家囲いという。
また、家の屋根も、破風作りにはせず、
茅葺き屋根の全てを茅で葺き詰め、屋根の上に煙出しを設ける。
屋根のてっぺんの「ぐし」には芝の塊を載せる。
これも強く吹き付ける風に対するそなえである。
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陰暦12月19日  十九夜講

2008年04月14日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
「十九夜講」についてのものだ。

十九日 十九夜念佛トイフアリ。
女人ノ罪障ヲ滅除スル為メトテ、
毎月十九夜、米銭ヲ持寄リ、酒食ヲ饗シ、
歌念佛ニくどきヲ入レ、和讃ナド云フモノヽ如ク唱ヘ、
奇妙頂来十九夜のいわれを悉しく尋ぬれば
南無阿弥陀佛云々ト、
サモ感歎悲哀ノ情アル如クニ聞ユル唱方ナリ。
毎月、宿ハ順還ナリ。
懸銭アリ。之ヲ積ンデ、地藏、
又ハ如意輪観音ノ石像ナドヲ立ルトイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月19日 十九夜念仏(十九夜講)が行われる。
女性の罪や穢れを除くため、
毎月十九日の夜に行われている。
この夜、女性たちは米やお金を持ち寄り、
酒や食事を摂り、
また、歌念仏に「くどき」といわれるものを交え、
和讃のような節を付けて唱える。
歌詞は「奇妙頂来(きみょうちょうらい)、十九夜の、
いわれを悉(くわ)しく尋ぬれば、南無阿弥陀仏云々」
というもので、うら悲しい旋律である。
十九夜講は12月だけではなく、毎月行われ、
当番の宿は順巡りになっている。
また、月々、お金を積み立て、
地蔵や如意輪観音の石像などを建立したりもする。

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陰暦12月  寒念仏

2008年04月03日 | 歴史
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
「寒念仏」についてのものだ。

寒念佛アリ。同行ヲ催シ、村里ヲ廻ル。
若輩淳蕐ノ同行ハ、鉦ニ笛、太皷、三味線ヲイル。
是ハ佛像、堂宇建立、修覆ノ為メニ米銭ヲ集ムルナリ。
又、七、八歳ヨリ十二歳位ノ子供、寒夜ニ鉦打鳴シ、
其里近ク念佛シ廻リ、夜更(ヨフケ)帰リ、集リテ、
受タル米ヲ粥ニ煮ル。
是ハ小兒ノ游戯、寒念佛ニ倣フナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月には、寒念仏が催される。
多くの人たちが集団になり、村々を巡り歩く。
青年たちは鉦や笛、太鼓、三味線を奏でながら、村々を巡る。
これは仏像の造営、修理や、
お寺やお堂の建立、修理に必要な資金を
集めるために行われるものである。
また、7、8歳から12歳ぐらいの子どもたちも、
鉦を打ち鳴らし、村内を念仏を唱えながら廻り、
夜更けに、寄進された米を煮て、粥にして食べる。
これは子どもたちの楽しみごとになっており、
本当の寒念仏ではなく、
それを真似たものである。
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陰暦12月  山伏の寒行

2008年03月31日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
この時期、山伏たちが行う「寒行」についてのものだ。

山伏ノ寒行ハ、朝早ク水垢離シテ出ヅ。
其行装ハ白布頭ヲ約シ、避秦(オヒ)ヲ負ヒ、
一歯屐ヲ穿チ、金剛杖ヲ右ニシ、法螺ヲ左ニス。
概ネ、先ヅ大舘ノ湯殿山権現ヲ拜シ、
各神社ヲ廻拜シ、法螺ヲ吹ク。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

山伏の「寒行」は、早朝、水垢離を取ってから、出発する。
その際のいでたちは、白い布で頭を覆い、
避秦(オヒ)というもの(箱型の背負子)を背負い、
一本歯の下駄を履き、
金剛杖を右手に持ち、法螺を左手に持つ。
ほとんどの場合、山伏たちは最初に大舘の湯殿山権現に参拝し、
その後、各地の神社を回って参拝し、
その際、そこで法螺貝を吹き鳴らす。
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