『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦1月6日  六日年越

2008年08月21日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の
陰暦1月6日の項には、
次のような記述がある。

六日 僧侶、神主、称、山伏等ノ年始日ナリ。
是日ヲ六日年越トイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月6日 この日は僧侶や神主、禰宜、山伏などが
年始のあいさつにまわる日である。
また、この日を「六日年越」ともいう。


「六日年越」というのは、
「七日正月」に関連する言葉である。
「七日正月」というのは、
1月7日が「人日(じんじつ)の節句」にあたり、
一年最初の節句であり、
それを祝って、この日を
「七日正月」と呼ぶようになったとされている。
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陰暦1月5日  飯野八幡宮の「焼大黒」

2008年08月18日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月5日の項には、
次のような記述がある。
飯野八幡宮の「焼大黒」に関するものだ。

五日 飯野八幡宮ノ宮番ヨリ大黒像ヲ摺出ス。
此板木ハ、昔時、本社回禄ノ災ニ罹リシ時、
焼焦(ヤケコゲ)タレドモ、
其像猶依然タルヲ以テ世ニ焼大黒ト称シ、防火符トス。
懇望ノ者ハ錢十二文ヲ賽シテ之ヲ受ク。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月5日 
飯野八幡宮の宮番が、人々に大黒様の御姿を刷った御札を配る。
これに用いる版木は、
むかし、飯野八幡宮が火災にあった際、
一部が焼け焦げたものの、無事であったので、
それ以後、これを世間の人々は「焼大黒」と呼ぶようになり、
これで刷った大黒像の札は
火災除けの御札として多くの人々の信仰を集めることになった。
この御札は、欲しい者には12文で譲り渡された。


ちなみに、12文というのは、
現在の500円ぐらいに相当すると思われる。
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陰暦1月4日  姑入り

2008年08月13日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月4日の項には、
次のような記述がある。「姑入り」に関するものだ。

四日 農家ハ姑入(シウトイリ)ト唱ヘ、
夫婦ヅレニテ舅家ヘ年礼ニ行ク。
大ナル熨斗(ノシ)餅二枚、白米、樽肴、
分限相応ニ取持セ、
貧シキ者ハ、夫ハ樽肴ヲカタゲ、
婦ハ米、餅ヲ提ゲ、小兒ヲ抱負ナドシテ行ク。
遠近ユキカヒ多シ。
舅家ニテ節會(セチヱ)ノ饗応アリ。
彼熨斗餅、下重ネ一枚ヲ舅家ニ留メ、上重ネハ婿持帰ル。
婦ハ一宿シテ、翌日帰ル。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月4日
農家では、この日を「姑入」の日とし、
夫婦連れで配偶者の実家へ年始の挨拶に行く。
その際には、大きなのし餅を2枚、
さらには白米や酒の入った樽、御馳走などを
分相応に用意し、持参する。
使用人などのいない家では、
夫自らが酒や御馳走を持ち、
また、婦人も米や餅を持ち、子どもを抱いたり、
背負ったりして実家に赴く。
そのため、この日には行き交う人が多い。
実家では御馳走が振舞われる。
なお、持参したのし餅のうち、
下に重ねる大きな餅の方は実家が貰うが、
上に重ねる小さな方の餅は夫が持ち帰る。
婦人は一泊して、翌日、家に帰る。
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陰暦1月4日  棚さがし

2008年08月11日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月4日の項には、
次のような記述がある。「棚さがし」に関するものだ。

四日 棚さがしトテ、
朝、神棚ヘ供ヘタル餅ヲトリ卸シ、
味噌ヲ塗リ、田楽トシ食フ。
城下ハ壱甼内毎ニ家々ノかいしき紙ヲ集メ、
かいしき紙トハ神棚ヘ供ヘシ餅ノ下ヘシキシ紙ノ事ヲイフナリ。
之ヲ回リ壱尺以上ノ竹ノサキニ結ビ付ケ、
大ぼんでん二本ヲ作ル。
又、青、赤、白ノ紙ニテ馬追ぼんでん壱本ヲ作ル。
之ヲ甼内ニ立テ、十四日ニ至ル。
是ハとんどノ用意ナリ。
とんどノ事、下ニ見ユ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月4日 この日の朝、
「棚さがし」といって、
正月のために神棚にお供えした餅を下ろし、
それに味噌をからめ、焼いて、田楽にして食べる。
磐城平城下では、町内毎に
「かいしき紙(神棚などにお供え物をあげる際、お供え物の下に敷く紙)」を
集め、
これを幹回り30センチメートル以上の太さに竹の先に結び付け、
大梵天(だいぼんてん)を2本作る。
また、それ以外に青、赤、白の紙で
「馬追梵天」と呼ばれる梵天も1本作る。
これらの梵天は町内に立てて置く。
これは正月14日に行われる
「どんと(とんど いわきでは、いわゆる鳥小屋行事のことをさす)」
のための準備である。
「どんと(とんど)」のことについては、
また後の項で書き記すこととする。
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陰暦1月3日または4日  水祝儀 水掛け 水祝い

2008年07月23日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月3日または4日の項には、
次のような記述がある。「水祝儀」に関するものだ。

三日又ハ四日 市人、水祝ノ宴アリ。
昨年婚嫁セシ者、親類縁者ヲ招キ、水ヲ賀ス。
 按ニ、水祝トハ、去年新ニ娶(メトリ)シ男ニ水ヲカケシナリ。
是事、今ハナシ。
磐前郡中ノ作ナドニハ、近キ頃マデ墨(スミ)塗(ヌ)リトテ、
新婚セシ者ノ顔ヘ墨ヲ塗リシ戯アリシ。
水ヲカクルト相似タル事ナリ。
貝原氏云フ、水ヲカクル事ハ永禄ノ頃、
阿波ノ三好ガ家臣松永彈正ガ姪女ヲ
我家ノ寵臣ニ妻(メ)アハセシヨリ、此戯ヲナシ初メント。
サレバ、戰國餘習ノ悪戯ニテ、徃々口論争闘ニ及ブ。
是、豈祝儀ト為スベキ事ナランヤ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

三日又は四日 城下の人々は、水祝の宴を催す。
これは前年に嫁を娶った者が親類や縁者を招き、
水を酌み交わしてお祝いをするというものである。
 いろいろ考えると、
水祝というのは、前年に嫁を娶った男に水を掛けるというのが
元々のかたちである。
しかし、このようなことは、今は行われていない。
ただし、いわきの中ノ作などでは、最近まで墨塗りといって、
新婚の者たちの顔に墨を塗るということが行われていた。
水を掛けるのと同じような意味を持つものである。
貝原益軒によれば、
水を掛けるというのは永禄年間の頃、
阿波の三好氏の家臣、松永彈正が
姪娘を臣下に嫁がせた時に始まったということである。
もし、そうだとすれば、水掛けや水祝いは
古く戦国時代から行われているということなる。
しかし、水掛けがきっかけで、
口喧嘩や争いになってしまうこともあり、
このような風習をお祝いだとばかりは言っていられない。
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陰暦1月2日  初売り

2008年07月08日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月2日の項には、
次のような記述がある。
今日で言うところの「初売り」に関するものだ。

二日 商家、店開キノ祝。客人へ扇子、手巾ナドノ小品物ヲ贈ル。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月2日 商家では店開きのお祝いをし、
客に扇子(せんす)や手拭いなどの小物をプレゼントする。
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陰暦1月  元日

2008年06月20日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月元日の項には、
次のような記述がある。

元日 門松、若水、雜煮、屠蘓、三日ニ至ルマデ同様ナリ。
各自、家例異同アレドモ、煩瑣ナルヲ以テ記サズ。
惠方ニ開テ張(ハル)注連(シメ)ヲ年縄(トシナワ)トイフ。
商家ハ店休(タナヤス)メトテ、見世ヲ開カズ。
終日、屋中ヲ掃除セズ。
日本歳時記ニ、新ニ来ル陽氣ヲ掃ヒ捨テズ、
静養スル意ナルベシトイヘル、是ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

元日 元日、2日、3日の正月3が日の間、
門松を飾り、若水を汲み、雜煮を食べ、屠蘇を飲む。
これらには家ごとにさまざまなスタイルがあるが、
それらのいちいちを、ここには記さない。
その年の歳神様がやって来る方角を恵方というが、
その方角を開け、室内に張り巡らす縄を年縄という。
商家では元日を「店休」とし、店を休む。
また、元日には家の掃除をしない。
これの謂われについて、
『日本歳時記』には
「新ニ来ル陽氣ヲ掃ヒ捨テズ、
静養スル意ナルベシ」との記載がある。
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陰暦12月 節分 

2008年06月19日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の節分の項には、
次のような記述がある。

節分 鰮魚(イワシ)ノ頭ト杠谷樹(ヒヽラギ)ヲ門戸ニ插ミ、
鬼打豆ヲ撤スル、他方ニ異ナラズ。
老幼男女トモ豆ヲ数(カゾ)フル、
歳ノ数ノ如クシ、一ヲ加ヘ、
之レニ銭一文ヲ添ヘ、紙ニ包ミ、
疫除(ヤクハラヒ)ニ與フ。或ハ十字街上ニ捨ツ。
疫除ハ街上ヲ走行シ、高ク、御厄はらひませうト呼ブ。
明年、厄年ニ丁(アタ)ル者多ク厄落(ヤクオトシ)トイフヲ為スナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

節分 この日には、
イワシの頭とヒイラギの葉を門口や戸口に挿し、
鬼を払うための豆を撒くが、これはいわき特有なものではない。
また、老人も子どもも、男も女も、
自分の年齢よりも一つ多くの数の豆と
銭1文(約20~50円)を紙にくるみ、
「厄払いの者」にあげたり、十字路に置いたりする。
「厄払いの者」は大きな声で
「御厄払ひませう」と叫びながら街中を歩き回る。
来年、厄年を迎える者は「厄落とし」ということをする。

かつては、「厄払いの者」という人がいたらしい。
この人は町内を巡って歩き、
各家庭から豆とお金を預かり、
四辻で鬼を追い払うために
豆撒きをしたらしい。
江戸時代の資料を読んでいると、
節分の行事として、
よくこのような記述がある。

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大晦日

2008年06月11日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月大晦日の項には、
次のような記述がある。

大晦日 大歳トイフ。正月十四日ヲ小歳トイフニ對ス。
按ニ、支那ニテハ、冬至前一日ヲ小歳ト為シ、冬除夜トス。
冬除夜ハ歳除夜ニ對スルナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

大晦日 「大歳」ともいう。
正月14日を「小歳」と対になっている。
中国では、冬至の前の日を「小歳」とし、
「冬除夜」とも言う。
「冬除夜」は「歳除夜(大晦日)」と対になっている。
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陰暦12月27日  餅つき 松飾り

2008年06月06日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月27日の項には、
次のような記述がある。

廿七日 餅搗キ。若松ヲ迎フ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月27日 正月の餅を搗き、迎春の松飾りを飾る。
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