どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ52

2007-12-13 23:12:12 | 剥離人
 四十数万円の接待交際費問題をクリアした私に、ポンプメーカーのF社から連絡が入った。

 電話をしてきたのは営業の大澤だった。
「S市での工事、お疲れ様でした」
「ええ」
「そろそろハスキーの超高圧時の稼働時間が、200時間を越えていると思うんですが」
「ええ、確かに超えていますね」
 私は、まだなんとなく大澤には好感が持てないでいた。
「200時間メンテナンスをやりませんか?」
「やりませんかって、私はまだ完全にはやり方を覚えていないんですけどね」
「いえ、木田さん一人でという意味ではありません。もちろんこちらの技術の人間からレクチャーさせて頂きますんで」
「あの三浦って人?」
「それはまだ決まっていません」
「あ、そう。あの人俺の事が嫌いみたいだよ」
「・・・」
 すっきりとしない会話のまま、ハスキーの200時間メンテナンスを行う日取りが決まった。

 当日、R社からは私と常務の渡、部長の幸村が参加し、F社からは営業の大澤、なぜか関西方面技術担当の佐藤が来ていた。場所はKT社の機材センター、もちろんセンター長である柿沼や、現場が入っていなかった江藤やトモオも居た。
「ちーす!」
「木田さん、元気でしたか!」
「元気、元気!風俗パワーで!」
「うははは!」
 柿沼や江藤たちと、久しぶりに盛り上がる。
「すっかり馴染んどるな」
 渡が私を見て、笑って言った。
「ところで、どうしてKT社の機材センターにウチの機材一式が置いてあるんですか?」
 私は渡に訊いてみた。
「あれ、お前に話しとらんかったか?」
「何の話をですか?」
「この機材一式は、ウチとKT社で共同購入したんや。厳密には機械一式はウチの金で、消耗部品等はKT社の金や」
「そんな話は初めて聞きましたよ」
「そうか?そらぁ失礼しましたな」
「それで機材一式をここで保管してもらうって話になっているんですよね」
「そういうことや」
 R社は大事なことを社員に話さないという、変な社風があるのだ。

 気持ち良く晴れた青空の下、屋外で超高圧機器の第一回メンテナンス講習会が始まった。最初はガンのオンオフスイッチ制御を担う、タンブルボックスのメンテナンスからだ。
 佐藤はタンブルボックスのホースを接続する部分を指して言った。
「この部分はスイベル機構になっています。ホースのねじれ回転をこの部分で吸収します。しかし汚れによる固着や、内部のシールがダメージを受けると、回転機構が死んでしまう事があります。このタンブルボックスは、完全に動かなくなっていますね」
 佐藤は淡々と進める。
「この部分にレンチを掛けると、スイベル部を取り外す事ができます」
 その時誰かが大声を出した。
「ああ!あー、ちょっとその部分をもう一度!」
 それはビデオカメラを構えた柿沼だった。
「今ちょっとね、陰になってきちんと映らなかったから」
 佐藤はやや困惑をしたが、もう一度レンチを掛ける所を演じて見せた。
「進めてもいいですか?」
「ああ、ありがとう!」
 柿沼はビデオカメラの液晶画面を見つめたまま答える。
「続いて、外したスイベルのこの部分と端の部分にレンチを掛けると、スイベルをばらす事ができます」
 また柿沼が大声を出した。
「ちょ、ちょっと待って、今の部分が綺麗に映ってない気がする!」
 佐藤はさらに困惑する。
「柿沼さん、そんなの大体でイイんだから」
 江藤が思わず口を挟んだ。
「でも後から見た時に、きちんと分かるようにしとかないとさぁ」
「イイから、じゃあ俺が録ってあげるよ」
「え、でもせっかく俺が準備したのに…」
「もう、いいの、ハイ!」
 江藤は苦笑いをしながら、上司である柿沼からビデオカメラを奪い取った。
「はい、どんどん進めて」
 佐藤はホッとした顔をすると、スイベル部のシール交換を始めた。
「はい、これで完了です。これで正常に動くので、ホースのヨレを取ることができますよ」
 だが佐藤の説明を聴いているうちに、なぜか私はイライラとして来た。実際、現場では壊れたスイベルのおかげでホースのヨレが取れず、みんなに、
「ガンが撃ちにくい」
「ひじが開くような力が加わる」
 と言われていたからだ。結局そこにスイベル機構を持った部品があることすら分からず、KT社の皆には我慢をして貰っていたのだ。
「どうしてこれを教えてくれなかったんですか」
「え?」
 私の怒気を含んだ口調に、佐藤は固まった。
「なぜ現場に来た時に、これを私に説明しなかったんですか」
「いえ、あの…」
「KT社の皆は、このスイベルという部分が壊れていたから、ずっと撃ちにくいままガンを撃っていたんですよ。もちろん僕にはこんな部品があることも、その修理方法も分からなかった」
「ええ…」
「なぜこんな重要な部品の話を、今頃こんな所でしているんですか」
「それは、時間もありませんでしたし・・・」
「この部品は撃ち手にとって、作業性が大きく変わる重要な部品だと思いますけど。それとも技術の人は、自分じゃガンを撃たないからどうでもいいって思っているんですか?」
「そういう訳ではありませんけど…」
 しばらく嫌な沈黙が漂った。
「おう、ちょっと休憩しようや」
 突然、渡が大声で言った。ふっと緊張していた空気が緩み、ある者はタバコを吸いに、ある者は自動販売機に向かった。
 
 私は自分の中で煮えたぎっている、怒りの行き場所を探していた。なぜ、どいつもこいつも現場に居る人間に対して無責任なんだと、怒りが収まらなかった。
 そこへ幸村が私に近寄って来た。思わず私の口から怒りが飛び出した。
「部長、この機械のメンテナンス方法、ちゃんと覚えて下さいね!」
 幸村の表情が一変する。
「なぜ私が覚えなきゃならんのだ!」
 普段は温厚な幸村も、一皮向けば瞬間湯沸器なのだ。
「冗談じゃないですよ、俺だって一ヶ月前は単なる営業だったんですよ!きちんとしたメンテナンス方法を習ってからならともかく、何の説明も無しに現場に放り込みやがって!そんな無責任な事をするんだったら辞めてやるよ!」
 私は完全にブチ切れてしまった。自分でもこめかみの血管がピクピクしているのが分かる。私のあまりの怒り様に、幸村は黙ってその場から立ち去ってしまった。

 もはや、自分でも収集がつかない状態だった。

 

はくりんちゅ51

2007-12-12 23:59:22 | 剥離人

 私は一ヵ月ぶりに我がR社の事務所に顔を出した。

 本格的な工事業を始めたにも係わらずR社が持っているのは、小綺麗なA県N市の街中にある事務所と、営業車のみだった。
 一階がカフェになっている細長いビルの二階に上がり、網目ガラスの扉を開ける。
「おはようございます」
 私が事務所に入ると、すでに出社していた皆が一斉に振り向いた。
「おお、久しぶりだね!なんか大変だったんだって?」
「おはよー木田ちゃん、元気だった?」
「おはようございます、木田主任!心配していたんですよ!」
 返ってきたのがいつもの型通りの挨拶では無く温かい反応だったので、私は何だかむず痒くて仕方なかった。
「おお、お帰り!よう無事に帰って来たな」
 席に着いた私の背後から声がした。それは私を現場に放り込んだ張本人、常務の渡だった。
「おはようございます、無事に帰って来ることが出来ました。いやぁ、机の上に花が飾られていなくて安心しました」
「わはは、そう言うな!」
 渡は笑いながら私の肩をバシバシと叩いた。
「まあ、ちょっと落ち着いたら打ち合わせでもするか」
「ええ、分かりました。とりあえず領収書だけでも整理します」
 私はそう言うと、B軍基地の工事で使った領収書の束を取り出し、清算業務を始めた。色々な意味で大変だったので、出張している間は一切領収書の整理をしていなかったのだ。
 ホテルの宿泊代、フェリー料金、高速料金やガソリン代、そして現場で使う為に買い足した様々な道具類。S社が用意してくれるだけでは到底間に合わなかったので、色々な物をホームセンターで購入した。電工ドラム、投光機、懐中電灯、耐震電球、電池、軍手、皮手袋、耳栓、防塵ゴーグル、工具箱等、後から計算してみるとかなりの買い物だ。
 それ以外には、食事の無いビジネスホテルに宿泊したので、朝食と夕食は定額支給とした。ついでに昼食の現場用仕出弁当代も勝手に現場経費に盛り込んだ。
 
 問題は接待交際費だ。居酒屋『大吾』で楽しく呑んだ十万円分の領収書、これは自分一人で呑んだので自分のポケットマネーで処理するのは仕方がない。だが、職人たちと呑み倒した領収書が凄かった。その金額四十数万円也・・・。
「うーん、どうすっかなぁ」
 私は思わず独り言を呟いた。
 私の仕事に対するスタンスは、『いつでも辞めてやる』が基本である。従って、何の経験も無い私をいきなり過酷な現場に放り込んだ我がR社には、夜の息抜き代を負担してもらおうと勝手に思っていた。
「そんな事が許されると思っているのか!」
 と言われたら、
「じゃあ辞めます」
 と答えるつもりだった。だが、それにしても四十数万円という数字は強烈だ。
 これまで営業マンとしてこの会社で働いて来た五年間、私はただの一度も宴席での接待交際費を使ったことは無かった。せいぜいお中元とお歳暮の時に、ゼネコンの現場事務所に三千円のビールケースを一つ置いてくる程度だった。
 領収書の束の中でも強烈なのが、KT社の江藤を連れて行ったソープランドの領収書だ。隣県であるS県U市『有限会社○○興業』の領収書である。これはもう怪しさ全開だ。だが私はあえてこの領収書を、接待交際費における領収書の束の一番上にセットした。

 昼前、私と渡との打ち合わせが始まった。
 私は改めて今回の工事の概要、感想、そして問題点を話した。
「で、結局ハンドガンの作業は人次第ってことか・・・」
 渡は私の説明を聞いて腕組みをした。
「ええ、まずは経験値が一番大事です。今回の一ヶ月で、KT社の皆はそれなりにS社の職人たちに近い面積を撃てるようになりました。このまま次回もあのメンバー四人で作業を出来るのなら問題は無いと思います。でも江藤さんの話を聞くと、今回はたまたまあのメンバーだったけど、本業の工事が入っていれば別の人間が行くこともあり得ると、彼は言っていました」
「そうやな、確かにKT社には他にも職人がたくさん居るし、途中まで進んだ現場で棒心クラスを交代させる訳にもいかんだろうな」
「ええ、今回はS社に色んな意味で面倒を見てもらったので良かったんですけど、ウチが単独で工事を請けたら大変なことになりますよ」
「もしガンの撃ち手に全員初心者を連れて行ったらどうなる?」
「工事が全然進まない程度で御の字、下手をしたら事故です」
「事故はあかん、それはあかんわ…。そうか、そんなに経験値が大事か…」
「ええ、その為にS社の職人たちと呑んで、何人か当たりを付けておきました」
「ほう、どんな奴や」
「例えば、さっき話したT工業の小磯という人です」
「おお、KT社の皆にガンの撃ち方を教えてくれた奴やな」
「ええ、アルバイトで手伝ってもらえないかと頼んであります」
「ほう、さすがにぬかりが無いな」
「ええ、仲良くなるために結構呑みましたけど」
「そりゃお前、そういうお金はしゃあないやろ」
「そうですか、それで安心しました」
 私は接待交際費の領収書の束を、渡の前に差し出した。
「これは?」
「接待交際費です」
 渡は手に持った紙束の厚さに驚いている。
「えらい頑張って呑んだな」
「ええ、ちょっと頑張ってしまいました」
「これ、全部でいくらあるんや?」
「えー、っと、確か四十数万円程度かと…」
「よ、四十ってお前…」
 渡は領収書をペラペラとめくり始めた。
「この一番上の一番高額な有限会社○○興業の飲食代ってなんの領収書や?」
「その会社の住所を見て下さい」
「S県U市って、ん?」
「KT社の棒心、江藤さんと行きました」
「お前…。で、楽しまれましたか」
「ええ、楽しい一時でした」
「わはは…、それは結構でしたな!」
 渡は困惑の混じった苦笑いをしていた。そして、ここで打ち合わせは終了となった。

 私が応接室を出る時、渡は一人でブツブツと言っていた。
「これは、どう処理をしたもんだか…」
 私は良い上司に恵まれた様だ。


はくりんちゅ50

2007-12-11 23:31:04 | 剥離人
 現場での塗装剥離作業最後の日、柿沼は張り切っていた。

 カッパを着込んだ柿沼は、江藤が静止するのも聞かずにバラストタンクの中に入って行った。
「これまでも短時間ならお前たちを手伝って来たが、今日は一時間半、きっちりとガンを撃ってみようと思う!」
 なんだか分からないが、部下四人と完全に苦楽を共にするのが彼の希望らしい。
「もう歳なんだからさぁ…」
 江藤にそう言われたが柿沼は強く志願して、まるで戦場に赴くが如く岸壁を歩いて行った。右肩にウォータージェットガンを担ぎ大股で歩いて乗り込むのがB国海軍の強襲揚陸艦なので、雰囲気だけは迫力満点だ。
「ありゃ後で泣きが入るな」
 江藤は苦笑いをしていた。

 一時間半後、柿沼が船から出て来た。その表情を見ただけで、江藤は爆笑している。
「お前たちは凄いよ」
 柿沼のおでこには、『疲労困憊』という文字が張り付いていた。
「もう、頼まれてもやらないからな」
 柿沼は汚れたカッパのまま、岸壁にへたり込んだ。
「誰も最初から頼んどらへん。って言うか、やらんでええって言うたやろ」
 江藤は関西弁で柿沼に言った。
「だから10分、15分だけ撃つのと、一時間半通して撃つのじゃ全然違うって、あれ程言ったのに」
 江藤の言葉に、柿沼は素直に首だけでうんうんと頷いている。
「トモオ、おい!ちょっと飲み物を持って来て」
 柿沼の醜態を見てクスクス笑っていたトモオに、江藤は飲み物を取りに行かせた。
「まあ、今日で作業は終わりだし、柿沼さんの気が済んだのならイイけどね」
 江藤は笑いながら柿沼の肩を軽く叩いた。
「ちょ、ちょっと起こして」
 江藤が柿沼を引っ張り起こす。どちらが上司なのか分からないが、二人は仲が良い。
 私にはそれが少しうらやましかった。

 二日後、私の車とKT社のワゴン、そして10トンロングトラックは、一路O県のS港を目指して走っていた。夕刻に出港するフェリーに乗るためだ。
 来る時は、常務の渡と一緒だったので一等船室に部屋を取ったが、今回は全員で二等船室を取ることにした。
 船の中に入ると閑散期だったせいか、私と柿沼、江藤、氷室、トモオ、シンジ、KT社のトラック運転手の七人で、二等船室は貸切みたいになってしまった。
 約一ヵ月に及ぶ緊張感たっぷりの仕事から解放され、みんなで和やかに缶ビールを飲み、馬鹿な話をして盛り上がった。
 ふいに江藤が私の隣にやって来て、そして言った。
「木田さん、次もこの仕事をやるんならまた呼んで下さい。ちょっとキツイけど、木田さんとならやりますよ」
「・・・ありがとうございます。なんかそう言われると嬉しいですね」
「俺、本当は木田さんとは口を利かないつもりだったんです」
 私は江藤の言葉に驚いた。
「やっぱり現場で体を動かさない人に、あれこれ言われたく無かったんで。でも木田さんは一所懸命俺たちの為に動いてくれたからね」
「まあ僕も慣れて無いから、役に立ったかどうかは疑問だけどね」
「いや、普通の人よりも凄くやってくれたと思いますよ」
「ありがとう、僕もまた江藤さんと仕事がしたいなぁ」
「またやりましょうね!」
 自分の中で良く分からない満足感が広がっていった。
 このなんとも言えない感覚は、きっと現場仕事独特の感覚だろう。今までの営業の仕事で得られる満足感とは異なった感覚だ。もしかしたら自分にはこの仕事が向いているのかもしれない、とさえ私は思った。

 夜中、二等船室の絨毯敷きの硬い床から、波のうねりと船のエンジンの振動が、僅かに伝わって来ていた。その揺れと振動は、疲れが染み出している私の体をさらにとろけさせた。
 ぼーっとする頭の中で、私は漠然と考えていた。家に帰ったら映画を観に行こう、何故かそれがその時の私の思考回路だった。


 それから七年後の2006年6月13日、強襲揚陸艦ベローウッドはリムパック06の標的艦となり、太平洋に沈没した。

はくりんちゅ49

2007-12-10 23:25:23 | 剥離人
 常務の渡から携帯電話に連絡が来た。

 私は丁度ホテルの大浴場から出て、部屋でパンツ一枚でくつろいでいる所だった。
「もしもし、ワシや」
「ああ常務、お疲れ様です」
「おお、お疲れさん。そっちはどうや?」
「いつもと同じですよ。奴隷のように働いています」
「ワハハハ、まあそう言うなや。ところで、お前たちの帰りの日程が決まったぞ」
「え、本当ですか?」
「おお、S社の所長と話をしたわ。作業は来週の火曜日で最後や、水曜日に機材を片付けて、木曜日にトラックに荷積みして、そのままO県のS港まで走ったら、フェリーに乗れるやろ」
「ああ、それなら行けますね。KT社に連絡をして、迎えのトラックを手配しなきゃいけませんね」
「それもワシから連絡をしておいたから、心配せんでええわ」
「それは助かります」
 私はこれでこの仕事の明確なゴールが見えたと思い、かなり気持ちが楽になった。そうと決まれば刺身を食べに行かねばならない。ここに居られるのもあと少しだ。

 居酒屋『大吾』の暖簾をくぐると、今夜もおかみと美里が明るく迎えてくれた。
「いらっしゃいませ!」
「こんばんは」
 私は今日もカウンターの端に座ると、生ビールを注文した。もちろんおかみと美里の分もだ。
「乾杯!」
 三人で乾杯をして、のどにビールを流し込む。
「今日はなんとなくすっきりとした顔をしてるんじゃない?」
 美里はニコニコしながら私に言った。
「そうかな?ようやく家に帰る日が決まったんだ」
「そうなの?良かったねぇ!でも私とお母さんはちょっと寂しいかも」
「そうそう、せっかく顔馴染みになってもらえたのに、本当に寂しいわ」
 この二人が言うと全然お愛想で言っている様に聞こえないのが、私にとっては嬉しかった。
 いつもの様におつまみに黒鯛の刺身を頼むと、私は一気にジョッキのビールを空けた。
「次は焼酎?」
 私が頷くと、美里は私のボトルをカウンターに置き、アイスピックで氷を割り始めた。ボトルキープと言っても二回来ると一本空けてしまうので、あまり意味は無かった。
「たまには私も貰っちゃおうかなぁ」
「お、いいねぇ、一緒に呑もうよ!」
 美里は私と自分のグラスに氷を入れると、焼酎をたっぷりと注いだ。
「ちょっと濃いんじゃないの?もしかして俺を押し倒そうとしてる?」
「あはははは!してない、してない!」
 美里は爆笑して、私と濃い目の焼酎で乾杯した。
「あ、やっぱりちょっと濃かったね」
「大丈夫、このくらいの方が、刺身には合うから」
 そこへおかみが黒鯛の刺身を持って来る。
「はい、お待たせしました!」
 見るだけで生唾が出る。こいつと焼酎は最高の組み合わせだ。
 そしていつもの様にオヤジにドリンクをおごり、乾杯をする。今日のオヤジドリンクは牛乳だ。
「売り上げ協力、ありがとうございます!」
 今夜もオヤジの言葉には一片の嫌らしさも無く、やはり私は笑ってしまう。私は黒鯛の刺身に柚子胡椒を載せ、甘い醤油を付けると口の中に放り込んだ。至福の一時だ。

 この日は話も盛り上がり、いつの間にか閉店時間まで私は呑んでいた。何人もの客が私の隣で出入りしていたが、結局私が最後の客になっていた。
「もうこんな時間か、なんか気分的には呑み足りないけどね」
 私はそう言うと、お会計を済ませた。
「あ、それならお兄ちゃんの店に呑みに行かない?」
「ああ、お兄ちゃんの店ね」
 美里の兄は大吾に寄る事もあり、一度だけカウンターで一緒に呑んだこともあった。その時、店をやっていることも聞いていた覚えがあった。
「今から私は行くつもりだったんだけど、良かったらね」
 美里と呑みに行けるのなら、私は大歓迎だ。美里と一緒に店を出て、夜のY町を一緒に歩いた。
「お兄ちゃんの店はなんて名前なの?」
「名前はね『俺』って言うの」
 美里は笑って言った。
「『俺』?なかなか個性的だね」
「やっぱりそう思う?」
「うん」
 他愛も無い会話だが、結構楽しい。店は大吾から近く、すぐに着いた。
「いらっしゃいませ!」
 店に入ると、カウンターの中に美里の兄が居た。
「おお、美里!それから君はこの前カウンターで呑んだよね」
「ええ、私も覚えていますよ」
 店はそんなに繁盛している感じでも無かったが、静かで落ち着ける感じだった。
 ここでも私と美里は盛り上がり、店を出たのは空が少し白み始めた頃だった。すでにカラスの鳴き声があちこちで聞こえ始めている。
「もう朝だね」
「うん、朝だね」
「もしかして今日も仕事?」
「うん、仕事だよ」
「大丈夫なの?」
「あはは、大丈夫!」
 私は美里の心配を笑い飛ばし、手を振って別れた。
 
 とりあえず今日の朝食を買わなければならない。私はコンビニに向かうと、入口で見覚えのある男とばったりと出会った。
「あれ?」
「おお」
 それはS社の下請会社の職人で、良く挨拶を交わす私と同年代の奴だった。
「呑んでたんですか?」
「うん、今店から出てきた所だよ。なんか腹が減ってね」
 見ると彼が下げているビニール袋には、弁当が二つ入っていた。
「朝飯?」
「いや、一つは晩飯」
「晩飯って、もう四時ですよ」
「あはは、呑んでばっかりで食べてなかったから」
「もう一つは朝飯?」
「そう、岸壁に着いたら食べるんだ」
「凄いですね」
「食べなきゃ体が動かないからね、それじゃ!」
 彼はビニール袋を乱暴に肩からぶら下げると、足早に立ち去って行った。

 私も二時間後には起床して、今日も肉体労働をしなければならなかった。

はくりんちゅ48

2007-12-09 23:47:48 | 剥離人
 S社の樋口の指示の元、ハスキーの200時間メンテナンスは進行して行った。

 私がもっともこの作業で興味があったのが、『チェックバルブ』と呼ばれるパーツのメンテナンス方法だった。
 エンジンの回転運動が、クランクによってピストン運動に変換された三連プランジャーは、2,800kgf/cm2の超高圧水を造り出す。この超高圧水はそのままでは脈動が大きく、非常に扱い難い物になる。その超高圧水の脈動を抑え、安定した水流に制御するのが、チェックバルブの役目だ。

 樋口は、ハスキーから取外した手榴弾ほどの大きさのチェックバルブ三つを、メンテナンスコンテナに持ち込んだ。
「こいつを整備するときは、この専用工具を使うんだ」
 樋口はそう言うと、アルミの分厚い板を作業台の万力に挟み込んだ。板には穴が空いていて、そこにチェックバルブを挟み込むと、板の上端のボルトを締め込んだ。
「こうやってチェックバルブを固定して、前後の部品を外すんだ」
 樋口はチェックバルブから金属部品やシールを外して行った。最後に本体ボディがアルミ板に残った。
「さ、こいつを今から研磨するぞ」
 樋口は私の前にアルミ板から外したチェックバルブのボディを置くと、板チョコ程の大きさで、厚さ10ミリのガラス板をよこした。板の両面には、耐水サンドペーパーが貼り付けてある。
「それでバルブのお尻を、丁寧に研磨するんだ。表の600番(目の粗さ)で研磨したら、裏の800番で仕上げだ」
「どの程度の目安ですか?」
「バルブのお尻に、穴が五つ空いているだろう」
「ええ」
 バルブのお尻には、鉛筆の芯程度の直径の穴が五つ、円周上に並んでいた。
「その穴の周りに、汚れのような模様が着いているな。それが消えるまでだ」
 私は作業台の上にガラス板を置き、水で濡らすと、チェックバルブを右手に持った。
「研磨するときは、バルブを持った手を八の字に動かすんだ」
 私はガラス板の上で、ゆっくりとバルブを八の字に動かす。
「そうだ、そう。面を均一にしないと最後に組んだ時、超高圧水が漏れるからな」
 樋口が笑いながら脅してきた。
「これ、三つやると、かなり時間が掛かりませんか?」
 樋口はニヤリとした。
「だから木田君に手伝ってもらっているんだろう」
「・・・」
 私は苦笑いをしながら頷くと、黙々と作業を続けた。

 一時間後、私が丁寧に研磨した三つのチェックバルブを、樋口が組み始めた。
 交換部品は、アッセンブリーキットとして袋に入っており、それらを全て交換するだけだった。セラミック部品に、ステンレスのバネ、赤や黄緑のシール類、合金製の部品、意外と数が多い。そして金属部品の締め付けには、やはりトルクレンチが使用される。超高圧ポンプの部品は、トルク管理が厳密だ。
 樋口は、一番小さなトルクレンチを持つと、チェックバルブのお尻に金属製の部品を固定しようとした。それは丁度私が研磨した部分だった。
「これにはちょっとしたコツがいるんだ」
 樋口はそう言うと、油性マジックで本体と金属部品に数箇所印を付けた。
「トルクレンチで締めたとき、この位置で固定されなきゃならない」
「つまり最後にトルクレンチで締めたときの、部品の移動量を予測するんですか?」
「そうだ」
 樋口は油性マジックで印を付けた位置から、円盤部品を少し手前にずらした。円盤の中心部に頭が六角になっている固定用特殊ネジを、『ネジロック』を塗布して刺し込み、トルクレンチで締め始める。
「グッ!グッ!」
 トルクレンチがネジを回して行く。小さいパーツなので、そんなに力は必要無い。
「グッ!グッ!」
 まだトルクレンチは「カックン」とならない。
「グッ!グッ!」
 樋口はさらに回す。
「グッ!グッ!」
 その時だった、
「グギィッ!!」
 鈍い、そして嫌な音がした。
「ああっ!!」
 樋口が大声を上げる。
「ああ、ああぁ・・・」
 今度は悲観的な声だ。見ると固定用のネジがポッキリと折れてしまい、ネジの芯がボディに残っていた。金属の円盤は、床に落ちている。
「折れ、ちゃいました?」
 私はチェックバルブを覗き込んだ。
「何で折れるんだ?」
 樋口は誰にとも無く言い、やや怒気を含んだ目でトルクレンチのグリップを見つめている。
「あ、トルクが間違ってる…のか?」
 樋口はマニュアルと、トルクレンチのグリップ内の目盛りを交互に見比べた。
「間違ってたな」
 樋口は呟いた。
「どう、するんですか?」
 私はやや遠慮がちに聴いてみた。本体内部に折れて残ったネジの軸を取り出すのは、至難の業に見えたからだ。
「うーん…」
 樋口はしばらくチェックバルブを見つめた。私は彼の判断を待った。
「うん、いらねえやこんな物!」
 いきなり樋口はチェックバルブを丸ごとゴミ箱に放り込んだ。
「!」
 私は絶句した。どうみても安い物では無い筈だ。
「あの、す、捨てるんですか!?」
 樋口はまるで小学生ような顔つきで、私に言い放った。
「壊れちゃったんだから、いらないだろう」
「直さないんですか?」
「直らないだろう」
「・・・」
 言い終わると、樋口はくるりと背を向け、部品棚から何かを取り出した。
「これで問題は解決だ!」
 それはビニール袋から取り出せば、いきなり使える新品の『チェックバルブ』だった。
「どうだ!」
「いや、どうだって言われても、別に僕は構いませんけど・・・」

 こうしてチェックバルブ一個三十万円は、単なるゴミになったのだった。

はくりんちゅ47

2007-12-08 23:15:29 | 剥離人
 いよいよ我々の仕事も終りが近づいて来た。

 KT社の江藤たち四人は、この現場に入って一日しか休んでいない。私に至っては、この現場に入ってから一日も休んでいないのだ。しかも慣れない仕事と変な緊張感で、かなり疲れていた。
「渡常務、いつになったら私は帰れるんですかね」
 私は遠く、A県N市の渡に電話を入れていた。
「そうやな、そろそろ一ヶ月になりそうやな」
「ええ、だんだんキツくなって来ました」
「作業はだいぶ進んでいるのか?」
「まあ、間違いなく終盤ですよ」
「じゃあ、S社に頼んでそろそろ帰らせてもらうか」
「ええ、そうして下さい、KT社の皆も疲れています。事故が起きてからじゃ遅いですから」
「そうやな、よう頑張ったな」
「じゃあ、交渉の方はお願いします」
 これでなんとか帰れそうだ。
 バラストタンクの塗装剥離が完全に終わる訳ではないが、そろそろ潮時だ。

 私は、ようやくこの休みの無い日々から解放されると思い、清々しい気持ちで岸壁を歩いていると、S社の偏屈オヤジの樋口が変な笑みを浮かべながら近寄ってきた。
「木田君、今日は夕方から時間はある?」
 妙に優しい猫なで声だ。少しだけ嫌な感じもするが、彼も人の子だ。二週間以上毎日顔を合わせていれば、情も移るのだろう。私は、彼が一度くらい若輩者に酒でもご馳走しようという気持ちになったのだろうと勝手に判断した。
「ええ、特に予定はありませんけど」
 私の答えに、彼は満面の笑みで言葉を続けた。
「じゃあちょっと付き合わないか?200時間メンテナンスでも」
「?」
「ほら、ハスキーの200時間メンテだよ」
「・・・あの、ハスキーのプランジャーをばらしてシール類を交換することですか?」
「そうだよ、君の所のハスキーもいずれはやらなきゃならないんだ。やっておくと勉強になるぞ!」
 私は一瞬、
「お家に帰ってママに相談します」
 と答えようかと思ったが、今はホテル住まいなのを思い出した。
「えー、そうですね、今日の夕方から、ですか?」
「そうだ、今日やらなきゃならないんだ、な!」
 樋口は私の両肩にガッシリと手を置いた。普段見ることのできない満面の笑みが不気味だ。
「そ、そうですね・・・、じゃあ、えー、と、手伝います・・・」
「そうか!頼むぞ!夕方ハスキーの前で待ってるからな!」
 なんだか半分無理やり押し切られた感じだが、やむを得ない。私は先程とは打って変わってグレーな気持ちになり、岸壁をトボトボと歩いた。

 夕方五時半、樋口は巨大トルクレンチを右手に持ち、まるで五条大橋の弁慶の様に、ハスキーの前に立っていた。
 彼が弁慶と大きく異なるのは、弁慶は通り掛る者から武器を奪ったが、彼は通り掛る私にトルクレンチというメンテナンスマンの武器を押し付けたことだった。
「さ、頼むぞ!」
 樋口が私を誘った理由は良く分かっていた。このトルクレンチの作業が鬼の様に辛いからだ。私にメンテナンスを教えるのは、あくまでもそのオマケだ。
 私は汗を掻きながらプランジャー部のボルト・ナットを全て外した。
「うん、頑張れよ!」
 樋口は相変わらず変な笑みを浮かべていた。

 まあ利用されてもそれ以上の知識を得られれば良いと、私は思った。

はくりんちゅ46

2007-12-07 22:12:27 | 剥離人
 今夜も小磯と呑みに行く。最初の店はいつもの安い居酒屋だ。

 小磯は夜勤の溶接作業に入る事になっていたが、それが今日まで延び延びになっていた。
「俺も明日から溶接だからな、もう呑みに来れないかもなぁ」
 小磯は余程夜勤が嫌なのか、多少愚痴っぽい。
「ちくしょう、一晩中溶接なんてやりたくねぇよ」
 話を聞くと、今勤めているT工業に多少なりとも不満があるらしかった。
「もし暇があったら、ウチの会社でガンでも撃ってくれません?」
 私は軽く誘ってみた。
「何、アルバイト?いいよ、木田君の為なら一肌脱ぐよ!」
 小磯は威勢良く言い切った。
「でも、今の会社で仕事がありますよね」
「がはは、大丈夫!多分辞めてると思うから!」
 小磯は中ジョッキを飲み干し、店の女の子にもう一杯ビールを注文した。

 二人でスナック『異星人』に行くと、すでにハルがカウンターの奥でムツミを相手に騒いでいた。
「だから新しい卵を買って来いって!」
「この前の卵があるって言ってるだろ、この馬鹿ハル!」
「んだと!そーんな古い卵を食べて、ハルちゃんのポンポンが痛くなったらどーすんだよ!」
「そんなの知らねーよ!」
「ちゃあ、ホントにこの女は・・・」
 ハルは席を立ち、トイレに行った。
「また卵で騒いでんのか」
 小磯がママに言った。
「あはは、そうなのよ。古い卵は嫌だって」
「玉子焼きにしちまえよ」
「いいの?一応あれはハルちゃんの物だから、いつもそのまま置いてあるんだけど」
「俺が許す!」
 小磯の即決で、残りの古い卵は玉子焼きになることになった。
 ハルはトイレから戻って来ると、焼酎の中に何か入れるものは無いかと探し始めた。ハルはチャームとして出されている小粒なアラレをつまむとグラスの中に投入し、一口飲んだ。
「バリッ、カリカリカリ」
 飲み物とは異なる音が聞こえてくる。
「おお!お茶漬けみたいだな」
 ハルは嬉しそうな顔をしている。
「醤油!」
 ハルはムツミに命令する。ムツミは無言で醤油刺しをカウンターに置いた。ハルは慎重に数滴、醤油をグラスに落とした。
「トンガラシ!」
「トンガラシ?唐辛子だろ?」
「っるせぇな、どっちでもいいんだよ!」
 ムツミは笑いながら七味唐辛子を出した。
「これじゃない奴は?」
 ハルは小瓶を手に取り、七味唐辛子の「七」の部分を指差している。
「は?もしかして『一味唐辛子』のこと?」
「そう、それだよ!」
「無いよ」
 ハルはまた眉間に皺を寄せ、ムツミを睨む。
「俺はこの中の鼻糞を丸めたみたいな奴が嫌いなの!」
 私は思わず口を挟んだ。
「麻の実のことですか?」
「そうそう、分かんないけどそれだよ!」
 ハルは嬉しそうに頷く。
「ごちゃごちゃうるさいの!」
 いきなりムツミがハルのグラスに七味唐辛子を振り掛けた。
「ああー!何してんの!」
 ハルはグラスの中を覗き込んだ。ムツミはケラケラと笑っている。
「ほらぁ、この鼻糞みたいなのが入っちゃったでしょう!」
 ハルは慌てて箸を使って、麻の実を取り出しに掛かった。
 そこへママが玉子焼きを二皿持って来た。
「はい、玉子焼きね!ハルちゃん、一つは小磯さん達に出してもいいでしょ」
 ハルは玉子焼きを見て喜んだ。
「ほほほ、入れちゃおっかな!」
 ハルは玉子焼きを一切れ、グラスの中に押し込んだ。
「それ、古い卵だって文句言ってただろ!」
 ムツミが突っ込む。
「ちゃあ、お母さんに言われなかった?古い食べ物にはきちんと火を通しなさいって!」
「そんなデカい図体でお母さんじゃねえよ!」
 ハルはムツミの言葉を無視して、グラスを持って横から眺めている。
「おお、どれどれお味は?」
 ハルは焼酎を食べた。
「いいよ、いいよぉ!」
「がははは!」
 小磯が馬鹿ウケしている。

 S市で小磯とハルと呑んだのは、この夜が最後になった。

はくりんちゅ45

2007-12-06 15:28:15 | 剥離人
 バラストタンクの剥離作業はいよいよ終盤に入ってきた。

 いつの間にか船体後部の岸壁に全ポンプが集結し、タンク内はガンの撃ち手で満員御礼状態になっていた。
 指定された部屋に向かおうとするが、すでにその隣の部屋には別のチームが入っていて、壁に空いた穴から猛烈な勢いでジェットが噴き出ている。危険すぎて近寄れ無い状態だ。こっちも向こうも耳栓をしている上に、向こうはガンを撃っているので、声を掛けても全く聞こえない。
 仕方が無いので相手の顔にマグライトの光を当て、何度も動かす。まぶしさで気が付いた相手に大声で話し掛ける。
「こっちの部屋に段取換えをするから、しばらくの間、向こう側の壁を撃ってくれる?」
 だが、一本のガンが停まっても、他のガンがあちこちで動いている。凄まじい騒音で、相手には声が届かない。もう一度、激しいジェスチャー付きで話し掛ける。
「ミーは、今から、ここ、ガン、入れる。お前、向こう、壁、撃て!頼む!」
 なんとか通じると、相手は頷き、再びジェットの音がタンク内に響き渡り、ミストサウナ状態になる。もはや、送風機での換気も追いつかない状況だった。

 私はなんとか段取換えを終えタンクを出ようとすると、今度は出入り口の部屋の裏側からもジェットが噴き出している。その壁の穴に自分の足を掛けなければ、タンクからは出られない。
「うぉーい!」
 私はライトを当てながら大声を出すが、相手は気付かない。ミストが凄すぎて、マグライトの光が十分相手に届かないのだ。やむを得ず、マグライトで壁をガンガンと叩き、再び相手の顔に光を当てる。
「?」
 ようやく相手が気付く。
「出るよ、ここから出るから!」
 激しいジェスチャーで、この穴に足を掛けることをアピールし、急いでタンクから這いずり出る。
「ふぅー」
 思わずため息が出る。この現場では油断をしていると、自分の肉体に危険が及ぶ。

 午後に入ると、タンク内の混乱はますます加速した。
「いやぁ、タンクの中は凄いことになってますよ」
 江藤がドロドロに汚れたフェイスシールドを洗いながら、私に言った。
「油断していると、いきなり背後の壁からジェットが噴き出して来るからね」
「それはかなり危険ですね」
「ええ、思わずこっちも撃ち返して、自分の存在を伝えましたよ」
「本当ですか?」
 ある意味かなり怖い状況だ。ただ、超高圧ジェットは十五センチ以上のオフセットになると、あまりにジェット水流が高速すぎて、霧になってしまうため、見た目ほどの危険性は無かった。
「俺なんか撃ち返したら、向こうもさらに撃ち返して来たんで、もう一発撃ち返してやりましたよ」
 トモオがゴム手袋をジャブジャブとすすぎながら言う。
「あんまり無茶苦茶しないでね、頼むよトモオ君」
 私は笑っているトモオに注意を促し、そのままS社のメンテナンスコンテナを覗き込んだ。
「伊沢さん、ちょっとイイですか?」
 伊沢は他の職人と話をしていたが、それをすぐに終わらせた。
「なに、どうしたの?」
「バラストタンクですけど、かなり混雑していて危険な状況になって来たんですけど」
 伊沢は腕組みをすると、右足に体重を載せ、左足を斜め前に差し出した。伊沢が脳の中で立体図面を広げている時のポーズだ。
「まだ、そんなに近くは無い筈だけどなぁ。船体中心側の部屋が四つは残ってるよね」
「いや、そこには別のチームが入ってますよ」
「あれ?おかしいなぁ、じゃああいつらは左舷に入って無いのかな…、左舷に入れって言ったのに」
 伊沢はブツブツと言い出すと、コンテナから出て岸壁の縁に立ち、船内を見渡した。
「そうだなぁ、左舷側に入ってるホースが少ないなぁ。よし、一緒に来て!」
 伊沢は言い終わる前に、スタスタと歩き出した。

 夕方、我々は右舷から左舷への大掛かりな段取換えを行なった。
「うぉーし!次、そのエアホースを持って来いシンジ!」
 昨日から復帰の柿沼センター長は、ここぞとばかりに全開で張り切っている。
「おしっ!ここで高圧ホースを分岐するぞ!T字の金物はどこに行った?」
 柿沼は一人だけ暴走気味だ。
「柿沼さん、やけに気合が入ってるね」
 私は江藤に小声で言った。柿沼が居ない間に我々の役割分担は自然と決まり、かなりスムーズに事が運ぶようになっていたが、今日は柿沼が張り切り過ぎて、あちこちに命令が飛ぶので混乱気味だった。
「いつもああなっちゃうからなぁ…、悪い人じゃないんで許してあげて下さい」
 江藤は腕組みをして、笑いながら自分で頷いている。
「あはは、確かに悪い人じゃあ無いですよね」
 私もクスクスと笑った。
「はい、柿沼さん!そんなに張り切らない!」
 江藤が両手をパンパンと叩きながら、汗だらけの柿沼に近寄って行った。

 職人さんたちは結構面白いと、私は思った。

はくりんちゅ44

2007-12-06 04:17:43 | 剥離人

 翌朝、岸壁に車を乗り入れると、すでにKT社のワゴンが来ていた。

 柿沼が車から降りて来る。
「おはよう、木田さん!」
「おはようございます」
 今日も柿沼は朝から元気だ。
「ところで木田さん、お腹の調子はどう?」
「は?別にいつもの通りですけど」
 私はいきなりの質問にやや面食らった。
「柿沼さんは何か問題でも?」
「いや、僕も何とも無いんだけどね・・・」
 そこへ江藤が車から降りて来た。
「木田さん、お腹大丈夫?」
「いや、僕は大丈夫だけど、みんなしてどうしたの?」
「俺は下痢気味です」
 江藤はお腹をさすってみせた。
「ええ?他の人は?」
「俺もッス」
 シンジが車の窓から声を掛ける。
「俺と氷室さんも調子今一です」
 トモオも車から降りて来る。
 
 昨夜は全員で黒鯛の刺身とアラ汁を食べている。B軍基地産の黒鯛は、私のお気に入りの『居酒屋 大吾』の刺身には及ばない物の、なかなかの味わいだった。
「木田さん、悪いけど俺は黒鯛が原因じゃないかって思ってるんですけど」
 江藤は笑いながら言った。
「でも俺は何とも無いよ」
 柿沼が違うだろうという顔で首を振る。
「江藤さんと僕は確かに腹の調子が悪いんですけど、でも木田さんと柿沼さんが一番たくさん食べていましたよね、黒鯛」
 シンジはナポレオンの様に、手を作業着に突っ込んで俯き加減だ。
「ワハハハ、きっとこの二人がおかしいんですよ!」
 トモオが馬鹿笑いをしながら叫んだ。
「あー!それじゃあお前、俺と木田さんが何を食べても平気な人間みたいじゃないか!」
 柿沼がトモオにヘッドロックを掛ける。
「ごめんさい、ごめんなさい」
 トモオはすぐにギブアップをした。
「氷室さん、調子はどう?」
 私は氷室にも声を掛けた。氷室は胸の前で小さく手を振ると、黙って笑顔で頷いた。どうやら大したことは無さそうだ。
「お前たちが軟弱過ぎるんだよ!俺と木田さんを見てみろ!」
 柿沼はトモオとシンジに意味不明な自信を見せつけている。
「はい、はいはい、柿沼さん仕事だよー」
 江藤が柿沼を連れて、朝一の段取換えに向かった。その後ろをシンジとトモオが、そして私と氷室が続いた。

 昼、小磯に会ったので、今朝の話をした。
「がっはは、いやぁ、だから本当に食べるの?って聞いたでしょう」
「でも僕は何とも無いですよ」
「わははは、君は特別丈夫な胃を持っているんだよ」
 小磯は適当な事を言って笑っている。
「木田君、ドックなんて何が沈んでいるか分からないんだからさ、ここは戦争をやっていた頃からドックなんだよ」
 私はそれ以上は詮索しない事にした。

 やはり黒鯛の刺身は、『居酒屋 大吾』が一番だという結論に達した。


はくりんちゅ43

2007-12-05 01:36:25 | 剥離人
 黒鯛は、その立派な体を岸壁に晒したままだった。

 私はこいつをどうしようかと思案していた。残念ながら、現場には冷蔵庫なんて存在しない。S社の事務所の冷蔵庫まで運ぼうかとも思ったが、
「その黒鯛はどこで手に入れたんだ?」
 なんて所長に質問をされたら答え様が無い。まさか、
「暇つぶしにドックで釣りをしていら、大物が釣れてしまいました」
 などと答える訳にも行かなかった。
 考えること数分、一つのアイデアが浮かんだ。私は黒鯛を右手にぶら下げると、岸壁の裏手にある建物に向かった。
 
 行き先はJ隊厚生食堂。基地内にはB軍とJ隊の施設が混在しており、このJ隊厚生食堂への出入りは特に制限も無く、誰でも利用することが出来た。職人用仕出弁当に飽きた私は、最近ではこの厚生食堂で昼飯を食べることもあった。安くて温かい物を食べられるからだ。
「こんにちは」
 私は挨拶をして食堂に入った。時間が早いので客はまだ誰も居らず、厨房では昼メニューの調理準備が行なわれている様子だった。
「あの、お願いがあるんですけど・・・」
 私はカウンターから厨房の中に、恐る恐る話し掛けた。みんなの視線が私に集中する。
「これ、夕方まで預かってもらえませんか?」
 私は右手の黒鯛を顔の前にかざした。
「ほう、黒鯛か?」
 中から包丁を持った白衣のオジサンが出て来た。
「どうしたんだ?これ」
「たった今、目の前のドックで釣りました」
「目の前のドックって、あのベローウッドの前か?」
「ええ、目の前の岸壁で」
「竿を立てて?」
 オジサンは私の服装を見て、仕事中であると判断したらしい。
「いえ、テグスと錘と針だけです」
「餌は?」
「冷凍のオキアミです」
「ほう、大したもんだね!おいみんな、ちょっと見てみろよ!」
 オジサンの呼び掛けで、中から三人の白衣のオバサンたちが出て来た。口々に驚きの声を上げる。
「へえ、目の前で!」
「いい大きさじゃない」
「食べるの?」
 私は今日の夕飯に食べるつもりなので、それまで冷蔵庫で預かって欲しいと言った。
「おお、いいぞ、預かってやるよ」
 オジサンは快く引き受けてくれた。
「で、三枚に下ろしておけばイイか?」
「いえ、そんな悪いですよ」
「内臓を取っておいた方がイイと思うぞ」
「でも、今から忙しいんじゃないですか?」
 私の問い掛けに、オジサンはカラカラと笑うと、三枚に下ろすくらいは直ぐに終わると言った。
「そうしてもらいなさいよ」
 オバサンたちもそう言ってくれたので、私は厚生食堂のみなさんの好意に甘えることにした。

 夕方、私は厚生食堂に黒鯛を取りに行った。
「きちんと三枚に下ろしておいたからな。それとこの袋はアラだ。旅館の人に汁にでもしてもらいな!」
 オジサンは笑顔で白いビニール袋に入った黒鯛を手渡してくれた。
「あの、調理代をお支払いします」
 私はそう申し出たが、オジサンはそんな物は要らないと言って、顔の前で手をヒラヒラとさせた。
 私は厨房の人たちに丁寧にお礼を言って岸壁まで早足で移動し、車で待っていた江藤に黒鯛の入ったビニール袋を手渡した。

 一時間半後、私は江藤たちが泊まっている旅館に到着した。
「おお、木田さん!」
 古びた玄関に入ると、そこには仕事でA県に戻っていた筈である、KT社センター長の柿沼が居た。
「あれ?戻って来たんですか?」
 柿沼は私の両肩をガシっと掴むと、満面の笑顔で言った。
「僕が江藤たちや木田さんを見捨てる訳は無いでしょう!明日から頑張りましょうね!」
 やはり顔が近い・・・。
「え、ええ、頑張りましょう。とりあえず今夜は黒鯛を・・・」
「木田さん、準備出来たよ!」
 江藤が階段の上から呼んでいる。
「さあ、B軍基地産の黒鯛を食べましょう!」

 私は柿沼を強く促すと、階段を駆け上がった。