どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ117

2008-02-29 23:57:35 | 剥離人
 私が善意の『破壊工作員』に襲われた翌日、小磯とハルは朝から爆笑していた。

「いやぁ、見たかったなぁ、その光景」
 小磯は牛のように昨夜からこのネタについて反芻している。
「まさか木田さんがそんなことになっているとは思わなかったよ」
 ハルもたまらなく嬉しそうだ。きっと笑えるネタに飢えていたのだろう。
「実は俺、途中で気が付いてたんだよね。だってホッパーに凄い量の水が溜まってるじゃんね」
 ハルはケタケタと笑いながら、タバコの煙を吐き出した。
「がはははは、そうだったんだ。で、どうしたんだよお前、そのまま知らん振りして放っておいたのか?酷い奴だなぁ」
 小磯が缶コーヒーを手に持ったまま、ハルを責める。
「ちゃあ、何言ってんのよ小磯さん!俺はちゃんと水の中にジェットを突っ込んで、何度も撃ったんだよ。でも何よ、全然水が抜けなかったのよ」
 それはそうだ。サニーホースにはみっちりとFRPの剥離片が詰まっていたのだから、どれだけガンで撃っても、汚水が抜けるわけが無い。
「木田さん、あの時は凄い顔をしていましたよ」
 加納も喜んで参加してくる。
「人間って予想外の事が起きると、ああいう顔になるんだなぁって思いましたよ」
 加納もちょび髭をゆがめて笑う。
「いやぁ、だって凄かったもんね。サニーホースって大蛇のように暴れるんだよ」
 私の言葉に、坂本やSS工業の職人たちまで大笑いする。
「砂利敷きの地面だって、三十センチ位掘れていたしね」
 また皆が爆笑する。今は私が何を言ってもウケるらしい。
「実は俺、見てたんだよね、上から」
 ハルがまた嬉しそうに言った。
「なんか渦を巻いて水が一度に出て行ったから、下はどうなっちゃったんだろうと思ってたら、木田さんがあんなことになっていたからね」
 ハルはうひゃうひゃと笑い、パイプ椅子でうしろにそっくり返ると、そのまま倒れそうになり、慌てて前にバランスを戻した。
「がははは、木田君は本当においしいねぇ」
「おいしいって、別に僕は芸人じゃないんですから」
「がはははは、これからも頼むよ!」
 小磯は実に楽しそうに笑うと、ヘルメットを頭に載せた。

 昨日のうちに剥離作業は完了しているので、今日はガンやホースを撤収し、足場上のゴミを掃除し、完全に片付ける予定だ。
 四人でテキパキと仕事を進め、次々とコンテナの中に道具を収納し、煙道の足場上を工業用水で洗浄する。
「ウッキゃあああ!」
「だー、てめえ!」
「ヒャッホーーー!」
「ぬぉらぁあああ!」
 私と加納が最後のゴミ取りをしていると、煙道の中から奇声が聞こえる。
「木田さん、小磯さんとハルさんは何をやっとるの?」
 加納がサニーホースをから聞こえてくる動物園の様な雄叫びに、驚いた顔をしている。
「たぶんハルさんじゃないですかね、彼に『水ホース』を持たせると、大体ああなるみたいですよ」
「二人とも楽しそうだねぇ」
 加納はどことなくうらやましそうに煙道を見上げた。
 その時、私と加納の背後から、誰かが近寄って来ていた。
「ちょっと、監督さん」
「はい?」
 振り返るとそこには、H電力の担当者、山上が居た。
「ちょっと来てもらえるかな」
「はい」
 山上について歩いて行くと、発電所の汚水ピットの前に着いた。ピットといっても、ちょっとしたコンクリート製の池みたいな物で、我々がFRPを剥離したときに出た汚水も、全部ここに排水していた。
「そこを見なさい」
「?」
「そこ」
「?」
「わからんかね」
「はあ」
「水面だよ」
「水面ですか?」
「白いのがたくさん浮いているだろう!」
「はあ、浮いていますねぇ」
「あれをなんとかしたまえ」
「は?」
「あの水面の白い物をきちんと除去しなさいと言っているんだ」
「白いの、ですか…」
「いいね!帰るまでにね!頼むよ!」
「・・・」
 確かに水面にはFRPの剥離片の非常に微細な粒子が浮いていた。しかし、そもそもこの汚水ピットに、汚水を排出しても良いと言う条件で、この仕事は契約をしたはずである。もちろん大きなゴミはきちんと除去してある。微細な粒子まで完全に除去しろと言うのなら、これはもう正式な『水処理』だ。そこまでは見積りには含まれていない。
「こんなもん、どうしろって言うんだ?」

 私は汚水ピットの前で首を傾けて固まってしまった。

 


はくりんちゅ116

2008-02-28 22:35:06 | 剥離人

 私が小磯のガンの修理を終えると、TG工業の坂本がコンテナに顔を出した。

「木田さん、ちょっと打ち合わせを、いいかな?」
「ええ、休憩所に行きますか?」
「ちょっと頼みますわ」
 私は坂本と一緒に、休憩所のプレハブに向かった。休憩所では、加納が疲れて机に突っ伏していた。
「あ、木田さん?」
 物音で加納が顔を起こした。
「いや、そのままで結構ですよ。まだ休憩時間ですから」
 加納は頷くと、再び顔を机に突っ伏した。

 坂本との現場引き上げ時の打ち合わせが終了すると、私は席から立ち上がった。パイプ椅子の音が響き、再び加納が顔を起こす。
「もうそろそろやな。ちょっとトイレに行ってから行きますわ」
「ええ、慌てなくても大丈夫ですよ」
 私は加納に声を掛けると、真っ直ぐに煙道の下に向かった。もう三十分近くゴミ取りをしていない。そろそろステンレスの桶も、剥離片で一杯の筈だった。
「!?」
 私はステンレスの桶の前で固まった。桶にはほとんど水が無く、剥離片もあまり溜まっていない。
「ええ?」
 私は一瞬、本気で悩んでしまった。
「誰かがゴミ取りをしてくれたのか?」
 だがそんな酔狂な人間が居るとは思えない。煙道の中からは、ガンの音が聞こえる。しかも二人分。
「!!!」
 その時私は、視線の先に恐ろしいものがあるのを発見してしまった。
「なんだ…、これ…」
 私の目の前には、パンパンに膨らんだサニーホースがあった。
 中の流体に圧力を掛けている状態ならともかく、上から自然落下で落ちてくる汚水によって、サニーホースが膨らむなんてことはあり得ない。
「あれ、これ?これは…何?」
 よく見ると、サニーホースの先端が、ステンレスメッシュの深いザルに入っている。このザルは使わないので、ホースの横にただ単に置いておいた物だった。
「もしかして、このザルに誰かがホースの先端を!?」
 目が細かすぎて排水が上手く行かないザルに、サニーホースが入っている。これが何を意味するのか…。私は恐る恐るサニーホースに触れてみた。
「!!!!!」
 あり得ない。直径150ミリのサニーホースが、まるで棒の様になっている。
「おぃ、おぃ、おぃ、おい!!!」
 私のサニーホースを触る手は、どんどん上に伸びて行くが、ホースの中は『何か』がみっちりと詰まっている。
「棒じゃねぇ、これは直径150ミリの柱だ…」
 頭上を見上げると、私が用意したリデューサーがあり、その上には300ミリのフランジがあり、さらに上には大きなホッパー部があった。
「どれだけ溜まってるんだ!?」
 私の頭の中で計算が始まった。
 ガンからの排水量は毎分24リットル、ただし、現在はハスキーの余剰水と冷却水を全量、煙道内にダイヤフラムポンプ(振動板による容積変化で流体を移送するポンプ)で送り込んでいるので、トータルで毎分36リットル。最長で30分間排水されていないとして、1,080リットルの汚水と、一緒に流れ込んだFRPライニングの剥離片が溜まっていることになる。
「1トン以上かぁ…」
 頭上にはすでに1トンもの汚水が溜まり、尚も増え続けている。これ以上汚水が溜まると、想像を超えた恐ろしい事になるに違いない。そしてこれ以上の状況の改善は考えられなかった。一体全体、これは誰の『善意』なのか、見つけたらそいつを殴り倒したい気分だ。だが私には一刻の猶予も与えられていなかった。
「やるしかないよな…。よし、やるか!」
 覚悟を決めた私は、サニーホースという名前の柱を両腕で抱えた。
 もしかしたら、そおっとホースを動かせば、礼儀正しく汚水が放出される事を切に願い、そおっと、とってもそおっと、細心の注意を払って、サニーホースの柱をザルから引き抜いた。
「ボォッ!ボッ、ブボォー!ベラベラベラベラ!バルバロバロバロ、どっゴバぁあああああ!」
 私の両腕の中で、怒り狂った大蛇が暴れ、私の両腕は弾かれ、青い大蛇が私の顔面を張り倒した。もはやホースの先端はあらぬ方向を向いていた。
「ゴばぁああああああ!ごばぁああああああ!ごっっっぶばああああああ!!!」

 それがどのくらいの長さだったのかは分からないが、気が付けば青色のサニーホースは、断面がぺったんこになっていた。
「・・・・・・」
 足元を見ると、地面には三十センチほどの穴が掘れていた。ステンレスの桶から外れたホースは、その穴の真上にいたのだろう。
「はぁあああ」
 私は深いため息を付いた。全身がずぶ濡れだ。しかも頭の上から足の先まで、完全にFRPの剥離片にまみれている。首の中にも、チクチクとする破片が入ってしまっている。
「き、木田さん!?どうしたの?何があったの?」
 トイレから帰ってきた加納が、固まっている私の顔を覗き込んだ。
「やられました…」
「だ、だれに!?」

 現場には、善意の破壊工作者がいる。
 


はくりんちゅ115

2008-02-27 23:32:39 | 剥離人

 予想以上に長引いたTS火力発電所の現場も、ついにゴールが見えてきた。

「さあ、今日で全部やっつけるぞ!」
 小磯がいつになく元気な独り言を言う。 
 相変わらず朝は寒いが、仕事の目処が付くと、何となく気分も軽くなる。
「木田さん、今日でジェットは終わりだからね、しっかりとゴミ取りをしてね」
 タバコを目一杯肺に吸い込み、ハルが楽しそうに言った。
「大丈夫ですよ、加納さんがバリバリとやりますから」
 私の冗談に、加納はちょび髭を引きつらせると、苦笑した。
「いやぁ、今日までホント、きつかったわ」
「加納さん、本当にありがとうございました。こんなに大変な仕事を一生懸命やってくれて感謝してますよ」
「いやいやいや、まあ仕事だからね。それに明日もあるんでしょ」
 加納は少し照れると、にっこりと笑った。
「さ、みんな事故だけは気をつけてな」
 坂本が我々と、ミストエリミネータのライニングにやって来た塗装業者に声を掛けた。この塗装業者、R社がC電力H火力発電所でサンドブラストと塗装工事を依頼したSS工業だった。世の中は、そして塗装業界は狭いものだ。

「加納さん、ちょっと休憩して下さい」
 私は加納に声を掛けた。さすがに単調できつい仕事なので、十時と三時には必ず三十分の休憩を入れさせていた。
「すんません、じゃあ、ちょっとお願いします」
 加納は一人で休憩所に向かって行った。
 小磯とハルは、それぞれ好きなタイミングで、適当に休憩を取っているので、まだ煙道内ではガンの音がしていた。
 直径150ミリのサニーホースからは、ドボドボと、FRPの剥離片が混じった汚水が流れ出ている。最初はこの現場のために作ってきた、ステンレスメッシュの深いザルで汚水を受けていたのだが、設定した「目」では細かすぎたらしく、すぐに詰まってしまった。結果、このザルは用済みとなり、ステンレス大型桶の排出口手前で、単なる簡易スクリーン(固液分離装置)として使われていた。
「あんまり剥離片が溜まってないなぁ」
 加納の真面目な仕事振りが良く分かる。ステンレス桶には、ほとんどゴミは入っていなかった。
「木田くん、頼むよ!」
 声のする方を見ると、小磯がガンを持って煙道から出て来ていた。ガンに何かトラブルがあったらしい。
「はい、今行きます!」
 私はゴミすくい用の丈夫なチリトリを放り投げると、整備用コンテナにダッシュした。

「どうしました?」
「ノズルが回転しないよ。多分ベルトだな」
 私は小磯からガンを受け取ると、すぐにノズルを外し、ガン本体を作業台の万力に固定した。
 グリスニップル(グリス注入用の金具)を外し、高圧配管を保持するブッシングを抜き取り、ガンのケーシングを外しに掛かる。ケーシングの固定ネジは、以前はマイナスネジだったのだが、S社を見習って六角穴付ボルトに変更していた。もちろんこれもインチネジだ。
 ケーシングを外してみると、小磯の予想通り、エアモータのギアプーリー(滑車型歯車)と高圧配管のギアプーリーを繋ぐギアベルトが完全に破断していた。
「すぐに交換しますね」
 私は切れたギアベルトを外し、エアダスターで歯車を軽く清掃すると、新品のギアベルトをギアプーリーの上から押し込んだ。本来ギアプーリーはその名の通り、両面に金属プレートが付いていて、滑車のような形状をしているが、これもS社を見習って片側の板を剥ぎ取り、すぐにベルトをはめられる様にして、メンテナンススピードの向上を図っていた。
 その他の部品を元に戻すと、グリスニップルからモリブデン配合の高回転型グリスを注入し、エアモータにもシリコンスプレーを注入する。コンテナに引いてあるエアホースにガンを繋ぎ、トリガーを引くと、
「ブウィイイイイン」
 と小気味良い音を出してノズルが回転した。
「オッケーです!」
「サンキュ!」
 ガンを受け取った小磯は煙道の中に戻って行った。

 この間、十五分経過…。私の知らないところで、ある時限爆弾が作動していた。


はくりんちゅ114

2008-02-26 23:42:09 | 剥離人

 私は一応、「現場監督」という役職らしかったが、実務内容はどう見ても「雑用係」だった。

「木田君、ホーネット(ノズルに付いているチップの通称)が開いてるよ」
 小磯がコンテナの作業台の上に、
「ゴン!」
 と4ジェットノズルを乱暴に置いた。
「俺は疲れているんだぞ!」
 という意思表示の様だ。
「オリフィス(ジェットが通るサファイアヤ製部品)が開いちゃいましたか」
 いちいち職人のイライラを正面から受け止めていては、こちらが参ってしまうので、さらりと作り笑いで受け流す。
「それから、ガンの回転が止まるよ」
「作動油に不凍液は?」
「入れてるよ」

 あまりにガンが凍って動かなくなるので、私は対応策として二つのことを行っていた。
 一つは、ガンのエアモータの排気フィルターを外すことだ。ガングリップの底部には、エアモータの回転羽根を回した後の、圧縮空気を放出する排気口がある。この部分には、ナイロンたわしの様な樹脂製フィルターが入っているのだが、ここに付着した水分が凍り、排気口を塞いでしまうのだ。これによりエアモータが回転しなくなることを防ぐために、私はこのフィルターを除去した。氷の付着量は減ったのだが、代わりに圧縮空気の排気音が大きくなった。しかしジェットの発射音が物凄い音量なのと、どれだけ騒音を出しても苦情が来る心配の無い発電所の中なので、あまり気にしないことにした。
 二つ目の対応策は、作動油に不凍液を混ぜることだった。エアコンプレッサーで作られる圧縮空気は、作られた直後はかなり温度が高い。だがこの圧縮空気も、七十メートルもの長さのエアホースを通り、低い外気温にさらされると完全に温度が下がり、いわゆる「結露」した状態になる。この水分がエアモータを凍らせるのだ。
 タンブルボックスにはルブリケーターという装置が付いていて、ガンのエアモータや、タンブルボックスのオン・オフスイッチを快適に動作させる為に、圧縮空気から水分を取り除き、作動油を微量ずつ注入する機能がある。そこで作動油に不凍液を入れることで、さらに凍結を防ごうと考えたのだった。それなりの効果はあり、エアモータは凍結しにくくはなったが、それでも万全という訳ではない。

「不凍液を入れてもダメですか?」
 私は万力に固定したノズルから、3/8インチのレンチを使って、ホーネットを取り外す。
「ダメだね」
 小磯はまるで全て私が悪いような口ぶりだ。手を止めずに、新品の14/1000のホーネットをノズルに入れる。しっかりと締め付けないと、ウィープホール(漏れを確認する穴)から超高圧水が漏れ、ノズルがダメになってしまう。
「とりあえず、現状ではこれ以上打てる手はありません。申し訳ないですけど、我慢してやって下さい」
「木田君もやってみれば分かるよ、大変さが」
 小磯はブツブツと言うと、私が万力から外したノズルを持って、煙道に戻って行った。

 小磯が居なくなって少しホッとしていると、TG工業の坂本がコンテナに顔を突っ込んで来た。
「どうやろ、木田さん」
「まあ、細かいトラブルはありますけど、そこそこ順調です」
「剥離は明日で終われそうかな?」
「ええ、その予定です」
「あ、そうそう、あのFRPが硬いって件なんやけど」
「はあ」
「なんかカイノールっていうのが入ってるみたい」
「カイノール?」
「うん、表面が茶色っぽいやろ、あれやわ」
「カイノールってFRPよりも硬いんですか?」
「そらぁ、硬いわ」
「じゃあ剥離スピードが上がらないのも…」
「わははは、そらぁしゃあないわ、うん。あんまり気にせん方がええよ、木田さん」
「・・・」
 坂本の能天気な言葉に、私はがっくりとした。

「お前一人が疲れている訳じゃないんだ!」
「きちんと作業箇所を下調べしないから、こんなにみんなが疲れ切っているんだ!」
 そう言えたら、現場監督としては実に楽な話なのだ。でも私は何も言わなかった。


はくりんちゅ113

2008-02-25 23:56:44 | 剥離人
 出張で大切なのは、疲れを癒す宿だ。

 我々が選んだT市内の宿『月見荘』は、なかなか快適なビジネスホテルだった。
 まず、個室であること。これは大変重要なポイントになる。やはりどんなに気の知れた関係でも、同室での生活はストレスとなる。その点、月見荘は三人それぞれに個室が割り当てられていた。私が三時に寝て、ハルが三時に起きてもなんの問題も無いのだ。
 次に大切なのは食事だ。味はもちろんのこと、肉体労働者にはボリュームが大切だ。月見荘は味、ボリューム共に満足できる内容だった。
 その次に大切なのは、宿の中にコインランドリーがあることだ。仕事をすれば、毎日汚れ物が溜まる。どうせ汚れると言っても、やはり朝は綺麗な作業着を着たい。コインランドリーが遠くにあるだけで、出張中の洗濯が恐ろしく苦痛になる。その点、月見荘はホテル内にコインランドリーが用意されているので、気軽に洗濯が出来る。
 最後に大切なのが風呂だ。大きな浴室が付いていれば、尚のこと良い。やはり仕事の疲れは、風呂で取るのが一番だ。月見荘には、三~四名が同時に入れる程度の、手足をゆったりと伸ばせる湯船があった。しかも風呂は二十四時間入浴可能で、朝風呂が大好きなハルには最高の宿だった。

 そんな『月見荘ファン』の我々だったが、明日は月見荘には泊まれない。
「えー、明日は月見荘じゃないの!?」
 もっとも大きな声を出したのは、ハルだった。
「申し訳ないですけど、明日は市内の別のホテルに移動です」
「空いてなかったの?」
 小磯も面倒臭そうだ。
「ええ、ここまで現場が長引くつもりじゃ無かったので、十日分しか予約していませんでした」
「で、明日はどこ?」
「黄金ビジネスホテルです。どうですか!」
「ど、どうですかって、何が?」
「いや、黄金ビジネスホテルですよ、豪華そうでしょう!」
「ご、豪華って、一泊いくらなの?」
「月見荘よりも安いですよ」
「飯は?」
「無いです」
「がははは、悪いけど全然期待出来ないね」
「大丈夫なの木田さん、変なホテルじゃないの?」
 ハルが心配そうな顔をする。ハルは汚い宿が大嫌いだ。
「いや、大丈夫ですよ。名前が立派だから」
「がはははは、この男はいい加減だなぁ」
 小磯は久しぶりにカラカラと笑った。

 翌日、我々は仕事を終えると、黄金ビジネスホテルに向かった。
「三名で予約した、R社の木田と申しますけど」
 私はみるからに陰気なフロントの年配男性に声を掛けた。
「・・・」
「?」
 なぜか無言だ。彼は視線を落とすと、何かを見て、ようやく声を出した。
「いらっしゃいませ」
「・・・」
 恐ろしく反応が鈍く、陰鬱だ。
「こちらをお願いします」
 我々は宿泊者カードに名前を書いた。書きながら物凄く気になる立て札を発見した。それはフロントのカウンターの上に堂々と置かれていた。
『ただ今、配管修理中に付き、赤水が出る場合があります』
 猛烈に嫌な予感がした。なぜなら、その貼紙は茶色く変色し、ヨレヨレになっていたからだ。
「一体、いつからあの紙は貼ってあるんだ?」
 部屋に入ると、その予感はさらに膨張した。
「変じゃねぇか?この部屋…」
 何か他人の部屋に来てしまったような、そんな違和感を感じる。部屋の全ての物の色使いに統一感が無く、妙に落ち着かない。
 特にカラフルなベッドカバーに違和感を感じる。一体誰のセンスなのか…。しかもベッドが異様に小さい。小柄な私が寝ても、脚が出そうな気がする。
「とりあえず風呂に入ろう」
 私はシャワーを出して見た。
「おーーーー」
 シャワーヘッドから出てくるお湯の、あまりの赤さに、思わず声が出た。ここまで来たらどこまで赤いのか、湯船に溜めてみることにする。
「赤いも何も、こんなの単なるサビ汁だろう…」
 湯船に溜まった、ゴールドラッシュのアメリカの川の様な色合いに、私は怒りを通り越して感嘆してしまった。
「ま、汗を流す程度はなんとかなるかな…」

「プルルルル、プルルルル」
 部屋の内線が鳴った。埃っぽい受話器を取ると、興奮したハルの声がした。
「木田さん、木田さんの部屋のシャワーはどう?」
「あー、サビ水の件?」
「やっぱり木田さんの所も?小磯さんの所もだって!」
「ええ、フロントに書いてありましたからね」
「俺、ホカ弁を買って来て、シャワーを浴びようと思ったら水が真っ赤じゃんね、一体何事?って思ってさあ。木田さんはどうしたの?」
「気合で入りましたよ」
「気合?」
「ええ、鉄分補給だと思って」
「ちゃあ、俺どうしようかなぁ、でも汗は流したいし…。木田さん、明日は月見荘なんだよね、大丈夫だよね」
「もちろん、きちんと予約してありますから」
「それとさ、俺が寝るとベッドから脚が出るんだけど、木田さんは?」
「僕でもギリギリですからね、ハルさんなら確実に脚が出るでしょう」
「っちゃあ!何なのこのホテル?」
「最高級の黄金ビジネスホテルですよ」
「・・・」

 翌日、ハルは一日中呪文のように同じ言葉を唱え続けた。
「木田さん、小磯さん、早くお風呂に入りたいよぅ」
「がははは、うるせぇ、仕事しろ!」

 黄金ビジネスホテルは、潔癖症の人には耐えられないらしい。 

はくりんちゅ112

2008-02-24 23:53:11 | 剥離人

 現場にも残業がある。

 煙道のFRPライニングの剥離に入ってから、仕事のペースがガクンと落ちていた。
「今日もやるの、残業?」
 小磯が朝から休憩所の椅子にふんぞり返っている。
「やります。お願いします」
「何時まで?」
「今日も七時までお願いします」
「はい、分かりましたぁ!」
 わざとらしく小磯は丁寧に答える。当初は一週間でかたをつけるつもりだったが、すでに今日で十一日目だ。
「木田君、誰かもう一人撃ち手は居ないの?」
「ええ、次回は探しますが、今回はこれで行くしかないですね」
「二人はキツイんだよ」
「ええ…」
 一週間の作業なら、小磯とハルの二人で十分だと思っていた。
 通常、ガン作業は三人一組のローテーションで行なう。二時間撃って、一時間休憩、このリズムで回して行くのだ。だがR社には、三人目の撃ち手が居なかった。仕事が長引くほど、二人の疲労は蓄積し、ストレスも溜まって行く。
「木田君、そろそろ上は終わりそうだから、昼からは一気に足場板を剥がすよ」
「分かりました」
 我々だけでなく、加納も疲労が蓄積していた。毎日毎日腰を屈めて、ステンレスの桶からゴミをすくい続け、それを土嚢袋に詰めているのだ。腰が痛くなって当然だった。
「加納さん、腰、大丈夫ですか?」
「いやぁ、大丈夫、大丈夫。あの二人に較べたら、大したこと無いって」
 加納は力なく笑い、缶コーヒーを口に運んだ。
「それにしても今日は寒いですね」
 私は話題を変えるために、無難なネタを加納に振った。
「ここ最近じゃ一番寒かったからね。ポンプは大丈夫?」
「大丈夫、きっちりと不凍液を回したから」
 私の代わりに小磯が答える。
「さ、やりますか!」
 私はみんなに声を掛けた。八時になるので仕事開始だ。

 みんなでぞろぞろと、作業用コンテナに向かう。私がコンテナのシャッターを開けると、小磯とハルが冷え切ったカッパを外に出した。
「ブォオオオン!」
 余熱を終えたコンプレッサーのエンジンを掛ける。小磯とハルが、カッパをコンプレッサーのラジエターの上で温め始める。
 次はハスキーだ。まずは吸い込みポンプの電源を入れ、供給水のバルブを開こうとした。
「うお!?」
 私はステンレスの分岐用タンクを見て驚いた。分岐用ステンレスタンクには計六個のバルブが付いていて、ハスキーへの供給用ホースが一本、汚れたカッパを洗うためのホースが一本、そして手洗い用の水道の蛇口が一箇所設けてある。
 この手洗い用の蛇口は、毎日帰る時に少しだけ開いて、水が常に流れるようにしていた。凍結防止の為だ。だが、私の目の前の蛇口は、まるで蝋で出来たサンプル食品の様に、水が出た状態で蛇口ごと凍りついていた。
「凍ってる!」
「はぁ?不凍液を入れたんじゃ無かったの?」
 小磯が私の声を聞きつけて側にやって来た。
「1,000リットルポリタンクにまでは、入れないですよ」
 小磯はステンレスタンクの蛇口を覗き込んだ。
「おお、そのままの形で凍ってるよ!」
「なになに、ハスキーちゃんが凍っちゃった?」
 ハルも楽しそうにやって来る。
「うわぁ、凄いね、このままの形で凍るんだね。でもこれ、どうするの?木田さん、今日は仕事は休みかな?」
 供給水がハスキーに流れなければ、仕事にならない。
「休むわけには行きませんね。炙って融かしますよ」
 私はコンテナから、ホームセンターで買ったガストーチを持ち出した。ツマミを回して、電子着火ボタンを押す。
「ゴォオオオオ!」
 ガストーチは青色のナイスな炎を噴き出した。熱量は十分なはずだ。
「あんたらのコンテナは、何でも入っとるねぇ」
 加納が腕組みをして感心したように頷いている。
「ゴォオオオオ!」
 私はステンレスタンクを、青白い炎で炙り始めた。
「木田君、どのくらいかかるの?」
「ステンレスタンクのカラメリゼのことですか?」
「はぁ?何それ?」
「別にイイです…。融けるまで休憩所に居て下さい」
「いや、今のうちに段取りが換えの準備をしておくよ。ハル、ちょっと来い!」
「はいよー」
 何だかんだ言っても、小磯にもプロとしてのプライドがある様だった。

 ステンレスタンクの解凍には、一時間を要した。



 


はくりんちゅ111

2008-02-23 23:54:28 | 剥離人

 H電力TS火力発電所、煙道には性質の悪いトラップが潜んでいた。

「木田君、あれ、本当にFRP(繊維強化プラスチック)なの?」
 小磯が休憩時間にうんざりとした顔をしている。ミストエリミネータとは異なり、煙道にはFRPライニングが施されている事は、事前に分かっていた。
「どういうことですか?」
「半端じゃなく硬いよ。前にTG工業でサンプルを撃たされたでしょう」
 以前TG工業に行った時に、サンプルのFRPライニングを撃たされた記憶がある。
「でも、あの時は僕も撃ってみましたけど、そんなにめちゃくちゃ硬くは無かったですよね」
「俺もきちんと覚えてるよ。でも今回のは違うよ、ジェットが下まで貫通するのに、物凄く時間が掛かるんだ。な、硬いよなハル」
 ハルは小磯を見て、タバコの煙を吐き出す。
「硬いねぇ。全然ジェットが入らないもんね。5(ファイブ)ジェットじゃダメかもね。あの細いヤツは無いの?」
「4ジェットノズルのことですか?」
 私は手で4ジェットノズルの形状を空中に作って見せた。
「そう、その細いヤツ」
「俺もそいつを試して見たいな」
 小磯も同じ意見のようだ。
「分かりました。とりあえずは14/1000(インチ)の4ジェットでいいですか?」
「頼むよ。それとあの補強パイプ、あれは大変だよ」
 煙道の中には、補強用のパイプが大量に入っていた。
「あのパイプ、四方向から撃たないと綺麗に剥がれないんだよ」
「四方向?」
「パイプの径が小さいから、正面以外はジェットが斜め入って、あんまり剥がれないんだよ。つまり四分割して撃たないと、全面剥離出来ないの!」
「そうですか」
「そうですかって、あんなにパイプが入ってるって、事前に分からなかったの?」
「すみません、確認できませんでした」
 私にはそう答えるしか無かった。
 小磯がイラつくのには理由があった。当初の予定では、一週間で剥離作業を終える予定だったが、予想以上に硬いFRPと、大量に入っている補強パイプ、犬しか入れない足場等の条件で、仕事が全然進んでいないからだ。
「木田君、一週間の予定だったけど、多分終わらないよ」
「ええ、それは仕方無いですね」
「仕方無いって、それでいいの?」
 私は、黙って話を聞いていた、TG工業の坂本を見た。
「いや、そりゃあ仕方ないわ。終わらない物をどうこう言っても、変わるわけじゃないからね」
 良くは無いが、仕方が無い、それがTG工業の判断の様だ。
「まあ、焦ってもしょうがないわ。みんなで仲良くやろうよ」
 単なる一時的な仕事の気楽さなのか、元々の性格なのか、加納がちょび髭を吊り上げながら、カラカラと笑った。
「ま、やるか、ハル行くぞ!」
 小磯は気持ちを奮い立たせて、休憩所のペラペラの扉を開けた。
「すみませんね、加納さん」
「いやいや、現場は上手く行く時も、いかん時もある。地道にやるしかないからな!」
 何となく加納に救われた気持ちになり、私は加納の背中を見ながら整備用コンテナに向かった。

「木田さん、また詰まっとるみたいや!」
 加納がコンテナにやって来た。私は早足で、煙道の下に向かう。
「見てみ、出てくる水量が少ないやろ」
 煙道に付いているフランジは直径300ミリ、これをリデューサーで150ミリに絞り、そこに150ミリのサニーホース(化学繊維と軟質塩化ビニールで作られたホース)を接続していた。この中をFRPの剥離片が、水と一緒に出てくる予定だった。
「また『当て』か…」
 剥離片と水だけなら、150ミリのサニーホースで十分に排出は可能だ。だが、今回の足場は、ありとあらゆる場所に『当て(足場パイプが構造物を傷つけない為に使われる緩衝材)』が使われていて、その量が半端では無い。そのほとんどが古くなったサニーホースの切れ端でなのだが、これがリデューサーやサニーホースに詰まるのだ。
「最悪だね。こんなことなら最初から300ミリのサニーホースを付ければ良かったよ」
 思わず私は愚痴を言ったが、それを言っても始まらない。
「今まではホースを揺すったりして何とかなっていたけど、今回は全然あかんわ。しかもこの水量、しっかりと詰まっとるよ」
 本来は毎分約24リットルの水が流れて来るはずなのに、垂直に降りている2メートルのサニーホースからは、チョロチョロとしか水が流れて来ない。
「ガンで撃ってもらいますね」
 私は煙道の中に入ると、エアラインマスクを被ってパイプを撃っているハルを捕まえた。
「ハルさん、ホッパー部(漏斗状の部分)をガンで撃って下さい!」
 大声で叫ぶ。ハルは理解したのか、オッケーサインを出した。
 外に出て加納と待ち構えてみるが、中々ガンの音がしない。
「どうしたんやろ?」
 加納がじっとホッパー部を見上げる。しばらくすると、ホッパー部から何度も金属音がする。
「何の音ですかね?」
「足場板っぽいなぁ」
「もしかしてホッパー部に足場が無いとか?」
「ありえるなぁ」
 金属音が止むと、突然ガンの音がし始めた。
「お、始まりましたよ!」
 ジェットの音が、ホッパー部の鉄板を透して聞こえて来る。
「バシュー、シュー、ブロブロブロブロ、ガボォ、ガボン!」
 不思議な音がした瞬間、150ミリのサニーホースが瞬時に膨らんだ。
「ガッ、ボバぁあああああ!」
「うっはぁあああ!」
「おおー!おおー!」
 ゴミ受け様のステンレスの大型平桶に、汚水とゴミが一気に強制排出され、茶色い水しぶきを吹き上げた。そのあまりの量に、ステンレスの桶から大量のゴミと汚水がオーバーフローする。
「ああ、ああ、ああ!これはどういうこと!?」
「うっわー、たまらんなぁ」
 私も加納も全身ずぶ濡れだ。しかもFRPの剥離片をたっぷりと浴びている。
「加納さん、洒落にならないですね」
「首に入った!FRPのカスが入った!」
 そこへ騒ぎを聞きつけた坂本がやって来た。
「どうしたん?何があった?」
 加納が右手で、桶の外にこぼれていたサニーホースの切れ端を持ち上げた。
「こいつです、こいつが犯人です!」
「ホースの切れ端?」
「ええ、こいつが詰まるんです。坂本さん、今後ウォータージェットでやる時は、サニーホースの当ては禁止にしましょう!」
 私と加納の剣幕に、坂本は怯み気味だ。
「でも、当て無しで組むと、壁に傷がつくと思うんやけど…」
「心配無用です。壁の当ては、全部外れてこの桶の中に回収されていますから」
「ホンマか?」
「ええ、綺麗さっぱり」
「そら困るなぁ。また次回は考えるわ」
 坂本はのんびりと答えると、休憩所に歩いて行った。

「腰は痛いし、FRPの泥汁は被るし、なんか最高に惨めですね」
「あははは、まあこれも仕事や!」
 加納はまたちょび髭吊り上げながら笑った。

 夕方、小磯とハルにその話をすると、二人は引き攣ったように笑っていた。
 


はくりんちゅ110

2008-02-22 23:38:09 | 剥離人
 当たり前のことだが、T県は寒いだけでなく雪が降る。

 T市内は新たに雪が積もり、今も雪がチラついている。 
「いやぁ、今朝はハルちゃん驚いちゃったよ、ホントに」
 ハルはレンタカーの後部座席で、朝からパワー全開だ。正確に言うと午前三時ごろからエンジン全開だ。ハルの就寝時間は午後九時から十時、起床時間は午前三時から四時だ。
「なんたって、朝起きたら頭に雪が積もってるじゃんね」
「はぁ?」
 小磯が眉間にしわを寄せる。私は乗り慣れない車で、経験が少ない雪道の運転に集中しているので、二人の会話に参加する余裕が無い。
「だからぁ、起きたら窓から雪が降り込んでて、頭が雪だらけだったの!」
「がははは、どうせまた窓開けて寝たんだろ」
「窓開けるなんて当たり前でしょう。あんなに部屋が暑いと寝られないよぉ」
「がはははは!お前だけだ」
 私は二人の会話に驚いた。
「ハルさん、雪って寝る前から降っていませんでしたっけ?」
「うん、降ってたよ」
「それでも窓を開けて寝たんですか?」
「そりゃそうでしょ!」
「本当の話ですか?」
「本当よぉ。寝る前は風がなかったから大丈夫だと思ったんだけど、何よ、朝になったらベッドと俺の頭に雪が積もってるんだもんね、びっくりしちゃったよ」
「ちなみに朝って何時のことですか?」
「決まってるでしょ、朝って言ったら三時でしょう」
「がははは、そりゃお前だけだ!」
 また小磯が爆笑する。
「ハル、世の中の普通の人間は、朝って言ったら六時から七時なの」
 私も小磯の意見に賛成だ。
「七時?七時なんて言ったらもうお昼前だよ」
「がははは、木田君、こいつに普通の人間の生活を教えてやってくれ!」
「いや、僕は逆に寝るのが三時ごろなんで…」
 残念ながら小磯の要望には応えられそうに無い。
「そうだったよ、木田君は寝ないんだった」
「ええ、大体三時間くらいですね」
「それはおかしいよ木田さん、おかしいから治した方がいいよ」
「がははは、お前もだ!どうしてウチには普通の人が居ないんだ?」
 私は苦笑いをしながら、TS火力発電所に車を乗り入れた。

 ミストエリミネータが完了したので、今度は煙道で作業を行う。
 加納にも手伝ってもらい、ホースやガンの段取り換えを行う。煙道内部の作業が終わると、今度は剥離片の排出場所を用意しなければならない。
 煙道は途中で直角に立ち上がっていて、その最下部には直径300ミリのフランジが付いていた。ここにホースを繋いでゴミと汚水を排出する。
「木田君、大変だよ!早くこっち、こっち!」
「木田さん、早く来て!」
 歩廊の上に居ると、先に排出場所の地面に降りていた、小磯とハルが呼んでいる。
「どうしたの?」
「いいから早く、こっちの階段から降りて来て!」
 小磯が大声で呼ぶ。私は何事かと思い、慌てて階段を駆け下りた。
「ぬぉおおお!」
 私は大声を上げて地面にスッ転び、尻餅をついた。
「がははははは!」
「うひゃひゃひゃ!」
 小磯とハルが腹を抱えて笑っている。私は何が起きたのか分からなかったが、後ろを振り返って見て、ようやく状況を理解した。
「これ、氷?」
「そう、氷だよ。危ないからって注意したんだけどね」
 加納が申し訳なさそうに言う。後ろでまだ小磯とハルが笑っている。
「はいっ、怒らない!俺もハルもここで転んだんだから」
 小磯が私の肩をバシバシと叩く。
「転んだ?二人とも?」
「そう、最初に俺が転んだの。次が小磯さん」
 ハルが階段の最終段の真下、アスファルトに張り付く薄くて透明な氷を指差す。
「俺が最初にハルさんに注意したんだけど、転んでな」
 加納は地元の人間だけあって、この直径三十センチのトラップに気付き、ハルに注意を促したらしい。
「何のことか分からなくて転んじゃったのよ」
 転んだハルは、自分と同じ目に会わせるために、小磯を大声で呼んだらしい。
「俺も大声でハルに呼ばれて、『何事?』と思って階段を駆け下りたら、ここで吹っ飛んだんだよ」
 そして二人は私をこのトラップに呼びつけたらしい。
 そこへH電力の山上が通り掛った。
「お、そこは氷が張って危ないからな、気をつけてね」
「・・・気をつけます」

 そういうことは、もっと早く言ってもらいたい物だ。

はくりんちゅ109

2008-02-21 23:42:30 | 剥離人
 翌日、ミストエリミネータの剥離作業が午前中で完了したので、剥離片を四人で回収することにする。

「さ、ガラ(剥離片)出しやりますよ!」
 正直、全く気分が乗らないが、明るく振舞って作業を開始する。
「木田君、こんなの職人の仕事じゃないよ!」
 小磯は私にブーブーと文句を言ったが、仕事に含まれているので仕方が無かった。四人で土嚢袋に剥離片を詰めると、今度は歩廊のステージから下に土嚢を降ろさなければならない。
 仕事を始める時に設置した電動ウインチと、ナイロン製の『もっこ(ナイロンベルト{本来は縄}が網状に編んであり、四隅に吊り輪が付いている物)』を使って、土嚢袋を地面に降ろす。
「おらぁハル、次行くぞー!」
 小磯は率先してウインチの操作係を買って出て、加納と一緒にもっこに土嚢袋を詰め込み、ステージから降ろして来る。
「小磯さん、そんなに一度に降ろさなくてもイイですから!」
「がはははは、ちまちまとなんかやってられるか!」
 小磯は私の言うことを聞かず、もっこに土嚢袋を詰め込む。加納も苦笑いをしながら手伝っている。
「カチッ!ウイィイイイン」
 土嚢を満載したもっこが降りて来る。満載しすぎて土嚢袋が落ちそうだ。
「ハルさん、危ないから避けて下さいね」
 私はリヤカーに積んだ土嚢袋を整理していたハルに、声を掛けた。
「え?何が?」
「あっ!」
「ドシャッ!」
 もっこから土嚢袋がこぼれ落ち、ハルの近くに落下した。
「うわぁ!危ないよぉ、小磯さん!!」
「がはははは、悪いハル!ちょっと積みすぎちまった」
 小磯は大して反省するでもなく、笑っている。
「後で小磯さんにお仕置きをしないとね」
 ハルがボソッと私に言った。

 リヤカーが満杯になると、指定された場所まで運ばなければならない。リヤカーは土嚢袋の重さで、タイヤが潰れそうだ。
「ほら、小磯さんが前だよ」
 ハルが小磯を促す。
「ああ?前は重いだろう」
「ダメだよ、小磯さんはさっきハルちゃんに土嚢をぶつけようとしたからね」
 ハルは小磯にペナルティを突き付けて、リヤカーを引かせようとしていた。
「分かったよ、ハル」
 小磯は苦笑いをするとリヤカーの手を持ち、ゆっくりとリヤカーを引き始めた。
「すっげぇ重いぞ!」
 タイヤが潰れかけているせいもあり、ゆっくりとしかリヤカーが動かない。
「小磯さん、押してあげようか?」
 ハルがニヤニヤとしながら小磯に声を掛けた。
「おう、ちょっと押してくれ!」
 小磯が不用意に返事をした。
 ハルはニヤリと笑うと、ガッシリとリヤカーのボディをつかみ、力強く後ろから押し出した。
「お?おお?おおぉ!?」
 リヤカーのスピードが徐々に上がる。
「おい、待て待て待て!」
 さらにスピードが上がる。
「危ねぇ、危ねぇって!」
 小磯の脚がバタつく。
「そうりゃあ!」
 ハルが一気にリヤカーを突き放した。
「おおおお!」
 小磯は慌ててリヤカーを放り出すと、リヤカーの手を飛び越して脇に逃げた。
「ガアアアアアッ!」
 土嚢を満載したまま引き手の居なくなったリヤカーは、アスファルトの地面と接触して、火花を散らしながら数メートル滑走した。
「ひゃははははは!」
「ははははは!」
「はっはっはっはっ!」
 小磯以外の三人は、腹がよじれるほど笑っている。特にハルは、地面に転がって笑い転げている。当の小磯は、リヤカーから飛び退いたときに脚をもつれさせ、リヤカーと同じく地面に転がって居た。
「は、ハル!も、もうちょっと死んじゃうところだったぞ!」
 小磯は呆れて笑いながら、ハルに文句を言った。
「あんたら無茶苦茶やなぁ」
 加納も笑ってはいるが、すっかり呆れている。

 たまにはバカ笑いも必要だが、発電所の安全担当者に見つからなくて、私はほっとした。
 
 

はくりんちゅ108

2008-02-20 23:52:54 | 剥離人
 翌朝、半端ではない寒さが我々を襲っていた。

「さ、寒すぎる!」
 小磯が筋肉質な体で、作業着用ジャンバーのチャックをぴっちりと上まで上げている。何だか首が無いように見えて変だ。
「こんなの全然寒く無いでしょう!俺なんか窓を開けて寝てるんだよ。何だかあの宿は部屋が暑くて仕方ないよ」
 薄着のハルがカラカラと笑い飛ばす。私も小磯も、ツナギの作業着の下にインナーの保温ツナギを着ているのに、ハルは半そでのTシャツを着ているだけだ。
「がははは、ホントにこいつは寒さ馬鹿だからな」
 小磯は笑いながら、かじかんだ手でタバコに火を点けた。
「おはようございまーす!」
 TG工業の坂本と手伝いの加納が同時に休憩所に入って来た。
「あれ、エアコン点けて無いの?」
 坂本が壁のエアコンを見上げた。
「点けましたけど、全然暖かくならないですね」
 エアコンは動いているのだが、所詮はプレハブ小屋、完全にT県の寒さに負けている。
「こんなもんじゃ無いよ、ここの寒さは」
 加納が笑いながら我々を脅した。
「ガンを撃ってても寒いもんなぁ。それにガンのグリップに氷が着くんだよ」
「氷?」
「ああ、着くよねぇ」
 ハルも大きく頷く。
「どこに着くんですか」
「まずは、ガングリップ下のエアー排気口だね。それとトリガーの部分。指が冷たくて痛いからね」
「でも小磯さん、手袋は内側に毛が生えた耐寒用のゴム手袋ですよね」
 今回の仕事のために、ゴム手袋は裏が起毛の暖かい物を用意していた。
「撃ってみな、言ってる意味が分かるから」
「ははは…」
 笑ってごまかしたが、とてもガンを撃つ気分では無い。最近、小磯はたまに嫌味を言うようになっていたので、聞き流すに限る。

 朝の一服が終わると、八時から仕事開始だ。
 最初にやるのは、昨夜仕込んだ不凍液を抜くことからだ。通常の水を供給水にして、ハスキーのエンジンを掛け、回転灯を赤から黄色にする。余剰水ホースを100リットルポリタンクに戻して、不凍液が回収する。
 余剰水が透明になったら、回転灯を黄色から緑色に切り替える。するとミストエリミネータに入った小磯とハルは、ガンを発射し、ホース内の不凍液を抜くのだ。
 それが完了すると、小磯が青色の回転灯を点灯し、超高圧水を要求してくる。ここでハスキーの圧力を上げると、私の労働は土嚢袋作業一辺倒になる。
「加納さん、これ、マジでキツイですね」
 加納は今日も黙々とガラスフレークを土嚢袋に詰めている。
「いやぁ、久しぶりに堪える仕事だね」
「普段、こういう仕事はやらないんですか?」
「サンドブラストはバキュームを使うからね」
「そうですよね」
「これ、バキュームじゃダメなの?」
「ダメじゃ無いですけど、排水を発電所の水処理装置で処理するのがポイントなんですよ」
「つまり産廃量が少なくなるってこと?」
「そうですね。でもこれはキツイですわ」
 正直、小磯とハルが剥離するスピードに着いて行くのが難しくなっている。運び出す暇が無い土嚢袋が、マンホールの内側で山盛りになっている状態なのだ。
「これ、向こうの煙道に段取り換えをする時に、みんなでやらないとダメですね」
「そうだね、そうしないと無理だね」

 加納も私もガラス片にまみれて精一杯やっているので、こればかりは仕方が無かった。