どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ58

2007-12-19 23:46:20 | 剥離人
 硫酸タンクの中は黒いゴムライニングに囲まれているせいか、なんとなく薄暗かった。

 私はまず、タンクの床面から剥がす事にした。
 タンクの中には天井を作業する為の『ローリングタワー』が二台組まれている。『ローリングタワー』とは、高所で作業をする為の組立て式の移動櫓みたいな物だ。簡単に組み上がるように定型の部品で構成されていて、足には大型のキャスターが付いている。
 私は後々スムーズに作業をするには、床面のゴムライニングを全て剥がし、鉄板を露出させた方が良いと判断した。

 まずは金属製のペール缶に腰掛けて、床面を撃ち始める。実は私が本格的な剥離作業に入るのは、今日が初めてだ。だが石本の手前、いつもやっているような顔でガンのトリガーを引く。
「バシュゥー!」
 ジェットの反力が腕に掛かり、上半身が仰け反りそうになった。私は慌ててトリガーを離した。今度はガンの後ろに出ているホースをしっかりと脇に挟み込み、上体の重心も落としてトリガーを引いた。
「バシュウー!」
 再びジェットが出る。左手のサブトリガーを通して、ガンのノズルが回転する振動が伝わってくる。私はゆっくりとノズルを床に近づけると、ジェットをゴムライニングに当ててみた。
 ジェットは鋼板に当たる場合とは異なり、グズグズという篭った音を出しながら、ライニングの中に吸い込まれて行く。周囲が黒いせいなのか、やけにジェットの水蒸気の白さが目立つ。
 私は一度ジェットを止めると、床面を確認した。約五ミリのライニングは、きちんと剥離されている。私はホッと一安心した。これなら問題は無いはずだ。私は再びトリガーを引き、黒いゴムライニングに向かい合った。

 一時間後、私はペール缶の上でへとへとになっていた。
 想像以上に辛い仕事だ。特にガンを支えている右手は疲れ切り、握力が無くなりかけている。20kgf/cm2ものガンの反力を押さえ込むことが苦にならなかったのは最初の五分間だけで、五分を経過するとグリップを握りこんでいる右手が痛み出し、ホースを押さえ込んでいた右腕がプルプルとしてくる。そしてサブトリガーを握っている左手も右手の後を追う様に悲鳴を上げ始めるのだ。
 毎分3,000回転する5ジェットノズルは、私の両足の間で床面のライニングに襲い掛かっている。少しでも油断をすればノズルはあらぬ方向に暴れ、私の柔らかい足の肉を吹き飛ばし、私は二度と歩くことが出来なくなるだろう。
 緊張感と疲労感がタッグを組んで私の判断力を奪い、徐々に思考能力が低下して行く。おまけにゴムライニングを剥離した水は、削れた細かいゴムの粒子が混じって真っ黒になり、その跳ね返りを浴びると、目の前の視界が完全に奪われてしまう。視界が悪いと危険性が上がるので、何度もガンを止めて汚れを手で拭ってしまう。そのせいもあって作業はあまり捗らなかった。

 二時間後、私は完全に放心状態でタンクを出た。足元がフラフラだ。剥離されたゴムライニングから立ち上る酸っぱい臭気が、さらに私の精神力を奪っていた。
「お疲れ様です!」
 さすがにマイペースの石本も気を遣っている。私はハスキーをアイドリングにしてエアラインマスクを外し、ドロドロのカッパを脱いで水で洗い流した。タンクからの廃水は、工場内の処理水槽に流れて行くので、ほとんど気を遣う必要は無い。
「どう、大体どんな感じの作業か分かった?」
 私は石本に言った。
「分かりました、多分楽勝ですよ!」
「見ているよりも、やってみると大変だよ?」
 これは私の率直な感想だ。
「確かに大変そうですね、グフフ」
「ま、まあ久しぶりだったからね」
 半分だけなら事実である。
「さ、小磯さんとハルさんを迎えに行こうか!」
 私は疲れ切った体を引きずり、そろそろ最寄の駅に到着する二人を迎えに行った。

 明日、私はガン作業をしなくても良い筈だった。