どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ62

2007-12-23 23:01:00 | 剥離人
 連日の『ゴム方作業』で、私の腕と腰は筋肉痛になっていた。

 無事に硫酸タンクの剥離は完了したが、大量のゴム屑を土のう袋に詰めて運ぶのはさすがに堪えた。メカニックマンだったはずの石本も、ひたすらゴム方作業に従事してもらうことになり、結局何の為に連れて来たのか分からない状態だった。
 さらに今日は機材を移動させて、G工業構内で試験剥離作業だ。内容的には大した作業では無いので、石本とハルを電車で帰す事にしていた。朝一でG工業手配のトラックに機材を積み込み、ついでに石本とハルを駅まで送る。
「小磯さん、俺はちゃんと家に帰れるのかな?」
「がははは、大丈夫だよ、きっと博多に着くから」
「博多?それじゃあ九州じゃんよ!冗談じゃ無いよ」
 どうやらハルは電車に乗るのが非常に苦手らしいが、途中までは石本と一緒なので、無理やり「大丈夫!」と納得させて帰してしまった。

 G工業の構内に入ると、すでにハスキーなどの機材は常用である安井工業の作業員によって、トラックから降ろされていた。
 もちろんここでも新規入構教育を受け、朝の貴重な一時間を安全意識向上の為に献上する。
「お早うさん!なんや木田さん宛てに荷物が届いてまっせ?」
 安全教育が終わると、尾藤が小さな箱を持ってやって来た。
「ありがとうございます。実は昨日F社に頼んで硬質ゴム用にノズルを送って貰ったんです」
「ほう、なんや特殊なノズルなんか?」
「ええ、また後でご覧に入れますので」
「楽しみにしてますわ。ほな準備が出来たら呼んでもらえますか?」
 私は急いで小磯と機器をセットアップした。

 私がF社から取り寄せた特殊ノズルをガンにセットすると、小磯が食い付いて来た。
「木田君、何なのこのノズルは?」
 小磯も初めて見るノズルの様だ。
「これは25/1000インチのホーネットを装備したシングルノズルですよ」
「25/1000?5ジェットについてるのはどのサイズなの?」
「5ジェットは12/1000インチですよ」
「へー、色んな大きさがあるんだね」
 ノズルには、通称『ホーネット』と呼ばれる部品が組み込まれている。名前の由来は、その部品の形状がスズメ蜂の胴体に見えるからだ。いや、少なくともB国人にはそう見えるらしい。
 ホーネットの中にはオリフィスという部品と、それを保持するシールが入っている。オリフィスの材質はサファイアで、その真ん中には小さな穴が空いており、その直径を示すのが、12/1000インチだ。12/1000インチは0.3048ミリメートルで、25/1000インチは0.635ミリメートル、この使い分けにより超高圧水の流量が変化する。
 ちなみにこのサファイアが入っているホーネットという部品は、一個約6,000円もする。5ジェットにはこのホーネットが五個付いているので、これだけで30,000円の部品代だ。しかもこのホーネットは単なる消耗部品で、サファイアの穴が開いて反力が大きくなったり、塗装の剥離状況が悪くなれば、すぐに交換となる。さらにサファイアの代わりに、オリフィスにダイヤモンドを使用すると、一個100,000円という、ぶっ飛びな部品代となる。

 小磯はしげしげと、ペットボトルのキャップの様なノズルを観察している。
「こんなノズルは初めて見るなぁ」
「ああ、それは本来ウォーターナイフ用の部品ですから」
「ウォーターナイフ?」
「ええ、色んな物をテーブルでカットする機械ですよ」
「へえ、F社ってそんなのもやっているんだ」
「むしろそっちが主力商品みたいですよ」
 小磯はふんふんと頷く。
「で、実際この25/1000のシングルノズルは硬質ゴムに効くの?」
「さあ、やってみないと全然わかりません」
「がはははは、なるほどね」

 小磯は笑いながらエアラインマスクを被ると、ガンを肩に担いだ。

はくりんちゅ61

2007-12-22 23:33:01 | 剥離人

 ゴムライニングの剥離作業は三日目になった。

 予定では今日で剥離作業を終えることになっている。すでに天井と壁面の三分の一は剥離が完了している。
「今日で行けますよね」
「がはは、俺とハルなら楽勝でしょう」
 小磯は笑って答えた。
「いや、終わらないかもよ!」
 ハルが大声で言う。
「どうしてだよ、あとは壁だけなんだから楽勝だろう」
「いや、ハルちゃんは何だか風邪を引いたみたいだからね」
「がははは、バカだね、エアコンの温度をあんなに下げるからだよ」
 二人は旅館の部屋の話をしている様だった。
「小磯さんに嵌められたよ」
「はぁ?お前、自分で『小磯さん、今夜は暑いからクーラーをしっかりと入れないとね!』って言って、リモコンを触ってたじゃねぇか」
「うん、確かにそうだよ」
「すっげー寒かったけど、何度に設定したんだよ」
「18度・・・」
「がははは、バカだこいつ!お前のせいで俺だって寒かったんだぞ。朝方なんか蓑虫みたいになってたんだからな」
「いや、きっと小磯さんが、『ハルの奴、風邪を引かせてやる!』って、夜中に16度くらいにいじったんじゃないの?」
「がははは、今時のエアコンは18度より下には下がらないの!それにお前が風邪を引くと性質が悪いからな。もう俺は出張先でお前の看病をするのは懲りたよ」
「いや、もうダメかも。小磯さん、今夜はハルちゃんを優しく看病してね!」
「がはは、ふざけんな!」
 まるで二人は漫才コンビだ。

 朝からバカ話で盛り上がっていると、甲高い関西弁が聞こえて来た。
「やあ、皆さんおはようさん!」
 G工業課長の尾藤だ。
「お早うございます」
 私は挨拶をしながら歩み寄った。
「安井社長からは聞いてるけど、中々順調そうやないか」
「ええ、剥離は今日で終わると思います」
「そうか、ほなちょっとタンクの中を見せてもらおうか」
 そう言うと尾藤は、懐中電灯を持ってタンクの中に入った。私もお供としてタンクに入る。
「思っていたよりも、剥離片が細かいなぁ。もっと大きいのが取れるのかと思ってたわ」
「ええ、ライニング厚が5ミリありますので、最初は表面部分が削れて、その後ジェットが下まで入ると、ゴムが鉄板から剥がれるような感じです。ただ、元々鉄板からライニングが浮いているような部分は、大きな破片として取れる場合もあります」
 私はそう言って長さ50センチ、幅30センチ程の巨大な剥離片を尾藤に手渡した。
「ほう、こんな大きな物も取れるんやな」
「ええ、そういう部分もあります」
「ほな硬質ゴムはどうやろ」
「は?」
「いや、今君らが剥がしているのは『軟質ゴム』や」
「はあ」
「他に『硬質ゴム』というのがあるんや」
「それはこの『軟質ゴム』よりも硬いんですか?」
「そらぁ、比べ物にならんわ。このタンクの新しいライニングも硬質ゴムでやるんやで」
「そうですか」
「で、硬質ゴムを剥離できるかどうか、一度ウチの事業所でやってもらいたいんや」
「はあ、いつですか?」
「ここの工事は明日で撤収やろ」
「ええ」
「そのままウチに来たらええわ。ここから車で20分や」
「えっと、一応会社に確認を・・・」
「あ、それなら大丈夫や。君の所の渡常務には許可を貰うといたわ」
「そ、そうですか」
 行け行けドンドンな尾藤と渡の間では、すでに話がついている様子だった。

 その後尾藤は、細かいツブツブの剥離残しを無くす様に指摘して、現場から帰って行った。
「木田君、こんな細かいツブツブまで剥離し直したら、今日じゃ終わらないよ」
 小磯は不満そうだ。
「ああ、そんなもん全然大丈夫ですよ」
 現場を見に来た安井工業の安井が、あっさりとそれを否定した。
「どうせこの後、すぐにサンドブラストを撃つんです。その程度の剥離残しは、あっても無くても変わりませんから」
 日本の塗装やライニングの規格には、『ニアホワイト』信仰がある。塗装する金属表面は、サンドブラスト工法(圧縮空気に細かい固形物を乗せて対象物にぶつける工法)で徹底的に磨き上げ、白っぽく見えるように下地処理をして、初めてプライマー(下塗り)を入れることが許される。最初からサンドブラストを行なえば良いのだが、弾性のあるゴムライニングには、サンドブラストは不向きな工法なのだ。
「なぁんだ、それならそうと最初から言ってよ」
 小磯はからからと笑いながら、装備を身につけてタンクに入って行った。

 この日、無事に硫酸タンクのゴムライニング剥離作業は終了した。


はくりんちゅ60

2007-12-21 23:10:45 | 剥離人
 額から汗が滴り、腰が痛い。

 今日は朝からひたすら「ゴム方作業」だ。
 シャベルで水分をたっぷり含んだゴム屑をすくい、土のう袋に入れる。土のう袋の細かい「目」から、黒いゴム汁が滲み出る。
「ぶわぁ!」
 石本が大声を上げた。天井からゴムの屑が吹き飛んで来たからだ。首筋をゴソゴソとやっているので、きっと背中に入ったのだろう。
「ブっ!」
 今度は私の番だ。石本を見て口を開けて笑っていたので、口の中にゴム汁が入った。何度も唾を吐き出す。だが文句は言えない。上では小磯とハルがひたすら天井のゴムライニングを剥離している。
 床向きの作業でさえ私は辛かったのに、二人はずっと天井を向いて作業をしている。天井向きの剥離作業も、やはり反力は20kgf/cm2だ。
 しかも二人は三段のローリングタワーの上で作業をしている。いかに鋼製のローリングタワーと言えど、ガンを発射した時の反力を受ければ、本体がギシギシとたわむ。作業床の高さは5.4m、私も上に登ったが、この高さで本体がたわむと半端無く怖い。

 たまに天井から大きなゴムの破片が降って来る。
 破片は太りすぎのコウモリの様にベロベロと回転し、私や石本の背中、あるいは足元に落ちて来る。思わず見上げると、いつも小磯が肩を揺らしている。彼は巧みな技術を活かし、大きな破片を器用にコントロールして剥がし落とし、わざと私と石本にぶつけて喜んでいるのだ。ハードな仕事なので、そういう遊びでも入れなければ、精神的にも疲れてしまうのだろう。
 私は笑ってゴム片をブーメランの様に小磯に投げ返した。ゴム片は上手く回転しながら宙を舞い、小磯の乗っているローリングタワーの作業床に落ちだ。小磯は、今度はそのゴム片を隣のローリングタワーに居るハルのお尻にめがけて投げた。
「!」
 ゴム片がお尻に命中し、驚いたハルの動きが止まる。小磯は肩を揺らして笑っている動作をする。ハルはゴム片を小磯に向かって投げ返しながら、すかさずジェットを撃った。ゴム片はジェットの後押しを受けてベロベロと回転し、小磯のローリングタワーに当たって落ちた。
 小磯もすかさずハルに向かってガンを撃ち返す。ハルも応戦する。もちろん二人の距離は十二分に離れているので、ジェットで怪我をするような事はない。
「ブォー!」
「バシュー!」
 下らない撃ち合いだ。石本は楽しそうに二人を見ている。私は小磯のローリングタワーをモンキーレンチでガンガンと叩くと、笑いながら両手で『ブレイク』の合図を送った。二人は楽しそうに体で笑うと、素直に天井に向き合った。

 タンクから土のう袋を運び出すと、安井工業社長の安井が来ていた。
「木田さん、頼まれていた送風機を持って来たよ」
 昨日、小磯とハルがガンを撃つと、思っていた以上にタンクの中に水蒸気がこもり、視界が悪くなっていた。天井にあるマンホールからの排気効率が思ったよりも悪いからだ。やはり送風機の追加が必要だった。ついでにハロゲンライトの照明器具も一つ追加する。
 十分後、K製鋼の安全担当者がやって来た。
「はい、電検料1,000円です」
「・・・」

 やっぱりボッたくられている気が、私にはした。

はくりんちゅ59

2007-12-20 23:57:20 | 剥離人

 翌朝、小磯とハルを加えた今回のチームは、ようやくまともに作業が出来るかと思われた。

 しかし、K製鋼の安全担当者は、そう簡単に許してくれない。
「では、新規入構者の二名は、今から新規入構教育を行ないますので、こちらに来て下さい」
 朝一から、貴重な戦力二名を引き抜かれ、私の置かれている状況は昨日と変わらなくなってしまっていた。
「どうします、僕が撃ちましょか?」
 恐らくは彼に最初の説明をしている間に、小磯とハルが戻って来るだろう。それよりも、ほんの少しでも剥離面積を延ばしたいのが本音だった。それに彼はガンの撃ち手として雇う訳ではない。
「いや、一時間もすれば二人は戻って来るから、僕が撃ちます」
 私は再び装備に身を固めると、石本にハスキーのエンジンを掛けさせた。

 タンクの中に入ると、昨日剥離した部分は乾いて茶色く錆びていた。だが驚くことが判明した。綺麗に剥離したと思っていたゴムライニングは、意外にも剥離面のあちこちに残っていたのだ。ある部分はツブツブに細かい物が残っていたり、またある部分は削り残しの様に、鉄板に薄く張り付いている。鉄板面は水に濡れると黒く見えるし、ゴムライニングも黒色だ。おまけに視界の悪い状況では、まず細かい剥離残しは判別できない。どちらにしろ私は、もう一度剥離した部分を撃ち直さなければならなかった。
「はぁー、何だかこのゴムライニングも大変だねぇ」
 私はエアラインマスクの中でブツブツと独り言を言った。どうせ誰にも聞こえやしない。

 昨日剥離した部分の撃ち直しが完了すると、私は再びゴムライニングに向き合った。朝から容赦なく『黒いゴム汁』を頭から被る。昨日の作業のせいなのか、右腕や肩の付け根が痛い。体も何となくだるい様な気もする。しかし油断は出来ない。油断をすれば自分の体がグチャグチャになる。
 剥離面に完全に集中して脳からアルファ波が出そうな時だった。
「?」
 被っているエアラインマスクの狭いガラス面から、剥離面が白く泡立つのが見えた。
「!」
 一気に白い泡が目の前で拡散して行く。私は瞬時にガンのトリガーを放した。
「おおおおお!」
 ガンを放り出して一気に走り出す。だが超高圧ホースの下敷きになっていたエアラインマスクのエアホースに頭を引っ張られ、ドリフターズの様にずっこける。慌ててエアホースを手で強引に手繰り寄せ、狭い直径600ミリのマンホールから、100メートルハードルの選手の様に飛び出した。
「〇〇〇〇〇?」
 何を言っているのかは聞こえないが、私の行動を見た石本が、驚いて走り寄って来た。私はエアラインマスクをガバっと脱いだ。
「ブハぁ!いやぁ、多分硫酸だと思うんだけど、いきなり剥離面が白く泡立って来たから、ダッシュで出てきた」
「え?マジっすか?」
 石本の顔は、心配というよりも、面白そう!という顔をしている。
「大丈夫とは思うけど、最悪の場合は剥離汁を被ると皮膚に良くないからね。一応K製鋼の人に検査をしてもらおう」
 私は念のために、汚れたカッパを慎重に水で流した。
 そこへ安全教育を終えた小磯とハルがやって来た。
「がはは、木田君、どうしたの?もう疲れちゃったの?」
 小磯は笑っている。
「いや、硫酸らしき液体がライニングの『ふくれ』部分から出て来た様な感じだったんで、一度タンクから出たんですよ」
「がははは、そりゃヤバイね!ハル、入ると溶けちゃうって!」
「えー、じゃあ俺入んないよ、怖いじゃんねぇ!」
 私は笑いながらそれは無いと、ハルの誤解を解いた。 
 
 十分後、私からの連絡で、K製鋼の安全担当者がやって来た。念のためにタンク内の酸素濃度を測定し、剥離水のpH(水素イオン指数)を試験紙で測定したが、どちらも問題が無かったので作業は再開となった。
 小磯とハルが入ってからの作業は早かった。さすがに熟練しているだけあって、私のスピードとは比べ物にならず、あっという間に二人は床面の剥離を完了させてしまった。
 だがここで予想外に大きな副産物が産まれてしまった。剥離した厚さ5ミリのゴムの屑だ。大きな板のまま剥がれた物、チップ状に細かく粉砕された物、細かい粒子状になりペースト状になっている物、形状は様々だ。そしてこれらが渾然一体となって、床を埋め尽くしている。
「これじゃあローリングタワーが動かないな」
 小磯が腕組みをしながらゴムの屑山を足で蹴った。
「ええ、さっきも移動させるのが大変でしたからね」
 ローリングタワーが載っていた床面を剥離する為に一度動かしたのだが、ゴムの塊がキャスターの進行を阻んで、四人で必死で押したほどだった。
「掃除専門の人は居ないの?」
「残念ながら…」
「がはは、じゃあ、木田君と石本君に頼むしかないね」
「それしか無いみたいですね」
 私は苦笑いをする石本にシャベルを手渡した。

 今度は土方、いやゴム方作業だ。 


はくりんちゅ58

2007-12-19 23:46:20 | 剥離人
 硫酸タンクの中は黒いゴムライニングに囲まれているせいか、なんとなく薄暗かった。

 私はまず、タンクの床面から剥がす事にした。
 タンクの中には天井を作業する為の『ローリングタワー』が二台組まれている。『ローリングタワー』とは、高所で作業をする為の組立て式の移動櫓みたいな物だ。簡単に組み上がるように定型の部品で構成されていて、足には大型のキャスターが付いている。
 私は後々スムーズに作業をするには、床面のゴムライニングを全て剥がし、鉄板を露出させた方が良いと判断した。

 まずは金属製のペール缶に腰掛けて、床面を撃ち始める。実は私が本格的な剥離作業に入るのは、今日が初めてだ。だが石本の手前、いつもやっているような顔でガンのトリガーを引く。
「バシュゥー!」
 ジェットの反力が腕に掛かり、上半身が仰け反りそうになった。私は慌ててトリガーを離した。今度はガンの後ろに出ているホースをしっかりと脇に挟み込み、上体の重心も落としてトリガーを引いた。
「バシュウー!」
 再びジェットが出る。左手のサブトリガーを通して、ガンのノズルが回転する振動が伝わってくる。私はゆっくりとノズルを床に近づけると、ジェットをゴムライニングに当ててみた。
 ジェットは鋼板に当たる場合とは異なり、グズグズという篭った音を出しながら、ライニングの中に吸い込まれて行く。周囲が黒いせいなのか、やけにジェットの水蒸気の白さが目立つ。
 私は一度ジェットを止めると、床面を確認した。約五ミリのライニングは、きちんと剥離されている。私はホッと一安心した。これなら問題は無いはずだ。私は再びトリガーを引き、黒いゴムライニングに向かい合った。

 一時間後、私はペール缶の上でへとへとになっていた。
 想像以上に辛い仕事だ。特にガンを支えている右手は疲れ切り、握力が無くなりかけている。20kgf/cm2ものガンの反力を押さえ込むことが苦にならなかったのは最初の五分間だけで、五分を経過するとグリップを握りこんでいる右手が痛み出し、ホースを押さえ込んでいた右腕がプルプルとしてくる。そしてサブトリガーを握っている左手も右手の後を追う様に悲鳴を上げ始めるのだ。
 毎分3,000回転する5ジェットノズルは、私の両足の間で床面のライニングに襲い掛かっている。少しでも油断をすればノズルはあらぬ方向に暴れ、私の柔らかい足の肉を吹き飛ばし、私は二度と歩くことが出来なくなるだろう。
 緊張感と疲労感がタッグを組んで私の判断力を奪い、徐々に思考能力が低下して行く。おまけにゴムライニングを剥離した水は、削れた細かいゴムの粒子が混じって真っ黒になり、その跳ね返りを浴びると、目の前の視界が完全に奪われてしまう。視界が悪いと危険性が上がるので、何度もガンを止めて汚れを手で拭ってしまう。そのせいもあって作業はあまり捗らなかった。

 二時間後、私は完全に放心状態でタンクを出た。足元がフラフラだ。剥離されたゴムライニングから立ち上る酸っぱい臭気が、さらに私の精神力を奪っていた。
「お疲れ様です!」
 さすがにマイペースの石本も気を遣っている。私はハスキーをアイドリングにしてエアラインマスクを外し、ドロドロのカッパを脱いで水で洗い流した。タンクからの廃水は、工場内の処理水槽に流れて行くので、ほとんど気を遣う必要は無い。
「どう、大体どんな感じの作業か分かった?」
 私は石本に言った。
「分かりました、多分楽勝ですよ!」
「見ているよりも、やってみると大変だよ?」
 これは私の率直な感想だ。
「確かに大変そうですね、グフフ」
「ま、まあ久しぶりだったからね」
 半分だけなら事実である。
「さ、小磯さんとハルさんを迎えに行こうか!」
 私は疲れ切った体を引きずり、そろそろ最寄の駅に到着する二人を迎えに行った。

 明日、私はガン作業をしなくても良い筈だった。

はくりんちゅ57

2007-12-18 23:37:08 | 剥離人
 現場監督(初心者)とメカニックマン(でも自動車の)という、恐ろしく頼りない二名により、K製鋼K事業所の現場がスタートした。
 
 最初に、開放された硫酸タンクの中に入ってみる。当然だが硫酸は全て抜かれており、タンクの中は綺麗に乾燥していた。
 タンクの内面は真っ黒なゴムライニングに覆われていて、触るとかなり硬く、一般的なゴムの弾力性を感じることは出来なかった。黒いゴムライニングからは、軽く鼻を突くツンとした臭いが漂っている。
「なんとも言えない臭いだなぁ」
「ゴムの臭いもしますね」
 石本もこの臭いがあまり好きでは無い様だ。
「一応、きちんんと蒸気洗浄してあるんだけどね」
 一緒にタンクに入った安井が、安全であることをアピールする。ゴムライニングの様子を観察すると、所々に『ふくれ』があるようにも見える。何だかその『ふくれ』が危険な感じだ。私は安井に聴いてみた。
「あのライニングの『ふくれ』の中に、たっぷりと硫酸が入っている!なんて無いですよね」
 安井は自信を持って答えた。
「大丈夫ですよ、蒸気洗浄は念入りに二回やっていますから」
 まだ私には疑念が残ったが、早く工事に入ることにした。
 石本を指揮し、安井にも手伝ってもらい、ハスキーやリースしてもらったコンプレッサーなどの工事用機材を、ラフタークレーンを使ってトラックから降ろした。

 今回はタンクのすぐ側に機材を降ろせたので、繋ぐホースの本数が少なく非常に楽だ。
 だが楽な分は石本の行動で、全て帳消しになっていた。
「あれ?このホースはこっちから回した方が良くないですか?」
「ここよりも、こっちに置く方が良いと思いますよ」
「あ、とりあえず自分がやってみましょうか?」
 次から次へと、自分が思ったままに行動をしようとする。
「いいから、そのままで。後から移動する事を考えたらそこがベストなの!」
「そこは今から給水タンクを置くから、邪魔になるからね」
「やってみたい?それは僕がやるから、さっき教えた方を先にやってくれない?」
 私は次第にウンザリとし始めたが、石本はそれには全く気付かない様子だった。もしかしたら石本が前の会社を辞めたのも、この性格が原因ではないだろうか?私はそう思い始めた。

 機器のセットアップが終わったので、早速ハスキーのエンジンを掛ける。小磯とハルがやって来るまでに、少しでも進めておきたい。
「木田さん、私にやらせて下さい!」
 石本が志願して来た。
「明日以降でお願いしますよ。今日はあと二時間しか無いから、私が撃ちます」
 私はそう言うとカッパを着て、安井に頼んでおいた「エアラインマスク」を装着してみた。
 これはB軍の工事において、S社の中でも小磯とハルの二人だけが使用していた装備だ。正面が長方形のガラスになっている布製の丈夫な頭巾をかぶり、頭の天辺から圧縮空気が流れ込む仕様になっている。これで飛散する塗膜片や汚水を、顔面にダイレクトに被らなくても済む。
「じゃあ空気を流しますよ!」
 石本が叫ぶと、頭の天辺から圧縮空気が流れ込んだ。エアラインマスクを少し被っただけでかなり暑くて息苦しかったのだが、空気が流れ込むと一気に涼しくなった。
「○○○○○?」
 石本が何かを叫んでいるが、圧縮空気が流れ込む音で何も聞こえない。それに私は耳栓を装着している。とりあえず面倒くさいので、B軍兵士の様に右手の親指を突きたてた。
「ぐっジョブ!」

 石本との意思の疎通は出来ていないが、とりあえず仕事開始だ。

はくりんちゅ56

2007-12-17 23:54:58 | 剥離人
 私はH県K市に向かって車を走らせていた。

 助手席には石本が乗っている。彼は思っていた以上に良く喋る男だった。
「で、その時僕がそれに気付いたんですよ、グフフ」
「ふーん」
「で、その部品を僕と友達で一ミリ単位でそーっと置いたら、それが上手くいっちゃったんですよ、グフ、うふふふふ」
「それは凄いねぇ」
「グフフフ、自分でもあれは本当に上手くやったと思うんですよ、グフフ」
「ああ、そう…」
 車を運転していて最も苦痛なのは、眠くなることだ。次に苦痛なのは、趣味じゃない音楽と、どうでも良い話を聞かされる事だ。
 どうでもいい話をする人間は、自分のしている話が相手にとって有益か無益かを気にしない者が多い。もちろん面白いバカ話は歓迎だが、車の整備の話を二時間もされると、さすがに苦痛になって来る。少なくとも彼は自分が話したことを、相手がどんな表情で聞いているかはあまり気にしない様子だった。

 翌朝、旅館に泊まった私と石本は、K製鋼のK事業所に向かった。
 ゲートで事前に用意された入門書類を提出し、現場に入る。すでにポンプを積んだトラックや、安井工業が手配したレッカー(クレーン車)は来ているが、いきなり作業に入ることは出来ない。
 作業を行なう前に、まずは『安全教育』を受けなければならないのだ。安全教育とは、その現場内で守らなければならないルールや、災害を防止する為の注意点のレクチャーなどが行なわれる企業教育だ。主に初めてその現場に入る場合に行なわれるので、『入構教育』、『初等者教育』、『初期安全教育』などと呼ばれることが多い。
「必ず上下左右の安全を確認し・・・」
「もしこれらを怠った場合は、当工場への出入りを禁止致します」
 等の、若干退屈な話を延々と聞かされる。ほとんどの場合は三十分から一時間で終了するが、長い会社は二時間、場合によっては一日にも及ぶらしい。
 幸いにもK製鋼の安全教育は一時間程で終わらせてもらえたが、最後に安全担当に言われた言葉が気になった。
「あ、電検は一つ五百円です。この用紙に検査希望の物を書いてね、全部だよ」
 安全の担当者は、さらっと言って用紙を置いて出て行った。
「電気検査は分かるけど、一個500円?一回500円か?」
 私にはこの意味が分からなかった。そもそも工事で使用する電気機器の検査をする現場自体が少ないし、ましてそれに対してお金を取られるなんて、聞いたことも無かった。

 現場に戻ると、安井工業の安井社長が来ていた。
「ああ、どうも安井です!」
 電話では何度も話していたが、実際に会ってみると、とても気さくなおじさんという感じだった。
「初めまして、R社の木田です。彼は石本です」
「どうもおはようございます」
 挨拶が済むと、私はさっそく安井に『電検』について聴いてみた。
「あの、電検の一個500円ってどういう意味ですか?」
「ああ、あれね。あれはね、電気器具一個に付き検査料が500円って意味ですよ」
「…?じゃあ今日は吸込ポンプと電工ドラム、投光機と送風機を各二台を入れようと思っているんですけど」
「なるべく少なくした方がイイと思うけどね。ここだけの話、500円なんてバカらしいでしょう」
「あの、これからK製鋼の仕事をするっていうのに、『電検』で三千円も取られるんですか?」
「うん、そういうことになるね」
「・・・」
 私には理解に苦しむ内容だったが、従うしかない。

 五分後、測定機器を持った安全担当がやって来た。
「ハイ、完了です」
 検査は本当にあっという間、数分で終わってしまった。行なったのはアースが取れているかのみ、以上終了。
「じゃあ六点で三千円ね」
「・・・はい」
 私はその場で三千円を支払い、領収書を受け取った。 

 風俗店でボッたくられるのは自己責任だが、まさか真昼間の工事現場でボったくられるとは思わなかった。

はくりんちゅ55

2007-12-16 23:50:50 | 剥離人

 私は渡が決めてきたK製鋼内硫酸タンクの、ゴムライニング剥離工事の準備を始めていた。

 B軍の工事では、ある意味S社に頼り切っていたのだが、今回は何から何まで自分で用意しなければならない。私はF社の大澤からガン二台分に必要なコンプレッサーの圧力と容量を聞き出した。問題はそのコンプレッサーをどうやって用意するかだ。
「木田さん、G工業の尾藤さんから電話!」
 事務所の紅一点、やや太目な事務員の弘子が明るく言い放った。
「もしもし、お電話代わりました」
「ああ、木田さん?」
 受話器からは、やや甲高い関西弁が聞こえてくる。
「はい」
「工事のことやけどな、なんやコンプレッサーとか色々と必要な物があるやろ。その辺はウチで用意してやろうと思っとるんや」
 尾藤課長からのありがたい申し出だった。我が社が工事に不慣れなことを、重々承知してくれている様だった。
「ウチの協力会社の安井工業の社長に、必要な物は全部頼んでええよ。安井社長にはそう言うてあるから」
「それはコンプレッサーのリースとか、その他もですか?」
「そうや、電線一本でも、スコップ一つでも、なんでも頼んだらええわ」
「それは助かります、ありがとうございます!」
 私は尾藤に何度も礼を言った。『行け行けドンドン!』な性格だが、さすがに現場から叩き上げられた人間だ。我がR社の実力を的確に把握していると、私は思った。
 とりあえずその安井工業が、我々の工事を無条件でバックアップしてくれる様なので、私は安心して必要となる機材を選定する作業に入った。

 その忙しい最中、また私は渡に応接室に呼び出された。渡は一枚の書類を手に持っていた。
「新しい人間をライズに入れることを検討したいと思う」
「はあ・・・」
「お前の下に」
「はあ?」
 私にとっては寝耳に水だ。
「誰をですか?」
「この男や」
 渡は汚い手書きの履歴書を私に差し出した。
「石本隆司・・・私より一歳上なんですね。自動車を中心とした機械の整備が得意・・・」
 私は一通り目を通した。
「どうや?」
「どうやって言われても、会ってみないと分かりませんよ」
 私は苦笑いをした。
「そらそうやな、とりあえず会ってみるか」
 渡はそう答えると、タバコに火を付けた。
「で、この石本さんって人、一体どこから見つけて来たんですか?」
 私の問いに答える前に、渡は肺から一息フーっと煙を吐き出した。私は顔を軽くずらしてタバコの煙を避けた。
「KT社に機械整備が得意な人間を捜してもらったんや。KT社に出入りしている工事業者の元社員や」
「彼は今、何をやっているんですか?」
「たまに元の会社をアルバイトで手伝っとるらしいわ」
 私には今一判断が難しかった。
「ところで、機械整備ができる人間が僕の部下になるって事は、僕は現場から離脱ですか?」
「そら、将来的にはそうならなあかんやろ。お前は現場の分かる営業にならなあかんわ」
「分かりました。じゃあ、その石本さんに一度会いますか」
「そうやな、ワシからKT社には連絡を入れておくわ」
 そうなった場合、一体誰が現場を監督として仕切るのかという疑問は残ったが、あんまり現場に出たくない私はそれについては黙殺することにした。

 数日後、R社の事務所に石本がやって来た。
「こんにちはぁ、どうもぉ」
 軽い、実に軽い感じの男だった。良く日焼けした肌と、軽く茶色に染められた髪の毛から、見た目はサーファーにしか見えない。
「石本です、よろしくお願いします!」
 人当たりは悪くは無い。笑顔も自然だ。だが、どこか強い癖を感じる。
「今日は車で来たんですか?」
「ええ、そこに停めてあります」
 ビルの二階にあるR社の応接室は、前面がガラス張りで大通りに面している。大通りは歩道の幅も広いので、違法駐車の車輌は結構多い。見下ろすと、石本が乗ってきたらしい茶色のワゴンが一台停まっていた。
「ここは結構頻繁に駐禁の取り締まりが来るから、裏のコインパーキングに入れて来た方が良いと思いますよ」
 私は石本にアドバイスした。
「いや、大丈夫です。ここから見えますし、警察が来たらここからダッシュしますから!グフ、うふふふふ」
 何が楽しいのか、石本は実に楽しそうに笑った。
「いや、待っていてあげるから駐車場に停めて来たら?」
「大丈夫です。結構僕、足は速いんですよ!グフ、うふふ」
 
 どうやら彼は少なくとも現場監督には向かない様だった。最悪の事態を想定してそれを防ぐ手立てを考えなければ、いつかは事故が起きるはずだ。その場その場で短絡的に対処をしていてはダメだ。
 まして今、私と渡は彼とゆっくりと話すことを希望している。話の途中で駐禁取締りが来たからと言って、その度にダッシュをされていてはたまらない。それが彼には理解出来ない様子だった。

 私と渡の一時間程度の面接を受けて、彼は違法駐車のワゴンに乗って帰って行った。
「常務、彼は『現場監督』には向きませんね」
「おお、そうやな、ワシもそう思ったわ。しかしメカニックマンとしてはそこそこ優秀かもしれんぞ」
「それはそうかもしれませんね。どうします?」
「まあ三ヶ月の試用期間という事で、一度使ってみたらどうや?」
「それでダメなら不採用でもイイですか?」
「そらぁ、お前の部下や、お前がダメやと思ったら遠慮無く切れ」
「分かりました」

 私の早々たる現場監督引退は、一向に先が見えて来なかった。


はくりんちゅ54(K製鋼硫酸タンク編スタート!)

2007-12-15 23:25:12 | 剥離人
 S社の下請けとして入ったB軍基地の工事が完了して一ヵ月後、いきなり次の工事が決まった。

 渡はどことなく楽しそうに、私を応接室に呼び入れた。
「次の工事が決まったで」
 私は無意識に嫌そうな顔をしたらしい。
「そんな顔をするなや」
 渡は苦笑いをする。
「今度は何をやるんですか?またB軍ですか?」
 工事が終わってから今日まで、私は営業として自分がやって来た仕事を、課長の小池に引き継ぐ作業に追われていた。五年間で作り上げたメーカーや下請鉄工所との信頼関係もこれで終わりだ。
 いよいよ私は本格的に『工事屋』として生きて行くことになってしまったらしい。
「今度の仕事はK製鋼の硫酸タンクや!」
「硫酸タンクって・・・」
 この段階で早くも警戒心が一杯になる。
「で、どんな経緯でK製鋼なんですか?」
 渡は「うむ」という顔で話し始めた。
「お前と一緒にG工業に行ったやろ」
「ああ、あのゴム系の会社ですね」
「そうや」
 私はB軍基地から戻ってすぐに、H県A市に渡と出張した事を思い出した。
「あの尾藤課長からの仕事ってことですよね」
「おお、そうや!」
 渡は「ご名答!」という顔をした。
 
 元々はG工業の尾藤が、F社の超高圧ポンプの載ったホームページを見てF社に電話をしたのが事の始まりだったらしい。F社はあくまでも製品を販売するメーカーであり、工事は行っていない。そこで営業の大澤がこの話を我々R社に振ってくれたらしい。
 G工業生産課の応接室で初めて会った渡と尾藤は、年齢が近い事と、二人の『行け行けドンドン!』な性格が素敵なハーモニーを醸し出したことにより、とんとん拍子に話をまとめてしまったのだった。
「で、そのタンクの何を剥がすんですか?」
「ゴムライニングや」
「やっぱりゴムですか。それはタンクの内面ですよね」
「もちろんそうや。『軟質ゴムライニング』って言うてな、厚さは5ミリ程度らしいわ」
「剥がれるんですかね?」
「そんなもんお前、こっちは2,800kgf/cm2やで、負ける訳あるかい!」
「はあ・・・」
 私にはいつから仕事が勝負事になったのかは理解できなかったが、とりあえず納得しておいた。
「ウォータージェットで剥がす前は何を使って剥がしていたんですか?」
「そりゃお前、バーナーやがな。この前尾藤課長に会った時も、そう言うとったやろ」
「それは工場でライニングする大きさの物の話じゃないんですか?」
「タンクもや」
「でもタンクなんかバーナーで炙ったら、外側の塗装も全部焼けちゃうじゃないですか・・・って、それが理由ですか?」
「そうや、正解!その分コストが安くなるらしいで」
「なるほど。しかしいきなりウチが工事をやって上手く行きますかね?」
「心配か?」
「そりゃもちろんですよ。大体僕なんて現場の世界じゃ『ひよっこ』ですよ?新入社員と似たような経験値しか無いんですよ?」
「あるがな」
「は?」
「一ヶ月もの立派な経験値が」
「・・・」
 どうやら何を言っても無駄らしかった。私に残された道は腹を括ることだけだった。
「で、実際問題、KT社の職人たちは今回の工事に呼べるんですか?」
「それはな、俺がKT社に確認しといたわ。結果だけを言うと、あかんそうや」
「・・・」
「でな、お前が言うとったほら、あのS社の下請けの・・・」
「小磯さんですね」
「そうや、連絡取れるか?」
「じゃあ今すぐ連絡します」
 私は携帯電話のメモリーを呼び出し、小磯の携帯に電話をした。
「もしもし、小磯さんですか?」
「おう、木田君か!元気か?」
「ええ、元気ですよ。ところで例のアルバイトの件ですけど、頼んだらやって貰えますかね?」
「がはは、大丈夫だよ!」
「T工業の仕事は大丈夫ですか?」
「大丈夫だ!俺、あそこは辞めたから」
「辞めたんですか?」
「がははは、辞めてやったよ!」
「じゃあ、ハルさんに頼むのは無理ですね」
「ん?大丈夫だよ。俺から言っておいてやるよ」
「ハルさんってT工業の社員じゃ無いんですか?」
「あいつはアルバイトだよ、だから事前に分かっていれば大丈夫!」
「小磯さんから頼んでもらったら来てくれますかね?」
「がははは、あいつは俺の舎弟みたいなもんだから大丈夫!」
 小磯はやたらと簡単に「大丈夫」と言うが、今はそれを信じるしかなかった。
 電話を切った私は渡に言った。
「大丈夫です」
 渡は満足そうに頷いて言った。
「そうでっか、さすがですな!」

 私には何が「さすが」なのかは理解できなかったが、今はS市で呑みまくった四十数万円分のネットワークに掛けるしか無かった。 

はくりんちゅ53

2007-12-14 23:53:07 | 剥離人
 私のあらぬ場所から噴出した怒りは部長の幸村に向かい、今やお互いに沸騰寸前になっていた。

 怒りで頭から湯気が出ている私に、突然、F社の大澤が近寄って来た。
 私は怒り全開の目で大澤を睨んだ。だが大澤の口からは、意外な言葉が飛び出した。
「木田さん、大変申し訳ありませんでした。我々が事前に十分な情報と、メンテナンス方法をお伝えしなかったことが原因です。本当に申し訳ありません」
 私は大澤の謝罪に内心驚いた。
 これまでの大澤の態度は、その言葉の端々に微妙な敵対心が見え隠れしていた。それは、いくら顧客でも失礼な態度は許さねぇ!という態度にしか見えなかった。
 だが今日の大澤の言葉は、本気の謝罪だった。真剣な表情の大澤は、黙って私の斜め前方に立っていた。
「最初からウチの会社が、無茶なスケジュールを組んでいた事は分かってるよ」
 私の声のトーンは少しだけ下がった。大澤は黙って頷く。
「メンテナンスなんてS社の伊沢さんに習えば良いと、ウチの渡とS社の高村所長が言っていた事も、聞いてるよ」
「ええ」
 大澤は小さく相鎚を打った。
「でも満足なマニュアルすら未だに無し、現場での説明に二回も来たけどそれも不十分、そして現場が終わってから大事なことを説明されたら、腹が立つと思うよ」
 大澤はさらに深く頷いた。
 大澤の態度を見て、私はこれ以上F社を責めても意味が無いと判断した。
「まあR社の社内問題は別にして、とりあえずきちんとしたハスキーのマニュアルを早急に提出して下さい」
「分かりました!」
 大澤はややほっとした表情を浮かべると、私にハスキーのマニュアル『日本語版』を一週間以内に提出することを約束した。

「何、どうしたの?」
 大澤が側から立ち去った私に、柿沼が恐る恐る近寄って来た。
「ああ、ちょっと僕が興奮しちゃっただけですよ」
 柿沼には罪は無い。私は強張った表情を緩めて、心配そうな柿沼に笑顔を見せた。
「あんまり思いつめたらダメだよ。木田さんは一所懸命やっていたんだから…」
 柿沼のなんでも無い言葉に、私は自分の心がほぐれて行くのを感じた。少しでも一緒に苦労をした人間の言葉は、どこか違って聞こえる。
「ありがとうございます。ちょっと冷静になりますよ」
 私は自分に言い聞かせるように言った。その言葉を聞いた柿沼は、安心したように私との距離を詰めた。
「うんうん、やっぱり木田さんは笑っていないとね!」
 私の両肩をバシバシと叩く。彼の裏表の無い行動にはいつも感心させられるのだが、やはり話す時の顔の距離が近い。
「あ、ありがとうございます」
 戸惑う私の前で、柿沼は顔面笑顔光線を発射している。
「さあ、残りをやっつけましょうか!」
 さらに顔が近くなる。私は思わず顔を背けた。

 少し離れた場に居た江藤は、柿沼に接近されて困惑している私の様子を見て、肩を揺らして笑っていた。