どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ173

2008-04-30 23:53:31 | 剥離人
 物静かで大人しく、黙々と仕事をする人間、それが荒木の評価だった。

「だけどよぉ、酒を呑み始めると、途端に変わっちゃうんだよな」
「あはは、本当ですよね」
 佐野とノリオには、思い当たる節がたくさんあるらしい。
「でも、荒木ちゃんの偉いところは、必ず道に落ちてるんだよな」
「あはははは、本当ですよね。佐野さんに何度も拾われてますもんね」
 二人は爆笑する。
「え?どういう意味ですか?」
 二人は一頻り笑うと、佐野が説明を始める。
「いやぁ、荒木ちゃんは酒を呑むとベロンベロンになって、最後は公園だろうが、道端だろうが、必ず寝ちゃうんだよな」
 ノリオが首をコクコクと動かす。
「でも、荒木ちゃんが偉いのは、俺の通勤路に落ちてるんだよな」
「くはははは!」
 ノリオが思い出したのか、腹を抱える。
「通勤路?」
「うん、三木塗装を製油所で常用で使ってた時なんだけど、電車で出勤して、製油所まで歩いて向かうと、なぜか荒木ちゃんが落ちてるんだよ」
「ええ?どこにですか?」
「まあ、大体は歩道橋の下とか、道路の植え込みの中とかにね」
「本当ですか?」
「ああ、本当だよ。俺は何度も荒木ちゃんを歩道橋の下で拾ったからね」
「マジですか?荒木さんは道路で寝てるんですか?」
「すっごい、本当に寝てますよね」
 ノリオがカピバラ顔をクシャクシャにしながら同意する。
「だから、荒木ちゃんの服の襟と、腰のベルトを持って、『ハイ、おはよー。今日も楽しい仕事だよぉ!』って言いながら、製油所まで引きずって行くんだよ」
 佐野がその時のポーズを取る。
「うはははは、それって凄いですね。でもそんなんじゃ荒木さんは、仕事にならないんじゃないですか?」
 佐野は顔の前で手の平をヒラヒラとさせた。
「それがどんなにベロベロでも、刷毛を持たせるとキッチリと仕事はやるよ」
「ええ、むしろ普段よりも綺麗に塗ってる感じですよね」
 ノリオも同意する。
「きっとアルコールとシンナーで程好く脳が覚醒するんだと思うよ」
 佐野は大笑いをしながら、医学的になんの根拠も無い冗談を言った。
「あれが本当のプロですよね」
 ノリオが知ったような口を利いた。
「馬鹿だなぁ、ノリは」
 佐野はノリオを嗜めた。
「荒木ちゃんは、酒を呑んでベロンベロンになっても、必ず監督の通勤路に落ちてるからイイのであって、現場に来られなきゃ単なるさぼりだぞ」
 ノリオは少しバツが悪そうな顔をする。
「それに荒木ちゃんは、どんなに酔っててもきっちりと塗るからなぁ、あれは大したもんだよ。お前なんか、酷い二日酔いで来た時は、ほとんど使い物にならなかっただろう」
「…いやぁ、厳しいですね」
 ノリオはヘラヘラと笑った。
「でも、僕はまだ荒木さんの『ウ○コ事件』みたいな事はしてませんよぉ」
 佐野は何かを思い出したのか、また笑い出した。
「いやぁ、そんな事もあったね」

 一番そういう話が無さそうな荒木が、一番面白い人間らしかった。

はくりんちゅ172

2008-04-29 02:33:58 | 剥離人
 夕食兼、軽い酒宴が終わると、各自部屋に戻ってくつろぐ。

「キーちゃん、ちょっといいかい?」
 佐野が私の部屋に尋ねてきた。
「どーぞ、どーぞ」
 六畳のやや古びた和室に、佐野を招き入れる。
「しっかしボロい宿だね」
 佐野は部屋をぐるりと見回す。
「そうですね、汚いってことは無いですけど、構造自体が怪しいですよね」
「気になるかい?」
「ええ、特に階段室の壁面にあるクラック(ひび割れ)はやばそうですよね」
「ワハハハハ、やっぱりキーちゃんも気付いてたか」
「いやぁ、だって多少のクラックはともかく、クラックの大きさと本数、何よりも入っている位置が問題ですよね。あれは根本的な構造に問題がありますよね。それに…」
「10トン(トラック)が通ると揺れるかい?」
「あははは、佐野さんの部屋も?」
「俺の部屋どころか、この建物自体が振動してるもんな」
 旅館の敷地の前には大きな幹線国道が通っていて、ダンプや大型トラックが走ると、旅館全体が、
「メきょメきょッ!ミシミシミシ、ミッシ…ギシュギシュギシュ…」
 と振動するのだ。
「これ、大きな地震が来たら、マジでやばいですよね」
「うーん、持たないだろうなぁ」
 佐野は苦笑いをしながら、タバコを取り出した。
「この部屋は禁煙?」
「あはは、気にしませんから吸って下さい」
 私はそう言うと、座卓の上にあった重い陶製の灰皿を佐野に差し出した。
「で、どうだい、予定通りに終わりそうかい?」
「ええ、剥離に七日、片付けと清掃で一日、荷積みをして帰りですね」
「700m2で七日なら、上出来だべ」
「ええ、見積りは剥離で八日ですけどね」
 佐野がタバコに火を点けると同時に、部屋の引き戸を誰かがノックした。
「はい」
「ノリオです。佐野さんは居ますか?」
「おう、どうしたノリ」
 佐野の声に反応して、ノリオが戸を開けた。
「あの、僕も少しここに居させて下さい」
「どうしたの?」
 ノリオは部屋に入ると、畳に正座で座った。
「あはは、足は崩しなよ」
 私はノリオにくつろぐように言った。
「いやぁ、荒木さんがちょっとうるさいんで…」
 ノリオは足を崩しながら、タバコを取り出した。
「あ、吸っても…」
「いいよ」
 私の返事に安心して、ノリオはタバコに火を点けた。
「また酔っ払ってるのか?」
「ええ、布団の中でずっとブツブツ言ってますよ」
 ノリオは佐野と一緒に、タバコの煙を吐き出した。私と佐野は一人部屋、小磯とハルは相部屋、そしてノリオは荒木も相部屋だった。
「荒木さんは何をブツブツ言ってるの?」
 ノリオは困った顔で佐野を見る。
「えーっと、佐野さん、木田さんに言ってもイイんですか?」
「オウ、木田君はそんな小さな男じゃないから構わねぇよ」
 ノリオはバツが悪そうな顔をしながらも、口を開いた。
「布団の中で『なんで俺がこんな仕事をしなきゃいけないんだ』とか、『あんなにキツイ仕事だなんて聞いてない』とか、そんなことをずっと言ってますよ」
「はははは、そうなんだ」
 私は思わず笑ってしまった。荒木に対する気持ちに怒りなど無く、むしろ同情が湧いて来た。きっと自分もそう思うに違いないと思ったからだ。
「だから、荒木さんが寝るまで、ここに居させて下さい!」
 ハルは笑いながら私と佐野に懇願して来た。
「あははは、別にいいよ」
 私は大笑いした。
「まあ、キーちゃん、荒木ちゃんが酒を呑むといつもああだからさ」
 佐野が一応フォローする。
「大丈夫です、別に気にしてませんから」
「荒木ちゃんは腕はイイんだけど、酒を呑むとああなるからなぁ」

 佐野は荒木と酒にまつわる話を、楽しそうに始めた。

はくりんちゅ171

2008-04-28 02:40:48 | 剥離人
 三木塗装の職人荒木は、実に物静かな人物だった。

「がははは、木田君、あの人、最後まで持つかな?」
「あの人って、荒木さんのことですか?」
「そうだよ。だって俺が見てたら、ガンを撃った時に体が浮いてたよ」
「…うーん」
 私は小磯から荒木のことを聞いて、あらためてこの仕事の過酷さを感じていた。
 ウォータージェット工事におけるハンドガン作業で、もっとも作業性に影響を与える要素がある。それは『体重』だ。
 今回のウォータージェットチームの各自の体重は、小磯が約75kg(大半は筋肉)、ハルは約90kg(かなりの筋肉と脂肪)、私は80kg(筋肉と脂肪が半々)、ノリオは約70kg(かなりの筋肉と脂肪)、佐野も約70kg(かなりの筋肉と脂肪)、そして荒木の約50kg(筋肉はあるが、脂肪はほとんど…)、という状況だった。
 ハンドガンの発射時の反力は約20kgあり、体重約50kgの荒木は、反力で浮き上がりそうになる体を、必死に押さえ込む必要があった。その上でノズルのオフセット(剥離面との距離)を調整しながら、ノズルを回転させ、ライニングを剥がさなければならない。
 佐野の話によると、荒木は『サンドブラスト(圧縮空気に研掃材を入れて噴き付け、塗装を剥がす工法)』の腕は丁寧で優秀らしい。サンドブラストで使用する圧縮空気の圧力は約7~10kgf/cm2、反力が無い訳ではないが、ウォータージェットに比べると遥かに小さい。
 小磯やハルもしかり、初心者の私でも比較的安定してガンが撃てるのには、『体重』という大きなメリットがあるからだった。
 
 私は荒木のことが心配になり、塔内から出て来た荒木に声を掛けた。
「荒木さん、大丈夫ですか?」
「…ええ、大丈夫ですよ」
 荒木は笑いながら静かに答える。
「ガンの反力、きつくないですか?」
「・・・」
 荒木はにっこりと笑うだけで、特に返事はしない。
 私は佐野を捕まえると、荒木のことを伝えた。
「本当に大丈夫なんですかね?」
「大丈夫だよ、荒木ちゃんは。やっぱりノリが居るからな、先輩として弱音は吐けないと思うよ」
 佐野はそう言ってニッコリと笑った。

 一時間の残業を終えて宿に帰ると、みんなで風呂に入って夕食を摂る。
「木田さん、ビールは飲んでもイイの?」
 ハルがグラスを手にして、ニコニコとしている。
「いいですよ、遠慮なくどうぞ」
「あ、もしかして僕も飲んでもいいんですか?」
 ノリオが嬉々とした顔になる。
「ノリ、お前は百年早えぇよ」
 佐野が笑いながら、ノリオのグラスを取り上げた。
「木田さぁーん、僕も飲みたいですぅ」
 ノリオが甘えた声を出す。
「あははは、イイよ!無茶呑みしなけりゃね」
 宿の気のいい親父が、瓶ビールを持って来た。
「どうするね、とりあえず四本くらい?」
「ええ、四本で」
 親父から受け取った瓶ビールを、ノリオが佐野に注ごうとした。
「この馬鹿ノリが!こういう時は、まず監督さんからお注ぎするんだろう!」
「あっ!すみません、すみません」
 ノリオは急にヘコヘコとすると、私のグラスにビールを注ぎ始め、私と佐野は、ノリオの顔を見ながらクスクスと笑った。佐野は自他共に認めるノリオの『教育係』で、実際にノリオの母親からも、
「ウチの馬鹿息子をよろしくお願い致します」
 と言われているらしい。
「じゃ、今日はお疲れ様でした!乾杯!」
「がはははは!」
「お疲れさーん!」
 我々はビールを飲みながら、品数とボリュームだけは満点の夕食を食べ、馬鹿話をして盛り上がった。

 その中で一人、荒木だけは静かに微笑みながら、しかしグビグビとビールを飲んでいた。

はくりんちゅ170

2008-04-27 05:08:47 | 剥離人
 現場はハスキーの唸り声がうるさいので、私と尾藤はTG工業のプレハブ小屋に移動した。

 尾藤は私に、発電所の安全担当の言葉を伝えた。 
「実はな、あのホース、えーと…」
「超高圧ホースですね」
「そう、そうや」
 尾藤は田中に買って来させた缶コーヒーを、私に勧める。
「カシュン!」
 缶コーヒーを開けると、私は喉に一口流し込んだ。尾藤も缶コーヒーを一口すすると、左肘を机の上に置き、やや斜に構えた姿勢になった。
「簡単に言うと、あのホースを『地面にそのまま置くのは危険だ!』ということなんや」
「・・・?」
「分かるか、木田さん」
「いえ、あのぉ、ええ?」
「あの超高圧ホースやけどな、微妙に振動しとるやろ」
「ええ、確かにしていますね。極わずかな振動ですけどね」
「あれが『危ない』そうや」
「んー、んー、意味が分かりません、というか、分かりたく無いです」
 尾藤は私の言葉を無視して続ける。
「木田さん、あのホースの下に何でも良いから、緩衝材になる様な物を敷いてもらいたいんや」
 私は思わず出そうになったため息を、鼻から静かに排出した。
「尾藤課長、あのホースの外装こそが、地面に直接置く為の緩衝材なんですよ。コルゲートホースは『カバー』なんです」
「あれはなんや、カバーなんか」
「ええ、中に小指ほどの太さのホースが入っているんですよ。つまりホース本体は、地面に一切接触していない状態なんですよ」
「うん、なるほど」
「しかもホース本体は、八層のワイヤーメッシュで補強されています。仮にバーストしたとしても、ホース本体の樹脂コーティングが膨れて、コルゲートホースの内側に、水が滲み出る程度ですよ」
「そうか、それなら安心やな」
 尾藤は深く頷き、納得したかの様に見えた。
「でも木田さん、それとこれとは別の問題や。実際に安全性が高いのはええ事や。しかし、それでも緩衝材を敷いて欲しいんや」
「…それでもやるんですか?」
「そうや、我々としては発電所側の機嫌を損ねる訳にはいかんのや」
 尾藤はそれだけは譲れないという顔で私を見た。
「…分かりました。ただ、そういうことは考えていませんでしたので、緩衝材になる様な物を持っていないんですけど」
 厳密に言うと、緩衝材になる様なサニーホース(繊維を樹脂コーティングしたホース)は持っていたが、それを地上のホース全てにカバーとして使用する気は、私には無かった。
「あの、そこに大量に余っている、木の杭はどうでしょうか?」
 田中がふっくらとした顔の目を、クリクリとさせながら言った。
「ああ、あれでっか」
 尾藤は半分腰を浮かせると、プレハブの前に積んである、長さ一メートルほどの木の杭の束を見た。
「あれを切断して、間隔を空けてホースの下に敷いたらどうやろうか、木田さん」
「ええ、まあそれでイイのなら助かりますけど」
「ほな、決まりやな」
 私は苦虫を噛み潰したような顔で、尾藤からもらった微糖コーヒーを飲み干した。

 十分後、私と佐野は、コンテナの工具箱から鋸を取り出し、木の杭を短く切断していた。
「キーちゃん、これを地面とホースの間に入れるの?」
 佐野はニヤニヤしながら、鋸を前後に引く。
「ええ、この魔法の杭を超高圧ホースの下に敷くと、ホースがバーストしないそうですよ」
「ふふふふ、それは凄いね。さっそくF社の大澤さんにも教えてあげないと駄目じゃない」
「ええ、これでホースの寿命が延びますよ」
「へへへへへ」
 佐野は笑いながら三等分した杭を放り投げる。
「ところでキーちゃん、これ、意味はあるの?だって塔内は結局足場板の上に直置きでしょ?」
 私は鋸を引きながら、顔を上げずに佐野に答えた。
「ええ、視覚的に、『ホースを保護している様な気分』になれますよ」
「くははははは!」

 二十分後、私と佐野は、『ホースを保護している様な気分』になれる緩衝材の、セットを完了させた。





はくりんちゅ169

2008-04-26 12:41:35 | 剥離人
 『安全』の為に、超高圧ホースを引き直すことにする。

「ちゃあ、木田さん、どうして最初に下のマンホールから入れなかったの!」
「がははは、木田君の読みの甘さが原因だな」
 ハルと小磯は好き勝手なことを言いながら、コンテナに掛けてあるモンキーレンチを二セット持ち出した。
「だって仕方がないでしょう。下のマンホールを使って剥離ガラの回収作業をやるって言うから、上のマンホールからホースを入れたんですよ。だって下のマンホールの方が、遥かに大勢の人間が出入するんですよ」
「確かにね」
「普通の考えなら、自分たちが使用するマンホールからホースを入れるでしょう」
「うーん、君の言っていることは正しい!」
 小磯もようやく納得する。
「で、そこのマンホールから入れなおせばイイの?」
「ええ、お願いします」

 超高圧ホースの引き直しは、意外と時間が掛かる。
 超高圧ホースのジョイントは六角柱形状のステンレスジョイントに、双方からホースを差し込んで行なう。この時、かなりのトルクで締め付けないと、超高圧水がウィープホール(ジョイント確認用の数ミリの穴)から噴出してしまうのだ。
 しかも9/16インチの超高圧ホースは、一本が30キロ以上あり、八層のワイヤーメッシュで補強されているので、狭い空間での取り回しは最悪だ。狭い足場の中でくちゃくちゃになるよりも、一度広い空間にホースを引き出す方が、作業効率は遥かに良かった。
「木田君、リデューサー(絞り)の所で切るからね」
「お願いします」
 小磯が9/16インチ超高圧ホースから、3/8インチ超高圧ホースに絞り込む金具の所で、ジョイントを外した。
「ハル、このまま下まで降ろすぞ」
「はいよー」
 ハルがマンホールの外からホースを引き抜き始めた。
「ノリ、引っ張っれ!」
 地上で佐野の指示に従い、ノリオと荒木がホースを引っ張り始める。
「はい、そのまま」
「小磯さん、早いよぉ」
「がははは、どんどん引けぇ!」
 また小磯とハルがじゃれている。
「がははは、それそれ!」
「小磯さん、ストップ、ストップ!」
 ハルが慌てて歩廊の手摺で超高圧ホースを抱え込む。
「小磯さん、そんな勢いで引っこ抜いたら、下に落ちちゃいますよ」
 私は肩に掛けたロープを降ろすと、ホースの胴体に巻き付け、しっかりと縛った。
「ハルさん、あとはこれで降ろして下さい」
「はいよ!」
 ロープに縛られた超高圧ホースを地上に降ろし、直ぐにもう一本のホースも下に降ろす。
「小磯さん、ハルさん、このまま中の足場に入って下さいね」

 今度は引き抜いたホースを下のマンホールから入れ、ロープにしっかりと縛る。
「じゃあ僕がその辺に上がりますね」
 私は足場をよじ登ると、ロープを握った。
「佐野さん、引きますよぉ!」
「うぉーい」
 今度は糞重いホースを、ロープを使って引き上げる。
「そりゃそりゃぁ!」
 意味不明な気合でガシガシと引き上げる。
「はぁはぁはぁ」
 だんだん呼吸が荒くなる。
「木田さん、もう少しだよ」
 すぐ上段の足場板の上にハルが居る。
「この9/16、こうやって引き上げると、めちゃめちゃ重いですよ」
「本当によ?」
 ハルが笑っている。
 ようやくホースの先端が手元に来た。
「ハルさん、お願いします」
「ほいよぉ」
 ハルはロープの束を受け取ると、足場をよじ登り始める。その間も超高圧ホースの重量が、私の両手に掛かっている。
「木田さん、引くよぉ!」
 ハルが三段上の足場からロープを引き始めた。私は引き続き、超高圧ホースを上に引き続ける。
「小磯さん、頼んだよぉ!」
 ハルから小磯にロープが手渡され、一本目の超高圧ホースが引き直された。それをもう一回繰り返して、さらにエアホースも引き直し、ホースジョイント部の漏れを確認し、剥離作業を再開できたのは、一時間後の事だった。

「はぁ、佐野さん、たったこれだけなのに、結構時間が掛かりますよね」
「そりゃ仕方ないよ、こんなもんだよ。一時間で完了すれば上出来だよ」
「そんなもんですか?」
 佐野は涼しい顔で笑いながら、作業用ハンドソープを手につけて泡立たせた。
「焦らなくても、事故さえ起こさなきゃ現場は終わるよ」
「もしかして僕は気負いすぎですか?」
「うん、少しだけね」
 佐野は供給水タンクに取り付けた水道の蛇口を捻ると、汚れを洗い流した。
「ま、これで後は剥離に専念できるでしょう」
 佐野がこの言葉を言い終わる前に、私の背後から甲高い声がした。
「木田さん、ご苦労さん!」
 振り返ると、TG工業の課長、尾藤が立っていた。
「あ、どうもお疲れ様です。こちらにお見えだったんですか?」
「ええ、昨晩遅くに入りましたんや。今まで打ち合わせをしてましてな」
「そうですか」
「で、どうでっか調子は?」
 尾藤は満面の笑みを浮かべている。
「ええ、ちょこちょこっとはありましたけど、今は順調です」
「そうでっか。ところでたった今、ここの安全担当さんから言われたことがあるんやけど」
「ホースの引き直しの件ですか?」
「いや、ちゃいます」
「・・・」

 私はげっそりとした顔で、佐野を見た。

はくりんちゅ(画像編07)

2008-04-25 13:11:09 | 剥離人


作業場所とポンプオペ(つまり私)との双方向連絡を行なう『四段式回転灯』
製作はなぜか米屋のオヤジが行なった。
背後に見えるのは超高圧ポンプ『ハスキー』


作業場所(タンク内等)の『四段式回転灯』
本体、コネクター、スイッチ類は、全て防水仕様。
緊急時は全色を点灯させることになっている。
くどい様だが、製作は米屋のオヤジ…。


はくりんちゅ(画像編06)

2008-04-24 12:45:46 | 剥離人


作業用コンテナ 中には工具や整備用部品が満載されている。
手前のステンレスの大型桶(製作物)は、カッパや道具の洗い場。
これらを10トントラックで日本全国持ち歩きます。


黄色いタンクは供給水タンク(1立方メートル) あくまでも一時的に溜めてあるだけで、これだけでは一時間も持たない。
黄色い機械が超高圧ポンプ『ハスキー』。でも八割の部分がエンジン部品。
青色の機械は圧縮空気を作るエアコンプレッサー『PDS175S』
こいつらも日本全国持ち歩きます。


はくりんちゅ168

2008-04-23 03:29:47 | 剥離人
 再び塔内に入ると、ノリオがガンを撃っている。

「バシュー、シャバー、シュバシュバシュバー、ベロベロベロベロ」
 ノリオのガンからは、有り得ない様な音がしていた。
「…何だかなぁ」
 ノリオは狂った様に、左手でガンを回転させている。
「うぉーい!」
 私はノリオの後から近寄り、右肩に手を置いた。
「!?」
 ノリオがガンを止めて振り向く。
「あのさぁ、なんでそんなにガンを回してるの?」
 私は笑いながらノリオに言った。
「?」
 私はノリオのエアラインホースをつかんで折った。
「なんでそんなにガンを回すの?」
 ようやくノリオに声が届く。
「いや、早く回すと早く取れるかと思ったんですけど」
「取れないと思うよ」
「本当ですか?」
「うん、ある程度のスピードを超えると、細かいのが残るね」
 私は手持ち水銀灯で照らされた剥離面を、やや斜めから見る。
「あははは、結構残ってるね」
「え、マジですか?」
「うん、あの辺なんかかなり残ってるし、ここもね、それとここ」
「うわぁあああ、全然ダメじゃないですか」
 私はノリオの左肩をポンポンと叩いた。
「いや、初めてでこれなら上出来。とりあえず残ってる部分はもう一度撃ち直して。剥離面積の大きさじゃ無くて、綺麗な剥離面を作る事に集中してくれる?」
「分かりました!」
 ノリオは素直に頷き、私がエアラインホースから手を離すと、再び壁に向かい合った。
「バシュゥウウウ!」
 ノリオはすぐにジェットを発射したが、まだ左手の回転が早い。
 私は無言でノリオの隣に立つと、左手を回すジェスチャーをした。
「バシュゥウウウ、バァボ、バァボ、バァボ、バァボ」
 ノリオは私を見ながら左手のタイミングを合わせ、徐々に正確な円を描き始めた。
「ぐぅっど!」
 私はジェスチャーで親指を突き上げ、それを見たノリオは、エアラインマスクを上下させた。

 ガラスフレークと剥離水でドロドロになって下に降りると、またしても細身の体、細い顔、細い目と細縁メガネの発電所安全担当が、佐野に何かを言っている。
「えー、なんでしょうか?」
 佐野の顔を見ると、顔面テレパシーが飛んで来た。
「キーちゃん、またまたご指名だよ」
 私は佐野に顔面テレパシーを返した。
「なんだかメチャメチャ嫌な予感がするんですけど…」
 安全担当は我々の顔面コミュニケーションを一切気にする事も無く、平然と言い放った。
「君、そこにあるホースだが、あれには何キロの圧力が掛かっているんだね」
「40,000psi(ポンドフォースパースクエアインチ)です」
 私はわざと計量法第8条で禁止されている単位で答えた。
「40,000…何?」
 佐野がクスクスと笑っている。
「えー、276MPa(メガパスカル)です」
 安全担当はムッとする。
「君、何キロかと聞いているんだ!」
「2,800kgf/cm2です」
 佐野がニヤニヤしている。
「きみぃ、じゃあ、あのホース、危険じゃないか」
「は?」
「あのホースがもし破裂したら、通路を歩いている人間に危険が及ぶ訳だよね」
「え、ええ?破裂はしないと思いますけど…」
 9/16インチ超高圧ホースは、八層のワイヤーメッシュで完全に覆われた上に、その外周部に頑丈なコルゲートホースのガードが付いている。万一内部でバーストしても、ホースが破裂するなんてことは、ほぼ有り得ない。
「きみぃ、そういう考え方はダメだね。ホースが破裂する可能性は『ゼロ』なのかね?」
「…ゼロ、では無いですけど、ほぼ皆無だと思います」
 安全担当は、細い顔と細縁メガネをゆっくりと左右に動かした。
「可能性がある以上、見過ごせないね。早速ホースを下のマンホールから入れ直しなさい」
「ええっ!?」
 私は佐野を見た。
「佐野さん、こいつ、とんでも無い事を言い出しましたよ」
 佐野も私を見る。
「泣く子と地頭には勝てないんだよ、キーちゃん」
「・・・」
 私は顔を引き攣らせながら、安全担当に言った。
「そこのマンホールからならイイんですね」
「そうしたまえ」
「剥離片を清掃する業者が出入すると聞きましたけど、構いませんか?」
「うむ、上のマンホールを使うよりも、その方が安全だと思うがね」
「…分かりました」
 安全担当は、またしても巨大煙突の向こうに消えて行った。
「佐野さん、ところでこの吸収冷却塔、僕ら以外の人間が出入りするんですかね?」
「ん?だれも居ないでしょう」
「そうですよね…」

 熱心な安全担当者は、時に安全に対する敵意を誘う。

はくりんちゅ167

2008-04-22 06:32:53 | 剥離人
 腕に光る『安全第一』と書かれた腕章、この腕章をしている人は、実に性格が細かくて、融通が利かない人が多い。

「君、架空配線は終わったかね」
 五十台半ば、細い体形と、細長い顔、細長い目に細縁メガネ、安全担当の標本の様な人物だ。
「えー、まだです」
「早くやりなさい」
「このキャップタイヤのことですか?」
「そうだ、電線は架空配線が基本だ。もしも誰かがこのキャップタイヤに足を引っ掛けて転倒したら、とても危険だ。君もそう思うだろう?」
「…えーっと、ええぇ、思います」
 返事をしながらも、私は佐野に、
「足場板が積んである裏側の、人間が横にならないと歩けないスペースを、わざわざ歩く馬鹿が居るんですかねぇ?」
 という顔面テレパシーを送った。
「そんな馬鹿は居ないと思うけど、こういう人達は1ミリも融通が利かないから、さっさとやり直すべ」
 という顔面テレパシーが、佐野から返って来た。
「じゃ、やっておきますので…」
 だが安全担当はまた口を開いた。
「それから、そのドアからキャップタイヤを出すのダメだね。この扉は夜には締めるからね」
「えー、じゃあ夕方に一部巻き取るってことでイイですか?」
「うん、まあ仕方無いね。ただし、きちんと毎日行なう事、絶対に忘れないようにね」
「はい…」
 安全担当は私と佐野の前から立ち去ろうとしたが、不意に踵を返した。
「君、低圧電気特別教育は受講済みかね?」
「…大丈夫です。私も彼も受講済みです。資格証も必要ですか?」
「いや、持っているのならそれで構わないがね、それでは」
 安全担当は、背筋を伸ばして通路を歩くと、巨大煙突の向こうに消えて行った。

「佐野さん、どうしましょうね」
 佐野は上を見上げた。
「やっぱりそこしか無いな」
「あははは、キャップタイヤ一本で大事ですね」
 五分後、佐野は十数メートル上の歩廊から、トラロープを垂らしていた。
「佐野さん、縛りましたよぉ!」
 合図をすると、佐野はトラロープを引き上げ、キャップタイヤを空中五メートルほどの位置に固定した。さらにロープを追加し、キャップタイヤを空中に配線する。
「キーちゃん、ここまでやったら徹底的にやるべ」
 佐野は歩廊からコンテナを指差した。
「え、ここも架空配線にするんですか?」
「こういうのは、やるなら徹底的にやらねぇとダメなんだよ」
「・・・」
 十分後、コンテナの前に、完全な架空配線が完成した。歩廊からコンテナの天井まで、ピシッとキャップタイヤが空中に張られている。
「なんか家みたいですね」
「住む?」
「・・・」
 さらにドアを通っていたキャップタイヤも、一度コネクター部をばらし、建屋のガラリ(換気用ルーバー)のフィンを通して接続した。
「もう、ここまでやれば文句は無いですよね」
「うん、これで完璧だべ」

 佐野とコンテナの前で休憩をしていると、ハルがノズルの交換に降りて来た。
「木田さん、ちゃぁんとノリに撃ち方を教えたの?」
「ええ、きちんと教えましたよ。見本も見せたし」
「くはははは、なんか物凄い勢いでノズルを回してたよ」
 ハルはジェスチャーでノリオのガン撃ちを再現した。
「…壊れたオモチャみたいですね」
「ちゃんと教えないと後が大変だよぉ」
「分かりました…」

 現場では次から次へと『お仕事』が発生する。

はくりんちゅ166

2008-04-21 00:49:04 | 剥離人
 私の肩にジェットの反動がのしかかり、ガンのグリップが手に食い込む。

 だが監督たる物、苦しそうなそぶりを見せてはいけない。
「パァオオオオオン、バァボ、バァボ、バァボ、バァボ」
 剥離面にノズルを極力近づけ、毎分三千回転するノズルを、銃身を握った自分の左手を用いて円を描き、トリガーを引いたまま右側に移動する。
「バシューウウウウウ!」
 折り返す場所で、ジェットを発射したまま脇に流す。こうすると周辺に溜まったミスとが流れて行き、視界がクリアになる。
「バァボ、バァボ、バァボ、バァボ」
 今度は左側に移動しながらガラスフレークを剥離して行く。
「バァーボロロロ、バボォ、バボォ バボォ」
 今度はそのまま右側に折り返す。
「シュバァアアア、キュウウウウン!」
 折り返して半分ほどで、私はジェットを止めた。跳ね返った剥離水と剥離片でドロドロのバイザーを跳ね上げる。
「ほら、自分の撃った場所と比較してごらん」
 私は400ワットの水銀灯をしっかりと壁面に向けると、ノリオに剥離面を確認させた。
「あ、なんか僕が剥がした所は、メチャメチャ細かいのが残ってますね」
「うん、そうだね」
「ノズルを回すのがコツなんですね」
「そう、スピードはゆっくりでいいから、確実にね」
「でも、ガンを撃ち始めると、視界が悪くなって、ほとんど何も見えないんですけど」
 ノリオのカピバラの様な顔が、エアラインマスクの四角いガラス窓の中で困惑している。
「俺だってほとんど見えないよ。ただ、剥がし残しがあると、その部分が白い波の頭みたいになるんだよ」
「波の頭?」
「そう、塗膜片が残っている部分にジェットがぶつかると、白くなって、後に三角形の放射状の模様が出来るんだよ」
「そんなのあります?」
「慣れると見えるよ」
「へぇー、僕も頑張って見える様になりますよぉ!」
「まあ焦らなくてもイイから」
「ノズルも回すんですよね」
「そうだね」
「じゃ、がんばります!」
「うん、後で見に来るからね」
 私はそう言うと、ノリオのホース周りを整理してやり、塔内を出た。
 
 塔内から出ると、私は首をグルグルと回しながら階段を下りた。久しぶりのガン撃ちは、五分とはいえ結構堪える。今の私には五分以上のガン撃ちを、『お仕事品質』できっちりとこなす自信は無い。
「監督って、結構嘘つきですよね」
 私はコンテナに戻ると、佐野に言った。
「何が?」
「いや、たいしてガンも撃てないのに、さも出来るような顔でノリ君に撃ち方を教えるんですから」
「教えるくらいは出来るんでしょ?」
「ええ」
「それで上出来。監督だからって、『全ての作業を職人と同じ様に出来なきゃならない』ってわけじゃ無いからね」
「そういうものですか?」
「そうだよ。基本的な作業内容と、技術的知識があれば十分。職人と技量を競い合う必要は無いからね」
「ちょっと気が楽になりましたよ」
 佐野は私を見て、腕組みをしながら笑った。
「ところでキーちゃん、発電所の安全担当が、電線を『架空配線』しろって言ってたぞ」
「んー?やりましたけどね」
 私と佐野は、現場内に100ボルトキャップタイヤを引き込んだ分電盤を見に行った。
「ここはこれで十分ですよね」
「うん、そうだなぁ」
 塔内の照明用のキャップタイヤは、きちんとマンホールの入口にビニール紐で固定され、地面には垂れていない。
「もしかしてコンテナ用の配線かなぁ」
 私は建屋内から引っ張ったキャップタイヤのことを思い出した。その建屋からは配線の出口が無く、仕方なく出入口の扉から配線を出し、屋外通路脇に積み上げられている足場板の裏側の地面を這わせていた。
「佐野さん、このキャップタイヤのことですかね?」
「うん、このことだろうね」

 そこへ我々の天敵、発電所の安全担当者がやって来た。