どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ274

2008-08-31 23:58:33 | 剥離人
 フライトデッキ(飛行甲板)最後尾、ほぼ中心部、そこがR社の所定の位置となった。

「木田君、どこをやるのよ?」
 小磯が早々と超高圧ホースをカゴテナー(メッシュの箱)から出しながら、大声で訊いて来る。
「え?伊沢さんが直接来て指示するって言ってましたけど」
「伊沢さんは?」
「いやぁ、携帯が繋がらないんですよね」
「はぁー」
 小磯は大きなため息を付き、超高圧ホースをコンテナに立て掛けた。
 私はもう一度携帯電話を胸ポケットから取り出すと、伊沢の携帯を呼び出した。
「プルルルル、プルルルル、プルルルル」
「ハイ、何?」
 いきなり私の後ろで声がする。振り返ると、ドロドロの作業着を着た伊沢が、携帯電話を手に持って立っていた。
「ああ、伊沢さん、丁度良かった!何度も電話をしたんですよ」
「ゴメンゴメン、エンジン場(艦の機関部)に潜っていたから、電話に出られなかったんだよ。で、何?施工箇所?」
「ええ、どこをやればイイんですか?」
「ちょっと来てくれる?」
 言いながら伊沢は素早く歩き出すと、船尾の足場を下り始めた。
「ここ、このラインから、ずっと向こうに攻めて行ってくれる?」
 伊沢は、右舷後部のレーダードームの下から、右舷側を艦首に向かって進んで行く様に右手の人差し指を突き出した。
「大体どの辺までですか?」
「ん?そりゃ行ける所までだよ」
「・・・」
 もっとも仕事がやり難い一言だ。
「大体の目処は…」
「ん?あのミサイルの所までは楽勝でしょ?」
「ミサイルって、あの八連のミサイルポッドみたいなヤツのステージですか?」
「そうだよ」
「楽勝かどうかは分かりませんけど、がんばります」
 私の答えを聞くと、伊沢はすぐに立ち去ろうとして、歩き出した。
「伊沢さん、もうちょっと具体的にお願いしますよ」
「?」
「例えば、手摺はどうするとか、ダクトはどうするとか、細かい指示がありますよね」
「ああ!」
 伊沢は思い出したように、細かい指示を始めた。
「手摺は軽くジェットを当てるだけでイイから、それとダクトは軽く一皮剥く感じで。配管も軽く剥くだけね。それ以外はきっちりと全部剥がしてね。それと、こういう電気配線は、絶対にジェットを当てないでね」
 伊沢は、壁面に固定されている、何本もの電気配線らしき物を指差した。
「これ、電気配線なんですか?」
 その配線らしき物は、上からグレーの塗料がベットリと塗られ、極細の配管なのか電線なのか、良く見ないと判断し難い。
「良く見てよぉ、この辺のは全部電線だからね、十分注意してね!」
 伊沢は真剣な顔で、電線を手でバシバシと叩く。
「昔さぁ、ウチの下請の職人に、『この白色のスプレーの中は絶対に撃たないでね!』って、わざわざ電線の部分をマーキングして指示をしたんだよ」
 急に伊沢は、腕組みをして眉間に皺を寄せ始めた。
「ええ」
「そうしたらさぁ、やけに早くに、『終わりました!』って俺の所に来たんだよ。で、確認に行って見たら、俺が『撃つな!』って言ったスプレーのマーキングの『中』だけを、『中』だけだよ!?それを全部綺麗に撃ってあったんだよ」
「は?それは、電線なんじゃないですか?」
「そうだよ、全部電線だよぉ!しかも、被覆が全部剥け飛んじゃって、金色の電線が剥き出しになってたよ、ホント、あの時は参ったよ」
「…それ、本当の話ですか?」
「本当だよ、まったく。日本人なのに日本語が通じないんだから、嫌になっちゃうよ。お宅の人達は『日本語』、通じるでしょ?」
「え、ええ、通じますけど…」
「じゃ、大丈夫だよ。ま、頑張ってね、何かあったら俺か幸四郎君の所に連絡してね!」
 伊沢はそう言いながら、早足で足場を駆け上って行った。
「日本語、通じない人が居るんだ…」
 私は心の中で呟き、フライトデッキに居る四人の職人を見回した。
 
 R社のウォータージェットチームが全員、きちんと日本語を理解してくれる事を、私は深く、工事の神様(誰?)に感謝した。

 

はくりんちゅ273

2008-08-30 23:59:23 | 剥離人
 空母キティホーク、全長323.8m、全幅76.8m、満載排水量86,000t、乗員5,500名、海上を移動する一つの都市と言っても過言は無い。
 艦内には四つのショップ(売店)、65床の病院、歯科、眼科、二つの床屋、トレーニングジム、図書館、郵便局、ATM、クリーニング店、三つの教会、弁護士二名、6chの艦内放送にインターネット、生活に必要なありとあらゆる物が揃っている。

 だが、我々『ワーカー(作業員)』は、そういう部分に接する事はほとんど無い。あくまでも艦内の施設は乗組員の為の物であり、外部の人間が利用する事は、ほとんど有り得ないのだ。

「木田さん、ほらぁ『R2-D2』が居るよぉ!」
 ドックの岸壁を歩いていると、ハルが、キティホークの艦首付近を指差している。
「ん?おお、あははは!似てますね」
 ハルが言っているのは、スポンソン(張り出し部)に装備されている、ファランクス20㎜CIWSの事だった。海上J隊にも採用されていて、武装(ガトリング砲)とレーダー、管制システムが一体化された完全自動迎撃銃だ。防空ミサイルであるシー・スパロー等の迎撃を掻い潜った敵ミサイルに対して、毎分4,500発の弾丸を発射して迎撃する、艦にとっての最終防衛兵器と言える。
「しかし、めちゃめちゃ似ていますよね。『スターウォーズ』を観た事のある人なら、十人が十人、似てるって言うんじゃないですか?」
「ああ、B軍のやつらも『R2-D2』って呼んでるみたいだよ」
 小磯はこういうことに詳しい。
「今回は海に浮かべたまま工事をするんですか?」
 ノリオが不思議そうな顔でドックの中を覗き込む。
「うわっ、足場がバージ船(平底の船:艀)の上に組んでありますよ!」
 私も慌てて岸壁の際まで行ってみる。
「うおー、すげぇ…」
 キティホークの船体の周りには、大型のバージ船が連なり、驚くことに、その海に浮いた状態のバージ船の上に足場が組んであるのだ。 
「これ、造船業じゃ当たり前なのかなぁ?普通のゼネコンなら、まず間違いなく拒否するだろうなぁ」
「僕もそう思います」
 普段、発電所等の現場に入っているノリオも、私の意見に同意する。
「がはははは!木田君、こんなことで驚いていたら、S社の仕事なんか出来ないよ!」
 小磯はそう言うと、皆を先導するように、船に掛かる移動式桟橋を上って行った。

 艦内に入ると、すぐに航空機用エレベーター脇のハッチから外に出る。
 デッキに組まれた足場の階段を上がって行くと、我々は空母のフライトデッキ(飛行甲板)に出た。
「うぉおおおおお!ひ、広いよぉおおお!」
「めっちゃめちゃ広いですね」
「・・・」
 生まれて初めて巨大空母のフライトデッキに上がった私とノリオと荒木は、思わず周りを見回し、感嘆の声を上げた。
「どうよ、木田君!」
 小礒がまるで自分の艦の様に言う。
「想像以上ですよ。ここまで広いとは思いませんでしたよ」
 現在の位置は、フライトデッキの右舷後方なのだが、船首が随分と遠くに見える。横幅も最も狭いところでも50mはありそうな感じだ。
「ちなみにこの甲板で下手に転ぶと、膝の皿が割れるからね」
 小礒が指で甲板を指して言う。
「ん?どういう意味ですか?」
「良く見てごらんよ、この艦載機用の滑り止め塗装を。表面に細かい尖ったうねりがあるでしょ。これに勢い良くぶつかると、膝の皿がパックリと割れるんだよ」
 小磯は愉快そうに、腕組みをして笑っている。
「誰か居るんですか?皿が割れた人」
「ん?俺が知っているだけでも確か二人は…」

 私はフライトデッキでは、不必要に走らない事を、そして絶対に転倒しない事を心に誓った。

はくりんちゅ272

2008-08-29 23:38:42 | 剥離人
 一週間後、我々R社の面々は、再びK県Y市にあるB軍基地ゲート前に来ていた。

 今日も朝から、広井の怒気を含んだ声が、ゲート前で響いている。
「下川ぁ!下川はどこよ!M社の下川ぁあああ!」
 私はどこかで聞いた事のある名前だと思ったが、すぐには思い出せなかった。
「下川はどこ!」
「ああ?俺のことか?」
 少し離れた場所からのっそりと、頭が部分的に薄くなり始めた中年オヤジが現れた。
「M社の下川ね!呼ばれたらすぐに来なさいよぉ!」
「き、聞こえなかったんだよ…」
 オヤジは、ブツブツと言いながら、かなり不満そうだ。
「大体なんだあの女は!どうみても俺より年下じゃねぇか。それなのに俺を呼び捨てにしやがって…」
 下川は、ブツブツと独り言を言っている。
「次!R社の木田、それから小磯、野村…ってまたあんた達なの?」
「おっはよーございます!ちゃんと五人全員揃ってますよぉ!」
 私は笑顔で広井に挨拶をした。
「はい、ちゃんと身分証明書を用意してね!」
「はぁいっ!」
 私の大袈裟な返事に、思わず広井も笑顔を見せる。
「がははは、木田君、あの広井さんが朝から笑顔を見せるなんて、中々大したもんだよ!」
 小磯が私の肩をバシバシと叩きながら、驚いた顔を見せる。
「だから、最初に任せてくださいって言ったでしょ」
「これで広井さんのことは、木田さんに任せれば安心だね!」
 ハルも笑いながら頷く。

 仮パスを受け取って門の中へ入ると、駐車場に人の列が出来ていた。
「うぉわっ!これ、何人居るの?」
 駐車場には、百数十人近い作業着を着た職人が、列を作ってS社の送迎を待っている。
「これは、あり得ないよね」
 私は小磯とハルを見たが、二人は涼しい顔をしている。
「まあこんなもんでしょ」
「これより多い時もあるよね」

 職人たちは、S社が用意するワゴンやライトバンに、次々と吸い込まれて行く。
「小磯さん、なんか無茶苦茶な乗車方法に見えるんですけど…」
 助手席や後部座席だけでなく、ワゴン車の荷台にも人が乗り込んで行く。その人員運搬能力は驚異的だ。例えばライトバンの場合、助手席に一人、後部座席に三人、荷台に五人が乗り込む。
 我々R社の五人も、ライトバンの荷台に乗り込んだ。
「こういうのを『目から鱗』って言うんですかね?」
 ノリオがライトバンの荷台で、言い出す。
「いやぁ、微妙に違う気がするなぁ…」
 私は苦笑いをしながら答える。
「うひょひょひょ、木田さん、さっきゲートで会ったオジサンが、フラフラと歩いている気がするんだけど…」
 ハルが窓の外を見ながら、ニヤニヤして言った。
「え?ここって歩いて行ってもイイんだっけ?」
「絶対駄目!」
 小磯が即答する。
「じゃあ、あのオジサンは?」
 荷台の後部ガラスからは、道路をテクテクと歩いている中年オヤジが見える。
「あ、あれは広井さんの車かなぁ?」
 ハルが呟くのと同時に、徒歩オヤジの前に、対向車線からUターンした広井さんの車が急停車した。
「あ、なんか怒鳴られてるよぉ!うひゃひゃひゃひゃ!」
「きゃはははは!広井さんにめちゃめちゃ怒られそうですね」
 ハルとノリオが荷台で爆笑している。
「うはははは、あのオヤジ、いかにも言う事を聞かなさそうだったもんね」
 私の言葉に、荒木もニヤニヤしながら頷いている。

 事務所の前に着いてしばらくすると、オヤジが、広井の強制連行車輌から降りて来た。
「ったく、あんな列に並んでなんか居られないと思ったから、自分で歩いて来たのに…。あの女、うるさいったらありゃしない…」

 マンガやアニメの世界では、メカニックマンのオヤジは、典型的な頑固オヤジの場合が多いが、この下川という人は、それを地で行くような偏屈オヤジだった。

 

はくりんちゅ271

2008-08-28 23:11:01 | 剥離人
 タグボートYTBの外板塗装剥離は、何のトラブルも無く、サクサクと進んで行く。
 職人たちも、お互いにライバル意識があるのか、船体の右舷、左舷共にほとんど同じペースで剥離は進んで行った。

「木田さん、これで俺とノリ子が最後に入ったら、この船も終わりだね」
 小磯と交代で上がって来たハルは、エアラインマスクを洗いながら言った。
「ハルさぁーん、どうして僕は『ノリ子』なんですか?なんか女の子みたいじゃないですか…」
 最近ハルは、ノリオのことを、何故か『ノリ子』と呼んでいる。
「ああ?お前はノリ子でいいの!そんなことを言ってると、ハルちゃんがお仕置きしちゃうぞ!」
 ハルはノリオのカッパの上から、お尻の割れ目に攻撃をする。
「うきゃぁあああ、止めて、止めてくらさぁい!」
 ノリオが猿の様に騒ぎまくる。
 他人から見れば単なるふざけた行動だが、彼らにとって、一歩間違えば自分の手足を失うかもしれないガン作業の緊張感からの解放には、丁度良いのだろう。私も、こういう行動を咎めるつもりは毛頭無い。
「で、木田さん、これが終わったら俺たちはどうすんのよ?」
「…うーん、俺にも分からないんだよね」
 ハルはようやくノリオを解放すると、少し真顔で私に質問をして来た。
「伊沢さんはなんて言ってるの?」
「なんでもキティホークもやってもらうかもしれないって…」
「やるの?キティちゃんもやるの?ま、俺はどっちでも良いけどね。でも仕事があるならやった方がイイよねぇ」
「それはそうなんですけどね。どうしてこうS社って、サクサクと次の予定が決まらないのかなぁ?」
「昔からそうだよ、S社は」
「んー、まあ後でもう一度聞いてみますけどね」
「四郎ちゃんに聞いた方が、早いと思うよぉ」
 ハルはそう言いながら、ノリオを連れて灰皿が置いてあるだけの喫煙所に向かって行った。

 翌朝、タグボートYTBの外板塗装の剥離を終えた我々は、機材の片付け作業に入っていた。
「木田君、本当に一回帰るの?」
 小磯は面倒臭そうに、超高圧ホースを巻き上げている。
「ええ、そうですね。ホテル代も馬鹿になりませんし」
 私はフィルター類を、コンテナの棚に押し込みながら、小磯に大声で答える。
「だって機材は全部ここに置いて行くんでしょ?」
「そうですね、幸四郎さんがキティのドックまで運んでくれるらしいんで」
「ハスキーを置いて帰ったら、向こうでやることなんか、何にも無いじゃない」
「うーん、ほら、この前買ったラジコンカーで遊ぶとか、ビリヤードをやるとか…」
「はぁー、情け無いねぇ」
 私には、小磯が仕事をしたいのか、したく無いのか、さっぱり分からなかった。
「まあ、一週間後には帰って来るんですから、ね」
 一週間後、キティホークの外板塗装剥離が始まる。我々は、それまで適当に時間を潰さなければならない。機材一式はこのままB軍基地に置いて行くので、その間は何もやることが無いのだ。

 我々の片付け作業を行っている側では、S社の下請の塗装会社が、塗装の準備を始めている。
「とりあえずシンナーでラインを洗浄するからな!」
 若い職人が、ウエス(ボロ布)を入れたペール缶(オイル等が入っていた20リットル缶)に、エアレスのガンからシンナーを吐出して、念の為にホースの中に残った塗料を洗浄しようとしている。
「はい、いいよ!」
「バシューッ、ぼぉわんっ!!」
 突然、エアレスのガンが、猛然と火を噴いた。
「うぉおおおおおお!」
「燃えてる!ウエスが燃えてる!」
 慌てて若い職人がペール缶をひっくり返すと、足でウエスの火を揉み消し始めた。
「熱っ、熱っついよ!」
 二人の職人がバンバンとウエスを蹴りまくる。
「うははははは!」
「うひょひょひょ、凄いねぇ!」
「がはははは、おいおい、危ねぇだろう!」
 私とハルと小磯は、爆笑しながらその光景を観察する。
「うぉー、あっぶねぇー…」
 ようやく火の着いたウエスは鎮火し、あたり一面に焦げた臭いが漂っている。
「どうして火が着いたんだ?」
 若い職人は、エアレスのガンをマジマジと眺めている。
「うはははは、分からないけど、多分静電気かなぁ?」
 私は大笑いをしながら、塗装が本業のノリオに訊いた。
「うひゃひゃひゃ!多分そうでしょうねぇ」
 ノリオも爆笑しながら職人の顔を見ている。

 我々の背後には、その光景を目の玉をひん剥いて見ている海上J隊の関係者十数人が居たが、我々は気にする事も無く笑い続けたのだった。

はくりんちゅ270

2008-08-27 16:18:38 | 剥離人
 いつからなのか、最初は慣れない現場、慣れない作業に戸惑い、慌てふためき、無様な醜態を晒していた私も、気が付けば現場の中でゆったりと構える事が出来るようになっていた。

 ドライドックの中、船体の周囲四箇所から水蒸気が立ち昇り、四本のガンは、耳をつんざく様な音を響かせている。
 しかしここはB軍基地内だ。周囲に苦情を言って来る様な住居は無いし、まして苦情を言って来る様な人間は誰一人居ない。心置きなく作業を行うことが出来る。
 超高圧ポンプ『ハスキー』も、なんの遠慮も無く、狂ったハスキー犬の様なエンジン音を響かせ、10,000ccのディーゼルエンジンから高熱の排気を青空に噴き上げている。
 ハスキーの各メーター類は正常値を示し、いつもの様に三本のプランジャー(ピストン駆動部)を指で触るが、特に温度の上昇も無い。
 ドック内で作業をしている小磯と荒木のガンも正常に動作しているし、コンテナの中には整備済みの予備のガンが一丁ある。
 とりあえず、今の私には何もやる事は無かった。
 時折、ドライドックの中を気にしながらも、岸壁をフラフラと歩いてみる。
 ドック右手の岸壁には、海上J隊の潜水艦が停泊し、上甲板には常に立哨が居るようだ。甲板には立方体のカバーの様な物が有り、立哨のJ隊員は、それを護っているらしい。
 目の前に広がる海の対岸には、門型の大きなクレーンが見えている。私はすぐに見飽きるであろうこの景色を、ゆっくりと楽しんだ。

 二時間後、小磯と荒木が、ハルとノリオと交代して上がって来る。
「小磯さん、あの潜水艦のカバーは、中に何があるの?」
 小磯はカッパを洗いながら、潜水艦の上甲板に視線を移した。
「ああ、あれはハッチだよ」
「ハッチ?」
「そう、あのハッチの厚さがバレると、その艦の最大潜行深度が分かっちゃうんだよ」
「おおー、つまりその潜水艦の機密事項である基本性能を、敵に知られちゃうってこと?」
「そういう事。で、何、木田君は俺が仕事をしている間に、そんなことが気になってたの?」
 小磯がチクリと嫌味を言う。
「ははは、まあ、そうですね」
 むんわりと、嫌な空気が流れる。
「それよりも、あの足場を何とかしてよ」
 小磯が唐突に言い出した。
「足場?なんとかってそんなにマズイ足場ですか?」
 小磯は渋い顔をすると、安全ゴム長(工事用に鉄甲の入った長靴)を脱ぎ、半長靴(工事用のブーツ)に履き替えた。
「上の方はかなり撃ち難いね」
「まあ、そうかもしれませんけど、T工業の人たちもそのままやってるんだし、今から足場を組み直すのも、現実的にはねぇ…」
「そんな事を言うんなら、自分で撃ってごらんよ、どんなに大変か分かるから」
 小磯の目には、不満の色が滲み出している。
「まあ、そこまで言うんなら、幸四郎さんに連絡して、なんらかの対策をして貰いますよ。具体的にどこの足場を直して欲しいのか、僕に分かるように言って下さい」
「・・・」
 小磯はしばらく沈黙をすると、フっと鼻で笑った。
「いや、やっぱりいい、ちょっと言ってみただけ」
 小磯はそう言い捨てると、喫煙コーナーに向かって、岸壁を歩き出した。

 私は、深いため息を吐くと、うんざりとした気持ちになり、コンテナの椅子に腰を下ろした。 

はくりんちゅ269

2008-08-26 16:52:13 | 剥離人
 巨大空母の迫力とは対照的に、S社の事務所は非常にボロかった。

「あー、えーっとねぇ、今回はキティホークじゃなくて、タグボートをやってもらうから」
 課長である伊沢は、雑然とした机の前で、忙しそうに早口で話した。
「てっきりキティホークの仕事かと思いましたよ」
「キティはねぇ、今工事の準備で忙しいからね、だから君たちに来てもらったのよ」
「…なるほど」
「幸四郎君の所と一緒にやってもらうからね、後は幸四郎君に訊いてくれる?」
「…幸四郎さんに、ですね、分かりました」
 私は相変わらず要領を得ないS社の説明を無理やり飲み込み、一歩踏み出す度に微振動する階段を下りると、辺りを見回した。
「木田君、なんだって?」
 階段を下りた所にあるごつい木製のベンチに座り、小磯たちがタバコを吸っている。
「なんか、仕事はYTBって船らしいですよ」
「ちっ、タグボートじゃんよ、キティホークはどうなったの?」
「今は工事の準備中らしいです」
「ええー、キティホークはやらないんですかぁ?」
 ノリオが情けない声を出す。
「で、俺たちだけ?」
「あははは、幸四郎さんの所、T工業と一緒にやれって言ってましたよ」
「ほらね、木田君!言わんこっちゃ無い!」
 予想通りに、いきなり小磯とハルの古巣との合同作業だ。
「ところで、幸四郎さんはどこに居るのかなぁ…」
「ん?幸四郎ちゃんなら、そこに居るじゃんよ」
 ハルが私の背後を指差した。
「ああ、幸四郎さん!」
「あ、こんにちは!あれぇ、こっちに来たんだぁ、元気だった?」
 幸四郎は私に軽く挨拶をすると、小磯とハルに話し掛けた。
「おう…」
「うひょひょひょ、幸四郎ちゃんも元気そうじゃんよぉー!」
 小磯はやや複雑な表情をして、ハルは満面の笑みだ。
「いつまで居るの?」
「知らねえよ、伊沢さんに聞いてくれ!」
 小磯はぶっきら棒に答える。
「とりあえずYTBをやるって事で良いんだよね」
「ええ、伊沢さんにはそう言われています」
 私が答えた。
「船は向こうのドックにあるからさ、J隊の潜水艦の向こう側のドックなんだけど、分かるよね?」
 小磯とハルは知っている様で、頷いている。
「後で俺も行くからさ、トラックは入って来たの?」
「まだですよ」
「そりゃまいったなぁ、すぐに手配するからさ」
 そう言うと、幸四郎は慌しく、歩きながら携帯電話で話し始めた。
「はぁー…」
 小磯が大きなため息を吐いているが、私は気にしないで、ハルにドックの場所の説明を求めた。

 午後ニ時、我々は、YTBが入ったドライドック(乾ドック:船を入れてからポンプで排水するドック)の岸壁に機器の設置を完了していた。
「ハルさん、気のせいかな、タグボートってこんなに大きかった?」
 私はハルに疑問をぶつけてみた。
「ん?詳しくは知らないけど、たぶんこのYTBって船は、一番大きなタグボートだと思うよ」
「つまり、キティホークなんかを押すには、この位の船が必要なんだね」
 実際、このYTBという船は、タグボートにも関わらず、全長が30メートルを超えていた。
「じゃあ、ウチの人間は右舷、R社さんは左舷ってことでイイ?」
 幸四郎が最終確認をする。
「ええ、それでお願いします」
「意外と面積があるけど、頼むね!」
 幸四郎は、小磯に向かって言った。
「うるせぇ、お前もガンでも撃ってろ!」
 幸四郎は、小磯の言葉に苦笑いをすると、キティホークの方に車で帰って行った。
「さ、とりあえず剥がしましょう!ノリちゃん、荒木さん、しっかり頼みますね!」
「はい!がんばっちゃいますよ、僕!」
 珍しいB軍基地に入ったことで、ノリオは若干浮かれていた。

 私はハスキーのキーをひねり、エンジンに火を入れると、ドックの手摺にもたれ掛かり、のんびりと海を眺め始めた。

はくりんちゅ268

2008-08-25 15:55:28 | 剥離人
 年の頃四十半ば、やや乱れたショートボブに、険しい目付き、それが広井という女性だった。

「はい次っ!鈴木、鈴木信也ぁ!三船工業の鈴木!居ないの!?」
 広井は、なにやら紙のリストを見ながら、大声で名前を叫んでいる。
「あ、すんません、鈴木ですぅ」
 水色の作業着の若い男が、パタパタと広井の前に走って来た。
「ちょっと、遅いのよ!呼ばれたらすぐに来なさいよ!なんならパスの発行は明日にする?」
「い、いえ、すみません…」
 広井のあまりの気迫に、肉体労働派の男が完全に押されている。
「はい、次!R社の…」
 私はすぐに広井に近寄り始めた。
「木田!それから小磯?野村?」
「あ、ハイハイ!私です!」
「名前は?」
「木田です。それから小磯と野村(ハル)、荒木と江藤(ノリオ)もそこに居ます」
「居るのは分かったから、ここに居なさいよ!」
「はい!おーい、全員ここ、ここに来て!」
 私に呼ばれた四人は、植え込みから腰を上げると、広井の前にやって来た。
「あー、あんたたちね」
 広井は、小磯とハルの顔を見ると、納得したような顔をした。
「お早うございます…」
「どーもぉ!」
「身分証明書を用意して待ってて、ちゃーんと出して置いてね!」
「はい!分っかりましたぁ!」
 私は広井に満面の笑みで答えた。こういう女性は、絶対に敵に回してはいけない。仮に敵に回した場合、メリットは何一つ無く、有り余るデメリットを享受する事になるからだ。
「木田君、ああいう人、苦手じゃないの?」
 小磯が小声で訊いて来る。我々の後ろでは、広井がまたしても大声で誰かを呼んでいる。
「ま、どちらかと言うと、『得意』な方だと思いますよ」
「がははは!じゃあ広井さんは君に任せた!」
「任せて下さいよ、でもどうします、僕と広井さんができちゃったら!」
「がはははは!盛大に祝福してあげるよ!」
 馬鹿な話をしていると、広井が大声で全員に言った。
「はい、全員身分証明書を出して!今からパスの発行手続きをしますので、しばらくここに居て下さい。必ずここに居るように!もしこの場から離れたら、二度とパスの発行手続きはしませんからね!分かりました!?」
「・・・」
 集まった十数人ほどの職人が、無言で服従の意思を示す。

 十五分後、全員の『仮パス』が発行され、我々はS社の人間のエスコートによって、基地の中に入った。
「そこ!勝手に歩くな!私の前を歩くな!」
 広井の前を歩こうとした職人が、注意される。
「いい、あなた達は、我々のエスコート無しに基地内を勝手に歩けないの!分かった!?」
「・・・」
 またしても全員が無言で服従する。
「ここからは車で移動します。乗れなかった人間は、この場で待つように!」
 広井とS社の社員一人が車を出し、私とハル、ノリオ以外の人間が全員車に乗り込んだ。
「後で迎えに来るから、ここに居てね、いい!?」
「はぁーい!」
 またしても私は満面の笑みで広井に答えた。

 五分後、再び広井の車が戻って来た。
「はい、乗って!」
 私はあえて広井の隣、助手席に乗り込んだ。
「すみません、ありがとうございます!」
 車は基地内の道路を走り出し、左手に海を見ながら進んで行く。
「初めて?」
「え?基地の中ですか?」
「そう」
「S市の基地には行きましたけど、ここは初めてですよ」
「そう、何か分からない事があったら、きちんとS社の人間に訊いてね。勝手な行動はしないでね」
「分かりました!」
「ところで、何の仕事で来たの?」
「ウォータージェットですけど」
「ああ、ガンを撃つの?」
「そうですね」
「危ない仕事よ?」
「大丈夫ですよ、普段からやってますから」
「普段から?それってポンプを持ってるってこと?」
「ええ、ウチの会社にハスキーが一台ありますんで」
「へえ、そうなんだ、全然知らなかったわ」
 広井と他愛も無い会話をしていると、大きなドックの前の事務所に到着した。
「はい、着いたわよ。伊沢さんは事務所の二階にいるからね」
「ありがとうございます!」
 礼を言って広井の車から降りると、先に着いた小磯と荒木が待っていた。
「ようこそ!ここがB軍基地のドック、そしてそこに見えるのが、第七艦隊所属の空母キティホークだ!よーく見ときな、滅多に見られないからね」
 小磯は大袈裟なセリフを口にすると、右手の親指で自分の背後を指差した。

 フェンスの向こう側には、巨大なグレーの船体が、どーんとその存在感を示していた。

はくりんちゅ267(Y市B軍基地編スタート!)

2008-08-24 23:18:45 | 剥離人
 K県Y市、私鉄の駅から商店街を歩くこと十数分、幹線道路のまん前にB軍基地はあった。

 正面には車が出入するためのゲートがあり、白人兵士が運転手の入門証をチェックしている。彼の肩には、恐らくは実弾入りと思われる銃が掛かっていて、そこが我々が知る『日本』では無いことを意味していた。
 基地の歩行者用の出入口は、車用ゲートの脇にあり、B軍関係者と思われる人間が、頻繁に出入りをしている。

「はぁー、来ちゃったねぇ」
 小磯は慣れた様子で、ゲート手前の植え込みのレンガに腰を下ろし、ハルもその隣に腰を下ろした。二人は以前、この中で仕事をしていたので、勝手知ったるなんとやらだ。
「ここでいいんですか?」
 朝一に仕事で入るのは初めてなので、私は小磯に訊いた。
「大丈夫、ここで待っていれば、広井さんっていう女の人が現れるから」
「ん、女の人?美人ですか?」
「ひゃはははは!」
 ハルが笑い出す。
「え、どういう意味?」
「見れば分かんよぉ」
 小磯とハルはニヤニヤとしている。
「おっはようございまぁーす!」
 幹線道路の横断歩道の方から声がした。
「おお!ノリちゃんと荒木さんだ!」
 笑うカピバラの様な顔をしたノリオと、『伝説の男』荒木がやって来た。
 今回のB軍基地での仕事は、ノリオと荒木の家から通える距離なので、この二人に応援を頼んでいた。
「ノぉリぃー、来るのが遅いぞぉ!チョンチョン!」
 ハルがいきなりノリオの股間を攻撃する。
「うっひゃぁあああ!止めて下さいぃいいい!」
 朝の七時前から、ノリオがB軍基地のゲート前で奇声を発する。
「おい、みっともないから止めろよ」
 いつもなら笑っている小磯だが、今朝は不機嫌そうな声を出している。

 気が付くと、ゲートの前には大勢の作業着姿の人間が集まり、S社のスタッフも何人かやって来ていた。
「はい、1、2、3、4…、ここまでね!」
 一人のS社のスタッフが、作業着姿の十人を一括りにして、ゲートの中に入って行く。
「小磯さん、あれは?」
「ああ、あれは『本パス』を持っている人間のエスコートだよ。本パス所持者が一度にエスコート出来るのは、十人までなんだよ」
「ふーん、じゃあ僕たちは何パスをもらうんですか?」
「俺たちのは通称『仮パス』だよ。大体二週間から一ヵ月単位の有効期限のパスだね」
「へぇ、じゃあ、仮パスの人は、本パスを持っている人が居ないと、基地の中には入れないんですか?」
「そうだね。昔は比較的簡単に本パスを発行していたんだけど、今は物凄く審査が厳しくて、S社以外で本パス持っている人はかなり少ないね。俺も昔は本パスを持っていたんだけどね」
 私はなるほどと思ったのだが、そう言えば我々は、その『仮パス』すら持ち合わせていないことに気が付いた。
「で、小磯さん、僕たちはどうなるの?伊沢さんからは、『誰かが行くから、その人の指示に従ってね』としか言われて無いけど…」
「はぁ、相変わらずS社てきとーだね」
 小磯は苦笑いをすると、ゲートの方を顎でしゃくった。
「ほら、その担当者の広井さんが来たよ。近くに行っておかないと、怖いことになるよ」
「うん、そうそう、名前を呼ばれた時にそこに居ないと、大変だからね」
 小磯とハルはクスクスと笑っている。

 私は言われるがままに、その広井という女性の近くまで歩いて行くと、じっと様子を伺った。

はくりんちゅ266

2008-08-23 23:48:44 | 剥離人
 TG工業での軟質ゴムライニングの剥離作業を終えると、我々は徐々に疲れ始めていた。

 数日から一週間程度の出張工事を、短期間に何度も続けると、人間は日常生活の些細な事にストレスを感じる様になる。
 その日、三人でB軍基地に持ち込む機器のメンテナンスをしていた時だった。
「小磯さん、このカッターナイフの刃を『全出し』にして、工具の中に放り込むのは止めてよ、危ないじゃんね」
 私は半分笑いながら、小磯に注意を促した。いつもなら笑い話で済まされる程度の事だった。だが、その日は違っていた。
「ああっ?いちいち細かい事をうるさいんだよ!」
 いきなり小磯が私の一言で切れ始めた。
「細かい事って言うけど、こんな事で手でも切ったら、大変でしょう!まだ出張工事も残ってるのに」
「怪我なんかしてないじゃねぇか、どうしていつも細かい事をいちいち言うんだよ!」
 小磯の意味不明な怒りは収まりそうに無い。
「・・・」
 ハルは黙って、困惑した顔をしている。
「大体、この前だって、車のサイドブレーキの所の物入れに、刃を全出ししたカッターナイフを、しかも刃を上に向けて立ててあったじゃないですか!」
 私もだんだん腹が立って来たので、小磯に言い返す。
「とにかくお前はうるさいんだよっ!」
 小磯は完全に切れている。
「ちょっと、そこまで言うんなら、徹底的に話し合いますか」
「おう、望む所だよ!」
 私と小磯は、黙って立ち尽くすハルを置いて、事務所の二階に早足で入ったのだった。

 三十分後、私と小磯は笑いながら工場の中に戻った。
「ハル、なんて顔をしてるんだよ、な、木田君!」
「ええ、残りの仕事を片付けましょう!」
 さっきまでは相当に険悪だった二人が、今は笑顔で会話をしているのが、ハルには不気味に映るのだろう。ハルはまたしても困惑した表情をしている。
 確かに私は笑顔で小磯と話をしていたが、心のどこかに引っ掛かる物を感じていた。
「この先、どうなるかは分からないけど、いつか…」
 私の心の中に、不安な気持ちがムクムクと湧き上がって行く。

「最近、木田君からの携帯の着信は、この曲なんだよ」
 数日前、小磯が私に教えてくれた着信音は、スターウォーズの『ダースベーダー』のテーマソングだった。少なくとも、小磯が私に対してあまり良い感情を抱いていない事ははっきりとしている。

 潜在的な時限爆弾を抱え始めたウォータージェットチームは、そのままの状態で、K県Y市にあるB軍基地に乗り込む事になるのだった。

はくりんちゅ265

2008-08-22 23:36:10 | 剥離人
 水管橋の仕事が終わってから二ヵ月後、結構暇な日々を過ごしていた我々に、いきなり仕事が入り始めた。

「木田君、もうちょっと均等に来ないの、この仕事…」
「まあ、その方が望ましいですけどね、こればっかりはねぇ」
 仕事なんて、無いときには無いくせに、入り始めると殺到する、そんな物だ。
「先週までは、本州最北の県でガラスフレークの剥離でしょ、で、明日からは西に行って、H県のTG工業で軟質ゴムライニングでしょ?」
 小磯はかなり不満気だ。
「まあ、そうですね。その後は、B軍基地の仕事が入ってますよぉ」
「はぁ!?S社の仕事!?」
「ええ、昨日、渡常務から連絡が入りました」
「S市(N県)?」
 私は首を横に振った。
「うわぁ…Y市(K県)かよ、最悪だよ…」
 小磯はがっくりと肩を落とす。
「なんでですか?元々は、自分の古巣でしょ。何か問題でもあるんですか?」
 私はてっきり、小磯が長年住んでいたY市に久しぶりに戻れるので、喜ぶのかと思っていた。
「あのねぇ、俺はS社の下請のT工業を辞めて来たんだよ、S社で仕事をするって事は、またT工業と一緒に仕事をするかも知れないんだよ」
 小磯はまるでR社に来るためにT工業を辞めた様な口ぶりだが、実際は私がR社に誘う前に、喧嘩別れ状態で会社を辞めている。
「まぁ、それはそうですけど、僕と小磯さんはそもそも、S社の仕事が縁で、今はこうして一緒に仕事をしているんじゃないですか。それに、ウチがS社の仕事を断る理由は、特にありませんからね」
「はぁー、ま、仕事ならやるけどね」
 小磯はそう言うと、嫌そうな顔で納得したふりをした。

「それはそうと、渡さん達がこっちに来るって本当なの?」
 小磯は無理やり話題を変えた。
「ああ、なんか本気みたいですよ、本社機能をここに移すって。ほら、そこの日系ブラジル人の人たちが住んでいる建物があるでしょ。その一階の旧事務所スペースを借りるつもりみたいですよ」
 R社が借りている工場は、元々はN社の使っていた工場であり、N社の従業員である日系ブラジル人たちの寮と、A工場の建屋は、N社がそのまま使用していた。
「でも、あの事務所ってかなりボロボロじゃないの?」
「いやぁ、渡さんが綺麗に直すって言ってましたよ」
「がはははは!」
 いきなり小磯が笑い出す。
「木田君、他人事みたいに言ってるけど、どうせやるのは木田君なんでしょ?」
「うーん、まぁそうですね」
 すでに忙しい最中に、古谷建設の古谷との、事務所のリフォームの打ち合わせ予定が入っている。
「しかも王様が、細かく口を出しそうな予感がしますね」
「王様って誰の事なの?」
「ウチの社長ですよ」
「なんで王様なの?」
「だって、誰が見ても『裸の王様』でしょう」
「がはははは、自分の会社の社長に、そんな事を言っちゃ駄目でしょ」
 珍しく小磯が、倫理的な事を言う。
「ま、とにかくTG工業でさっさとゴムライニングを剥がして、帰ってきましょうよ」

 私はそう言うと、小磯とハルを促して、荷積みの準備を開始したのだった。