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福島県 須賀川牡丹園 玉川村 乙字ヶ滝 鏡石町 岩瀬牧場①世界最古の量産型トラクター

2024年07月23日 15時48分51秒 | 福島県

国名勝・須賀川牡丹園。福島県須賀川市牡丹園。

2024年5月31日(金)。

須賀川市立博物館を見学後、17時閉園の須賀川牡丹園へ向かい16時30分頃に着いた。4月下旬から5月中旬までの牡丹の開花時期のみ有料となるので無料開放されていた。

ほとんどの牡丹は葉だけになっていたが、奥に進むとまだ咲いている牡丹が見つかった。

日本庭園風の広大な敷地には大きな池があり、蓮の花が咲きそろっていた。

須賀川牡丹園は、牡丹園としては全国で唯一の国指定名勝である。総面積10ha(東京ドームの約三倍)の園内で、290種類、7000株の牡丹をはじめとする四季折々の花や風景を楽しむことが出来る。

須賀川牡丹園は、250年余り前の明和3年(1766年)、須賀川で薬種商を営んでいた伊藤祐倫が牡丹の根皮を薬用にするために、苗木を摂津国(現在の兵庫県宝塚市)から持ち帰り栽培したのが始まりといわれている。その後、明治の初期に柳沼家が受け継ぎ、種類、株数を年々増やしてほぼ現在の形をつくり、昭和7年に国の名勝に指定された。

 

このあと、須賀川市民温泉で入浴した。入浴料300円だが障害者無料。老人福祉センターに併設された良質のアルカリ性単純温泉が湧く日帰り温泉で、利用者は多かった。

その後、玉川村の道の駅へ向かった。

日本の滝百選・乙字ヶ滝(おつじがたき)。福島県玉川村竜崎字滝山。

2024年6月1日(土)。

道の駅「たまかわ」で起床。須賀川方面へ進み、脇道へ入ると乙字ヶ滝の公園・駐車場があった。滝の上を渡る車道橋は工事中で通行禁止だった。

乙字ケ滝は、那須高原に源を発する阿武隈川唯一の滝で、須賀川市と石川郡玉川村の境を流れる。

乙字ヶ滝の落差は約6m、特徴的なのはその横幅で広いときは100mに達することもあることから「小ナイアガラ」ともよばれている。

その名の由来は、「増水時の流れの形が“乙”字のように大きく屈曲しているから」という説と「側面から見た断層の形が“乙”だから」という二つの説がある。

曽良随行日記によれば、俳聖・松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅で、須賀川から郡山へ向かう途中に南東方向へ歩いて「石河の滝(乙字ケ滝)」に立ち寄り、守山宿経由で郡山へ向かっている。

滝見不動尊の傍らには、「五月雨の瀧降りうづむ水かさ哉」と刻まれた句碑や、芭蕉・その弟子の曽良の像が建立されている。

江戸時代には、白河藩により、滝の下で村民が鱒や鮭、鮎などを捕ってよいとされたが、初漁の魚は殿様に献上することになっており、初漁近くなると藩士が近くに詰めた。その滞在費を持つ代わり、他の賦役は免除されていた。

岩瀬牧場。福島県鏡石町桜町。

2024年6月1日(土)。

岩瀬牧場は唱歌「牧場の朝」のモデルとなった日本で最初の西欧式国営牧場で、明治時代に開墾されて以来、現在も場内には牛舎で牛を飼育しており、畜産関連の貴重な資料が残されている。

現在は観光牧場になっており、バターづくり体験、農作物の収穫体験、四季折々の花が咲きわたるフラワーガーデンや、レストラン、売店、手漕ぎ自転車・ツリーハウスといった遊具などもあり、バーベキューも楽しめる。

とうもろこし乾燥小屋。須賀川市文化財。

奥にポプラ並木。

1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸ののち、1877年(明治10年)から1878年にかけて牧羊地調査が行われ、1880年(明治13年)以降に官有第一種皇宮付属地「宮内省御開墾所」が開設された

1890年当時、御料地は岩瀬第1から第5まであったが、このうち第1から第3までの敷地約650haが同年7月に岡部長職(ながもと、最後の岸和田藩主で子爵・政治家)に設備や家畜とともに貸下げとなった。

1907年(明治40年)に牧場経営は株式会社化され、1908年(明治41年)にはオランダから血統書付きホルスタイン種牛13頭を購入した。

1910年(明治43年)に朝日新聞記者の杉村楚人冠が牧場長の永田恒三郎の招待で牧場を訪れ、その情景をもとに文部省唱歌「牧場の朝」を書いている。

1967年(昭和42年)に福島交通社長の小針暦二が牧場を取得して、有限会社岩瀬牧場を設立した。

世界最古の量産型トラクター。フォードソン製トラクター。歴史トラクター館。

フォードソン社製造 F 型トラクター(フォードソン F 型 ) 。

フォード・モーター創始者のヘンリー・フォードは設立当初より農業の機械化に関心を寄せ、自動車の開発と並行してトラクターの開発も行った。当時のトラクターは蒸気機関を動力としていたが自動車同様に内燃機関を搭載する試みがなされ、フォード製自動車の部品をトラクターに流用した試作が制作されている。また自動車の構造をそのまま用いるのではなく、トラクターとして製造の効率化が図られた構造が模索された。数台の試作が重ねられ 1917 年 F 型が完成、トラクター販売を目的にフォードが設立したフォード & ソンより販売された。大量生産方式で製造されたフォード T 型のエンジンを互換させることで安価且つ大量の部品を供給することができ、車体前方のエンジンと後方のトランスミッション内蔵のハウジングを締結したフレームレス構造により大量生産に適したトラクターの構造も確立した。この車体構造は現在のトラクターにも受け継がれる原型となっている。1917 年から 1928 年までに約 1,000,000 台が製造され世界中で使用された。このことにより農業の機械化が進んで行くことになった。F 型は世界的にトラクターが普及するきっかけとなるものであること、産業史において重要な位置づけにあるフォード T 型のエンジンを使用しているなど、産業機器として博物的価値が非常に高い。

福島県須賀川市 稲村御所跡 須賀川市立博物館 団子山古墳 二階堂氏


根室市歴史と自然の資料館⑥ラクスマン根室来航 樺太日露国境標石 花咲線100年

2024年07月23日 09時37分02秒 | 北海道

根室市歴史と自然の資料館。根室市花咲港。

2022年6月14日(火)。

 

近世・近代の根室

俄羅斯舩之図(根室市指定有形文化財):ラクスマンが乗ってきたエカテリーナ号を描いたもの。

ラクスマンの根室来航

1792年9月24日、ロシア最初の遣日使節アダム・ラクスマン一行は、帆船エカテリーナ号でオホーツク港を出港し、同年10月20日に根室に入港した。

冬が近づいていたのでエカテリーナ号を弁天島につけ、乗組員42名は上陸して家を建て、翌年6月15日までの8カ月間、根室で過ごした。

当時の根室には、松前藩の役人・商人 ・アイヌの人々らが数十人住んでいた。ラクスマンは漂流民の返還の名のもとに、通商交渉と来航目的を告げ、日本側は直ちにこの事実を松前に知らせた。

すぐに松前藩と江戸幕府から、根室へ交渉の役人らが着き、本交渉は松前で行われた。

江戸時代の日本とロシア

当時のロシアは、エカテリーナ2世が強大な力を持ち、シベリアでの毛皮生産を増やすことが、重要な課題であった。そのために、シベリアに近い日本と交易し、シベリアへ食糧などを送るためのルートを確保しようと考えた。

漂流民大黒屋光太夫

天明2年12月(1783.1)に、伊勢白子港(三重県鈴鹿市)から、江戸(東京)に向けた、船頭大黒屋光太夫ら17人を乗せた神昌丸が、出港した。

ところが、途中で嵐にあい、7カ月も漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。光太夫らは、この島で4年間過ごし、ロシア人と共同して船を造りカムチャツカに脱出。さらにオホーツクからイルクーツクに送られ、日本語教師になるよう要請されたが、あくまで帰国を希望し、ここで会った学者であり実業家であるキリル・ラクスマンの尽力により、ペテルブルグまで行き、エカテリーナ2世に謁見し、帰国が許された。光太夫らは、ロシア初の遣日使節であるキリルの息子アダム・ラクスマンらの一員として、同行した。

17人のうち12人は途中で次々に死に、2人がイルクーツクに残ったため、オホーツク港から根室に着いたときは、光太夫・磯吉・小市の3人になっていた。小市も根室に着いて亡くなった。白子港を出て、根室に着くまで、実に10年という歳月であった。光太夫と磯吉は、松前で日本側が受け取り、その後江戸で暮らした。

根室でのラクスマンたちの暮らし

根室での8カ月間は、ロシアと日本と情報交換の場でもあった。日本側では、日本で最初のロシア語辞典を作成したり、エカテリーナ号の模型を作ったり、ロシアの地図を写し地名を聞き取ったりした。ラクスマンらも、日本の地図を写し、植物・鉱物を採集し標本にしたり、根室港周辺を測量したり、アイヌの人々と日本商人らの関係を聞き取ったりした。

また、蒸し風呂を造ったり、結氷した根室港でスケートをしたりした(これは日本で最初のスケートである)。根室は、ロシア語研究の最初の地であり、ロシアの地理などの知識を受け入れた最初の場所でもあった。

流氷の入った根室港。奥はエカテリーナ号が停泊した弁天島

ラクスマンの根室来航の歴史的意義

日本史上では、ラクスマンの来航は、江戸幕府の外国に対する通交・通商政策、国防政策などを方向づけた、重要な出来事である。この時は、老中松平定信が幕府の実権を握っていた。定信の前の田沼意次は、蝦夷地を開発してロシアと交易しようと考えていたが、定信は対外関係に対しては慎重であった。

しかし、ラクスマン来航によって、北方に強い関心を示すことになる。大黒屋光太夫と磯吉は、江戸の薬草園で生涯を送って蘭学者などと交流があり、日本の洋学の発展に大きく貢献した。

世界史上では、この直前にフランス革命が起こり、ロシアは直接的な影響を受けなかったたが、ロシアのヨーロッパへの武力進出、パーベル1世暗殺などがあり、ラクスマンがつくった日本との交渉の道すじは、1804年のレザノフの長崎来航まで生かされなかった。

 

国境標石

樺太日露国境第2天測境界標

1905(明治38)年、日本とロシアはポーツマス条約により、樺太北緯50度を日本とロシアの国境とすることに決定し、翌年から現地で共同による国境策定作業を行なった。これにより4個の国境標石が作られ、この2号が最初にポロナイ川上流に設置された。日本が国境標石を設置したのは、歴史上この時だけである。

1997(平成9)年に、ロシアの民間人が所有していたこの標石を根室の有志が入手し、北方領土問題解決のため、国境について考えてもらう資料とするため、根室市に寄贈した。

日本側からみた国境標石

ロシア側からみた国境標石

 

JR花咲線。

根室本線は、北海道滝川市の滝川駅から帯広市および釧路市を経て根室市の根室駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(幹線)である。このうち、釧路駅 - 根室駅間には「花咲線」(はなさきせん)の愛称が付けられている。

旭川と釧路を結ぶ幹線鉄道として北海道官設鉄道によって旭川、釧路双方から着工された。旭川側は1899年(明治32年)9月1日に旭川駅 - 美瑛駅間が、釧路側は1901年(明治34年)7月20日に釧路駅 - 白糠駅間が開業したのを皮切りに、1907年(明治40年)9月8日には狩勝トンネルの完成をもって、狩勝峠を含む落合駅 - 帯広駅間が開業。旭川駅 - 釧路駅間が全通し、釧路線となった。

1913年(大正2年)11月10日に、滝川駅 - 下富良野駅(現在の富良野駅)間の新線が開業し、起点を旭川駅から滝川駅に変更。線路名称は釧路本線となり、旭川駅 - 富良野駅間は富良野線として分離した。

以後は、釧路駅以東への延伸が行われ、1917年(大正6年)12月1日に厚岸駅、1919年(大正8年)11月25日に厚床駅、1920年(大正9年)11月10日に西和田駅、1921年(大正10年)8月5日に根室駅まで延伸して全通。同時に線路名称を根室本線に改めた。

根室駅。1921年(大正10年)8月5日:鉄道省根室本線(同日、釧路本線を改称)の西和田駅 - 当駅間延伸に伴い開業。

日本最東端の駅だったが、1929年(昭和4年) - 1959年(昭和34年)には根室拓殖鉄道の歯舞駅に、1961年(昭和36年)以後は新設された東根室駅にその座を譲っている。有人駅・終端駅としては当駅が日本最東端に該当する。

 

伊号第二十六潜水艦。大日本帝国海軍の伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の7番艦。

1939年6月7日に呉海軍工廠で起工。1940年(昭和15年)4月10日に進水、1941年(昭和16年)11月6日に竣工。竣工と同時に横須賀鎮守府籍となり、第六艦隊第1潜水戦隊第4潜水隊に編入された。

太平洋戦争開戦時には第六艦隊第1潜水戦隊第4潜水隊に所属。1941年(昭和16年)11月19日、「伊号第二十六潜水艦(以下伊26)」は横須賀から出撃した。「伊26」はまず北上し、キスカ島、アダック島、ダッチハーバーなどの偵察を実施。それから南下し、開戦時にはハワイの北東1000浬付近にあった。

12月7日、北緯33度42分 西経145度29分のサンフランシスコ沖300浬地点付近で、タコマからホノルルへ陸軍向けの輸送物資を搭載して10ノットで航行中の「シンシア・オルソン」を発見し、追跡真珠湾攻撃の開始と同時に同船を攻撃しようとした。12月8日、開戦時刻をもって浮上し砲撃。「伊26」の砲撃の開始は真珠湾攻撃より約20分早かったという。その後再度潜航。日没後に浮上したときには「シンシア・オルソン」の姿はなくなっていた。「シンシア・オルソン」撃沈は日本海軍史上最初の潜水艦による敵艦船撃沈であった。

1944年10月13日に呉を出港し、フィリピン方面に向かった。24日、レイテ島南東沖に移動し、レイテ沖海戦に参加。25日、レイテ島近海で米空母4隻を発見したとの報告を最後に消息不明。艦長の西内正一少佐以下乗員105名全員行方不明(戦死認定)。

11月21日、レイテ島東方沖で亡失と認定され、1945年(昭和20年)3月10日に除籍された。

撃沈総数は10隻、計56,226トンにのぼり、撃沈隻数、トン数ともに帝国海軍潜水艦の中では第3位を誇る。また、商船と空母2隻、計44,054トンに損傷を与えた。

シマフクロウ。 Bubo blakistoni。

体長70センチメートル、翼を広げると180センチメートルもある世界最大級のフクロウである。北海道、北方四島国後島、極東ロシアなどに分布し、主食は魚で、大きな木にできた樹洞に卵を産んで雛を育てる。アイヌの人たちからは村の守り神”コタンクルカムイ”として崇められている。

河川改修などの影響により餌となる魚が減少したこと、森林が伐採され樹洞のできる大木がなくなってしまったことなどにより、その数を減らした。現在、北海道では140羽ほどしか生息していない絶滅の心配されるフクロウで、環境省のレッドリストでは絶滅の恐れの最も高い絶滅危惧IA類に指定されている。シマフクロウを守るため、河川の環境を改善したり、樹洞の代わりとなる巣箱を架ける活動が続けられています。当館にはシマフクロウの成鳥、亜成鳥の剥製の他、全身骨格標本、生後4日後の雛の剥製など豊富な資料が揃っている。

根室市歴史と自然の資料館⑤根室と千島のアイヌ文化