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福島県 白河市歴史民俗資料館②建鉾山祭祀遺跡 白河国造 白河舟田・本沼遺跡群 白河関 芭蕉

2024年07月29日 16時07分57秒 | 福島県

白河市歴史民俗資料館。福島県白河市中田。

2024年6月1日(土)。

白河舟田・本沼(もとぬま)遺跡群。

白河舟田・本沼遺跡群は、下総塚古墳・舟田中道遺跡・谷地久保古墳・野地久保古墳の4遺跡で構成される。周辺に展開する関和久官衙遺跡(推定白河郡衙跡)・借宿廃寺跡からなる古代の白河官衙遺跡群と合わせて、古代白河郡の中心地を示す遺跡群である。

下総塚古墳【しもうさづかこふん】

阿武隈川右岸の、標高315mほどの河岸段丘上に立地する。江戸時代から「下総塚」の名が付された古墳である。昭和7年(1932)に岩越二郎(いわごえじろう)が石室の測量を実施、平成8・9年(1996・1997)にはほ場整備事業に伴う発掘調査、さらに平成12~14年には、国史跡指定を目指して確認調査が実施された。調査の結果、本古墳は基壇を有する前方後円墳で、墳長は71.8mを測り、横穴式石室を埋葬施設とすることが明らかとなった。年代は、出土遺物などから6世紀後半に位置づけられる。

古墳の規模・形状、埴輪の存在から被葬者は文献にみられる「白河国造(しらかわくにのみやつこ)」の可能性が考えられる。

白河国造は、天孫族の少彦名神の後裔である葛城・鴨氏族系の玉祖氏・鏡作氏と同族で東山道系の国造では、阿尺国造・思太国造・伊久国造・染羽国造・信夫国造の同族とされる。

舟田中道遺跡【ふなだなかみちいせき】

遺跡は下総塚古墳と同じ河岸段丘上に立地する。平成8~11年にほ場整備事業に伴い発掘調査を実施し、古墳時代から平安時代の集落跡とともに、一辺約70mの溝で区画された豪族居館跡を確認した。

居館跡の区画溝は、辺の中点やコーナー部に張り出しを有する。区画溝の内部には、柵列が存在し、さらにその内部には竪穴住居跡などが数棟存在している。

居館跡の時期は、区画溝から出土した遺物により6世紀後半~7世紀前半頃に位置づけられ、下総塚古墳の被葬者の次代を担った「白河国造」の本拠と考えられる。

谷地久保古墳【やちくぼこふん】

阿武隈川の左岸、標高350mほどの南に面した谷部に位置する。

大正15年(1926)に岩越二郎が石室を測量、昭和58年には関西大学考古学研究室が測量調査を実施している。平成13・15年には、市教育委員会が国史跡指定を目指した内容確認調査を実施した。

調査の結果、近畿地方の終末期古墳に共通した特徴を有する、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)を埋葬施設とし、墳形は二段築成で築かれた直径17mの円墳であることが明らかとなった。

古墳の時期は、横口式石槨を持つ古墳の例を参考として、7世紀後半~8世紀初頭頃に位置づけられる。被葬者については、古墳の構造の特異性などから、古代白河郡の郡司などの盟主層と考えられる。

野地久保古墳【のじくぼこふん】

谷地久保古墳の南東450mに位置し、東に張り出す丘陵の先端部に立地している。

平成16年に発見され、平成20年に市教育委員会が調査を実施した。墳丘の上部及び東側は削平されているが、墳丘に葺石をもつ上円下方墳(じょうえんかほうふん)であることが判明した。下方部の規模は一辺16m、上円部直径10mを測る。

谷地久保古墳と同様に横口式石槨を埋葬施設としており、当地域では同じ谷に特異なあり方を示す古墳が複数存在することは、この地が古代白河郡における盟主層の墓域であった可能性が考えられる。

 

このほかに、次に見学する予定だった白河結城氏の本城跡である国史跡・白川城跡の展示があった。歴史民俗資料館から近い場所にあるので入館時にアクセスを尋ねたら、出るときに受付の男性職員が地図をプリントして詳しくアクセスを教えてくれた。

読書メモ「石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群」佐久間 正明著 2023.02 

福島県 白河市歴史民俗資料館①縄文土器 人面付弥生土器 天王山式土器 


北海道別海町 国史跡・旧奥行臼駅逓所(おくゆきうすえきていしょ)

2024年07月29日 10時09分27秒 | 北海道

国史跡・旧奥行臼駅逓所(おくゆきうすえきていしょ)。北海道別海町奥行(おくゆき)。

2022年6月14日(火)。

根室市花咲港の国天然記念物・根室車石(くるまいし)を見学後、15時35分ごろに出発して、別海町の国史跡・旧奥行臼駅逓所の見学に向かった。「旧奥行臼駅逓所」は予定しておらず知らなかったが、ポスターで存在を知った。問題は内部見学が16時30分までと時間が切迫していたことで、急いで走ると16時15分ごろに着いた。受付に入ると、「今からか」といぶかしげな反応をされたので、「16時30分までには出ますよ」と返事をしておいた。

 

旧奥行臼駅逓所は、明治43年(1910)から昭和5年(1930)までの間、人馬の継ぎ立てと宿泊、物資の逓送等の便宜を図った施設で、北海道東部の根室と別海の間にあり、根室湾から約9㎞内陸の別海町奥行臼に所在する。

旧奥行臼駅逓所は、根室方面の別当賀駅逓所、別海方面の海沿いの別海駅逓所の間に設置され、この両駅逓所との間の人足・馬匹による継立と旅客の宿泊・休憩の対応を行う駅逓所として、根室と別海の海岸部・内陸部を結ぶ役割を果たした。

近代、北海道では、交通不便の地に駅舎や人馬等を備え、宿泊・輸送等の便宜をはかるため駅逓所が各地に設けられた。駅逓の数は北海道内陸部への入植と道路の整備に合わせて増加し、大正期に最盛期を迎えた。しかし、入植地に集落が形成されて市街化が進み、鉄道や民間施設が整備されていくとその役割は低減し、大正10年(1921)の270カ所を頂点として駅逓数は減少、昭和22年に全廃された。

駅逓所が置かれた奥行臼は、北海道東部の明治30年以降に和人の入植が始まり、内陸部の原生林を利用した薪炭業と広大な入植地を活かした牧畜業が主な産業であった地域である。

明治43年の駅逓所設置に際し、駅逓取扱人となった山崎藤次郎(1860~1940)は新潟県に生まれ、明治23年に北海道根室町に移住した人物である。奥行臼に入植して広大な未開地を借受けて牧畜業を経営、後に200万坪の土地と200頭を超える馬を有する大牧場主となった名望家であった。

駅逓所駅舎には山崎の自宅が使用され、明治末から大正初期の増築を経て、大正9年(1920)には客室として2階建ての寄棟が増築され、物資運搬等の拠点として活動した。しかし、大正14年には殖民鉄道根室線が開通し、また内陸部への入植が進んだことから、奥行臼駅逓所はその必要性が次第に薄れ、昭和5年に廃止された。廃止後は山崎家が経営する旅館として存続し、戦後に至った。

駅逓所時代を偲ばせるものとして、駅舎1棟、馬屋2棟、倉庫2棟が現存する。このうち駅舎は、木造寄棟造(一部切妻造)二階建て建物で、面積は1階284㎡、2階71㎡の規模であり、駅逓最盛期の大正時代の趣きを残し、平成6年に北海道指定有形文化財に指定されている。

これら建物の周囲には、旧道や駅逓所時代以来の牧草地が広がり、往時の歴史的景観をいまに良く伝えている。また、駅逓所時代の文書、調度品等も多数残されている。

駅逓所の建物は増改築の時期によって大きく3つの棟に分けることができる。創建当初の痕跡が残っている可能性が考えられる平屋部分を「中央棟」、1920(大正9)年に増築した 2 階建ての寄棟部分を「北棟」、1941(昭和16)年に増改築され 2 階建てとなった切妻屋根部分を「南棟」とよぶ。

駅逓は東面し、中央棟は平屋建、北棟と南棟は 2 階建とする。南棟は主として管理棟の機能、中央棟及び北棟は主として客室棟の機能を担う。

南棟の 1 階は、居間を中心に日常の維持管理に必要な各部屋を配置する。2 階は物置及び居住者の個室が 2 室並ぶ。中央棟は中廊下の東西に和室を配す。東側の和室は「茶の間」「仏間」とし、管理機能の一部とする。北棟は東側に 10 畳の和室及び入側縁、中廊下を挟んで西側に 6 畳と 8 畳の和室を並べ、1・2 階とも同平面(2 階の 8 畳はトコ、床脇を設ける)とする。1 階の北側には洗面所及び便所を張出す。南北に連続する 3 棟は 2 階をもつ北棟と南棟を妻入とするため、屋根の棟は「H」状に納まる。

部屋名称については、昭和 60 年(1985)年に作成された駅逓所案内用パンフレットに掲載されていた図面を基に設定されている。記載が無かった南棟 2 階については「和室」とし、同じ部屋名称には便宜上通し番号が付けられている。

1900(明治 33)年に策定された北海道拓殖十年計画では、駅逓所は 10 年間で 120 箇所を新設し、必要の無くなった駅逓所 26 箇所が廃止されることとされた。また同年、「官設駅逓所取扱規程」は「駅逓所規程」へと変わり、取扱人業務の内容も新しくなった。駅逓取扱人は、20 歳以上の男子で土地や家屋をもち、駅逓所経営上必要な資金を有し、人馬車継立営業者宿屋営業者の資格を有していることが必要条件とされた。この規程制定以後、駅逓制度は一部改定されるが大きな変化はなく、駅逓所の設置方針は官設主義に徹することになる。

内陸部への入植と道路の開削整備推進につれて駅逓の任務もその重要性を増して駅逓所の設置も増加し、大正期にはその最盛期を迎えた。1921(大正 10)年には全道で 270 箇所の駅逓所が存在していた。

その後、地域ごとに入植者の集落化が進み、旅宿や運送業者が芽生え育成されたのに加え、鉄道や軌道の敷設が計られて、駅逓制度はその使命が薄れていった。このため北海道庁では 1942(昭和17)年に、以後 5 ヵ年で漸次制度の縮小を図り、駅逓制度の廃止方針を立て、1947(昭和 22)年3 月をもって廃止 ( 千島を除く)されるに至った。

 

奥行臼の歴史。

旧奥行臼駅逓所は、別海町東部、国道 243 号線と国道 244 線が交差する奥行地区にある。

「奥行臼」とは、アイヌ語の「ウコイキウシ Ukoiki ushi」が元になった地名で、その意味は「争闘セシ処」であり、「根室ポロモシリ村ノアイヌ厚岸アイヌト戦ヒシ処」であったという。

この奥行臼地区に和人が入り始めたのは、北海道国有未開地処分法が制定された 1897(明治 30)年以降のことである。住民は薪炭業を営む出稼ぎ寄留民が大勢を占めていたが、その後製炭を業とする者の中から定住者が現れ、奥行臼駅逓所が開設された頃には 17 戸 76 人が定住するに至った。また 1907(明治 40)年には奥行臼簡易教育所も開設された。

駅逓所の開設と駅逓取扱人山崎藤次郎

1910(明治 43)年 9 月 15 日、奥行臼駅逓所が開設されて駅逓業務を開始した。隣の駅逓所は別当賀駅逓所 ( 現根室市別当賀)と別海駅逓所(現別海町本別海)であり、奥行臼駅逓所からはそれぞれ 5 里 15 町、3 里 18 町の距離があった。奥行臼駅逓所の駅舎は駅逓取扱人山崎藤次郎の自宅がそのまま使われ、官馬 3 頭が配備された。

新潟県出身の山崎藤次郎は、1890(明治 23)年に北海道根室町に移住し、薪炭業を営んでいたが、牧畜の適地としての将来性に目を付けて 1903(明治 36)年に奥行臼に移住した。当初は牛を飼育していたが、1910 年に牛の価格が暴落したため、所有していた 20 頭の牛すべてを売却して牝馬と入れ替え、馬の繁殖に専念した。駅逓所を開設したのはまさにこの転換点の年であった。藤次郎の繁殖改良した馬は高値で売られるようになり、ますます馬の数が増えたために隣接地を購入し、180万坪の放牧地、20 万坪の牧草地、200 頭を超える馬を抱える大牧場に成長した。

薪炭業を開始した頃から屋号「山ト」を用い、牧場や後に駅逓所から衣替えした旅館にもこの屋号が用いられて山ト牧場、山ト旅館となった。広大な土地と数多くの馬匹を擁する山崎藤次郎は「大和の殿様」とも言われ、1940(昭和 15)年に死去するまで、地元の名望家として尊敬を集めていた。

奥行臼の小学校がこの屋号から取って大和小学校となり、駅逓所のすぐそばに作られた神社も大和神社となったこともその現れである。

この山崎牧場の発展に合わせるように、駅逓所の建物も増築を重ねていった。当初桁行 5 間であった平屋の自宅兼駅逓所は、間もなく 6 間に増築され、さらに 1920(大正 9)年には 6 間半に増築されるとともに、二階建の寄棟が増築された。この寄棟は現存し、駅逓制度全盛期の威容を誇っている。

奥行臼駅逓所の廃止

1925(大正 14)年に殖民軌道根室線が開通し、さらにより内陸部への入植が進んだため、奥行臼駅逓所はその必要性が薄れ、1930(昭和 5)年に別当賀駅逓所とともに廃止された。駅逓所としては廃止されたものの、山崎藤次郎はその駅舎を「山ト旅館」としてそのまま旅館業を続け、むしろ駅逓所時代よりも大変な賑わいを見せたという。また、1933(昭和 8)年には省線標津線が開通し、奥行臼にも駅が設置され、駅周辺には多くの建物が作られた。

戦後、薪炭業は姿を消し、奥行地区の産業も現在の別海町の主要産業である酪農業へと転換していった。1963(昭和 38)年には奥行臼を始点とする村営軌道が開通したが、自動車の普及に伴いわずか8 年で廃止された。1975(昭和 50)年には大和小学校も廃校となり、さらに 1989(平成元)年にはJR標津線も廃止され、旧奥行臼駅逓所周辺にあった民家や商店などは現在ほとんど姿を消している。

駅逓所廃止後も、山崎藤次郎の子孫が酪農業を代々引き継いでいったため、駅舎のみならず、広大な放牧地や馬小屋、推定樹齢 500 年と言われる別海町指定文化財「オクユキウスの大楢」などの樹木や景観、道路跡など、駅逓所時代のものが数多く残っている。

奥行臼駅逓所は、北海道第一期拓殖事業計画が実行に移される中、北海道の駅逓史における最盛期にあった駅逓所であり、その最盛期のたたずまいを、今も残る馬小屋や道の跡などとともに現代にまで伝えてくれている。

 

16時30分ごろ、旧奥行臼駅逓所を出て、17時ごろ別海町の海沿いの道の駅「おだいとう」に着いた。

根室市 花咲灯台 根室車石