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有田芳生「テレビで『統一教会の摘発がなかったのは“政治の力”』と話したら、翌日から今日まで出演が一切なくなりました」

2024年07月25日 20時51分58秒 | 社会

「テレビで『統一教会の摘発がなかったのは“政治の力”』と話したら、翌日から今日まで出演が一切なくなりました」ジャーナリスト有田芳生が語る『誰も書かなかった統一教会』

yahoo news  2024//25(木)  集英社オンライン

有田芳生氏

安倍晋三元首相の銃撃事件から2年統一教会に関する報道は減っており、事件は忘れ去られようとしているが、教団と与党政治家の癒着、被害者救済などの問題は、実はほとんど解決されていない。教団を40年にわたって取材し続け、今年5月に『誰も書かなかった統一教会』を上梓し、教団の驚くべき実態を明らかにした有田芳生氏が、ノンフィクション作家の藤井誠二氏を聞き手に刊行記念イベントで語った、警鐘のメッセージ。

有田芳生氏が教団の驚くべき実態やタブーを明らかにした新刊『誰も書かなかった統一教会』

統一教会に「いやがらせ訴訟」をされたが勝訴

藤井(2024年)3月12日、統一教会からのスラップ訴訟に関して、ようやく教団側の請求が棄却され、有田さんの勝訴で終わりました。損害賠償請求に該当しないという裁判所の判断でした。

私はその裁判の事務局のお手伝いをさせていただいていて、この1、2年、よく喫茶店で「どうしようか」と密談しましたね(笑)。それから呼びかけ人を集め、寄附も募り、インターネットでいろいろな呼びかけもし、ほぼ手弁当で超強力な弁護団もついてくれて。それでも経費はかかるので、そのお金を集めるために奔走した日々でした。有田さんは裁判が終わって率直にどう感じていますか。

 

有田 まずそのスラップ訴訟、「いやがらせ訴訟」をされるまでの話をしておきたいです。

2年前の7月8日に安倍晋三元首相銃撃事件があり、奈良市の近鉄・大和西大寺駅前で撃たれて亡くなりました。

実行犯の山上徹也は、お母さんが1991年に統一教会に入信。おじいさんが建設会社を経営されていて、いわば資産家家庭だったのですが、統一教会にお母さんが1億円を超える献金をしたことで家庭が崩壊し、大学に進学したかった彼も諦めざるを得なかった。

彼のお兄さんは生まれたときからリンパ腫で、抗がん剤治療の副作用で片目を失明して、手術してもよくならず、神戸大学医学部附属病院で治療を受けたかったけれど、お金がなく、2015年11月に自殺してしまいました。

お父さんも1984年に自殺していて、その後、山上はお兄さんと、4つ下の妹さんと、お母さんと一緒に暮らしていたけれども、お母さんは信仰にのめり込んでしまって……。

それで彼は悩んで、広島県呉市の海上自衛隊で働くようになってから生命保険に入り、受取人を当時まだ生きていたお兄さんにして、山上自身も2005年2月に自殺未遂をしているんです。そういう背景があった。

安倍元総理銃撃事件が2022年7月8日で、3日後の11日に統一教会の田中富広会長が記者会見し、山上のお母さんが信者だったと認めたので、一気にテレビでも新聞でも報道が広がっていった。

そして僕がテレビに出るようになって、8月に日本テレビの『スッキリ』という朝番組に2日連続で出たときに発言したことが「名誉毀損である」と同年10月に教団から訴えられました

訴えられた翌日から今日に至るまで、僕はテレビ出演が一切なくなった。だから、教団は訴えることで目的を達成してしまった。その意味で「いやがらせ訴訟」は彼らにとって成功だったのです。

 

藤井 この手のスラップ訴訟はたくさんあって、たとえば僕の音楽ライターの友人もJASRACの問題点を雑誌でちょっと書いた程度でJASRACから訴えられ、2人なんですけど、莫大な金額を要求された。友人は長い時間の末、勝訴したのですが、裁判経費がものすごくかかり、精神が削られて疲労困憊してました。

今回は、有田さんを筆頭に、八代弁護士、紀藤弁護士、本村弁護士ら4人が統一教会から訴えられました。

 

有田 その日の日本テレビの『スッキリ』の特集は、東京都八王子市、選挙区で言うと東京24区から立候補している萩生田光一議員安倍さんと非常に親しい彼が、統一教会とも非常に親しかったという事実が明らかになっていた。

でも萩生田さんはそれを曖昧にしていたんです。だから番組で僕は「そんな曖昧にしていていいんですか? 統一教会というのは霊感商法などもやっている反社会的な集団です。関係を断ち切らなきゃいけないんじゃないですか?」というふうに司会の加藤さんの横に立ってしゃべっていました。コメンテーターも4人ぐらいいて、萩生田さんと統一教会がテーマだった

40分の特集の中で、僕のそのコメントはたった7秒です。裁判所は8秒だって言ってるけど。それについて「名誉毀損だ」と訴えられて、訴えられた翌日からテレビ出演がなくなったんです。

 

藤井 テレビも腰が引けてますよね。統一教会に訴えられたということ自体をニュースにするべきなのに、ここでも何らかの統一教会とずぶずぶの関係だった「政治の力」への忖度を考えてしまいます。

 

有田氏がテレビから”消えた”『モーニングショー』での顛末

有田 今思い出したんですが、『スッキリ』より前、2022年7月18日にテレビ朝日の『羽鳥慎一 モーニングショー』に呼ばれて、統一教会の反社会性の問題についてしゃべっていて、オウム真理教事件のときに警察庁・警視庁の幹部から僕が直接聞いた話をしました。

「オウムの次は統一教会を摘発するんだ」という話があったんです。でも結局それは立ち消えになった。10年ほどたって、警視庁の幹部2人と池袋で酒を飲んでいたとき「あれは何で摘発できなかったんですか」と尋ねたら、「政治の力だよ」と言われた。

僕は直接聞いた話なので、それを番組でしゃべったんですが、玉川さんも羽鳥さんも「う~ん」と難しい顔になって……。その発言をした翌日も統一教会特集をやるから、僕は出演依頼を受けてたんです。でもそれがなくなった

テレビ朝日の社長さんや役員から圧力がかかったのではないでしょうか。いわば「政治の力」だと思っています。テレビのコメンテーターは14年やっていましたが、以前は、こんなていたらくじゃなかったですよ。

僕は統一教会の信者にも訴えられたし、オウム真理教の信者にも訴えられた。橋下徹さんにも訴えられたし、いろんな人に訴えられていますが、全部勝訴しています。伊藤詩織さんに対してとんでもない事件を起こした山口敬之さん(元TBSワシントン支局長)にも訴えられて、勝っています。

そういういろんなことがあっても、ずっとコメンテーターとしてテレビに出ていた。統一教会についても、40年も取材しているから、お伝えしたいことがいっぱいある。だけど次の日から一切出演がなくなった。こんなことは、昔はなかったです。

 

藤井 僕も本当に不思議でしたね。安倍さんが撃たれてすぐ山上に対する報道がワーッと始まっていて、当然、メディアも一体になって統一教会の責任を追及する流れになると僕も思っていました。

この空白の30年を埋めるような。だから有田さんが連日テレビに出るようになると誰しも思ったはずなのに、こういうふうになったのは一体何なのか? テレビと政治の関係の中でこの期に及んで、まだ統一教会は暗に力を持っているのかと。

 

有田 思い出して、腹が立ってきた。テレビ朝日で、「政治の力で統一教会の摘発がなくなった」って言ったけど、その証拠も今回の本に書いてあるんです。捜査資料を引用して。

 

藤井 『誰も書かなかった統一教会』に内部資料がふんだんに引用してある。これを見ると統一教会がいったい何をしていたのかがわかり驚愕しますし、政治家にカネをバラまいて、その政治家がテレビに圧力をかける、あるいはテレビの上層部が忖度する。そんな構図はさも当たり前になっていたと考えるべきだということが、今回の本で再確認できました。

 

有田 腹が立ってきたというのは、テレビ朝日でそういう発言をして、その後、日本テレビに呼ばれてたんですが、日テレでプロデューサーが僕のところに来て、「有田さん、“政治の力”は言わないでください」と。

それで僕が「それは番組プロデューサーの判断なんですか」と聞くと、「違う」と。「上のほうが……」って言うんです。つまり日テレの上層部です。もう、そういう体制になっちゃった。昔はそんなことなかったのに。

 

今回の本では誰も書かなかったタブーを書いた

有田 今、統一教会の報道はほとんどなくなりました

 

藤井 解散命令請求の話とかをたまに報道するくらいですね。

 

有田 2年前の7月8日に安倍さんが銃撃を受けて、みんなびっくりしたわけですよね。僕もびっくりしたし、皆さんもびっくりした。

その後、僕は去年の4月に、山口4区という安倍さんがずっと当選していた選挙区で、安倍さんの後継議席を争う衆議院補欠選挙に出たんです。そのときに、下関の20代の人たちに話を聞いたんです。

「(安倍さんの事件の前から)統一教会って知ってた?」と聞くと、誰も知らないんです。創価学会とか幸福の科学のことは知っている、でも統一教会って初めて聞いた、と。そういうギャップができている。

これまで僕も7冊ぐらい統一教会の本を出しているけども、他にも本はたくさん出ているんです。いろんな弁護士さんが書いたものとか。だけど、今回の『誰も書かなかった統一教会』という本では、これまでの本で全く触れられなかったことを書いておきたい、ということで。

僕は韓国にある統一教会の本部にも入ったし、他の本には書いてないことをいくつも書いています。ひとことで言って、タブーを書いているんです。

なぜ「誰も書かなかった統一教会」かというと、この2年間、自民党の政治家と統一教会の関係や、宗教2世の悩み、そして高額献金という話は新聞でもテレビでもよく報じられてきた。しかし僕の目から見ると、それは統一教会のごくごく一部にしかすぎないという思いがあるんです。

 

藤井 有田さんが立候補すると決意をお聞きしたとき、1983年に新潟3区から小説家の野坂昭如さんが立候補したことを思いました。1976年に田中角栄氏がロッキード事件で逮捕された。

僕はその時点では10代の小僧でしたが、圧倒的な「田中信者」の真っ只中で「反角」の象徴としてかっこよかった。有田さんもそういう統一教会と安倍一族の関係を知らない世代の人たちに実態を知らしめるという意味で、すごくインパクトがあったと思います。

それにしても『誰も書かなかった統一教会』では統一教会の「軍事力」の実態が克明に描かれていて、驚きましたこの教団はいったい日本で何をしようとしていたのだろうかと

 

教団は散弾銃を大量輸入し、「軍事部隊」も持っていた

有田 散弾銃輸入の話があります。1968年に、韓国の統一教会系企業の「統一産業」が製造した空気散弾銃が2500丁も輸入されていたんです。これは空気銃といっても、小型拳銃より殺傷力が高いものです。

日本の信者たちが、この輸入された散弾銃に関して、1968年の10月、11月、12月の3か月にわたって、全国で最寄りの警察署に所持許可申請を出したんです。「散弾銃を持ちたい」と。

 

藤井 一斉にですよね。同じタイミングで

 

有田 一斉に。それで警察は「統一教会の信者たちは何をしようとしているんだ?」と思って注目した。さらに、韓国の統一産業と日本の統一教会系の商社「幸世物産」が、その空気散弾銃を、さらに1万5000丁も輸入しようとした

それで衆議院でも問題になり、1971年3月に共産党の林百郎議員が、衆議院の地方行政委員会で質問しました。「統一教会が1万5000丁の散弾銃を輸入しようとしていたが、どういうことですか」と。

それに対して、当時の警察庁長官・後藤田正晴さんが答弁に立って「幸世物産と国際勝共連合はきわめて密接な関係がある」と言って問題点も指摘し、法律を改正したので、1万5000丁の輸入はできなくなった。

こういう国会での追及は何度もあったんです。そういうことが社会問題になった時期がある。しかしこの2年間、それをどこも報道していません。

この散弾銃輸入事件より少し前の1964年に早稲田大学に原理研究会(正式名称・全国大学連合原理研究会、略称CARP)という統一教会の関連組織ができた。「ボランティア活動を通じて地域貢献をする」などと言って、実際は統一教会に勧誘するための組織。

このメンバーが韓国の統一教会本部に行き、統一産業にも行って、ライフルを持って写真に写っていて、これはネットにも載ってます。それで、日本に戻ってきて、山の中で射撃訓練をやっていた。訓練の手伝いをしたのは、自衛隊にいた統一教会信者。そういう歴史があるんです。

法改正で空気散弾銃は輸入できなくなったけれども、実はその後に別の空気銃を輸入するんです。それは鳥獣保護法などの法律に適合していたため、日本に入ってきた。

統一教会系の銃砲店は、北海道札幌から九州鹿児島まで、僕が確認しただけで24か所ある。今も東京の立川や名古屋市内にもある。そこで今も銃を売っているんです。

 

藤井 今もですか……。1987年に起きた朝日新聞阪神支局の襲撃事件が起きた時、警察は犯人候補を800何名か挙げて、統一教会員もそのリストにかなりの数が挙がっていたんですよね?

 

有田 ええ。1987年5月3日、憲法記念日、夜8時15分過ぎに、兵庫県の西宮市にあった朝日新聞の阪神支局が、目出し帽をかぶり銃を持った男に襲われて、小尻知博記者(29歳)が亡くなった。犬飼兵衛記者は右手の指3本を吹っ飛ばされた。

 

藤井 この事件の3日後に朝日新聞東京本社に届いた脅迫状と使用済みの散弾容器のことなども、有田さんはこの本に詳しく書いてますね。そのあたりの検証は迫力があります。

 

有田 はい。捜査資料の中には、さっき言ったように、全国各地にある銃砲店の一覧表、それから、この本に一部出した「統一協会重点対象一覧表」に信者の名前がずらっとある。

それを読んでいると、「統一協会の軍事部隊」とか、「勝共の非公然軍事部隊」とかがある。あるだけじゃなくて、山の中で訓練している人たちまでもリストアップされている。

だから、今報道されているように、単に「自民党とつながっている」とか「献金」「宗教2世」とか、それぞれ大事な問題だけど、それだけでなく「統一教会というのはこういうものだ」というのを知ってほしいんです。

 

藤井 誰しもオウム真理教にとても似ていると思うはずです。彼らは人々を殺傷して国家転覆を企んでいた。信者たちはその道具だったわけです。

最初はちいさな新興宗教だったものがでたらめな教義で人々からまさに「人生」を搾取していった。オウムと統一教会の類似点は専門家にもっと研究をしてほしいと思っていますが、何かを敵に見たてて、統一教会なら「サタン」になりますが、単なる教義や信仰から陰謀論的な大きなフィクションに、ある意味で無垢な人々を巻き込んでいく。そういった双子のような類似点を感じます。

カルトは世界中にありますが、こういった事例がなぜ日本で広がりやすいのか。統一教会の全貌というか、「統一教会の本当の姿」が証拠、ファクトを持って書かれている本なので、そこから私たちが生きる「陰謀論社会」とでもいうべきものにまで考えを巡らせてほしいと思います。皆さん、ぜひ読んでほしいと思います。

 

統一教会には政治家の「秘書養成講座」があり、いまも議員秘書になっている

――統一教会は今、「世界平和統一家庭連合」と名前が変わりましたが、山上事件の前に下村博文・文科大臣が法人格を付与したりとか、国家公安委員長とも関係があったりとか、宗教団体と政治家の癒着問題をどうやって解決したらいいと思いますか?

 

有田 統一教会と政治との絡み、2015年に下村博文さんが文科大臣のときに、統一教会は「世界基督教統一神霊協会」という正式名称を「世界平和統一家庭連合」に変えました。

これだと、宗教の匂いが全くしないわけです。以前の名称は「世界基督教」というのが入っているから宗教団体だとすぐわかるけど、名称変更で「これは宗教じゃない」というような印象が広がった

ただ、それに加えて、統一教会には国際勝共連合の他に100を超えるダミー団体、フロント団体など信者たちがやっている組織があるんです。

ですから、解散命令請求が確定して教団そのものがなくなっても、任意団体としては残ることができるし、関連団体の活動は何の制限もされません。そういう意味では変わらないと思います。理念も変わらないし、信者たちが政治家に工作するという使命も今も昔も変わってないから、それは続けていくでしょう。

たとえば今の文部科学大臣の盛山正仁さんは選挙に弱くて、兵庫県の彼の選挙区で応援した信者たちは、朝の8時から夜8時までずーっと電話をかけ続けたんです。朝から夜まで10人~20人ぐらいが

僕も選挙は何回もやりましたが、運動員を雇うにはお金が要る。政治家というのはお金がないと本当に苦しい。だけど統一教会の信者はタダで朝から晩までやってくれる。

僕も彼らに選挙妨害をされましたが、彼らは有田批判の号外なんかを東京の板橋とかでずっと配ったりしていました逮捕覚悟で選挙ポスターも破ってくれる(苦笑)。そんな便利な人たちって、普通いません。でも信者たちは、そこまでやる。「それが御旨のためだ、自分たちの目的のためだ」ということで昔からやっています。

この本に詳しく書きましたが、統一教会には1986年から組織的に「秘書養成講座」があって、これを受けた信者が、今も国会議員の公設秘書、私設秘書として入っているんです。そういう人たちが議員の横にいて議員たちを動かしたりするし、地域にいる信者たちはビラをまき、電話をかけまくり、ポスターを剥がす。何でもやるんです。

 

「政治の力」で警察を抑えるため毎月1億の対策費で政治家を操る

――統一教会の関連団体UPF(天宙平和連合)に安倍元首相がビデオメッセージを送って、それがきっかけで山上被告に撃たれましたが、政治にお金がかかるというのはあるにしても、被害者をたくさん出している団体の集会に政治家が参加したり、継続してお金を受け取ったりという行為は正当化されないと思います。それについて政治家さんには向き合ってほしいと思うんですが、有田さん、いかがでしょうか。

 

有田 UPFの集会に安倍晋三さんがビデオメッセージを出したことが直接のきっかけになって銃撃を受けていますが、その同じUPFの集会にトランプ前大統領がビデオ出演して、日本円にすると約5000万円もらっている、というのはアメリカの情報公開で出ています。アメリカの情報公開の仕組みでは、そういうお金まで明らかになる。

ペンス元副大統領、ポンペオ元国務長官らは、しょっちゅうその集会に出ていて、動機は明確にお金です。10分しゃべったぐらいで5000万円。異常です。それを統一教会の関連団体が出している。

安倍さんについては「お金は出してない」と関連団体は言っていますが、第一次安倍内閣で総理秘書官だった井上義行さんらの選挙のときには、ものすごく協力してもらっています。

8万票しかなかったのが、彼らの支援で16万票に増えて、参議院比例区で当選しました。統一教会はそういう形で支援をしているから、議員にとっては、こんなありがたいことはない。

しかし一方で「お金はどこから出ているのか?」と考えると、霊感商法で稼いだお金や、被害者に献金させたお金でしょう

久保木修己さんという統一教会の初代会長は、帝国ホテルに事務所を構えていて、そこに定期的に国会議員が遊びに来た。で、一緒に酒を飲んで、帰るときに1000万円ずつ渡していた、と言うんです。

これは、その場にいた信者の証言を、僕は聞きました。それは証言ですけど、僕は他に証拠を持っています。統一教会の2015年の内部文書です。この本にも書きましたが「対策費」というのがあって、毎月1億円です。何のために使うのか、内部の人に聞いたら「警察に強い国会議員などのために使う」と言うんです。「政治の力」を警察に行使するために。

それは韓国の統一教会が作った正式の内部文書です。

そんなお金を使うときには、当然領収書はもらえませんから、そういう見えない世界にどうメスを入れていくか? 本来ならば、オウム真理教の次に統一教会の強制捜査をやらなければいけなかったのです。

 

国会が動かないなら、被害者救済に自治体が動くしかない

有田 この本にも書きましたが、アメリカではフレイザー委員会報告書*みたいに議会がちゃんと「統一教会とは何か」というようなことを明らかにして対処しています。ですから、被害者救済のためには、そういうことも含めて、政治が動くしかないと思うんです。

*1978年11月に米下院の国際関係委員会国際機構小委員会が公表した「韓国の対米関係に関する調査」と題する最終報告書。ドナルド・M・フレイザー下院議員が委員長を務める小委員会が77年から1年半にわたって教団の実態を調査・分析。11か国の関係者に述べ1500回以上聞き取りし、米議会への召喚を123回、聴聞会を20回開き、当時の韓国政府(朴正熙軍事政権)の対米工作の実態や統一教会の組織構成、米政界工作などをあぶり出した

 

でも日本では国会が動かないから、県議会とか他の地方自治体の人たちが地域で相談活動をやったり、被害救済に弁護士も関わって、全国でやっていかなければいけない。でもこれは2年前にも言いましたが、それはオウムのときにも実現してないんです。僕らは何度も言ったけれど、政治が動かなかった。

統一教会についても、テレビも新聞ももう報道なんか、ほぼない。これがどんどん進む。また「空白の時間」が既に始まっていると思います。

そういう意味で、統一教会の被害者救済をどうするかというようなことを全国の自治体レベルでやっていかなきゃいけない。そのためには地方議員が大事です。国会の動きはとても鈍いから、やはり地方の、地元につながっている議員さんたちが問題意識を持って、被害者救済、相談活動などをやっていっていただきたいと思います。

 

*統一教会(世界基督教統一神霊協会)は、現在は、世界平和統一家庭連合と名前を変えています。新聞などは「旧統一教会」と表記しますが、本稿では歴史を尊重して、統一教会(Unification Church) と呼ぶことにします。


福島県白河市 小峰城歴史館 松平定信時代の白河城 白河結城氏

2024年07月25日 16時35分02秒 | 福島県

小峰城歴史館。福島県白河市郭内。

2024年6月1日(土)。

鏡石町の岩瀬牧場を見学後、南に進んで白河市の小峰城跡へ向かった。城跡の入口に近い駐車場奥に小峰城歴史館があるので先に見学した。

松平定信(徳川吉宗の孫で白河藩主久松松平家9代当主・子孫は桑名藩主)時代(1800年頃)の小峰城

松平定信時代(1800年頃)の小峰城(再現ジオラマ)。

小峰城は、興国~正平年間(1340~1369)の頃、白河荘を治めていた白河結城氏の結城宗広の嫡男親朝(別家小峰家を興す)が築いたことに始まるとされる。

白河結城氏の本拠は、小峰城から東へ約3kmに位置する白川城であったが、白河結城氏一族の内紛により、小峰氏が白河結城氏の当主となった永正年間(1504~1520)以降に、本拠が小峰城に移ったと推定されている。

下総国結城郡(茨城県結城市)を本拠とする結城朝光は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした「奥州合戦」(文治 5 年、1189)に従軍し、戦功をあげ、白河荘を賜ったとされる。ここが約 400 年に及ぶ結城氏と白河の関係の起点となった。

朝光は、鎌倉幕府の評定衆に就任するなど幕政に重きをなしたが、白河には赴任せず、本代官を白河に派遣していたと考えられている。

鎌倉時代中期以降になると、結城氏の庶子が白河に移住し始めるようになり、阿武隈川の南岸(南方)と北岸(北方)に郷村の開発を進めていったと推測されている。

白河結城氏の祖とされる祐広(朝光の孫)は 13 世紀後半に白河に下向したと伝えられ、その子宗広の時代まで「白河荘南方」の地頭職として大村郷(白河市大地区)をはじめとした 10 程度の郷村を支配しており、一方「北方」は一族の結城盛広が富沢郷(現在の白河市大信下小屋付近)を本拠とし、同様に 10 程度の郷村を支配していたとされる。

しかし、白河荘の中心である金勝寺(荒砥崎)は結城家惣領(下総結城氏)が領し、周辺の関(旗宿)・小田川・田島なども他の結城諸氏が支配していた。

このように鎌倉時代の白河荘は、結城氏という武士団の一族により現在につながる郷村の開発が行われていったが、この段階においては、祐広・宗広の白河結城氏はまだ結城一族のうちの一家という状況であり、地域に台頭するには至っていなかった。

白河結城氏が台頭するのは、祐広の子、宗広の時代である。宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、鎌倉を攻める新田義貞らに呼応して幕府を滅亡に追い込んだ。後醍醐天皇の信頼を得た宗広は結城家の「惣領」となるよう命じられ、天皇に反旗を翻した足利尊氏と戦ってこれを破り、天皇から「公家(天皇家)の宝」とまで賞賛されている。

その後、天皇主導の政治(建武政権)に反感を持つ武士層を糾合して勢力を盛り返した尊氏は、後醍醐天皇を吉野に追いやり、後醍醐天皇の南朝と尊氏の北朝が対立する南北朝内乱時代を迎えるが、宗広は一貫して南朝側につき、南朝勢力の立て直しを図ろうとした。

しかし、南朝勢力の退潮により宗広の子親朝は尊氏による北朝・武家政権への転身を図り、家の存続に腐心した。この建武元年(1334)から明徳 3 年(1392)の約 60 年にわたる南北朝内乱期を経て、白河結城氏は白河荘全体を掌握・領有した。

また、南朝後醍醐天皇・北朝足利尊氏の両政権から福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職に任じられ、その職権を背景に、室町時代には奥州南部から北関東にまで勢力を伸ばし、室町幕府やその出先機関である鎌倉府から南奥の雄として認識されるに至った。

南北朝内乱期を経て室町時代中期に至る時代は、白河結城氏がその勢力を最大に伸ばし、北関東から南奥にかけての諸勢力の盟为的存在として君臨した時代であり、白河を中心とした南奥地域が政治的にも安定した時代であった。

政治の安定は文化の発展をもたらした。連歌師宗祇は白河結城氏の当主、直朝に招かれて白河に下った際の出来事を「白河紀行」として残しているほか、文明 13 年(1481)春に白河結城氏の氏神、白河鹿嶋神社で行われたいわゆる「白河万句興行」は当主である政朝が催した連歌興行で、結城一門だけでなく家臣団も連歌の嗜みを身につけていたことが分かる。

応仁元年(1467)に起こった応仁の乱をきっかけにして全国に波及した争乱状態(戦国時代)は白河結城氏にも及んだ。永正 7 年(1510)に起こった「永正の変」は一族の小峰氏が惣領の結城政朝を那須に追放した事件であり、小峰氏の血統による新たな「白河結城氏」が創設された出来事とされている。

この争乱により、白河結城氏の周辺勢力への影響力は失われ、白河の南東部は常陸の佐竹氏、北西部は会津の葦名氏、北部では伊達氏が勢力を拡大するとともに、白河結城氏の支配領域は徐々に狭まり、佐竹氏、葦名氏を経て最終的には伊達氏に従属するに至った。そして天正 18 年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置で白河結城氏は改易となり、約 400 年にわたる白河結城氏の白河地方の支配は幕を閉じた

白河結城氏が奥羽仕置で改易されると、白河は会津を領した蒲生氏郷の領地となり、家臣の関一政の支配による会津領の「支城」時代となる。天正 18 年(1590)から寛永4 年(1627)までの約 40 年にわたり、領主は蒲生氏-上杉氏-蒲生氏(再封)と変遷した。再度の蒲生時代(1601~27)に城郭の改修と町割がある程度進められた。近年「慶長古図」とみられる絵図が発見され、城郭には土塁(一部には石垣)が巡らされ、城下町の形も基礎的な部分は成立していることが明らかとなった。

これにより、初代白河藩主丹羽家の小峰城の大改修と町割の整備以前に、基礎的な城郭と町割が形成され、その形を基礎として丹羽家が城郭を大きく改修し、現在の形につながる町を町割したという二つの段階を経て、白河の城郭と城下町が形成されたといえる。

寛永 4 年(1627)、会津藩主蒲生忠郷が嗣子の無いまま死去し、領地を没収されたことにより会津藩の領地の再編がなされ、白河は 10 万余石をもって白河藩として独立した。この初代白河藩主となったのが丹羽長重である。

長重は織田信長の重臣で安土城造営総奉行を務めた丹羽長秀の子で、豊臣政権下では領地を削減され、関ヶ原合戦では改易されてしまうが、のちに大名として復活して転封を重ね、白河藩に封ぜられたのである。

長重はすぐに城郭改修に取り掛かり、4 年の歳月をかけて寛永 9 年(1632)に小峰城の大改修を完成させた。これにより、小峰城は東北地方にはまれな石垣を多用した強固な城郭に変貌を遂げた。

この改修は幕府の命であるともされ、「奥州の押さえ」として北の諸大名へ備え、江戸の防衛の一翼を担う重要な地と認識されていたことがうかがえるものである。

この地理的重要性は歴代の藩主にも認識されており、幕末には戊辰戦争において奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が小峰城の掌握を巡って戦いを繰り広げている。

長重は城下町の町割も行い、城下の水路を設けるとともに、「大工町」「金屋町」などの職人に関わる町を置き、現在の白河まで約 360 年にわたりほぼそのままの形を伝える町割を行った。

丹羽長重の死後、嫡子の光重が家督を相続し、のち二本松に転封されてからは譜代・親藩の大名のみが封ぜられ、榊原・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部の 7 家 21 代の大名が白河藩主を務めた。

目まぐるしく入れ替わった白河藩主の中で、最も長い 82 年(4 代)にわたって白河を治めたのが松平(久松)家であり、中でも白河に大きな功績を残したのが松平定信である。定信は、徳川将軍家の一門、田安宗武の七男として生まれたが、17 歳の安永3 年(1774)に松平定邦の養子となり、天明 3 年(1783)に家督を相続した。

相続直前より東北地方には「天明の飢饉」と呼ばれる大規模な飢饉が発生したが、定信は米穀の確保などの迅速な対応を図り、領内からは飢饉による餓死者が出なかったと伝えられる。

老中田沼意次とその一派の失脚後の天明 7 年(1787)、老中に抜擢された。翌年には幼い将軍家斉(11 代)の補佐も兼ねた定信は「寛政の改革」を断行し、幕府の立て直しに尽力した。改革は一定の成功を収めたが、定信は寛政 5 年(1793)に老中を退き、以後は隠居する文化 9 年(1812)まで約 20 年にわたり白河藩政に専念することになる。

荒廃した農村の復興にも力を注ぎ、飢饉対策として、米穀を貯蔵させる郷蔵の設置、人口増加策として間引きの習慣を改めさせた。間引きの影響で領内には女子が尐なかったため、越後から女性を招いて資金を支給し、領内の男性と婚姻させた。また、子供が生まれると養育金を支給するなどの対応策の結果、10 年で 3,500 人の人口増の成果がみられた。

諸産業では、専門家を招いて技術を取り入れ、町人に織物や漆器、製茶、和紙、キセル製造などを行わせ、織物などでは希望する下級家臣の妻女にも行わせたという。

定信の文化芸術の素養は、和歌や絵画、書、執筆活動をはじめ、茶道、雅楽、国学、蘭学などにまで多岐にわたり、当代一流の文化人としても知られている。例えば「集古十種」(全八十五巻)は、古物の価値を見出し、全国の古器物等を調査して日本初の文化財図録として編纂・出版したものであり、この他にも「古画類聚」等の古画の研究を行い、焼失した京都御所の調査を実施して古制に則り再建したことは故実研究の成果の一端である。

幕府に関することでは、幕府の公式記録である「徳川実紀」、大名、幕臣の系譜集「寛政重修諸家譜」編纂のきっかけをつくるなど、日本史上重要な文化的事業も多い。

一方、白河藩における文化事業も数多くあげられる。定信は、江戸・国元である白河で合計 4 箇所の庭園と「南湖」を築造している。そのうち現在唯一残る南湖は、定信の「士民共楽(武士と庶民が共に楽しむ)」の理念をもとに、庭園の要素を取り入れたもので、当時造られた大名庭園と異なり、場所を仕切り、囲む柵が設けられず、いつでも誰でもが利用できる場所であった。

また、領内にある「白河関跡」の場所が長い間不明となっていたのを、古文献の調査や古老への聞き取りをもとに現在地が白河関跡であると断定し、あるいは領内の名所古蹟について調査した「近治可遊録」を編纂させた。定信の跡は子の定永が相続し、松平家は文政 6 年(1823)に桑名に転封となった。

この転封は桑名の松平(奥平)家を武蔵国忍に、忍の阿部家を白河に移すという、いわゆる「三方領地替」の形であった。

こうして白河に移った阿部家は、3 代将軍徳川家光の時代に阿部忠秋が老中となって以来、計 5 人の老中を輩出した譜代大名の名門であったが、当時は老中の職に昇進する前に死去する当主が続いており、白河転封後にも早世の当主が続き、あわせて財政難や凶作による飢饉などが続いたため、藩主主導により一貫した方針のもとで藩政を行うことが困難であった。

しかし、幕末に一族である旗本阿部家から養子に入り、藩主となった阿部正外は、旗本時代には孝明天皇の妹である和宮と 13 代将軍徳川家茂との婚姻(和宮降嫁)の御用を務め、直後に神奈川奉行や外国奉行を務めて諸外国の交渉を担当し、その実績が幕府から評価されて元治元年(1864)3 月、白河藩主阿部家の家督を継ぎ、老中に任じられて外国御用取扱を命じられた。そのため翌慶応元年(1865)、米英仏蘭の四カ国が兵庫(神戸)開港を幕府に迫った際には直接交渉を担当し、緊急を要する事態であるために朝廷に許可を得ず、幕府の独断で開港を決断する方向に導いた

しかし、このことが朝廷の不満を招き、老中罷免・官位剥奪の処罰を受け、蟄居謹慎を命じられて白河から棚倉への転封を命じられた。

白河はその後幕府領となり、戊辰戦争を迎えるが、城主のいない白河は交通の要衝であったため、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と新政府軍による拠点の争奪戦が約 3 ヶ月にわたって繰り広げられた。死傷者は 1,000 人を超え、これは会津戦争の犠牲者よりも多い数であった。

(白河市歴史的風致維持向上計画)

明治以降、城郭はその多くが民間へ払い下げられた。本丸を中心とした範囲は、陸軍省の所管となり、のち明治26年(1893)に白河町に払い下げられた。

二之丸・三之丸の城郭遺構については、その多くが埋められ、農地や官公庁舎、住宅地として利用された。三之丸には、明治20年(1887)に東北本線が敷設され駅が設置されるなど、近代白河のまちへと変化を遂げる。

昭和50年代後半から、本丸・二之丸を中心に都市公園としての整備が開始され、平成3年(1991)には三重櫓、平成6年(1994)には前御門が、発掘調査の結果や文化5年(1808)成立の「白河城御櫓絵図」を基に木造で復元整備され、往時の姿をしのばせている。

小峰城を築いた白河結城家から江戸時代の歴代藩主7家(丹羽家、榊原家、本多家、松平(奥平)家、松平(結城)家、松平(久松)家、阿部家)までの歴代城主の流れを紹介し、関係する古文書や美術工芸品を展示している。

稲村御所足利満貞御教書  応永7年(1400年)3月8日 差出先(受取人) 結城参河七郎殿

解説 奥州支配のため、鎌倉公方の出先として稲村(現在の須賀川市)に置かれた「稲村御所」の主人、足利満貞小峰満政に出した御教書。満貞が満政に伊達政宗(※)・葦名満盛らの反乱の討伐を命じたもので、兄で鎌倉公方の満兼による伊達氏等の攻略が上手くいかず、満貞を通じて奥州の武将の動員を図ったと考えられる。

伊達政宗(1353~1407)は室町時代に活躍した人物で、仙台藩祖の政宗の七代前にあたる。

重文・白河結城家文書。

中世において白河地域に勢力を誇った白河結城氏が受領した文書群90通で、秋田藩佐竹家に仕えた結城家に伝来した。

白河結城氏が所持していた文書は、改易によって全国に分散しているが、近年の調査で約800点近くの存在が確認され、東日本の中世武家文書では有数の文書群であることが分かってきている。

本文書は、そのうちの約1/10にあたり、古いものは文永元年(1264)10月の関東下知状であるが、元弘3年(1333)から康永2年(1343)5月までの10年間の文書が特にまとまっており、南北朝時代の宗広・親朝父子の活動や関東・奥州の情勢を検討する上で重要な史料である。またこれらの中には、その時代的特徴を示す北畠親房・北畠顕家御教書などの斐紙小切紙文書も含まれており、古文書学上でも注目される。

小峰城歴史館奥から眺める小峰城跡。

福島県鏡石町 岩瀬牧場②唱歌「牧場の朝」 鐘 牛舎


根室市 日本100名城1番・ノツカマフ1・2号チャシ跡

2024年07月25日 09時02分25秒 | 北海道

日本100名城1番・ノツカマフ1・2号チャシ跡。根室市牧の内。

2022年6月14日(火)。

北海道内でチャシ跡は500ヶ所ほど確認されており、根室市内には32ヶ所のチャシ跡が残り、うち24ヶ所は「根室半島チャシ跡群」として国指定史跡に指定されている。また、2007年には日本城郭協会が定める日本100名城のひとつ(お城番号1番)として「根室半島チャシ跡群」が選定された。 

根室市内のチャシ跡が築かれた正確な年代は不明だが、16~18世紀頃とされている。根室市内のチャシ跡は、海を臨む崖上に、半円形や方形の壕を巡らした「面崖式」のチャシ跡が多く、壕を組み合わせた大規模なものが多いことで知られている。現在、見学先として整備されているのはノツカマフ1号・2号チャシ跡とヲンネモトチャシ跡の2ヶ所だけである。

ノツカマフ1・2号チャシ跡はノツカマップ湾に突き出したノツカマップ岬の上にある。オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕が巡る。

1号チャシ跡は幅5メートル深さ約3メートルの半円形の壕が70メートル×25メートルの範囲で2つ連結しており、壕の内側に盛土が観察できる。

2号チャシ跡は幅約3メートル、深さ約0.5メートルで半円形の浅い壕が巡っている。

ノツカマップは、1778年にロシアの商人シャバーリンが来航し交易を申し出るなど日露外交交渉発祥の地としても知られている。

1789年クナシリ・メナシの戦い

江戸時代の北海道は、蝦夷地と呼ばれていた。蝦夷地は松前藩により植民地のように支配されていた。当時の蝦夷地は米が獲れず、本州のように年貢をとることができなかった。しかし、松前は蝦夷地の交易による利益で、藩が成立していた。最初は、松前藩主や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになった。交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品、ガラス玉などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは・毛皮・ワシの尾羽(矢の羽に使う)などの産物があった。

■根室と飛騨屋

根室や厚岸、クナシリ島の交易を最初に行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋の武川久兵衛であった。飛騨屋はもともと材木商であったが、松前藩に多額の金を貸し、松前藩はこの金を返す代わりに、根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたのである。しかし、根室やクナシリ地方には、強力なアイヌの勢力があって、飛騨屋の交易は順調に進まなかった。

■ロシアとの関係

このころ、ロシア人は高価な黒テンやラッコの毛皮をもとめて、シベリヤからアリューシャン列島・千島列島に進出していた。1778年にはロシア人が クナシリアイヌのツキノエの案内で、根室のノッカマップに交易を求めて来航した。ロシア人は千島列島のアイヌとも交易を行っていて、ツキノエは、ロシア人商人との結びつきを松前藩や飛騨屋に誇示した。

■最初の蜂起

1789年(寛政元)5月はじめ、クナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞(アイヌ語と日本語の通訳)・番人らを次々に殺害した。さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近のアイヌも加わり、海岸沿いにいた支配人、番人らをも殺害した。

クナシリ島で蜂起したのは、マメキリ、ホニシアイヌら5人が中心の合わせて41人で、番人らを襲撃した。彼らはクナシリ島の若きアイヌリーダーたちで、フルカマップで4人、トウフツで2人、トマリで5人、チフカルベツで8人、ヘトカで3人の合計22人を殺害した。さらにメナシ地方(標津・羅臼付近)では、49人を殺した。結局クナシリ・メナシ地方合わせて130人が蜂起し、71人の和人を殺した。このあたりにいた和人はほとんど全てが殺された。

■蜂起の原因

この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊260人をノッカマップに派遣し、なぜ蜂起が起きたのか取り調べた。取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力・脅迫・性的暴力・だまし・ツグナイ要求)の実態が明らかになった。これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせるために行われていた。また、アイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で、自分たちが冬に食べる食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものが出る状態であった。次第にアイヌたちは「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らが「アイヌを根絶やしにして、和人を連れて来る」という脅しが、現実味を帯びてきた。さらに、女性に対する性的暴力が続出し、それに対する抗議をしても認めるどころか、さらにひどい暴力を受けるという始末であった。

■直接の原因

このようにクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、いつ何が起こっても不思議でない状況となっていた。

1789(寛政元)年になって、クナシリ島の惣長人(そうおとな=総首長)サンキチが病気になり、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んだところ、そのまま死んでしまった。また、同じくクナシリの長人(おとな=首長)マメキリの妻が和人からもらった飯を食べたところ、まもなく死んでしまった。このような不審な死に方をしたサンキチやマメキリの妻は、普段から毒殺するといって脅かし続けた和人によって、本当に毒殺されたに違いないということになったのである。

■鎮圧隊の松前出発

この蜂起の事実が松前城下に伝わったのは6月1日で、すぐに260人の鎮圧隊が組織された。鉄砲85丁・大砲3挺・馬20頭も準備され、6月11日から19日にかけて、根室のノッカマップに向けて出発した。

■ノッカマップでの取リ調べ

鎮圧軍は7月8日にノッカマップに到着した。蜂起に関係したアイヌたちをノッカマップに集め取り調べが始まった。最初は捕まって殺されるかもしれないという疑いからなかなか集まらなかったが、7月16日までにメナシの183人とクナシリの131人のアイヌがノッカマップに到着した。

アイヌに対する取り調べは、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリの首長ツキノエに行わせた。その結果、クナシリでは41人が、メナシでは89人が、合わせて130人が蜂起して殺害に加わったことが判明した。この内、直接の加害者である37人が牢に入れられ、彼らが持っていた弓などの武器も全て没収された。

■37人の処刑

7月20日に取り調べが行われ、その日に直ちに37人に対して、重罪であるという理由で死罪が決定した。

翌21日、本人たちに死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引きだし、首をはねていった。次々と首をはね、5人目が終わり、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげ、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、大半を殺した後、牢を引き倒し37人全てを処刑した。その後、処刑した者全員の首をはね、洗って箱に塩詰めにし、胴体は一つずつむしろで包んで大きな穴を掘って埋めたのである。

7月24日には37人の胴体を埋めた塚に、太さ30㎝、長さ3.6mの角材の四面を赤く、四角を黒く塗り、ノッカマップ岬の四方から見渡せるところに建てた。現在はこの場所がどこか不明である。7月27日には、長老のアイヌたちに、今後二度とこのようなことがないように申し渡して、鎮圧軍はノッカマップを出発した。37個の首は松前郊外の立石野で首あらためが行われた。

■アイヌと松前藩

この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、さらに、本州から持ち込まれる生活物資無しには、生活できなくなっていて、アイヌ自身による独自の政治勢力が育つ可能性が、非常に弱くなるという道をたどることになった。

アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力をつみ取られ、政治的にも経済的にも従属関係となり、和人支配下で働かされるということが、日常的になっていった。

■ノッカマップイチャルバ

1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップで「イチャルパ」(アイヌ語で供養祭という意味)という催しが行われている。寛政元(1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )の供養のために、アイヌの人たちが中心になって祭事が催されている。

 

このあと、ヲンネモトチャシ跡へ向かった。

根室市 根室駅 花咲ガニ 北海道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)