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福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」①旧石器時代

2024年07月31日 16時33分03秒 | 福島県

福島県文化財センター白河館「まほろん」。福島県白河市白坂一里段。

2024年6月1日(土)。

南湖公園から「まほろん」へ向かった。敷地は広い。

常設展示室では、「遺跡から学ぶ自然と人間のかかわり」をテーマに、福島県内の遺跡から出土した土器や石器等を展示している。

 

一里段A遺跡(いちりだんAいせき)。「まほろん」の敷地にある遺跡からは、縄文時代の落とし穴の他に、旧石器時代の石器が東西2カ所からまとまってみつかっている。なかでも、西側のまとまりから見つかった石器は、剥片や石核の他に、ナイフ形石器、削器、彫刻刀石器、台形様石器などの石器がみつかっている。これらの石器は、3万年前に鹿児島県の火山から降ってきた火山灰の下からみつかっているところから、後期旧石器時代前半期のものと考えられる。

三貫地遺跡(新地町)。

阿武隈高地東縁の丘陵地の北側緩斜面に位置する旧石器時代と奈良・平安時代の複合遺跡で、旧石器ブロック1カ所、竪穴住居跡39軒、掘立柱建物跡40棟、井戸跡10基などがみつかっている。

旧石器は半径約5mの範囲で集中してみつかっており、その点数は、10,112点に上る。石器の種別は剥片類が一番多く、他にナイフ形石器、彫刻刀形石器、錐形石器等である。石核と剥片が多く、接合する資料もあったので、後期旧石器時代の石器製作場と思われる。

福島県 白河市歴史民俗資料館③白河結城氏 国史跡・白川城跡


北海道別海町 野付半島 トドワラ ナラワラ 原生花園

2024年07月31日 11時00分46秒 | 北海道

野付半島ネイチャーセンター。北海道別海町野付。

2022年6月15日(水)。

道の駅「おだいとう」を9時20分ごろに出て、9時50分ごろに対岸の野付半島ネイチャーセンターに着いた。直線距離では近いが、道路距離ではかなり遠い。

野付半島(のつけはんとう)は、北海道標津郡標津町および野付郡別海町にある細長い半島で、全長26㎞の日本最大の砂嘴(さし)である。その大部分は、砂丘草原と湿地原で、トドワラ・ナラワラの荒涼とした風景原生花園の美しい風景が混在する特異な景観で知られる。2004年に「北海道遺産」認定、2005年には「ラムサール条約登録湿地」に登録された。

半島の付け根にあたる部分が標津町に属し、その先の大部分が別海町に属する。半島付け根付近には民家が存在するものの、別海町に属する先端部に民家はほとんどなく、野付半島ネイチャーセンターと、漁業関連の施設が存在するのみである。

「野付」の名はアイヌ語の「ノッケウ」(下顎)に由来し、砂州の形状をクジラの下顎になぞらえて付けられたものと考えられている。

トドワラとはトドマツの立枯れた原という意味だが、カレワラと言葉が似ているので興味を惹かれる。

数年前にNHKだと記憶するが「トドワラ」の番組を見た。砂州が移動するので、トドワラの場所や状況も年単位で変動するという内容だった。

野付半島ネイチャーセンターは、トドワラへの遊歩道入口にあたる半島先端部に位置し、2階には案内職員がいて、いくつか尋ねた。展示もあるし、2階デッキからの展望もいい

トドワラ方向。

野付風蓮道立自然公園に属し、砂嘴によって囲まれた湾部は野付湾とよばれ干潟やアマモ場が分布している。そこには多様な底生生物(甲殻類や貝類など)が生息しており、またそれらを餌とするキアシシギやオオハクチョウ、コクガン、タンチョウ、ベニマシコ、オオジュリンなどの渡り鳥も数多く飛来し、その数は毎年2万羽以上にもなる。冬には知床半島同様、オオワシやオジロワシが集結する。そのため、2005年11月1日に国指定野付半島・野付湾鳥獣保護区(集団渡来地)に指定され(面積6,146ha、うち特別保護地区6,053ha)、同年11月8日にラムサール条約登録湿地に登録された。

夏季と秋季には数多くの花々が見られ、歩行路を飾る事から通称『フラワーロード』とも呼ばれる。また、トドワラ(トドマツの立枯れ)やサンゴ草も分布し、独特の風景を保持する。

陸生の動物ではオコジョ、イイズナ、ヤチネズミ、キタキツネ、エゾシカを含める哺乳類が棲息する。その他、数多くのチョウ類やトンボ類、固有種のノサップマルハナバチも見られる。ノサップマルハナバチは、南部千島列島、根室半島、野付半島にのみ生息する。

ゴマフアザラシが湾内の砂州で休息し、観光船から観察できる。ミンククジラ、カマイルカ、ネズミイルカなどの鯨類も半島周辺に現れる。時にはシャチが現れ、シロイルカの確認例もある。

2022年6月、環境省は野付半島と風蓮湖、根室半島周辺を国定公園の新規指定候補地として選定。既存の野付風蓮道立自然公園を拡大する形で2030年までの国定公園指定を目指すとしている。

江戸時代後期には千島列島での交易や漁業の拠点となって栄えており、漁業の拠点となる集落キラクが存在した。現在も、その時代の墓地などの遺構が存在するが、足場が悪くぬかるんでいる。2004年10月22日には北海道遺産に打瀬舟と共に選定される。

近年は、砂州からの砂の流出が激しく、また地球温暖化による海面上昇の影響により砂州が年々狭まり、道路近辺まで海面が押し寄せてきている。最近は低気圧、地震、高潮等気象条件により立ち入り禁止になることも増えており、将来近いうちに砂州および道路が海水により切断され半島ではなく島となり、野付半島自体が消失することが危惧されている。

国後島。半島の先は、野付水道(露語:イズメナ海峡(пр. Измены))を挟んで、北方四島の一つ国後島の螻向崎(ケラムイ崎、露語:ベスロ岬(м. Весло))と向き合っている。好天時には泊山(露語:ゴロヴニン火山(влк. Головнина))がくっきりと望める。

知床連山。

トドワラは、オホーツク海に向かって湾曲しながら突出する全長26kmの細い砂嘴である野付半島の半ばから突端にかけて位置する。

トドワラの成り立ちは、砂嘴上のトドマツ林が、海水面上昇ないし地盤沈降に伴う地面の浸食により枯死したものと見られ、1954年(昭和29年)の洞爺丸台風が枯死を加速したとも言われる。ほとんどは樹齢100年前後のトドマツであるが、それよりやや古いエゾマツも混じる。年々腐朽したトドマツの枯れ木が風化・消滅しつつあるため、いずれは何もない湿原と化すと予想されている。

野付半島ネイチャーセンターから徒歩30分程度だが途中まで有料のトラクターバス(2015年頃までは馬車だったが、曳き馬が亡くなったためトラクターが代行)の利用も可能。木道が設けられており散策可能。野付湾を挟んだ対岸の別海町尾岱沼から観光船で渡ることもできる。

トドワラ入口。トラクターの終点。

木道終点。トドワラ鑑賞地点。

帰路の遊歩道周辺は北海道特有の花々が咲く原生花園となっており、6月から9月が見頃。

野付埼灯台(のつけさきとうだい)は、地名上の竜神埼にあり、野付水道(根室海峡)にあって国後島との最狭部16km(約9海里)に対向した灯台のため、国後島にも光達する。灯台近辺はハマナスを筆頭にエゾカンゾウ、ハナショウブが咲く原生花園となっている。1953年(昭和28年)11月5日 - 初点灯。

ナラワラ。トドワラの北には、立ち枯れたナラの木の林立地であるナラワラもある。こちらはトドワラに比べれば腐朽が進んでおらず、枯木が原形をとどめている。

 

野付半島のトドワラを見学後、12時ごろ標津町歴史民俗資料館・ポー川史跡自然公園へ向かった。

北海道別海町 道の駅「おだいとう(尾岱沼)」 国後島 知床連山

 


矢部宏治 横田空域 「東京上空」に存在する「奇妙な空域」の「衝撃的な正体」

2024年07月30日 14時38分21秒 | 社会

「戦後日本」のヤバすぎる現実…「東京上空」に存在する「奇妙な空域」の「衝撃的な正体」

2023.11.09 現代ビジネス  矢部宏治

日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。

『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』では、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。

*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。

 

「戦後日本」という国

おかしい。不思議だ。どう考えても普通の国ではない。みなさんは、ご自分が暮らす「戦後日本」という国について、そう思ったことはないでしょうか。

おそらくどんな人でも、一度はそう思ったことがあるはずです。アメリカ、中国に次ぐ世界第三位の経済大国であり、治安のよさや文化水準の高さなど、誇るべき点もたしかに多い私たちの国、日本。しかしその根っこには、どう隠そうとしても隠しきれない、とんでもない歪みが存在しています。

 

たとえば私が本を書くたびに触れている「横田空域」の問題です。

じつは日本の首都圏の上空は米軍に支配されていて、日本の航空機は米軍の許可がないとそこを飛ぶことができません。いちいち許可をとるわけにはいかないので、JALやANAの定期便はこの巨大な山脈のような空域を避けて、非常に不自然なルートを飛ぶことを強いられているのです。

とくに空域の南側は羽田空港や成田空港に着陸する航空機が密集し、非常に危険な状態になっています。また緊急時、たとえば前方に落雷や雹の危険がある積乱雲があって、そこを避けて飛びたいときでも、管制官から、「横田空域には入らず、そのまま飛べ」と指示されてしまう。

 

6年前に、はじめてこの問題を本で紹介したときは、信じてくれない人も多かったのですが、その後、新聞やテレビでも取り上げられるようになり、「横田空域」について知る人の数もかなり増えてきました。それでもくどいようですが、私は今回もまた、この問題から話を始めることにします。

なぜならそれは、数十万人程度の人たちが知っていればそれでいい、という問題ではない。少なくとも数千万単位の日本人が、常識として知っていなければならないことだと思うからです。

 

エリート官僚もよくわかっていない「横田空域」

もちろんこの「横田空域」のような奇怪なものが存在するのは、世界を見まわしてみても日本だけです。

では、どうして日本だけがそんなことになっているのでしょう。

私が7年前にこの事実を知ったときに驚いたのは、日本のエリート官僚と呼ばれる人たちがこの問題について、ほとんど何も知識を持っていないということでした。

まず、多くの官僚たちが「横田空域」の存在そのものを知らない。ごくまれに知っている人がいても、なぜそんなものが首都圏上空に存在するかについては、もちろんまったくわかっていない

これほど巨大な存在について、国家の中枢にいる人たちが何も知らないのです。

日本を普通の独立国と呼ぶことは、とてもできないでしょう。

「いったい、いつからこんなものがあるのか」「いったい、なぜ、こんなものがあるのか」

その答えを本当の意味で知るためには、この本を最後まで読んでいただく必要があります。じつは私自身、右のふたつの疑問について、歴史的背景も含めて完全に理解できたのは、わずか1年前のことなのです。

 

世田谷区、中野区、杉並区の上空も「横田空域」

まず、たしかな事実からご紹介しましょう。

横田空域は、東京都の西部(福生市ほか)にある米軍・横田基地が管理する空域です。

いちばん高いところで7000メートル、まさにヒマラヤ山脈のような巨大な米軍専用空域が、日本の空を東西まっぷたつに分断しているのです。

ここで「米軍基地は沖縄だけの問題でしょう?」と思っている首都圏のみなさんに、少し当事者意識をもっていただくため、横田空域の詳しい境界線を載せておきます(書籍版に掲載)。

東京の場合、横田空域の境界は駅でいうと、上板橋駅、江古田駅、沼袋駅、中野駅、代田橋駅、等々力駅のほぼ上空を南北に走っています。高級住宅地といわれる世田谷区、杉並区、練馬区、武蔵野市などは、ほぼ全域がこの横田空域内にあるのです。

この境界線の内側上空でなら、米軍はどんな軍事演習をすることも可能ですし、日本政府からその許可を得る必要もありません。2020年(米会計年度)から横田基地に配備されることが決まっているオスプレイは、すでにこの空域内で頻繁に低空飛行訓練を行っているのです(富士演習場~厚木基地ルートなど/オスプレイの危険性については『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』第2章で詳述します)。

むやみに驚かすつもりはありませんが、もしこの空域内でオスプレイが墜落して死者が出ても、事故の原因が日本側に公表されることはありませんし、正当な補償がなされることもありません

そのことは、いまから40年前(1977年9月27日)に同じ横田空域内で起きた、横浜市緑区(現・青葉区)での米軍ファントム機・墜落事件の例を見れば、明らかです。

このときは「死者二名、重軽傷者六名、家屋全焼一棟、損壊三棟」という大事故だったにもかかわらず、パラシュートで脱出した米兵2名は、現場へ急行した自衛隊機によって厚木基地に運ばれ、その後、いつのまにかアメリカへ帰国。裁判で事故の調査報告書の公表を求めた被害者たちには、「日付も作成者の名前もない報告書の要旨」が示されただけでした。

こうした米軍が支配する空域の例は、日本国内にあとふたつあります。中国・四国地方にある「岩国空域」と、2010年まで沖縄にあった「嘉手納空域」です。

 

巨大な空域に国内法の根拠はない

「横田空域」と「岩国空域」という、米軍が管理するこのふたつの巨大な空域に関して、私たち日本人が、もっとも注目すべきポイントがあります。それは空域の大きさではありません。

私たちが本当に注目しなければならないのは、

この横田と岩国にある巨大な米軍の管理空域について、国内法の根拠はなにもない

という驚くべき事実なのです(「日米地位協定の考え方 増補版」)。

自国の首都圏上空を含む巨大な空域が、外国軍に支配(管理)されていて、じつはそのことについての国内法の根拠が何もない

いったいなぜ、そんな状況が放置されているのでしょうか。

 

さらに連載記事<なぜ日本はこれほど歪んだのか…ヤバすぎる「9つのオキテ」が招いた「日本の悲劇」>では、日本を縛る「日米の密約」の正体について、詳しく解説します。

矢部宏治 日米合同委員会の実態 米軍・最高裁・検察・外務省


福島県 白河市歴史民俗資料館③白河結城氏 国史跡・白川城跡

2024年07月30日 11時25分00秒 | 福島県

国史跡・白川城跡。福島県白河市藤沢。

2024年6月1日(土)。

白河市歴史民俗資料館の見学を終え、小峰城に移転するまで白河結城氏の本城であった国史跡・白川城跡へ向かった。

歴史民俗資料館から近い場所にあるので入館時にアクセスを尋ねたら、出るときに受付の男性職員が地図をプリントして詳しく行き方を教えてくれた。2回脇道に入り、最後は山の麓の狭い道を数百m道なりに進むと狭い駐車場があり、解説板と本丸への階段がある。

白川城本丸跡。

白河市歴史民俗資料館には、国史跡・白川城跡の展示がある。

白川城跡は、中世、白河荘(福島県白河市及び西白河郡一帯)を拠点として陸奥国南部を支配した白河結城氏歴代の居城跡であり、搦目(からめ)城跡とも言う。

城跡は、白河市中心部の東南方約2km、阿武隈川右岸に南側から樹枝状に張り出した、比高約60mの丘陵部に所在する。

白河結城氏は、鎌倉武士として有名な下総結城氏の一族である。結城氏と白河との関係は、結城朝光が奥州合戦の恩賞として白河荘を賜ったことに由来する。朝光は、鎌倉幕府の評定衆に就任するなど幕政に重きをなしたが、白河には赴任せず、本代官を白河に派遣していたと考えられている。

鎌倉時代中期以降、結城氏の庶子が下総から白河に移住し、阿武隈川の南岸(南方(みなみかた))と北岸(北方(きたかた))において郷村の開発を行うようになった。

白河結城氏の祖とされる祐広(朝光の孫)は 13 世紀後半に白河に下向したと伝えられ、その子宗広の時代まで「白河荘南方」の地頭職として大村郷(白河市大地区)をはじめとした 10 程度の郷村を支配し、白川城を本拠としたとされる。

一方「北方」は一族の結城盛広が富沢郷(現在の白河市大信下小屋付近)を本拠とし、同様に 10 程度の郷村を支配していたとされる。

しかし、白河荘の中心である金勝寺(荒砥崎)は結城家惣領が領し、周辺の関(旗宿)・小田川・田島なども他の結城諸氏が支配していた。

このように鎌倉時代の白河荘は、結城氏という武士団の一族により現在につながる郷村の開発が行われていったが、この段階においては、祐広・宗広の白河結城氏はまだ結城一族のうちの一家という状況であり、地域に台頭するには至っていなかった。

白河結城氏が台頭するのは、祐広の子、宗広の時代である。宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、鎌倉を攻める新田義貞らに呼応して幕府を滅亡に追い込んだ。後醍醐天皇の信頼を得た宗広は結城家の「惣領」となるよう命じられ、天皇に反旗を翻した足利尊氏と戦ってこれを破り、天皇から「公家(天皇家)の宝」とまで賞賛されている。

その後、天皇主導の政治(建武政権)に反感を持つ武士層を糾合して勢力を盛り返した尊氏は、後醍醐天皇を吉野に追いやり、後醍醐天皇の南朝と尊氏の北朝が対立する南北朝内乱時代を迎えるが、宗広は一貫して南朝側につき、南朝勢力の立て直しを図ろうとした。

南朝勢力の退潮により宗広の子親朝は尊氏による北朝・武家政権への転身を図り、家の存続に腐心し、その後の繁栄の基礎を固めた。この建武元年(1334)から明徳 3 年(1392)の約 60 年にわたる南北朝内乱期を経て、白河結城氏は白河荘全体を掌握・領有するとともに、福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職(けんだんしき)に任じられ、室町時代には奥州南部から北関東まで勢力を拡大するに至った。

しかし、永正7年(1510)、惣領の政朝が一族の小峰氏によって追放され(永正の変)、小峰氏の血統による新たな白河結城氏が成立した。また、この時期に結城氏の本拠も白川城から小峰城に移ったとされている。

その後、周辺の有力大名に押されて白河結城氏の影響力は次第に失われ、佐竹・葦名氏を経て伊達氏に従属するようになった。遂に天正18年(1590)の奥羽仕置で白河結城氏は改易、約400年に及ぶ南奥支配は終焉を迎えた。

江戸時代の文化4年(1807)には、宗広・親光親子を顕彰する「感忠銘(かんちゅうめい)」碑が城跡北側崖面の岩塊に彫られた。

白河結城氏については、800点以上に及ぶ文書が伝来し、当該期の動向を知ることができ、『白河市史』の編纂等もあって、近年、情報収集と研究が進捗している。

白河市教育委員会では、平成22年度から同27年度にかけて、城跡の範囲・内容確認を目的とした発掘調査等を実施し、東西約950m、南北約550mの範囲で多数の平場・土塁・堀等の遺構が良好に遺存することを確認した。

城跡は、御本城山(ごほんじょうやま)地区を中心として、北東方に伸びる中山地区、北西方の藤沢山地区・藤沢地区から成る西部遺構群と、谷部を挟んだ御本城山の東側で、搦目山とその西側に派生する鐘撞堂山(かねつきどうやま)と呼ばれる2本の尾根上を中心に展開する東部遺構群から成る。

御本城山地区では、1号平場において盛土による土地造成や土塁、柱列、竪穴遺構、溝等を検出し、14世紀代と16世紀代の遺構面を確認した。1号平場の北東部にある2号平場では、16世紀後半代の道・土塁、14世紀代の門の一部と考えられる遺構を検出した。14世紀代の遺物として、中国製青磁(酒海壺(しゅかいこ)・水盤)が出土した。

また、中山地区の西端には、延長約130mの堀が残る。一方、御本城山地区の東に存在する鐘撞堂山地区では、2条の長大な堀が南半分に展開し、丘陵頂部では平場造成、地下式坑の遺構のほか、桁行4間、梁行3間の総柱と思われる建物を確認した。また、搦目山地区では、丘陵頂部平場で建物、柱列、土塁を確認した。建物は、桁行4間、梁行2間の東西棟の身舎(もや)に、北・東・南側に庇または縁が付くもので、15~16世紀代に位置づけられる。

御本城山地区では、2号平場を中心に14世紀代の遺構・遺物を確認でき、南北朝期における城館の中心が御本城山地区であると考えられる。

その後、同地区の遺構は減少し、室町期以降の出土遺物は東部の遺構群に多い傾向があり、城館の中心が搦目山に移動した可能性が考えられる。

また、御本城山地区周辺では16世紀後半頃に南北朝期の遺構面を覆う形で行われた大規模な整地を確認でき、藤沢山地区等でも同様な状況を確認できることから、この時期に城全体で改修が行われたと推定できる。南北朝期の遺構が良好に残る大規模な城館として貴重な事例と評価される。

このように、白川城跡は、鎌倉時代後期に陸奥国白河荘を拠点として活動し、南北朝期以降、陸奥南部地域を支配下に収めて繁栄した白河結城氏の居城である。発掘調査によって南北朝期から戦国期にかけての遺構等が良好に遺存していることが確認された。

 

国指定史跡・名勝「南湖公園」。白河市南湖。

南湖は、日本最古といわれる公園で、寛政の改革で知られる白河藩主・松平定信により、身分の差に関係なく誰もが楽しめる「士民共楽」という理念のもと、享和元年(1801)に築造された。

当時の庭園は城内や大名屋敷内などに造られ、庶民は立ち入ることができなかったが、南湖には垣根がなく、いつでも誰でも訪れることのできる画期的なものであった。

「南湖」という名称は、唐の詩人・李白の詩「南湖秋水夜煙無」からと、小峰城の南側に位置していたことに由来するといわれている。

また、行楽だけでなく、湖水は灌漑用水、水練・操船訓練として利用され、造成工事は領民の救済事業としての性格も持っていた。

湖水面積は17.7ヘクタール、周囲は約2キロメートルあり、那須連峰や関山を借景に、松、奈良吉野の桜、京都嵐山の楓が植えられ、四季折々の景色を楽しめる。

 

白川城跡から南湖公園東駐車場までは5分ほどで着き、湖岸まで歩いた。景勝を眺望する中心地までは徒歩では遠そうなので、湖岸道路を西に抜けることにした。途中で中心地を眺めると人出が多く賑わっていた。福島県文化財センター白河館「まほろん」へ向かった。

福島県 白河市歴史民俗資料館②建鉾山祭祀遺跡 白河国造 白河舟田・本沼遺跡群 白河関 芭蕉


北海道別海町 道の駅「おだいとう(尾岱沼)」 国後島 知床連山

2024年07月30日 09時05分57秒 | 北海道

道の駅「おだいとう」。叫びの像「四島への道 叫び」。別海町尾岱沼。

2022年6月14日(火)。

16時30分ごろ、旧奥行臼駅逓所を出て、17時ごろ海沿いの道の駅「おだいとう」に着いた。火曜日定休なので中には入れない。

海岸方向へ歩いてみると、根室納沙布岬からは見えなかったロシア領の国後島の島影が野付半島の先に見えていて感動した。

道の駅「おだいとう」は、国道244号沿い別海町尾岱沼中心から約3kmに位置し、冬から春にかけて数百羽の白鳥が飛来する「白鳥台」に隣接する。

敷地内には北方領土返還を願い建設された「叫びの像・四島への道 叫び」がある。像は「たとえ何代かかっても取り戻す」という気持ちを表すため、老女が息子、孫を両脇に従え、すさまじい迫力で「返せ」と叫ぶ姿が描かれている。

高さ2.4mの像の先には、北方四島をイメージした高さ15mの4本のポールがそそり立つ。像とポールの間の距離は、野付半島から国後島までの最短距離16kmにちなんで16mとなっている。

道の駅「おだいとう」からの日の出。

2022年6月15日(水)。

3時30分ごろに目を覚ますと外はもう夜明けだった。日の出が見えるかもしれないと気付き外に出て見ると日の出直後だった。

建物内には「別海北方展望塔」があり、国後島がくっきり見えるのかと期待し、9時の開館を待つことにした。

本日の予定は標津町のカリカリウス遺跡しかなく、時間に余裕もできていた。

北方展望塔展示室・展望室。

展望塔2階は展示室となっており、北方領土の歴史や返還に向けた過去からの取り組みなどを、映像・パネルで展示している。3階展望塔には、北方領土の自然・暮らしのパネルが展示され、設置されている望遠鏡で知床半島、野付半島、国後島を一望できる。

国後島。

知床半島。日本100名山として登頂した羅臼岳が懐かしい。

 

このあと、以前テレビで見たトドワラのある野付半島へ向かった。

絶好鑑賞ポイントは近くにある白鳥台という「四角い太陽」は、冬の朝に野付湾で見られる現象で空気の温度差によって光が屈折して起こる蜃気楼の一種。「出現は厳冬期(2月頃)」と解説されることが多いが、必ずしも厳冬期とは限らず、気温が急激に下がると、海水は温度低下が緩やかであるため温度差が大きくなって条件が整い、10月頃からも見られることがある。

北海道別海町 国史跡・旧奥行臼駅逓所(おくゆきうすえきていしょ)