いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

自民党総裁選報道の狂騒 与党の広報に成り下がったテレビ局の情けなさ

2024年08月31日 11時43分40秒 | 社会

自民党総裁選報道の狂騒 与党の広報に成り下がったテレビ局の情けなさ

2024/08/29 日刊ゲンダイ ラサール石井

 

金子勝@masaru_kaneko

【恥を知れ】都知事選もひどかったが、テレビの自民党総裁選報道は、まるで芸能ニュースレベルの低さをひとつも恥ずかしがらず、大騒ぎ。放送法解釈変更の結果とはいえ、公共の電波を使って、自民党の広報に成り下がったテレビ局。日本を悪くする害悪そのものだ。

 

 自民党総裁選の各マスコミの連日の取り上げ具合は一体何だというのだ。

 都知事選の時も、いや一番国民に大事な衆院選や参院選の時も、これほど報道したか。いや、その日一日全く取り上げない日もあったではないか。なのに自民党員しか投票できない内輪の選挙にこれほど時間を割くのは甚だバランスが悪い。以前から指摘されてはいるが、各 テレビ局は自民党の広報に成り下がったと言うしかない。実に情けない。

 しかも候補者の記者会見だけではなく、昼食を食べる様子、ランニングする様子、地元のお祭りに参加する様子、いかにも人柄の良さそうな場面を垂れ流し、これでは自民党のプロモーションビデオではないか。

 おそらく新総裁が決まったところで解散総選挙に打って出るつもりだろうから、この報道は、1カ月以上にわたる「自民党イメージチェンジ」作戦に他ならない。国を挙げての選挙違反だ。

 事実この期間に自民党支持率は上がっている。なんて単純でバカなんだ日本国民は。生活は苦しい税金は高い。おまけに米不足。災害は相次ぎ復興はおざなり。そんな政府にまだついて行こうというのか。

 

河野大臣が出馬表明会見をした。「裏金議員には厳しく、不記載の金額の返納を求める」と言う。おいおい。どこが厳しいんだ。泥棒しても金返したらおとがめなしってそんなのあるか。返納ってどこに返すんだ、党に返すなら同じだろ。どうせ後でコッソリ名目変えて本人に戻すんだろ。議員辞職に追徴税。これが本当のケジメではないか。

 人気は石破氏に小泉氏だ。だが石破氏は党内に人気がない。誰にでも正論を言うからだって。どんな党なんだ。

 小泉氏はイケメンでソフトだが、政治家として何かなし得たのだろうか。だいたいインタビューで、なんであんな上からなのか。立候補予定を聞かれ「官邸内で話すことではない」とか言って、いやいやあなた官邸内でクリステルさんと結婚発表してましたよね。しかも一番の大事は「憲法改正」だと言っている。ソフトな顔にだまされて緊急事態条項など通されたらたまったもんじゃない。

 もちろん小林鷹之氏も高市早苗氏も極右緊急時の国民預金の凍結、徴兵制などにまっしぐら。まあ誰がなっても日本を戦争のできる国にするのはみな同じ。

 皆さん。ほんとによく考えてください。


維新の製造責任「兵庫県・斎藤知事」 曲げない主張”にネット激怒

2024年08月31日 11時24分35秒 | 社会

「どこまでも被害者を馬鹿に」兵庫県・斎藤知事 亡きパワハラ告発者の懲戒処分は「適切だった」と強弁…“曲げない主張”にネット激怒

Yahoo news 2024/8/31(土) 女性自身

(写真:時事通信)

 

金子勝@masaru_kaneko

維新が製造責任で、維新県議がもみ消しに走り、最後は自己弁護】兵庫県百条委員会で証人喚問を受けた後でも、斎藤知事は元局長への処分について「今でも適切だった」と開き直っている。結局、自殺に追い込むのが適切ということか?これが維新の言説の帰結だ。

大阪維新府政の本質】「斎藤さんは本当に優秀だ。知事になってもらい、兵庫と大阪が連携して成長する『関西のエンジン』をつくりたい」。2021年7月の「財務課長として維新大阪府政を支えられた」というヨシムラ知事の発言だ。では、ヨシムラは何を間違ったというのか?

【逃げ出すフェイク維新】ヤシキやシンボウの愚劣なキャンペーンに頼ってきた維新が、今度は製造責任の兵庫県知事叩きに乗りだした。元局長を追い込んだのは維新の県議会議員だったのではないか?無責任、無反省、無原則なフェイク集団ぶりをむき出しだ。

 

「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います」

こう宣誓書を読み上げたのは、兵庫県の斎藤元彦知事(46)。パワハラなどを告発する文書をめぐり、30日午後に開かれた県議会調査特別委員会(百条委員会)の証人尋問に初めて出頭した。

一連の問題をめぐっては公益通報した元・西播磨県民局長だけでなく、阪神・オリックス優勝パレードの資金集めを担っていた担当課長までも亡くなっている。また百条委員会が実施した県職員に対するアンケート調査では、約4割が斎藤知事のパワハラを見聞きしたなどと回答しており、窮地に立たされている。

 

そんななか、斎藤知事が証人尋問で語った元・西播磨県民局長に関する“主張”が波紋を呼んでいる。

「今年3月に元局長が知事の疑惑に関する告発文書を作成し、県議らに配布したことで問題が発覚しました。そこにはパワハラや違法行為、贈答品受領などの疑惑が7項目に分けて記されていましたが、知事は『事実無根の内容が多々含まれている』と否定。さらに告発文書を作成した元局長を、『嘘八百』『公務員失格』と非難したのです。内部調査の結果で告発文書は『誹謗中傷』と認定され、男性には停職3カ月の懲戒処分が下されました」(社会部記者)

 

証人尋問で告発者の元・西播磨県民局長について、「パワハラ防止法により保護されるべきであるという認識はありましたか?」と問われると、「えっと、ありませんでした」と回答した斎藤知事

次に“パワハラ防止法では告発者が特定されないよう求められている”と説明を受けた上で、「告発者の特定は不適切であった、この認識を今はお持ちでしょうか?」との質問が。

これに対して斎藤知事は、「私が把握した時点で、文書において十分な供述や証言、証拠、それから噂話などもありましたし、そういった意味で誹謗中傷性が高い文書という風に認識しました」と述べていた。

だがここで質問者が「もう1度お聞きします」と仕切り直し、「仮に真実相当性がなくてもパワハラ相談は受け付けられて、パワハラ防止法では相談者に対する不利益な取り扱いは禁止していると定めています」などと改めて強調。その上で再度、「前西播磨県民局長の停職3カ月の処分は不適切であったと、今は認識をお持ちでしょうか?」と投げかけた。

すると斎藤知事は、「今は思ってはいません。(処分は)適切だったと思っている」とコメント。続けて「事実でないことが多く含まれていて、誹謗中傷性の高い文書という風に私、県としては認識しまして。それで調査をして、処分させて頂いたということです。その処分は適切だった」と、繰り返したのだった。

最後に“パワハラ防止法では公開叱責が禁止されている”との説明を受けた上で、告発者への「公務員失格」の発言について「今は不適切であったと認識されていますか?」と問われた斎藤知事。その答えは、「表現としては言い過ぎた」とのことだった。

質問者もややあ然とした表情を浮かべていた、斎藤知事の“曲げない主張”。パワハラ防止法を理解していないような発言に、ネットやXでは厳しい声が続出している。

 

《自己保身の極みだね》

《常軌を逸しています。即時に辞職を!!!》

《どこまでも被害者を馬鹿にしたような対応を続けるんですね》

《この期に及んでも自己保身。言い訳オンパレード。人としてどうなの?》

《告発と誹謗中傷って違うんじゃないの? そもそも告発された当人が嘘八百とか言って告発者を追い詰めるのが適切なの? 普通にありえない》

《勇気を振り絞って告発したのに、この認定をされた時の気持ちは如何ほどのものだったか。その絶望感は察するにあまりあります》

 

その名に秘められた兵庫知事への因縁 「暴君」?斎藤元彦氏とは

2024/8/30  毎日新聞 芝村侑美

 

兵庫県職員へのアンケート調査で「暴君」と呼ばれていたことが明らかになった。職員へのパワーハラスメントを含む多数の疑惑を告発された斎藤元彦知事(46)のことだ。東大から総務官僚、そして首長へ。「エリート街道」から一転、疑惑の目を向けられる斎藤氏とはどんな人物なのか。

維新・松井氏に直談判

 「斎藤さんは本当に優秀だ。知事になってもらい、兵庫と大阪が連携して成長する『関西のエンジン』をつくりたい

 2021年7月の兵庫県知事選。告示後間もない演説会場で、初当選を目指す斎藤氏をこう持ち上げたのは日本維新の会副代表だった吉村洋文・大阪府知事だ。

 斎藤氏は3年間、前任の府知事で維新代表だった松井一郎、吉村の両氏による維新府政を財政課長として支えた。この選挙戦で維新から推薦を受けていた。

 

 「自民党の推薦がなくても出る覚悟があるのか」。知事選の5カ月前、松井氏は大阪市内のホテルの個室でそう斎藤氏に迫った。

経営者の祖父が命名

 兵庫県議会最大会派の自民党県議団は元副知事の支援を決めたが、この方針を不服としていた一部の県議が斎藤氏の擁立をあきらめていなかった。

 自民党本部の推薦の行方が見通せない中、出馬に意欲を示す斎藤氏が維新代表に支援を求めて直談判をする場だった。

 「自…(以下有料記事)

 

日本維新の会兵庫県議会議員団が百条委で斎藤元彦知事を猛追及でざわつく「思いやりがない」

2024年8月30日 日刊スポーツ

 

兵庫県の斎藤元彦知事が30日、疑惑告発文書問題を受け設置された、県議会の調査特別委員会(百条委員会)のパワハラ疑惑に関する証人尋問に初出席した。2021年の兵庫県知事選で斎藤氏を支援した日本維新の会から猛批判が浴びせられた。

議会最大会派の自民党県議団に続いて、質問に立った伊丹市選出の日本維新の会兵庫県議の佐藤良憲氏は「部下からどう思われていると思うか?」と質問。斎藤氏は「仕事は厳しくさせていただいている。仕事は厳しくというのは私のスタイル」と応じた。

 

百条委のアンケートに対し、斎藤氏が「残念だ」などと応じている真意についても質問し、「仕事を含めて厳しくさせていただいた。人から人に伝わるときに、真意と違うところで受け止められ方が変わってしまう。コミュニケーション不足があった」などと応じると、佐藤氏は「コミュニケーション不足というのは深刻。職員に対する思いやりが足りないのでは」とバッサリ。

さらに、時間に厳しい斎藤氏に「自身は遅れることはないのか?」と質問。斎藤氏が「あります」と返答すると、「人に求めるのであれば、自身も遅れてはいけないのでは。理不尽では。矛盾しているので指摘しておきます」とストレートに切り捨てた。

佐藤氏は斎藤氏に対し「部下に厳しい」との印象を重ねて主張。「思いやりがない」「人望がないんじゃないか」とまで言ってのけた。

疑惑解明を優先し、斎藤氏に対して慎重な立場を崩さなかった維新からの厳しい追及に、傍聴席はざわついた。

 


稚内市北方記念館⑤稚内の縄文遺跡 南樺太の鈴谷式土器 福沢桃介乗用の幌付き馬車

2024年08月31日 09時00分25秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

鈴谷式の深鉢形土器。鈴谷北貝塚(鈴谷貝塚)出土。

鈴谷式土器は、続縄文時代後期前後のサハリン中部から北海道北端部を中心に分布する土器である。櫛歯文土器と縄線文土器の二つのタイプがある。

鈴谷式土器はアムール河口部の古金属器文化と北海道の続縄文文化との2つの土器系統の融合によって成立したと考えられており、これら2つの文化の交流を示す資料とされている。鈴谷式土器が出土するのは主にサハリン中部以南から北海道北端部にかけてであり、この土器は道東部へ客体的に搬入されたものとみられる。口縁部の文様や尖底などサハリン北部と共通する特徴を色濃く持ち、道東部とサハリンとの直接の交渉の可能性をも示唆する資料となっている。

旧大泊郡遠淵村二号沢チャシ跡遺跡は南樺太・亜庭湾東岸に位置する。

旧大泊郡域内各地の遺跡から宗仁式縄文土器などが出土した。宗仁式の名称は、好仁村宗仁の遺跡にちなむ。また、本斗町大字本斗字南浜通2丁目にある南浜町貝塚からは、イノシシのものと見られる歯も出土している。南浜町貝塚は、吐鯤保川右岸河口付近の段丘上、金比羅神社境内で発見された。

縄文時代には、捕らえたイノシシの幼獣を飼い育て、殺して食す祭りが全国でおこなわれていた。後に、対象動物が熊に置換され、アイヌのイオマンテに繋がるとの説もある。

続縄文人や擦文文化の担い手は、アイヌの祖先にあたる。

古代の樺太南部では、続縄文文化に属するアニワ文化(遠淵式)が古墳時代前期まで栄え、道東北部の続縄文文化と共通する剝片石器や琥珀などの出土も見られる。当時の北日本では、栄浜郡産の琥珀が流通していた。

その後、鈴谷文化が樺太で興り4世紀末まで続いた。千歳村大字貝塚字北貝塚18番地にある鈴谷北貝塚などから鈴谷式土器が出土しており、ここが土器の名称の由来となっている。

5世紀ころからはオホーツク文化が栄えた。オホーツク文化の担い手については、飛鳥時代に阿倍比羅夫と交戦し『日本書紀』や『続日本紀』に記述された粛慎 (みしわせ)とされる。また、比羅夫と粛慎の交戦地を戦闘の場所については、粛慎 (みしわせ)の本拠地の樺太に比定する説もある。

5世紀から8世紀にかけ用いられた十和田式土器の名称は、好仁村十和田の遺跡に由来し、8世紀以降、樺太南部で用いられた南貝塚式土器の名称は、千歳村大字貝塚字南貝塚にある南貝塚遺跡に由来する。その後、擦文文化進出にともない、オホーツク人は樺太南部から駆逐された

平安時代中期(11世紀)までには、交易品として本州方面で需要の増したワシ羽や海獣皮を求め擦文文化の担い手が進出した。当時、和人社会では武士が台頭し始めており、安倍氏や奥州藤原氏をはじめとする奥羽の豪族を経由し、矢羽や甲冑などの材料として樺太で産するオオワシ羽やアザラシ皮が全国各地に流通していった。以降、和人社会との流通の増大が、アイヌ文化成立の契機になったとみられる。

福沢桃介乗車。旧宮内庁下総御料牧場の幌付四輪馬車。

1902(明治35)年、稚内市増幌に市島徳次郎が市島牧場、福沢諭吉と親交深い北海道炭鉱汽船初代社長・堀基が堀農場(福沢農場の前身)を相次いで開拓していった。当時、農場・牧場のはっきりした区分けは見られず、いわゆる大農場主、大牧場主による農業開拓の始めであった。

堀基は1906年、体調を悪くし東京に移住した。堀は緒についた開拓を捨てきれず福沢桃介に8万円で売った。桃介は譲り受けた堀農場を福沢農場と変え、場長に北海道大学農学部1期生の川又忠純を専務に迎え、北大から乳牛ホルスタイン種10頭を導入し酪農を始めた。

牧場として出発して間もない1908年8月に、福沢桃介は稚内に来たと報じられている。福沢桃介は随員を伴って幌付四輪馬車で揺られながら増幌の農場に向かった。この馬車は、現在、稚内市北方記念館・開基百年記念塔に展示されている。

福沢桃介は1889年にアメリカ留学から帰朝後、福沢諭吉の2女・房と結婚、一家を創立した。同年、桃介は北海道炭鉱鉄道会社に就職し札幌に赴任した。同年秋、東京支社が開設され、売炭係支配人として東京に転任したが、結核を患い辞職。療養生活中に株式投資に手を染めた。回復後に貿易商を開業し王子製紙取締役としても務めるが長続きせず、元の北海道炭礦鉄道に復帰した。1906年に会社員生活を辞め実業界に入り、電気事業を中心に活躍した。

稚内市北方記念館④オホーツク文化 オンコロマナイ遺跡


稚内市北方記念館④オホーツク文化 オンコロマナイ遺跡

2024年08月30日 09時04分33秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

抜海岩陰遺跡。

抜海市街地のはずれ、抜海岩と呼ばれる砂岩質の岩陰にある。抜海岩は高さ30m程の小山で、大岩が小岩を背負うように見え、アイヌ語の「パッカイ・ペ=子を背負う・もの」に由来し、岩の下にある海食小洞窟が先史時代の生活の場として利用されていた。

昭和38年に発掘調査され、遺跡はオホーツク式土器が大半を占めるが、少数の擦文式土器と続縄文時代の後北式土器も出土している。オホーツク文化の初期に位置し、富磯貝塚や泊内川左岸遺跡と時期的に近い。

オンコロマナイ2遺跡

宗谷岬に近い稚内市宗谷村清浜、恩頃間内橋近くにある3~4世紀頃の集落遺跡オンコロマナイ遺跡(オンコロマナイ2遺跡)である。司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズ、「オホーツク街道」にも考古学者の泉靖一が発見したオホーツク遺跡として紹介されている。

オンコロマナイ川河口左岸の海岸砂地に営まれ、オンコロマナイ川によって削られた崖に薄い貝層が露出し、川岸から50m程の拡がりであった。昭和34年東大の泉靖一助教授を中心とする東大文化人類学教室の発掘調査によって続縄文時代の層から5体の人骨が出土し良好な資料として有名である。昭和41~43年にも調査が行なわれ、3体の人骨と縄文時代晩期~続縄文・擦文・オホーツク・アイヌの遺物が検出されている。

8体の人骨は「オンコロマナイ人」として詳しく報告され、額が広く顔の高さが低く幅が広い、眼窩は横長の長方形で眉間が発達し、鼻根部が立体的で下顎枝の幅が非常に広いなどの特徴がある。出土し整理された土器・石器などの発掘資料は北方記念館に展示されている。

2002年度秋季大会シンポジウム「環オホーツク研究の新しい視点」報告

考古学からみた環オホーツク海交易

菊池俊彦*北海道大学大学院文学研究科.◎2003日本気象学会

オホーツク文化には中国の松花江流域の同仁(どうじん)文化(紀元後5~10世紀)アムール河下流域の秣輻(まつかつ)文化(紀元後4~9世紀)女真(じょしん〉文化(10~13世紀〉の遺跡から出土する土器・鉄器・青銅製品と共通,あるいは類似している遺物が多く,そのことはオホーツク文化の人たちが大陸側の人たちと交流があったことを示している。

オホーツク文化の年代は,これらの大陸の諸文化との対比から,3・4世紀から13世紀と推定されている。

オホーツク文化の遺跡からは北宋銭が2枚発見され.稚内市オンコロマナイ貝塚からは煕寧重宝(1034年初鋳)が,網走市モヨロ貝塚からは景祐元宝(1034年初鋳)が採集されている。アムール河下流域の女真文化の遺跡からは多数の北宋銭が発見されているので,まさにこれらの北宋銭は中国からアムール河下流域へ,そしてサハリンのオホーツク文化の人たちの所にもたらされ,次いで北海道に運ばれて来たと見てよいだろう。

「続縄文時代人とオホーツク文化人」札幌医科大学標本館収蔵標本解説第30号(2001年 12月1日)

石田肇 琉球大学医学部解剖学第一講座教授・札幌医科大学非常勤講師

 =続縄文時代人

 弥生時代は紀元前後をはさみ、九州や本州、四国を中心に弥生文化が栄える時期である。縄文時代が、北海道から沖縄本島まで、縄文文化という一つの大きな文化圏で括れるのに対して、弥生時代は、日本列島で地域性がはっきりと現れた時代と言ってよい。

北海道では、その弥生時代から古墳時代並行期を続縄文時代と呼ぶ。

北海道南部では弥生時代並行期の文化を恵山文化としているが、この時代の人骨は、虻田郡豊浦町の小幌洞窟、礼文華貝塚、室蘭市の絵鞆遺跡、伊達市には南有珠6遺跡、南有珠7遺跡、有珠モシリ遺跡などから発見されている。有珠モシリ遺跡の4号人骨は、眉間の部分の隆起が著しく、鼻骨の彎曲が大きく、いわば鼻が高い、そして彫りが深い、そして眼窩が低くやや斜めになっている。このような人骨ばかりではなく、山口(山口敏 : 元札幌医科大学助教授、前国立科学博物館人類研究部長、国立科学博物館名誉研究員)は、この集団は縄文的な形質を一方で保持しながら著しく多様化し、全体として近世の道南アイヌの形質に近づきつつあったのではないかと述べている。男性の大腿骨の最大長は平均432.5mmで、推定身長は159.5cmである。大腿骨と脛骨の長さの比(脛骨大腿骨示数)は82.7で、遠位部が比較的長くなっている。大腿骨骨体の柱状性は強いものの、脛骨の扁平性は変異があるようだ。

北海道の北部、東部では、稚内市の宗谷オンコロマナイ貝塚および江別市坊主山遺跡から出土した人骨群について、1963年に山口が報告している。その形態は、顔面が著しく低く広く、眉間の部分から鼻にかけての形態が立体的である、四肢骨では前腕の部分が相対的に長い、大腿と下腿の比を調べると下腿が相対的に長めであるという特徴がある。つまり、縄文時代からひき続き、この地域ではアイヌ的特徴がみられる。

北部九州・山口地方を中心に眉間の発達が弱く、鼻根部が平坦で、上顔高が高い頭蓋を持ち、四肢骨は長く、前腕や下腿が相対的に短く、また、断面形で柱状性や扁平性がない人骨群が現れている。その周辺地域では、頭蓋の形態は、縄文時代人的であるが、四肢骨の形態は、とくに断面形で、北部九州・山口地方群に類似する人骨群が存在する。従来、高顔・高身長対低顔・低身長という対立形式で見ることもあったが、同じ弥生時代(続縄文時代を含む)の人骨のなかで、何が「現代化」しているのかを捉える視点が大事かと思う。

オホーツク文化人

 5世紀ごろから11世紀にかけて、北海道の北部ならびにオホーツク海沿岸に、サハリンから来たとされるオホーツク文化が広がる。この人類集団の頭蓋は、顔面の高径も横幅も大きく、全体に顔が大きい。男性の上顔高は、77mmに達する。日本国内で時代を超えて、顔面の最も高い人々である。上顎骨が大きく、頬骨は横に張り出している。また、顔面が極めて平坦なのも大事な特徴である。鼻の骨も平坦で、横から見ると頬骨と鼻が重なるくらいである。

オホーツク文化の人骨で頻度が高い項目として、眼窩上孔、舌下神経管二分、頬骨横縫合後裂残存、顎舌骨筋神経溝骨橋がある。四肢は、肘から先、膝から下の部分が相対的に短い。推定身長は、男性の平均が約160cmである。これらは、シベリア・極東の寒冷地に暮らす人々の形態と共通する。サハリンの南部にも、同じ形態の集団がいたのである。

現在まで、モヨロ貝塚などから多数の人骨が見つかっているが、時期がはっきりしたものは少ない。オホーツク文化の早い時期の人骨としては、礼文町浜中2遺跡出土の十和田式土器を伴う女性人骨、利尻町種屯内遺跡出土人骨がある。全身骨格が良好に残っている浜中2遺跡の女性人骨の形質を調べてみると、頭蓋の形態、四肢骨の形態ともオホーツク文化人骨の特徴そのものであった。いいかえれば、オホーツク文化の早い時期から、その集団は北アジアの人々そのものであったということである。

それより前の時期の人骨については、サハリンでは不明であるが、北海道東北部の続縄文時代の人骨として知られているのは、先に述べた稚内市オンコロマナイ貝塚で発見された人骨である。オンコロマナイの人骨は鼻が高いなどオホーツク文化人骨とは大きく違った形態を持ち、近世のアイヌにつながる形質を持つ。このように、オホーツク文化になって、今までの続縄文時代人と違う形態の人々が北海道の北東部に現れたと言える。

日本各地でみられた縄文時代人骨のいわば「旧石器時代人」的特徴は、弥生時代に入り各地で失われてくる。とくに脛骨の扁平性は、沖縄から東北・北海道の一部にいたるまで広範囲に失われる。また、弥生から古代にかけて、顔面の平坦さも日本の広い範囲で見られるようになる。

弥生時代に北部九州・山口群に頭蓋形態小変異の頻度の変化が見られたが、古代には関東地域まで広がる。一方、上顔高や身長の増大は、北部九州から畿内にかけての限定的な変化であったようだ。その後、咀嚼器官の退化に伴うと思われる長頭化と短頭化が見られ、現代に入っていくことになる。北海道では、オホーツク文化の進入にもかかわらず、縄文時代から近現代に至るまでの形態のかなりの安定さが見られるのが特徴であろう。

左写真は稚内市オンコロマナイ貝塚出土の続縄文時代人頭蓋。右写真は稚内市大岬出土のオホーツク文化人頭蓋(顔面比較のため、大岬頭蓋は反転してある)(札幌医大標本館展示:解剖学骨格系SK-20, SK-21)

稚内市北方記念館③9人の乙女が自決した真岡郵便電信局事件


稚内市北方記念館③9人の乙女が自決した真岡郵便電信局事件

2024年08月29日 09時01分36秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

真岡郵便電信局事件とは、太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。

自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。

1945年8月9日にソ連が対日参戦し、8月11日から樺太へもソ連軍の侵攻が始まった。8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決め、8月15日に玉音放送で国民にも公示されたが、樺太ではソ連軍が侵攻を止めず戦闘が続いた。

1945年8月10日、樺太庁(豊岡市)・鉄道局・船舶運営会・陸海軍等関係連絡会議で、樺太島民の緊急疎開要綱が作成され老幼婦女子、病人、不具者の優先的輸送計画が決定された。8月13日、大泊港から第1船(宗谷丸606名)が出帆した。一方、真岡町を含む西海岸方面の疎開者は15日、真岡港から海防艦、貨物船「能登呂丸」、漁船等で出港するなど、島民の北海道への緊急疎開が開始された。

8月16日、真岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に対する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して引き揚げさせることにした。電話交換業務は女子職員の手により成り立っており、引き揚げ後の通信確保のため真岡中学の1~2年生50人を急ぎ養成することで手筈が決められた。

一方、同日真岡郵便局の朝礼で主事補の鈴木かずえにより残留交換手に関する説明がなされた。主事補は緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出ている現状を話し、仮にソ連軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる者は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた

鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現した。これに対し鈴木は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示。後日希望を聞くと告げた。

8月17日、電話担当主事が「全員疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と、局長に報告したため、局長はソ連軍進駐後生ずるであろう事態を説くとともに説得にかかったが、応じてもらえなかった。最終的には、局長が豊原逓信局業務課長との相談で、逓信省海底電線敷設船(小笠原丸)を真岡に回航させ西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に当たらせる了承を得たので、同船が入港したら命令で乗船させることとし、20人だけ交換手を残すことになった。しかしこの計画は予想以上に早いソ連軍の上陸で日の目を見なかった。

先に引き揚げた交換手は、疎開命令が出た後もみな「(通信という)大事な仕事なのでもう少しがんばる」と言い張ったが、局長からは「命令だから」といましめられた。そして公衆電話から電話交換室に別れの電話をかけると、「頑張ってね」「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ連絡してすぐ局へつとめるのよ」と残留する交換手たちからかわるがわる励ましの言葉をかけられた。

最終的に決定した残留交換手20名は比較的経験年数の少ない10代の交換手が多くを占めていた。20名中10代が全部で何人だったかは不明だが、8月20日当時の高石班11人中6名が10代であり、上野班にも少なくとも1名10代の女子交換手(藤本照子・当時17歳)がいた。

8月19日朝、非常体制が敷かれる。電話・電信業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務体制となった。電話交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長とする高石班に分けられた。同日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になった。この夜、当直の電話交換手は高石班長以下11名の女性であり、この他に、電信課には、電信主事・平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していた。

8月20日早朝。ソ連軍艦接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急連絡したのを始め、局幹部に緊急連絡を行った。緊急連絡を受けた電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は12名となった。

緊急連絡からおよそ1時間後、ソ連軍艦が真岡港に現われ、2艘の舟艇が上陸を試みる。ソ連艦隊から艦砲射撃も始まった。

この当時、真岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館があった。電話交換業務は別館2階で行われていた。8月20日にソ連軍艦からの艦砲射撃が開始されると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。

高石班長が青酸カリで服毒自決、続いて代務を務める可香谷が自決。ただし、自決の経緯については激しい銃砲火の中だったことや生存者が少ないことなどから、証言が錯綜しており、高石班長はむしろ若い交換手をなだめたとするものや、青酸カリを分け合って年齢の高い順に飲んだとするものもある。

この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ、あるいはモルヒネで自決した。この間、電話交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡している。

この後、伊藤は、既に7名が自決し、自分も続くことを泊居郵便局に連絡。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していた。伊藤は、続いて、内線電話で電信課へ自決を連絡し、服毒。この時点で、松橋も自決をしていたので、殉職者9名、生存者3名となった。急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し、本館へ移動させた。

一方、本館では、戦闘が始まって郵便局舎も被弾するようになり、被弾を恐れた女性達は、奥の押入れに隠れた。境、川島救出後暫くしてソ連兵が現われると、最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。その後、局員は港の倉庫へ移動した。電話交換手のもう一人の生き残りである岡田は、その後、港の倉庫に移った。

事件から10日以上経ってから遺体は仮埋葬され、12月に火葬・本葬が行われた。

『樺太1945年夏 氷雪の門』。1974年公開の日本映画。株式会社JMPが製作。

1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も継続された、ソ連軍の樺太侵攻がもたらした、真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の最期(真岡郵便電信局事件)を描いているが、生存者への配慮から意図的に事実と変えている部分もある。

当初の構想では、真岡郵便電信局事件での生存者たち、すなわち「服毒後、意識を取り戻され現在(1973年)も生存される方」「たまたま引き揚げる家族を見送るために、砲撃直前、局を出られたと思われる方」「緊急連絡のために局を出られた方」たちを主人公とすることを念願していたが、取材に応じてくれた非番の交換手から、「生きのびた服毒者」の深い悔恨を知らされて断念するに至り、「12人編成が正しいと思われる」交換手の編成をあえて9人として生存者については触れないことにした。そのため「この脚本の中に、事実関係の設定上で、全く事実と違うところがある」と断り書きをしている。すなわち、完成した映画『氷雪の門』でも、9人編成の全員が一斉に服毒死を遂げたとしている部分は史実とは違うフィクションである。

「ソ連のクレームがついて、大手映画会社が手を引いたとかいわれる“幻の映画”」は真実か。

元新東宝のプロデューサーだった望月利雄が、真岡郵便電信局事件の映画化を立案し、1972年(昭和47年)5月に三池信(元郵政大臣)代表取締役会長、望月専務取締役などの顔ぶれで、株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュアー (JMP) が設立され、1973年5月末に『氷雪の門』は撮影を開始した。

映画公開は「東宝配給の予定だった」とされているが、東京新聞の記事では、「『氷雪の門』は東宝が配給するわけではない」「公開は配給形式ではなく、JMPが東宝系の映画館を借りて行う興行形式だ」と関係者が繰り返し述べている。製作会社JMPと東宝興行部の間で上映に関する内諾があった、と解すべきであろうが、正式の上映契約には至らなかった。

当初は1974年1月中旬、全国主要都市でのロードショー、2月下旬一般封切が予定されていると報じられていた。その後、3月30日から東京5館、札幌、大阪、福岡などの東宝系9館で全国ロードショー公開することを決定していた。

1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長ニコライ・シゾフが東宝系劇場での『氷雪の門』の上映にクレームをつけ、なりゆき次第では『モスクワわが愛』の「公開にも支障が出そうな気配になっている」と、3月12日の東京新聞夕刊が報じた。東宝の松岡功営業本部長、越塚正太郎興行部長らが12日に協議の結果、「ソ連との友好関係を損ねる恐れがある」と判断、「JMPへの劇場賃貸を断ることにした」と報じられた。

この後、松岡らは、東映の岡田茂社長を訪ね、「東宝は社内事情で公開できないので宜しく」と依頼した。東映側は決定に先がけて、事前に在日ソ連大使館の参事官に話を通したところ、「たいへん結構です」と言われたという。岡田は「営業面でもひとつのメドがついたので東映洋画部配給ということでJMPとの間で話がまとまった」と説明している。6月25日に東映とJMPの間で正式調印が行われ、7月27日から札幌東映パラスで、8月17日から新宿東映パラス、名古屋東映パラス、福岡東映グランドなどでも公開が決定したと発表された。ところが、公開直前になって、興行規模が大幅に縮小された。札幌東映パラスこそ7月27日から8月30日までの5週興行であったが、本州の上映館は全て削減され、北海道・九州では8月17日からの2週間ほどの劇場公開になった。だが、その理由は今だに明らかになっていない。

東宝による上映中止を大きく取り上げた各紙も、東映による上映館削減の理由については報じていない。その後の報道でも、東宝と東映を混同して「配給会社がソ連の圧力に屈して全国公開が阻まれた」とする不正確な論調が多く、「ソ連のクレームがついて、大手映画会社が手を引いたとかいわれる“幻の映画”」という不正確な情報はさらに広まった。

その後、『氷雪の門』は名画座での限定上映や、ホール等での非劇場上映などが行なわれていたが、製作から約36年後の2010年(平成22年)7月17日より全国で順次劇場公開されることになった。

稚内市 北方記念館②樺太(サハリン)日露国境 樺太の鉄道