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岐阜県 土岐市美濃陶磁歴史館①重文2000点 4月1日から一時休館

2024年03月31日 12時03分39秒 | 岐阜県

土岐市美濃陶磁歴史館。岐阜県土岐市泉町久尻。

2024年3月29日(金)。

土岐市美濃陶磁歴史館が、老朽化に伴う建て替えのため4月1日から一時休館となるので、「開館44年収集の軌跡Ⅲ『挑戦!重要文化財2,000点並べてみる』」が開催されている、2028年年1月開館を目指し、「美濃焼」と「土岐市の歴史・文化」をテーマとした新しい博物館へと生まれ変わる、というニュースを2~3週間前に知って、28日に思い出したので10時頃から雨も止むという予報と最後の混雑を避けるために、29日に見学することにした。

1館だけではコスパが悪いので、4年前に時間切れで入館できなかった可児市の荒川豊蔵資料館と3年前に知った多治見市モザイクタイルミュージアムを見学することにした。

2021年12月に京都市考古資料館を見学したときに、京都三条通で出土した美濃焼を見ている。陶磁歴史館の北西数百ⅿにある元屋敷窯という名前は数十年前から知っているが、近すぎて今まで見学する気にはならなかった。

10時40分頃自宅を出て、12時前に土岐市美濃陶磁歴史館に着いた。

「開館44年収集の軌跡Ⅲ『挑戦!重要文化財2,000点並べてみる』」

およそ400年前、茶の湯の流行を受けて当地で生産された「美濃桃山陶」。2,000点もの重要文化財は、この美濃桃山陶を中心とした一群です。現在、国史跡となっている「元屋敷陶器窯跡」で出土し、平成25年に重要文化財に指定されました。

以来、特別公開の展覧会をたびたび開催してきましたが、あまりの量に、その全貌を公開する機会はありませんでした。新しい博物館では、この重要文化財の一群を全て公開する展示室を設けて、その圧倒的なボリュームを来館者に体感してもらいたいと計画しています。本展は、新博物館の収蔵展示に向けた試みの一つとして、空間が許す限り、できるだけたくさんの陶片を展示します。

重文・岐阜県元屋敷陶器窯跡出土品。

本件は、元屋敷陶器窯跡から出土した安土桃山時代から江戸時代の出土品のうち、昭和24年の美濃陶祖奉賛会と、平成5~13年(1993~2001年)にかけて、土岐市教育委員会が行った発掘調査の出土品、2041点で構成される。

当窯跡は、元屋敷東一、二、三号窯跡と、美濃窯最古の連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)である元屋敷窯跡の合計四基の窯跡で構成され、昭和42年(1967年)、「元屋敷陶器窯跡」として国史跡に指定されている。

本件は、これらの遺構や物原(ものばら)から出土した、安土桃山時代から江戸時代にかけての陶器の焼成不良品を主体とし、これに匣鉢(さや)や円錐ピン、焼台(やきだい)などの窯道具や窯材が加わる。

元屋敷陶器窯跡での陶器生産は、16世紀後半の築窯当初は、従来からの天目茶碗・皿などを主体とした組成であった。そして、16世紀末に茶陶や食器のなかで黄瀬戸(きせと)・瀬戸黒(せとぐろ)といった新しい意匠をもつ陶器生産が始まる。

さらに志野が生産されるようになると、17世紀初頭には茶陶や高級食器の量産がはじまり、連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)の導入後には器形・文様・色彩など、多彩な意匠を見せる織部(おりべ)が本格的かつ多量に生産された。

ここで生産された志野・織部は、京・大坂・堺といった畿内の都市遺跡を中心に、全国の城館跡や城下町からも出土していて、美濃窯製品の広域流通とともに、畿内で確立された茶の湯における道具の流行や嗜好の一端もよく示す。

本件は、安土桃山時代から江戸時代にかけての美濃窯における陶器生産、とりわけ当時流行した茶陶や高級食器の生産のあり方を示す良好な資料であり、その学術的価値は極めて高い。

新潟県糸魚川市 糸魚川静岡構造線断層見学公園 フォッサマグナパーク


新潟県糸魚川市 糸魚川静岡構造線断層見学公園 フォッサマグナパーク

2024年03月30日 10時45分46秒 | 新潟県

フォッサマグナパーク。糸魚川静岡構造線断層見学公園。新潟県糸魚川市根小屋。

2023年10月5日(木)。

フォッサマグナミュージアム見学後、ブラタモリで紹介された現地2か所の見学に向かった。

糸魚川-静岡構造線は、フォッサマグナの西端で、その長さは約250kmに及び、日本列島を地質上、東西に二分する第一級の断層であり、山梨県早川町、山梨県北杜市などで見学することもできるが、糸魚川のフォッサマグナパークでは遊歩道や解説板が整備され、最も気軽に見学できるという。

国の天然記念物に指定されている断層露頭へは、国道148号沿いの駐車場から約500m、徒歩10分程度である。

対岸南側の県道沿いにある「渡辺酒造」は、ブラタモリでタモリが東日本と西日本の井戸水の飲み比べをしていた酒蔵で、糸魚川静岡構造線の断層上にある。国道沿いの駐車場に戻って、県道に入ると、右側にある。

南の県道側から。新しい断層により東西方向に糸静構造線はずれた。

渡辺酒造。糸魚川静岡構造線が通る。

 

渡辺酒造の見学を終えると13時頃になり、9月23日から13日間にわたった新潟県への車中泊旅行を終了。国道を南進し、塩尻から国道19号に入り、夕方には名古屋の自宅に帰宅した。

新潟県糸魚川市 フォッサマグナミュージアム ブラタモリ ヒスイ 糸魚川-静岡構造線 


新潟県糸魚川市 フォッサマグナミュージアム ブラタモリ ヒスイ 糸魚川-静岡構造線 

2024年03月29日 10時06分52秒 | 新潟県

フォッサマグナミュージアム。新潟県糸魚川市一ノ宮。

2023年10月5日(木)。

名勝・親不知子不知の見学を終え、糸魚川市街地方向へ引き返して、青海神社と寺地遺跡、その後、市街地南の丘の上にある国史跡・長者ヶ原遺跡(遺跡公園)、長者ヶ原考古館とフォッサマグナミュージアムを見学、最後に、南の根知にあるフォッサマグナパーク(糸魚川-静岡構造線 断層見学公園)を見学して新潟県の旅を終えた。

フォッサマグナミュージアムは高校生団体など入場者が多く、混雑していた。

第1展示室 魅惑のヒスイ

糸魚川の川や海で発見された美しいヒスイ原石が展示されています。

第2展示室 糸魚川の大陸時代

ヒスイの歴史や化学、古生代の変成岩や石灰岩を紹介しています。4.6トンの美しい小滝川産ヒスイの上には何やら物体が浮遊しています。

第3展示室 誕生 日本列島

フォッサマグナは、日本列島が誕生した時の大地の裂け目です。まだ、大陸であった恐竜時代の後に、日本列島は、アジア大陸から引き裂かれ、少しずつ今の形に変化してきました。ドイツ人地質学者、ナウマン博士が発見したフォッサマグナは、日本列島の誕生の秘密を解き明かしてくれます。

200インチの壁・床一体型の巨大スクリーンに展開される日本列島の誕生や、フォッサマグナと日本海の形成の映像は必ず見てほしい展示です。

フォッサマグナと日本列島

フォッサマグナは「大きな溝」

日本列島の真ん中には、大地をつくる地層を知ると見えてくる「大きな溝」があります。ドイツ人地質学者のナウマン博士がこの「大きな溝」を発見し、フォッサマグナと名づけました。フォッサマグナとは、ラテン語で「大きな溝」を意味します。ナウマン博士のフォッサマグナの東端がはっきりしないことから、現在は、左の範囲をフォッサマグナとしています(範囲についてはいくつかの説があります)。

大地の裂け目。

古い地層でできたU字溝のような溝の大部分は、かつての海底にたまった新しい地層によって埋め立てられました。これらが隆起した後、焼山や富士山を含む、南北方向の火山列ができました。フォッサマグナは、日本列島がアジア大陸から離れる時にできた大地の裂け目と考えられています。

糸魚川-静岡構造線

糸魚川-静岡構造線は、日本列島を地質学的な東北日本と西南日本に分ける断層であり、フォッサマグナの西側の境界断層でもあります。また、この断層は、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界とも考えられていますが、両プレートの境界については、いくつかの説があります。

ナウマン博士のフォッサマグナ ― 大地の大きな溝

フォッサマグナ(Fossa Magna)はラテン語で、「大きな溝」という意味です。

古い時代の岩石(おもに中生代・古生代、「薄い茶色」)でできた 、ほぼ南北方向の溝の中に、新しい時代の岩石(新生代、「緑色」)がつまっています。

この溝は、上空から見下ろしてわかるような、地形的な溝ではなく、山々をつくっている地層や岩石を知ってはじめてわかる「地質学的な溝」です。この「地質学的な溝」を、ナウマン博士は「フォッサマグナ」と呼びました。

ナウマン博士は、フォッサマグナの西縁を糸魚川 -静岡構造線、東縁を直江津-平塚線と考えました。

このようにフォッサマグナは、三次元の地質構造(二次元の広がりを呼ぶ場合もある。フォッサマグナ地域など)をさすものです。したがって、糸魚川-静岡構造線は、その西縁の境界面(断層面)ですから、「フォッサマグナ」と「糸魚川-静岡構造線」は同じ意味ではないことに注意してほしいと思います。

また、フォッサマグナのもう一つの地質学的な特徴は、フォッサマグナの真ん中に南北方向の火山列があることです。北から代表的な火山をあげると、新潟焼山・妙高山・黒姫山・飯綱山・八ヶ岳・富士山・箱根・天城山などです。

フォッサマグナの地下には、フォッサマグナの部分が落ち込んだ時にできた南北方向の断層があって、それを通ってマグマが上昇し、南北方向の火山列ができたと考えられています。

現在のフォッサマグナの範囲 溝の深さは、6000メートル以上

ナウマン博士がフォッサマグナを命名(1886年)してから、120年以上もたちましたから、日本列島の地質調査も大きく進展しました。この結果、ナウマン博士が予想したようなフォッサマグナの東縁を示す明瞭な境界(直江津-平塚線)は見つかりませんでした。

そこで、明瞭な地質学的な溝をさがすとすれば、図のように、西縁は糸魚川-静岡構造線、東縁は新発田-小出構造線と柏崎-千葉構造線にはさまれた地域となります。

現在、この地域をフォッサマグナと呼ぶことが一般的なようです(しかし、このフォッサマグナを認めない立場もあります)。この範囲フォッサマグナとすると、フォッサマグナの中に古い時代の岩石でできた関東山地が残って奇妙です。

しかし、関東山地を、フォッサマグナが落ち込んでできた時の落ち残りだと考えると、現在のフォッサマグナの範囲を受け入れることができそうです。

さて、フォッサマグナの溝の深さはどれくらいあるのでしょうか。黄丸印は、深さ6000m級のボーリング調査が実施された位置です。

しかし、それらのボーリングは、新しい地層の下にあるはずの古い時代の岩石に到達することができませんでした。

したがって、深さは6000m以上ということになります。また、北アルプス(古い時代の岩石)は標高約3000mあり、越後山地(古い時代の岩石)は約2000mありますから、それらの標高を足すと8000m~9000m以上の深さがあることになります。

ちょうど、ヒマラヤ山脈がすっぽり埋まってしまう、隠された溝があるのです。

 

糸魚川-静岡構造線の断層は、山梨県早川町、山梨県北杜市などで見学することができますが、フォッサマグナパークでは遊歩道や解説板が整備され、もっとも気軽に見学できます。

ということで、ブラタモリでも紹介されたフォッサマグナパークへ向かった。

新潟県糸魚川市 ヒスイ生産交易拠点 国史跡・長者ヶ原遺跡 長者ヶ原考古館②


新潟県糸魚川市 ヒスイ生産交易拠点 国史跡・長者ヶ原遺跡 長者ヶ原考古館②

2024年03月28日 10時42分17秒 | 新潟県

国史跡・長者ヶ原遺跡、長者ヶ原考古館。新潟県糸魚川市一ノ宮。

2023年10月5日(木)。

国史跡・長者ヶ原遺跡(遺跡公園)、長者ヶ原考古館は糸魚川市街地南の丘の上にある。

長者ケ原考古館では竪穴住居の一部復元模型や縄文土器、石器、ヒスイの玉などが展示されている。

常設展示室 「埋もれる大集落 長者ケ原 ~ヒスイの故郷~」

長者ケ原遺跡からの出土品をはじめ、当時を再現したジオラマや遺跡に関連する資料を展示。

長者ケ原1500年ものがたり/集落のくらし/祈り/生活を支えた道具。玉と斧/翡翠の広がり/体験コーナー(土器と石器の仕分け、土器パズル、縄文ファッション)。

長者ケ原遺跡は糸魚川市の中央を流れる姫川の東側、海岸から約2.5km、標高90m前後の高台に位置する縄文時代中期(5000~3500年前)に営まれた北陸最大級の集落跡で、姫川から流れ出たさまざまな石を加工し、蛇紋岩の石斧とヒスイの玉類の製作と流通の拠点として栄えた。

本遺跡を特色づける遺物としては、大珠をはじめとする硬玉製の玉類・硬玉原石・硬玉加工具があげられる。

姫川の上流、小滝川に硬玉原産地があり、長者ケ原の集落では、この溪谷から採取した原石を加工したものと考えられる。加工の際には硬く割れにくい性質を持つヒスイをハンマーとして使って、木の伐採や土掘りなどに用いた石斧を主に作り、各地に供給していた。

石斧作りの技法はヒスイの加工にも応用され、縄文時代中期になると本格的に大珠(たいしゅ・長さが5cmを超える大きな玉)が作られた。

遺物は縄文時代中期を主体とした土器、土偶人面・獣面把手などの土製品、石鏃、打製石斧、磨製石斧、石匙、石皿等の石器類及び岩偶などである。

長野県中・南部や関東地方から持ち込まれた土器。

 

このあと、至近距離にあるフォッサマグナミュージアムを見学した

新潟県糸魚川市 ヒスイ生産交易拠点 国史跡・長者ヶ原遺跡 長者ヶ原考古館①


新潟県糸魚川市 ヒスイ生産交易拠点 国史跡・長者ヶ原遺跡 長者ヶ原考古館①

2024年03月27日 15時05分58秒 | 新潟県

国史跡・長者ヶ原遺跡。入口。新潟県糸魚川市一ノ宮。

2023年10月5日(木)。 

名勝・親不知子不知の見学を終え、糸魚川市街地方向へ引き返して、青海神社寺地遺跡、その後、市街地南の丘の上にある国史跡・長者ヶ原遺跡(遺跡公園)、長者ヶ原考古館フォッサマグナミュージアムを見学した。遺跡公園西入口のテニスコート横に9時前に着いた。考古館は9時開館なので、先に遺跡公園から見学した。全国的にクマが出没していたので熊鈴を持参した。

長者ケ原遺跡公園は、国史跡・長者ケ原遺跡を保存・公開するために整備され、発掘調査の結果を元に一部の竪穴住居などが復元されており、当時のようすをうかがい知ることができる。

考古館では竪穴住居の一部復元模型や縄文土器、石器、ヒスイの玉などを展示している。

長者ケ原遺跡は糸魚川市の中央を流れる姫川の東側、海岸から約2.5km、標高90m前後の高台に位置する縄文時代中期(5000~3500年前)に営まれた北陸最大級の集落跡で、姫川から流れ出たさまざまな石を加工し、蛇紋岩の石斧とヒスイの玉類の製作と流通の拠点として栄えた。

姫川の上流、小滝川には硬玉原産地があり、長者ケ原の集落では、この溪谷から採取した原石を加工したものと考えられる。加工の際には硬く割れにくい性質を持つヒスイをハンマーとして使って、木の伐採や土掘りなどに用いた石斧を主に作り、各地に供給していた。

石斧作りの技法はヒスイの加工にも応用され、縄文時代中期になると本格的に大珠(たいしゅ・長さが5cmを超える大きな玉)が作られた。

この時期の代表的な遺物であるヒスイ製大珠は、北陸地方を中心とし、中部、関東・東北地方などに広く分布するが、本遺跡はその製作遺跡の1つであり、学術的価値が高い。

遺物は縄文時代中期を主体とした土器、土偶や人面・獣面把手などの土製品、石鏃、打製石斧、磨製石斧、石匙、石皿等の石器類及び岩偶などである。

長者ヶ原式土器」の名称は本遺跡出土の土器を標式として命名されたものである。

本遺跡を特色づける遺物としては、大珠をはじめとする硬玉製の玉類・硬玉原石・硬玉加工具があげられる。

19・21号住居跡。

大きい円の上に小さい円が重なったようになっており、大きい円が19号、小さい円が21号住居の跡を示している。

21号跡より深いところに19号跡があるので、19号跡にあった住居を壊した上から新しく21号住居を建てたことが分かる。

20号住居(竪穴住居)。

地面を円形に掘り下げ、水平に床を固め、中央には石で囲った炉を設け、壁際には穴(柱穴と思われる)が掘られている。

これまでの調査範囲は集落跡の10%にすぎないが、このような形の住居跡が24棟も発見されている。

新潟県糸魚川市 国史跡・寺地遺跡 縄文の巨木祭祀 ヒスイ工房