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岩手県岩泉町 龍泉洞

2023年10月31日 11時04分13秒 | 岩手県

龍泉洞。入口。岩手県岩泉町岩泉神成。

2023年6月7日(水)。

久慈琥珀博物館見学後、安家洞など南の丘陵地帯を通り抜けて11時30分ごろ岩泉町の龍泉洞の駐車場に着いた。さすがに観光客は多く、ドイツ人ファミリーも来ていた。1990年代後半、八戸市、田野畑村の北山崎海岸、宮古市の浄土浜、盛岡市とJRを使って周遊したが、内陸にある龍泉洞には立ち寄らなかった。

龍泉洞の溢水状況をテレビニュースで見たのは、2016年9月2日に台風10号の影響で地底湖が増水し、数日に渡り入口から大量の水があふれ出たときで、水流の強さが印象的だった。照明や通路が被害を受け、翌年3月19日まで閉鎖されたという。2023年8月にも洞窟から水があふれて長期閉鎖されたという。

龍泉洞は、大規模な地底湖と多彩な鍾乳石群の美しい造形が見られることから、秋芳洞(山口県美祢市)・龍河洞(高知県香美市)と共に日本三大鍾乳洞のひとつに数えられ、日本の地質百選にも選ばれている。

龍泉洞の洞内は、明らかなところだけでも3600m以上あり、全容は5000m以上に達すると言われている。一般に公開されている1 200mの区間では、歩道、照明、解説板が整備され、安全に観察することができる。

龍泉洞の水は世界でも有数の透明度を誇っていることで知られ、1985年(昭和60年)には龍泉洞地底湖の水として名水百選のひとつに選定されているおり、入口前広場には名水の取水場も設けられている

龍泉洞の奥から湧き出る清水は多くの地底湖を形成しており、水量は1万7千㎥/日以上の流量を有している。

カルシウム分を多く含む弱アルカリ性のおいしい水として国際食品品評会(モンドセレクション)において大金賞を受賞するなど世界も認めた日本の名水であり、岩泉町の水道水として利用されているほか、ミネラルウォーターとしても商品化されている。

 

龍泉洞・新洞などの鍾乳洞は、約2億数千万年前(中生代三畳紀)の火山島の上に有孔虫やサンゴなどの生物の殻が堆積してできた石灰岩(安家層)が、大陸縁に付加した後隆起して地上に押し上げられ、長い時間をかけて雨水に侵食されて形成されたものである。安家(あっか)層は岩泉エリアに広く分布しており、南斜面に石灰岩の断崖がそそり立つ宇霊羅山(うれいらさん)や鍾乳洞などで石灰岩特有の地形や景観を見ることができる。

入口に温度表示がある。周辺気温22度、洞内最低気温9.6度である。11時40分ごろに入洞して、12時20分頃に出たときは、23度、9.5度だった。

順路の矢印があるが、暗いせいか分かりづらかった。三原峠への階段は一方通行だったが、逆行していた。帰りの「長命の泉」付近も行き帰り違う二つのルートがあるが、元に戻ってリングワンデルング状態になってしまった。

長命の泉。

一口飲むと3年長生きするという古い言い伝えにちなんで名付けられた。

階段。第一地底湖手前。

洞内奥の突き当り(第三地底湖)までいくと階段の登り口がある。 こちらの階段は上り下り合わせて270段ほどあり、この階段の途中には第一地底湖を展望できる場所がある。(第一地底湖展望台)階段を上った先は大変狭いため、途中で折り返すということはできない。

足腰に自信がない人や高所恐怖症の人は無理をせず、第三地底湖からは、階段を昇らずに、元のルートを戻るように案内されている。

第一地底湖展望台。

第一地底湖が上からのぞける展望台。天井にはつらら石などの鍾乳石群が広がる。

三原峠。標高が高いせいか、12.5度と気温も高い。

三原峠・第三地底湖間の階段。ドイツ人ファミリーとすれ違った。

第三地底湖。

世界有数の透明度を誇る水深98mの第3地底湖は、ドラゴンブルーの名の由来となった青みがかった水を湛えている。

 

龍泉洞を見学後、宮古市の崎山貝塚へ向かったが、海岸近くで三陸沿岸道路に誘導され、宮古北インターチェンジで降りた。

岩手県久慈市 久慈琥珀博物館②古代の琥珀装飾品 


岩手県久慈市 久慈琥珀博物館②古代の琥珀装飾品 

2023年10月30日 09時29分29秒 | 岩手県

久慈琥珀博物館。岩手県久慈市小久慈町。

2023年6月7日(水)。

 

琥珀製品は、洋の東西を問わず、今から1万年以上前の遺跡から出土している。近年、北海道千歳市の「柏台1遺跡」から約2万年前の世界最古級の琥珀製小玉が発見されて話題になった。

ヨーロッパには、紀元前3千年頃からバルト海沿岸地方と地中海諸国との間で発達した世界的に有名な琥珀交易の路“アンバー・ルート”があった。

日本では、現在の奈良盆地周辺に多く残る古墳から琥珀製の勾玉・棗玉・小玉などが多く出土している。近年、この多くが久慈産琥珀を用いていることが解明され、古墳時代に久慈地方産の琥珀を大和政権下に運んだ日本の“アンバー・ルート”の考古学的な解明が待たれている。

 

久慈琥珀博物館見学後、南の丘陵地帯を通り抜けて岩泉町の龍泉洞へ向かった。

岩手県久慈市 久慈琥珀博物館①「あまちゃん」と久慈琥珀


岩手県久慈市 久慈琥珀博物館①「あまちゃん」と久慈琥珀

2023年10月29日 11時18分19秒 | 岩手県

久慈琥珀博物館。岩手県久慈市小久慈町。

2023年6月7日(水)。

県史跡・久慈城跡を見学後、国道南側の丘陵地帯へ登り、9時前に久慈琥珀博物館に着いた。久慈産の琥珀は北海道・北東北の縄文遺跡から出土しているので興味を持った。久慈地方は琥珀採掘の歴史も古く、古墳時代にはすでに久慈地方産の琥珀が大和朝廷のもとに運ばれた“アンバールート”が存在していたことが、古墳出土品の科学分析で解明されている。

久慈琥珀博物館は、古くから琥珀採掘の行われた土地でもある久慈市郊外に所在する国内では唯一の琥珀専門博物館である。園内は広く、新館、本館、琥珀製品即売店、工房、レストラン、「リトアニア館」の順に遊歩道で連絡されている。

琥珀樹脂が化石化したもので、久慈地方は世界最古の琥珀が産出する国内最大の産地である。久慈では、恐竜と同じ時代の9000年前から8500万年前の後期白亜紀の堆積岩による地層である久慈層群から海の生物の化石と陸の琥珀が一緒に産出する。久慈層群琥珀の原料となった樹木は、アラウカリア類という古代の「スギ」である。

久慈層群は三層から成り、古い順に玉川層・国丹層・沢山層。そのうち琥珀が採れるのは玉川層と国丹層で、特に玉川層に琥珀が多い。玉川層下部の年代は2015年の放射年代測定により9000万年前と判明した。久慈市の地層は、地質時代が正確に特定できている・地層が柔らかく発掘作業が容易という二点で特異である。

久慈産琥珀は装飾品として流通する最古の年代の琥珀である。世界の琥珀は新生代産が主流であり、久慈のような中生代白亜紀産は量が少ない。より古い琥珀も存在するが、宝飾品にはならない。学術的観点からは、虫入り琥珀(古生物を内包したもの)が多く、注目度が高い。

「あまちゃん」の舞台として設定された「北三陸市」は、岩手県久慈市およびその周辺がモデルになっており、名物は「まめぶ汁」と琥珀である。

岩手県久慈市 まめぶ汁 史跡・久慈城跡と久慈氏


岩手県久慈市 まめぶ汁 史跡・久慈城跡と久慈氏

2023年10月28日 11時51分29秒 | 岩手県

まめぶ汁。岩手県久慈市。

2023年6月6日(火)。

500円。クルミや黒砂糖を包んだ団子は美味かった。まめぶ汁は、岩手県久慈市山形町や九戸郡で食されている郷土料理である。クルミや黒砂糖を包んだ団子を、野菜、焼き豆腐、油揚げ、かんぴょう等と共に昆布と煮干しの出汁で煮込んだ料理である。まめぶ(豆ぶ)とは、中に入っているクルミ入りの団子を指す。

 

岩手県二戸市の国史跡・九戸城跡を見学後、久慈市の道の駅「くじ」に17時30分過ぎに着いた。久慈市での目標は「まめぶ汁」琥珀博物館だった。事前に調べたところ、「まめぶ汁」は山間部の山形町が分布の中心らしいが、久慈市街地でも数店あり、道の駅「くじ」内のレストラン「山海里」で11時から17時に食べられるようだった。翌日、琥珀博物館見学後に戻って食べようと思って、「山海里」の店先を見ると、翌日は臨時休業となっていた。あわてて、運よく開いていた道の駅内の観光案内所の職員に尋ねると、徒歩圏内で食べられる店「KENSOH」を紹介してくれたので、地図をもらって久慈駅方向に15分ほど歩いて店に着いた。

 

まめぶ汁は、もとは、旧山形村(現久慈市山形町)や旧久慈市西部などで伝えられていたが、2010年頃から久慈市全域で認知され始め、2011年東日本大震災以降、炊き出しとともに広まる。そして、2013年放送のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』内で、北三陸市(ドラマ中の架空の町で岩手県久慈市がモデルとされている)名物として、「おかずかおやつか分からない微妙な食べ物」と紹介され、ドラマの大ヒットと相乗する形で一気に知名度を上げた。

2011年には久慈まめぶ汁としてB-1グランプリ正会員となっており、2013年大会は過去最高の5位に入った。

県史跡・久慈城跡。主郭。久慈市大川目町新町。

2023年6月7日(水)。

道の駅「くじ」で起床。昨日、久慈市街地に入る手前の道路看板で久慈城跡があることを知ったので、9時開館の琥珀博物館の前の時間を利用して立ち寄ることにした。

新町集落終点麓下の交差点に案内板と登り口があったが、左の慈光寺付近からダイレクトに主郭に登るルートを選択し、車でゆるやかな坂道を上っていくと登り口があり、付近のスペースに駐車した。ここからは帯曲輪経由で5分ほどで主郭に着いた。主郭周辺を半周したが、眺望は得られなかった。

久慈城は久慈地方の領主であった南部氏庶流久慈氏の居城で、別名八日館や新町館とも呼ばれた。久慈川の左岸、新町集落の北方、大川目慈光院の東側の男山を利用して、久慈川支流の切金川と人工的な堀川に囲まれた標高約80m、比高約40mを測る独立丘陵に立地する15~16世紀の山城である。三戸南部氏の東海岸南進の境目の城として城跡からは、久慈川沿いに開けた平野を一望できる守りに有利な地であった。

築城時期は不明だが、久慈氏12代久慈信実が大川目八日館に入った文明年間(1469 - 87年)のころとされる。

主郭と呼ばれる最も高い平場から東方向に2~3段に切り崩した曲輪が連続して築かれており中世の連郭式山城の特徴を備えている。

三方に水濠、北側後背地には空濠がめぐらされ、堀切や竪堀、馬場跡、井戸跡など、当時のままの状態で良好に保存されている。麓に位置する堀屋敷と称される平場が日常の居城と思われる。

天正19年(1591年)9月の九戸政実の乱において当主の久慈直治は九戸政実に荷担して九戸城に籠城して降伏し、主だった首謀者達とともに栗原郡三迫岩ヶ崎(現 宮城県栗原市)に送られて処刑され、久慈氏の嫡流は滅亡した。

久慈城は南部信直の直轄下に置かれ、一族の久慈治興が代官となったが、城は天正20年、豊臣秀吉の諸城破却令により取り壊された。

城跡からは、掘立柱建物跡や白磁などの陶磁器や北宋銭なども出土している。

 

久慈氏は、南部氏の祖・南部光行の三男で七戸氏の祖になった七戸朝清の流れとされる。室町から戦国期にかけて、久慈郡は糠部南部氏の勢力下に置かれ代官が派遣され、室町後期には九戸郡一帯は久慈氏の統治下にあった。

久慈氏の事績について記録に現れるのは、久慈信実からである。10代久慈治政に男子がなかったため、三戸南部18代時政の次男南部信実を養子として娘を娶らせて、11代久慈氏を継がせ、久慈大川目八日館城に在城したとある。

歴代の城主は三戸南部氏一門として重臣上座にあった。久慈氏は、八戸氏、新田氏、九戸氏、東氏、中館氏、出ル町氏などと婚姻関係を結んでいるが、戦国期になると、九戸氏との関係が深くなっていった。

久慈政継は、三戸南部氏の代官として出羽大曲に駐在し、平賀・大曲両郡の所領を管理し、合戦で討死した。弟の久慈信継が一時家督を相続したのち、正継の遺児治継が家督についた。三閉伊侵攻に南部軍の先峰として活躍した信義、その異母弟が後の弘前藩祖津軽為信と伝わる。

 

南部氏の出羽進出と金沢城(秋田県横手市金沢、旧金沢柵)。

津軽藩士である高屋浄久が江戸時代前期に藩主の命により提出した覚書では、津軽氏の祖先が南部氏の分流であり、金沢に拠点を構えていたことが記されている。金澤右京亮様のこととして、「南部屋形様の御子御三男なり、仙北にて御他界なり。御假名を彦六郎様と申すなり。津軽の屋形様の御先祖初なり。此の殿を金沢京兆と申すなり。南部にては下の久慈に御座候被るなり。」と金沢での詳細を記している。

津軽氏の歴史は、三戸南部氏の遠隔地所領、仙北金沢の地に始まる。

 

金沢右京亮とは何者か―弘前藩津軽家祖先伝承から東北の室町時代史を復元する―

若松啓文2020年12月6日 令和2年度 後三年合戦金沢柵公開講座

金沢右京亮」とは何者か。結論から言えば、「金沢右京亮」とは、近世弘前藩津軽家の先祖に位置付けられる、室町時代中頃、出羽国山北金沢を治めていた三戸南部氏当主の子息、である。

「京都御扶持衆」三戸南部氏が、遠隔地所領の山北金沢・大曲を経営させるために送り込んだ当主子息、それが金沢右京亮だった。しかしながら、その経営が地元の「京都御扶持衆」」小野寺氏との軋轢を生み、寛正六年(1465)室町将軍への馬進上の際に合戦に発展し、金沢右京亮は自害した。

その遺子は大曲和泉守に救出されて成長し、父金沢右京亮の本領だった陸奥国下之久慈の領主となり、久慈右京亮となった。その子息は(大浦)光信を名乗り、津軽地方へ進出し、のちの津軽家の礎を築いた。

延徳3年(1491年)、三戸南部氏当主の南部信時は南部久慈氏の一族・南部光信を津軽西浜の種里城(西津軽郡鰺ヶ沢町)に配置し安東氏への押さえとした。文亀2年(1502年)、光信は大浦城を築き養子・大浦盛信に守らせた。

大浦光信の後三代をへて、為信が大浦氏を継いだという。この大浦為信がのちの津軽為信である。

岩手県二戸市 続日本100名城 国史跡・九戸城跡


岩手県二戸市 続日本100名城 国史跡・九戸城跡

2023年10月27日 11時29分40秒 | 岩手県

続日本100名城。国史跡・九戸城跡。岩手県二戸市福岡城ノ内。

九戸城跡エントランス広場・本丸西側の三の丸跡。

二戸市埋蔵文化財センターから北東へ数分の距離に駐車場・ガイドハウス・休憩所がある。見学順路は本丸下から二ノ丸南西隅を回り込んで二の丸南東の大手虎口跡から二ノ丸・本丸へ進む。

本丸下から北東隅へ回り込んで二ノ丸北東から城内に入るルートは閉鎖中であった。

2023年6月6日(火)。

九戸城は、中世の平山城で、南部氏の一族である九戸氏が居城した。築城の正確な年代は不明であるが、7代目光政のとき明応年間(1492〜1501年)という。

西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)、松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。

戦国時代末期の最後の当主九戸政実は、南部一族内の南部信直と対立し抗争していたが、南部宗家相続争いで九戸氏を差し置いて惣領を継承した南部信直に対し天正19年(1591年)兵を挙げたため、南部信直に南部地方の領地を安堵した豊臣政権への反乱とみなされた。

豊臣秀吉は豊臣秀次を総大将に浅野長政、蒲生氏郷や関東、奥羽の諸将を鎮圧軍として派遣する。鎮圧軍は一揆を平定しながら北進し、9月2日約6万の兵で九戸城を包囲、助命の約束で9月4日に降伏開城させた。しかし約束は反故にされ、政実はじめ主だった首謀者は処刑され、城内にいた者は女、子供構わず撫で斬りにされて皆殺しされた。この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされ、日本の中世が終焉した城といわれる。

この後、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部家の本城として南部信直に引き渡された。南部信直は三戸城から居を移し、九戸城を福岡城と改めた。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城とよび続けた。

慶長2年(1597年)の不来方(盛岡)築城によって南部氏の居城は盛岡城へ移されたが、城は寛永13年(1636年)に廃城、破却された。

二ノ丸切岸。二ノ丸南側を人工的に斜面を削って造られた断崖で、高低差は約10mある。

二の丸大手。左奥に本丸跡。

二ノ丸の現在見える姿は本丸と共に福岡城の姿である。九戸城時代にも一部、土塁が構築されていた可能性がある。また、東側では竪穴式の工房や大型の建物が立ち並んでいた区間が見つかっている。

九戸城には、東北地方の中世の城と近畿地方の近世の城の特色が見られる。地形を活かし曲線的な九戸城の中に直線的に改修された福岡城の部分がある。

九戸城旧来の姿を留めるのは若狭舘・外舘等で、本丸は改築された福岡城であることが分かっている。

本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、この盛り土から焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土し、明らかに合戦後の整地されたことが分かる。堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡である。

本丸東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの虎口があった。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手(からめて)門がある。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地となっている。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があった。

本丸南虎口跡。天正時代の様式を良く残したクランク状の出入口である。

本丸の石垣。城跡には、東北最古とみられる石垣遺構が残っている。石垣は、天正19年(1591)の落城直後に築かれた。野面(のづら)の古式穴太(あのう)積の石垣は蒲生氏郷配下の穴太衆によるものとされ、肥前名護屋城(佐賀県)や会津若松城(福島県)に共通する様式である。

本丸南東隅櫓跡。敵状遠望や射撃のために設けられた数間の高さの隅櫓のあった場所で、海抜139mと城跡で最も最も標高が高く眺望がきく。

本丸南側土塁。

本丸北東方向。

本丸北西方向。

本丸北側から北西方向への眺望。

見学後、エントランス広場駐車場へ戻り、地元の老人と立ち話したのち、久慈市の道の駅「久慈」へ向かった。

岩手県二戸市 二戸市埋蔵文化財センター②九戸城と九戸氏