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イコン 山下りん 北海道立釧路芸術館

2024年07月09日 10時22分31秒 | 北海道

イコン。山下りん。「日本の洋画130年 具象表現の栄光」。北海道立釧路芸術館。釧路市幸町。

2022年6月12日(日)。

モシリヤチャシを見学後、山下りんのイコン(聖画)を鑑賞するため北海道立釧路芸術館へ向かった。

旅行前の事前チェックで北海道立釧路芸術館を調べ、6月19日まで展覧会「日本の洋画130年 具象表現の栄光」が開かれ、山下りんの作品が展示されることを知った。障害者は無料なので訪れることにした。函館のハリストス正教会にも作品があるが工事中のため拝観できないと知ったので、いい機会になった。

山下りんの作品を最後に見たのは2005年の愛知県豊橋市のハリストス正教会であった。その前にも見たことがあるだろうが記憶はない。山下りんを知ったのは映画「イコン伝説 追憶のエルミタージュ」が公開された1992年頃だろう。映画も見ている。当時、NHK新日曜美術館などで、少しは一般にも知られた存在になり、その後も時折テレビなどで紹介されているようだ。

本展覧会では、笠間日動美術館所蔵のイコン2点に加え、釧路ハリストス正教会ならびに上武佐ハリストス正教会(中標津)のイコン11点を合わせて14点が展示された。

 

笠間日動美術館所蔵、「宗徒ノ画(ヤコブ像)」、「機密の晩餐」。

上武佐ハリストス正教会所蔵、「至聖生神女之誕生(十二大祭図)」、「至聖生神女之進堂(十二大祭図)」「至聖生神女之福音(十二大祭図)」、「ハリストス降誕(十二大祭図)」「主之迎接(十二大祭図)」「主之洗礼(十二大祭図)」、「主之顕栄(十二大祭図)」、「主之入城(十二大祭図)」、「主之昇天(十二大祭図)」「至聖生神女之就寝(十二大祭図)」、「聖架之挙栄(十二大祭図)」。

釧路ハリストス正教会所蔵、「コゼリシチナの聖母」。

 

山下りん(1857年~1939年)は、日本人最初のイコン画家として知られる。正教徒で聖名はイリナ。

常陸国笠間藩(茨城県笠間市)の出身。兄と弟の三人兄弟で、りんが7歳の時に父が亡くなり、貧しい生活であった。幼いころから画家を目指し、家族の反対を押し切り上京したのが16歳の時である。明治10年、日本最初の工部美術学校へ入学したが、教師の指導に不満を覚え、同13年退学した。学生時代にロシア正教宣教師ニコライの洗礼を受け入信し、ロシアへ留学。明治16年に帰国した後、イコン画家(聖画家)として明治から大正にかけて建てられたロシア正教会の聖堂のために多くのイコン画を描き続けた。大正7年に故郷、笠間に戻ったが、一切絵筆をとることはなかった。イコン画に生涯を捧げ、独身を通したりんは、晩年、好きな酒を楽しみ、悠々自適な生活を過したようである。

1873年(明治6年)に東京府に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。

同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエロが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院でイコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した。

帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン制作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北・北海道を中心に300点あまりの聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア・イコンを通じて山下りんがギュスターヴ・ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。

山下りんのイコンは全て模写であり無署名である。教会内では目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに努めた。

ロシア革命後は正教も衰えたため、1918年(大正7年)、61歳で郷里の笠間に戻った。晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。満81歳で没。墓所は笠間市の光照寺。

 

明治の女性画家・山下りんの生きざま:朝井まかて『白光』―芸術と信仰のはざまでもがきながらも見いだした「道」

2021.09.10  nippon.com

死なば死ね。生きなば、生きよ」―山下りんが残したこの言葉が、朝井まかてさんを突き動かした。

山下りんは安政4年(1857年)、笠間藩(現在の茨城県笠間市)に武士の娘として生まれた。幼い頃から絵が好きで、15歳の頃に画業を志し、「明治の世にて、私も開化いたしたく候(そうろう)」と家出までするが、連れ戻される。後に再び上京を果たし、浮世絵、日本画、洋画を学ぶ。

明治10年(1877年)日本初の官立美術学校・工部美術学校に女子一期生として入学。翌年友人の誘いで東京・神田駿河台にあるロシア[ハリストス]正教の教会を訪ね、宣教師ニコライと出会う。間もなく洗礼を受けたりんは、同13年、ニコライの推薦を受けてイコンを学ぶためにロシアのサンクトペテルブルクに留学した。

「りんは克明に滞露日記をつけていましたが、あまりのやるせなさゆえに“心悪シ”とのみ書きつけてあることも。その時一体何が起きたのか、周囲の心情も想像しながら描写していきました。自らが想像した場面であっても観察者に徹し、写生していくという感覚です」

修道院の工房で、来る日も来る日もギリシャの古いイコンを模写するようにと言われ、りんは修道女たちに反発する近代西洋画を志し、その技術を習得したいと願う彼女には、昔ながらのイコンは平板で稚拙にしか見えず、嫌悪感すら抱いたのだ。結局、当初5年間の予定だった留学は、1年半で終わる。

絵画技術の成熟前に生み出されたイコンですから、彼女が学びたいものじゃない。しかも生来の才能に恵まれて本当に巧(うま)い人ですから、下手な絵が嫌いなんです(笑)。ロシア語もままならないのに指導の修道女に逆らい、堂々と抗議もします。明治の女性は本当に強いですよ。ただ、当然のこととして、りんは “可愛くない留学生” になる。やがてストレスで体調を崩し、失意のまま帰国します。

りんは帰国後、日本で唯一の聖像画師になりますが、留学までさせてくれた教会を出てしまいます。そして、あまり時を経ずに教会に戻りました。私にはその理由も謎でした」と言う。

当時の留学帰りの女性が世間の理解を得るのは難しく、経済的に自立して生きるのは至難の業だ。だが、腕のたつ画家であるりんは、翻訳本の挿絵や肖像画、石版画印刷の下絵など明治日本ならではの仕事に携わっていた。経済的な理由で教会に戻るほど切羽詰まった状況ではなかったはずだと、朝井さんは推察した。

「りんが教会を出ていた頃、ニコライは駿河台の大聖堂建設を巡り、古い信者との間で軋轢(あつれき)が生じていました。莫大な費用を投じて聖堂を建てるなら、苦しい生活に耐えながら信者を支えている地方の教会に回してやってほしいと嘆願されたのです」。りんは、孤立した恩師を支えるために教会に戻ったのではないか。

東北なまりの日本語で話し、日本の信者のための聖像画は日本人画師が描くことが大事と説くニコライ主教を、りんは信頼し、尊敬を深めていく。りんは画業で身を立て、生涯独身を貫いた。

明治以降、日本は天皇を頂点とした国体を構築し、庶民家庭でも家父長制が強化されて“良妻賢母”の価値観が喧伝されるようになりますが、りんは早くから絵師として生きる道を選んでいます。絵を描くこと以外に何も要らない、望まない。そんな生き方を、あの時代に笠間の家族がよく許したと思います。そこから兄や母の人物像が見えてきます」

彼女は近代的自我を持つ女性であり、洗礼を受けたのも西洋文化としての教会に魅了されたからではないかと思います。そして芸術を学びたい一心で留学した。芸術は究極の自己表現です。ところが聖像画は真逆で、無署名、無名が基本、画師は没我して臨まねばなりません。書いているうちに、いろいろな命題が浮かびました。彼女の信仰心はいつ発露したのか?そして、いつ、真の聖像画師になり得たのか?」

現在、北海道の函館ハリストス正教会をはじめ各地の正教会に残されているりんの作品は数百点にのぼる。無署名だが、専門家の長年の研究により彼女が描いたと分かったものだ。目鼻立ちが柔らかでどこか日本人のような顔立ちのキリストや聖母が描かれ、全体的に温かみを感じさせる

白内障を患ったりんは、62歳で笠間に戻って隠居生活に入り、82歳で生涯を閉じるまで一切制作はしなかった。

 


釧路市 ハルトルチャランケチャシ跡 モシリヤチャシ跡

2024年07月08日 10時17分34秒 | 北海道

国史跡・ハルトルチャランケチャシ跡。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

釧路市立博物館を12時30分ごろから1時間ほど見学し、出るときにチャシ見学についてマップやガイドなどがないかと受付で尋ねると学芸員が対応した。モシリヤチャシ見学はやはり事前予約が必要だという。駐車場は公には言えないが城山会館前にあるという。

ハルトリチャランケチャシは、ここから近く西側に駐車場もあるという。春採台でザ・ビッグとダイソーに寄る予定もあったので、雨が降ってはいるがハルトリチャランケチャシへまず行くことにした。

ハルトルチャランケチャシは、鶴ヶ岱(つるがだい)チャランケチャシともいい、チャランケ(話し合い・談合)を行うチャシ(砦)を意味するアイヌ語から由来する。ちなみに、チャランケはのちに和人が名づけたもので、アイヌ固有の呼称ではない。2つの堀跡が残るチャシ跡は東西30m、南北18mほどの規模で、300年以上前の江戸時代のものと推定されている。この付近はアイヌ民族がトーコロカムイ(湖の神様)の遊ぶ聖地として大切にしてきたところで、1916年(大正5)に、その場所からチャシ跡が発見された。

ハルトルチャランケチャシ跡の南岸から春採(はるとり)湖対岸の釧路市立博物館方向。

ハルトルチャランケチャシ跡。2つの堀跡。

史跡・モシリヤチャシ。釧路市城山町。東側の城山会館前付近から。

言い伝えによれば、1751年(宝暦1)に、この一帯で勢力をふるったトミカラアヤノという名前のアイヌが築造したものという。釧路市立博物館には、トミカラアヤノの一族の系図などが展示されている。

「モシリヤ」とはアイヌ語で「島のある川」の意である。

チャシ(砦)は長径約170m、短径約70mの北東側三段、南西側二段の楕円形の丘で「お供え山」という鏡餅のような外観をしている。

内郭(本砦)と外郭(副砦)に分かれており、内郭の周囲には空堀がめぐらされ、その堀をつくった際に出た土砂を利用して土塁がつくられた。竪穴、貝塚も残っている。1935年(昭和10)に同市内のチャランケチャシ、春採台地竪穴群などとともに「モシリヤ砦跡」として国指定の史跡に指定された。

モシリヤチャシ跡は急な斜面があり危険なことから、見学を希望される場合には事前に釧路市埋蔵文化財調査センター(電話:0154-43-0739)にご相談ください。

モシリヤチャシ跡。北東隅。

モシリヤチャシ跡。北西隅の駐車場横にフェンスが切れて登り口があることに気付いた。

モシリヤチャシ跡。中腹。

モシリヤチャシ跡。中腹。雨のため足場が悪いので頂上へ行くのは諦めた。

モシリアのチャシに係わるヲニシトムシから続くタサニシの家系図(釧路市立博物館)である。この中で、メンカクシ(精一郎)が文献にはよく出てくる。

安政5(1858)年,釧路を訪れた松浦武四郎は,その地の乙名(首長)メンカクシ(和名精一郎)から,いわゆる釧路アイヌの先祖の活動の様子を聞取りしている。

トミカラアイノ,タサニシ,ヘケレニシの三名については,他の文献にも登場し,実在の人物であることが確かである。

二代目トミカラアイノの名は,「松前志」(松前広長,天明元年=1781年)にみることが出来る。すなわち宝暦中東部夷地のクスリノ酋長「トヒカライン」と云へる夷人福山(現松前町)に来て領主へ謁す」とあり、宝暦6(1756)年のことという。

文化6(1809)年の「東行漫筆」(荒井保恵)に,『安永8(1779)年頃のこと,タサニシは釧路アイヌの長で あり,彼自身が将となって桂恋のチャシに軍を集めたという。

「寛政蝦夷乱取調日記」寛政元年(1789)に、「クスリの長人タシャニシ病気・・・」とあり、クナシリ・メナシの戦いの時には釧路の首長であったことがわかる。

 

北海道地理No.54(1980年1月)

チャシ分布に対するチャシ地名からの接近 小林和夫 関係分抜粋

釧路アイヌの戦についての松浦武四郎の記録は次のようなものである。

『何処よりかは知らず,一人の男夷雲にのり来り此の場所へ下り、自らヲニシトムシといひて,此辺りに住ける女の子を妻とし,当所へ城郭を築き,此近隣の土人を随ひけるに,其二人の中に男子二人を産み,其兄はトミカラアイノといひ,其会所元より八丁程南なるハルトルといへるへ城を構へ,弟トミチアイノ,此の川筋十余里上のシラリウトルといへるへ城を築き之に住し,其辺りよりニシベツ辺り迄を境とし居りけるが,其を聞

て東西の夷人共其処へ下り来て,此辺りの酋長と称して城棚を構へ居る事不法なりとネモロ,アツケシ,シヤリ,トコロ,トカチの土人四方八方より申合て此処へ攻来りし』ということであった。

ヲニシトムシは,『聯籠域ひるむ色なきまゝ,其寄せ手攻めあぐみけん,少しく攻め手緩みし時,ヲニシトムシ此辺りの浜へ少し其地勢を考,此処にてはよろしからずと急て居館を川口より十丁斗上なる今のチヤシコツへ引移し,川を堀通し,其前なる谷地を要害になし,いかなる勢にて攻来るとも何事かあらんと是に籠りありけるが,又々四方より攻来り,又々数月の対陣に及びけるに,此度前よりは又々要害堅固になりしかば,猶更 ひるまざるに,攻手今は詮方なしと皆其旗下に屈し過ける』という。

トミカラアイノは,『ハルトルの城を築き居住せしが,根室・厚岸・十勝三方より攻来り落城に及び,後サル シナイに城を築き居し時,また攻来りしが,前の谷地を堀となして防,勝利を得,城を子に譲り,ニシベツの 方に行住せしと』いうことである。

トミチアイノは,『シラリウトルの上に城を築き,舎利・根室の兵と戦,勝しと』いうことである。

またトミカラアイノの長子タサニシは,『サルシナイのにて諸方の敵を防ぎし』ということで,次子ヘケレニシは,『今のヌサウシの城に居しと』ということである。

『ヌサウシの城』は「幣舞のチャシ』,『ハルトルの城』は「春採湖畔のチャシ」,或るいは「ウライケチャシ」,『サルシナイの城』は「モシリヤのチャシ」,『シラリウトルの城』は「シラルトロチャシコツ」と呼ばれているチャシ跡であるという。

(シラルトロチャシは釧路湿原北東端シラルトロ湖北岸・標茶町コッタロ原野にある。)

宝暦6(1756)年6月,トミカラアイノが『クスリ酋長』として福山を訪れ,松前藩主に謁見しているが,これは『目見』である。この目見は,アイヌがいう「ウイマム」であり, 酋長代替りの挨拶と考えられる』。初代ヲニシトムシの死によって,トミカラアイノが『クスリの酋長』に就任した,その挨拶であった。

釧路アイヌの戦が,主としてヲニシトムシ,トミカラアイノ,トミチアイノの父子二代が,互に協力し連携して遂行したものとみられることからすれば,ヲニシトムシの死は,戦は既にその時期一応の終熄をみていたということになる。

この宝暦期頃には,松前藩の支配力はこの奥蝦夷地へも滲透し終えていた。

「東行漫筆」によれば,安永8(1779)年頃には,既にタサニシは釧路アイヌの『乙名』,すなわち酋長となっていて,釧路東岸の桂恋(かつらこい)のチャシに軍を集結し,釧路アイヌの『たから物』を掠奪に来るという国後アイヌのツキノエに備えている。

タサニシ一族は、釧路川筋や西別川上流の虹別(標茶町)と密接な関係をもっていた。虹別は、摩周湖から根室へ流れ出る西別川の上流に位置している。西別川は「ヌーシベツ」と呼ばれるほどサケの遡上で有名な川で、鮭の豊漁の川であり、クマやワシ猟に向いた土地であった。

トミカラアイノが,サルシナイのチャシをタサニシに譲り,その後移り住んだニシベツは,根室アイヌの領有する西別川の上流であり、根室アイヌが領有権を主張したので最終的には釧路アイヌが買い取ったという。

 

モシリヤチャシを見学後、山下りんの聖画を鑑賞するため北海道立釧路芸術館へ向かった。

釧路市立博物館③アイヌ文化 チャシ トミカラアイノ タサニシ


釧路市立博物館③アイヌ文化 チャシ トミカラアイノ タサニシ

2024年07月07日 09時39分59秒 | 北海道

釧路市立博物館。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

 

チャシはアイヌ語で「柵・柵囲い」の意味を持ち、アイヌ文化期に構築されたものである。築造・使用年代はおよそ16世紀から18世紀にかけてと考えられ、1条または数条の壕(ごう)を持つものが多く、かつては戦闘用の砦として解釈されてきたが、砦としての役割のほか、聖地、資源監視場や談合の場所など、地域や時代ごとにいろいろな機能があったと考えられている。

釧路市内ではモシリヤチャシ跡、鶴ヶ岱チャランケチャシ跡が国史跡に指定されている。発掘調査例では桂恋(かつらこい)フシココタンチャシなどがあり、発掘調査では柵列の跡やウミガメを埋葬した施設も見つかっている。

 

 

釧路市フシココタンチャシは、海に臨む崖の上に所在し、半円状の壕が1条掘り込まれている。壕の幅は約6~11m、深さは2~3mを測る。

長さ27mの壕が半円状に掘り込まれている。壕の両斜面には、逆茂木状のものが在ったと考えられている。壕の内側には、柵列と考えられる柱跡が、1,5m前後で 21 ヶ検出されている。もっとも深いのは1mちかくもある。

アカウミガメ、ガラス玉、船釘、大量のシカの骨、陶磁器片が出土している。注目されたのはアカウミガメで、浅く掘られた土坑に頭部を海に向けた状態で埋葬されていた。カメは「海を所有する神」として崇められている。このことから、このカメは霊送りをされたと考えられており、祭祀をおこなったことが理解できる。18 世記の築造とされている。

(「北海道東部のチャシ」豊原熙司から)

モシリアのチャシに係わるヲニシトムシから続くタサニシの家系図である。この中で、メンカクシ(精一郎)が文献にはよく出てくる。

安政5(1858)年,釧路を訪れた松浦武四郎は,その地の乙名(首長)メンカクシ(和名精一郎)から,いわゆる釧路アイヌの先祖の活動の様子を聞取りしている。

トミカラアイノ,タサニシ,ヘケレニシの三名については,他の文献にも登場し,実在の人物であることが確かである。

二代目トミカラアイノの名は,「松前志」(松前広長,天明元年=1781年)にみることが出来る。すなわち宝暦中東部夷地のクスリノ酋長「トヒカライン」と云へる夷人福山(現松前町)に来て領主へ謁す」とあり、宝暦6(1756)年のことという。

文化6(1809)年の「東行漫筆」(荒井保恵)に,『安永8(1779)年頃のこと,タサニシは釧路アイヌの長で あり,彼自身が将となって桂恋のチャシに軍を集めたという。

「寛政蝦夷乱取調日記」寛政元年(1789)に、「クスリの長人タシャニシ病気・・・」とあり、クナシリ・メナシの戦いの時には釧路の首長であったことがわかる。

文化5(1808)年の「久寿里場所大概書」には,『久寿里乙名ヘケレニシ』とある。

桂恋のチャシについては、「東行漫筆」によると、タシャニシとクナシリのツキノエとの戦場とんあっとみられる。「かつらこいの昼休所を出て直に坂を登る。山道になる。此坂の上右之方海岸に出張たるにチャシあり、これは三十ケ年以前くなしりのツキノエクスリの乙名タシャニシと申ものたかひにあらそいてツキノエのいかたよりたから物をうばひに来るとき急てクスリの夷人タシャニシを大将として弓矢竹槍を持て此チャシに集まりたると云」。

仕掛け弓(罠猟)

 

12時30分ごろから1時間ほど見学し、出るときにチャシ見学について尋ねると学芸員が対応した。モシリヤチャシは事前予約が必要だという。崖が急だという。ハルトリチャランケチャシは、ここからすぐ北近くにあり、駐車場もあるという。春採台でビッグとダイソーに寄る予定もあったので、雨が降ってはいるがハルトリチャランケチャシへ行くことにした。

釧路市立博物館②縄文晩期 幣舞(ぬさまい)式土器 緑ヶ岡式土器 続縄文・擦文時代


釧路市立博物館②縄文晩期 幣舞(ぬさまい)式土器 緑ヶ岡式土器 続縄文・擦文時代

2024年07月06日 11時28分17秒 | 北海道

釧路市立博物館。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

大洞C2式土器。縄文時代晩期中葉の土器。

大洞式土器は昭和12年、故山内清男氏が岩手県大洞貝塚などの調査成果をもとに、従来の亀ヶ岡式土器を整理改称したもので、B、BC、C1、C2、A、A’式の6型式に細分される。胴部にLR縄文地に「工字文」が描かれるものが多い。

大洞系土器は東海、近畿地方はもとより、近年では九州、中国、四国地方でも出土が目立っている。

北海道においては、第Ⅰ期(大洞B・BC式土器期)が北海道渡島半島の西南端と石狩勇払低地帯付近に存在し、第Ⅱ期(大洞C1式土器期)は奥地へ進出して小樽市郊外の余市町から石狩低地帯の東側を通って苫小牧を結ぶ線まで、第Ⅲ期(大洞C2式土器期)は、小樽市から南の室蘭市を結ぶ線まで達し、第Ⅳ期(大洞A式土器期)は、遠く宗谷岬の稚内市大岬オニキリベツから、東は釧路市の緑ヶ岡遺跡になるとされている。

道東北部では、栗沢式など縄文時代後期末ないし晩期初頭に至る土器のあと、大規模な遺跡が出現しないまま晩期終末をむかえるが、ここに至って、ふたたび中期以来の土着土器の隆盛期をむかえることになる。幣舞(ぬさまい)式土器とその流れをくむ緑ヶ岡式土器である。

幣舞(ぬさまい)式土器。

幣舞式土器は、縄文時代晩期後半の道東部を中心に拡がる在地色の強い土器である。釧路市南大通三丁目の幣舞遺跡から出土した土器をもとに設定された。

幣舞遺跡は、釧路川の河口を見おろす高台にあったため、早くから官庁街として開け、昭和三十七年の釧路市立郷土博物館による部分的な調査が行われただけで、大部分が破壊されて消滅した。昭和四十三年に付近の道路工事中に矢柄研磨器と日ノ浜式の精製壷を伴う晩期の墓壙が発見されたことから、墓地遺跡であったことが想定できる。

幣舞式土器は丸底の器形が特徴で、多種の器形で構成されることである。深鉢を主体として、浅鉢、壷形、舟形、片口、皿形の注口、双口土器などがある。特に深鉢の大形品が多いが、実用品とは考えられない小形品もしばしば見られる。底部は丸底や丸底気味の不安定なものが多い。

文様は縄文が多用されるが特に深鉢、浅鉢など日常の煮沸用土器に多い。普通は縄文の地文の上に、沈線文、縄線文、撚糸文などが施される。舟形土器は、縄文を地文とし、太めあるいは細めの沈線文を配し全面を真赤にベニガラを塗布したものも多い。

深鉢や壷形土器の口頸部には、沈線文や撚糸文が段状に施されることが多い。また、胴部まで縦にくねくねと鋸歯状(のこぎりばじょう)に施文された例がしばしば見られ、この型式の特徴の一つとなっている。

幣舞式土器には道南部の日ノ浜式の精製朱塗り壷形土器が伴出することがしばしば知られている。幣舞遺跡では完形壷形土器一個と数個体分の破片が出土している。

舟形土器は舳先に相当する部分が片方しか残っていないものの、舟のような形に復元される。こうした変わった形の土器は、墓への供え物など特殊な用途に使われたらしい。

幣舞式土器に伴う石器には、石鏃、石槍、靴形石匙(ナイフ)、搔器、削器、磨製石斧、矢柄研磨器などがある。特徴的な石器としては、黒曜石や玉隋などから作った靴形石器がある。

靴形石器はエスキモーが近年まで陸獣や海獣の解体処理に使用した石器に類似し、千島列島、アリューシャン、カムチャツカ方面の遺跡からも出土するところから、この方面から道東北部に伝播してきたものと考えられる。また、釧路市貝塚町一丁目の晩期の土壙墓から、被葬者の頭蓋骨下数センチメートルのベンガラ中よりソラ豆大の鉄片が出土している。このことから、道東部の縄文時代晩期には、すでに金属器の使用される時代に入っていたことを示している。

緑ヶ岡式土器。

緑ヶ岡式土器は、器形はヌサマイ式のそれを踏襲しているが、亀ヶ岡系の土器を伴わない。壷形土器や深鉢形土器の口縁部に工字文くずれの沈線文、縄線文などがあらわれ、舟形土器はヌサマイ式よりも薄手となり、胴部に無文帯をもつなどのちがいがある。また貝殻腹縁文や条痕文、撚糸文の施文をされるものもある。緑ヶ岡遺跡や幣舞遺跡の発掘で、ヌサマイ式の上層から緑ヶ岡式土器が出土しているので、ヌサマイ式に後続し、その新しい部分は続縄文時代に入るとみたほうが妥当である。(新札幌市史 第1巻 通史1)

緑ヶ岡遺跡は、釧路川河口から3km上流の左岸台地の段丘端、標高20mのところにあり、縄文時代晩期の墓地遺跡で、緑ヶ岡式土器の標式遺跡である。

1963年の調査では縄文時代晩期の墓が33基発掘された。うち1号基は直径2.25mもある大きな墓で、壁近くにしゃがんだ姿勢で8人の遺体が合葬されていた。

8体合葬の墓には、在地の幣舞式土器とともに、道南の日ノ浜式土器の壷などが出て注目された。他の墓からは、イノシシの下顎骨、コハク玉、貝玉などが出土した。別な墓では漆塗り櫛を頭部につけたままの状態のものもあった。道南部から移入された亀ヶ岡式土器も出土している。

亀ヶ岡式土器の終末は、青森県など東北地方で大洞A、A′式や砂沢式とよはれている形式である。北海道の南部や東北地方では、この土器形式が縄文土器の中で最も新しいものとなる。

この形式の前までは大洞C2式のように東北地方や北海道南部で同じ形式の土器が分布するが、この終末期になると工字文や山形の沈線文という共通する文様がありながら、地域的傾向を帯びるようになり、岩手県、青森県、函館周辺、尻岸内などではそれぞれの地域で特色を帯びるようになる。

昭和26年に市立函館博物館が七飯町の武佐川遺跡を調査したが、その上層から大洞A′式の浅鉢形土器が出土し、そのすぐ下から工字文と変形工字文のある土器群が出土した。これは大洞A式、砂沢式とは異なるもので、その後これと類似の土器群が尻岸内町(現函館市、旧恵山町)日ノ浜遺跡から出土して、日ノ浜式と呼ばれるようになった。(函館市史)

続縄文時代。

北海道の約2000年前から1300年前の時代を続縄文時代とよぶ。当時は自然の食糧に恵まれていたことや、寒冷な気候のために米作りが広まらなかったこともあり、縄文時代と同じ生活が続いた。

釧路地方ではサハリンやカムチャツカ半島、千島列島などから海の生きものを取る生活を中心とする文化の影響を受け、海岸大地に多くの集落が作られている。

この時代の後半になると河川に沿って、内陸へも生活の場を広げ、動物や魚、木の実などを取ってきて、食料にする暮らしが続いた。この時代の終わり頃には旧石器時代から使われてきた石器は姿を消し、次第に鉄製品に変わっていった。

この時代は土器形式から次の3種に代表される文化に編年される。すなわち恵山(えさん)式文化、江別式文化、後述する北大式文化である。それらは細分化される形式で、続縄文の前期を恵山式、中期を江別式、後期を北大式に時代区分すると、恵山式は弥生時代中期に、江別式は古墳時代中期に、北大式は古墳時代後期後半に比定される。

続縄文文化の初めのころは、北海道の南西部と北東部は異なる文化が広がっていた。

南西部には、道南の恵山(函館市)から名付けられた「恵山式土器」を用いた人々がいて、「恵山文化」と呼ばれている。恵山文化には多くの貝塚が残されており、釣り針やモリなどがたくさん見つかっている。このことから海の生業に依存していた文化だったと考えられる。また有珠モシリ遺跡から南海産のイモガイ製貝輪が発見されるなど、南の本州との交流があったことがわかっている。

また北東部では道南と異なる土器が使われ、副葬品として「コハク玉」が用いられた。芦別市の滝里安井遺跡からは約4000個の道内最大のコハクの首飾りが見つかっている。道北部のコハクにはサハリン産とされるものも見られ、北方との交流があったと考えられている。

続縄文文化後半には、北海道全域に「後北式土器」が広がり、この土器はさらに、東北地方や新潟県にまで広がった。このころは東北地方北部にも、続縄文文化が広がったと考えられる。

続縄文時代。深鉢。

左、興津式(おこつしき)土器。釧路市三津浦遺跡。

右、興津式土器。興津遺跡。口縁部に縄の刻みを施した山形突起が一対配される。文様は隆線、縄線文、刺突文からなる。山形突起の下には円孔をもつボタン様の貼付けがある。隆線はその両側と山形突起の無い位置にも一対ある。

興津式土器続縄文時代前半の土器。胴部が張り出して湾曲し、口縁部がくびれて外反する器形が多い。沈線文の消失、横走する帯縄文、口縁部下のボタン状突起、垂下する貼付文などの特徴がある。

道東部太平洋岸、根釧原野、知床半島南岸の地域を中心に分布する。下田ノ沢1式土器に先行する。

中奥。深鉢。下田ノ沢1式土器。釧路市三津浦遺跡。

下田ノ沢式土器。厚岸町内の下田ノ沢遺跡で発掘された続縄文時代(紀元前3世紀~紀元7世紀)の土器。この土器は「下田ノ沢式土器」といい、縄を転がして付ける縄文のほか、縄を押し付けたり(側面圧痕)、粘土紐を貼り付けたり(貼付文)、棒状の工具で内側から突く(突瘤文)という手法で作られていた。下田ノ沢I式土器は興津式から変遷し、突瘤文が特徴である。下田ノ沢II式土器は2本1単位の縄線文が特徴である。

下田ノ沢I式土器は、続縄文時代前期、下田ノ沢II式土器は続縄文時代中期(紀元前1~紀元1世紀頃)に相当する。

擦文時代。

北海道では約1300年前から700年前を擦文時代と呼び、現在とほぼ同じ自然環境のもと、動物や魚、木の実などを取って暮らしていた。

釧路川の河口近くから川筋に沿って、集落ができ、今も竪穴住居のあとが残されている。この時代は土器や鉄製品、機織りの技術、かまどをもつ竪穴住居など、本州文化の強い影響を受けている。

擦文土器には深鉢と高坏(たかつき)がある。擦文の名称は土器表面を整えるために木片が用いられ、すった木目あとが残されたことによる。木片で文様が刻まれ、縄文時代から使われてきた、縄目の文様は姿を消す。

深鉢。擦文時代。釧路市内遺跡。

湖州鏡。

中国、南宋の時代に浙江(せっこう)省湖州地方で作られた鏡で市内材木町の擦文時代の竪穴住居跡から出土した。

湖州鏡には円形、四角形などの様々な形があり、この鏡は四角形である。鏡の背面にいくつかの文字が刻まれているが、「こしゅうしん」という文字が読み取れる。

同じような鏡は東北から近畿地方の日本海側にかけて分布しており、展示している鏡と同様の銘を持つ四角形の鏡は山形県羽黒山の出羽三山神社前にある鏡池からまとまって見つかっている

北海道ではこれまで発掘された例がなく、たいへん貴重な出土品である。この鏡は擦文時代終わりに近い12世紀から13世紀頃のものと思われる。

釧路市立博物館①埋蔵文化財調査センター 釧路炭田 縄文土器 東釧路式土器 


釧路市立博物館①埋蔵文化財調査センター 釧路炭田 縄文土器 東釧路式土器 

2024年07月05日 09時10分38秒 | 北海道

釧路市立博物館。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

釧路湿原の南西端にある国史跡・北斗遺跡の見学を終え11時半ごろ、釧路市街地南東端にある釧路市立博物館へ向かった。12時15分ごろ博物館前の駐車場に着いたときは、激しい雨に見舞われた。

釧路市立博物館はたしかに威容のある建築物だ。1983年竣工、日本建築学会賞受賞作品タンチョウヅルが羽を広げヒナを抱くイメージで設計されたという。同じく毛綱毅曠(もづなきこう)の設計である釧路湿原展望台のミニ展示で見たとおりだった。一般的にはポストモダン、反機能主義とされるが、シンボリズム建築、現代のアールデコ、現代の神殿建築といえる。しばらくすれば、毛綱毅曠の建築群は重要文化財や世界遺産に指定されるだろう。権威主義・アカデミズムに目が曇らされなければ価値が分かるはずだ。

釧路市埋蔵文化財調査センター。博物館エントランスの西ウィングに土器の展示室がある。

釧路炭田の石炭はおよそ7000万年前の地層が屈曲してできた(褶曲という)凹地(くぼち)に植物や動物の遺骸がたまり炭化したものである。西側の浦幌・白糠の石炭層は最も古く、ついで雄別、さらに春採の石炭層順に堆積したと考えられている。

釧路炭田の形成は、約3800万年前の古第三紀漸新世の時代で、釧路管内を中心に、釧路沖の海底を含む広い範囲に浦幌層群と呼ばれる地層が堆積し、そのなかの春採(はるとり)層・天寧(てんねる)層・雄別層・双運層・尺別層に石炭が含まれている。

これらの地層の中には石炭の層が数十枚あり、普通1から3mの厚さだが、5mをこえるものもある。

釧路炭田の炭質は、発熱量は1kgあたり平均5000~6200calで、また揮発分が多く火がつきやすいため燃料用に適している。石炭は、植物が砂や泥にうめられて、長い地質時代をへて泥炭から亜炭、そして石炭へと変化したものである。

釧路の炭鉱は、現在日本で唯一の坑内掘り炭鉱として知られている。

釧路炭田は、函館港開港にともない1856年(安政3年)から採掘をはじめた北海道最古の炭田である。釧路総合振興局から十勝総合振興局の東部に広がる埋蔵量は25億トンの国内最大級の炭田である。日本国内唯一となる坑内掘り炭鉱が年50万トンで生産している。 炭質は亜瀝青炭。炭層が国内の他の炭田に比べて褶曲などが少なく水平でありメタンガス等の包含が少ないため生産の機械化、自動化によって鉱山事故の発生が極めて少ない良鉱である。 太平洋興発は釧路の太平洋炭礦が源流である。

江戸幕府が開国後、1856年に釧路市岩見浜(オソツナイ)で試掘を、翌年には国内最古とされる近代式炭鉱を白糠町の石炭岬に設置したのがはじまりである。

明治20年代から安田財閥による跡佐登硫黄鉱山の経営をきっかけに(硫黄製錬と輸送のための燃料として)、また大正期からは三井財閥、三菱財閥、といった財閥による炭鉱開発が積極的に行われた。釧路地域は、釧路港の開港、硫黄、木材、水産資源、そして石炭といった豊かな天然資源により、東北海道最大の都市として発展してきた。

第二次世界大戦後も、石狩炭田に次ぐ道内2位の炭田として、石炭を京浜工業地帯をはじめ東日本を中心とする各地の工業地帯へ供給し続けたが、エネルギー革命による石油燃料への転換、内外石炭価格差の拡大などを理由として、石炭政策下、1970年までに太平洋炭礦を除いてほとんどが閉山した。現在は、2002年に太平洋炭礦を縮小の上、継承した釧路コールマインが経営する『釧路炭鉱』が年間50万トンレベルでの生産を続け、また、ベトナム等への生産・鉱山保安等に関する技術移転を経済産業省の事業の受託として実施している。

釧路湿原おいたちは、最後のウルム氷期の中でも最も寒冷だったおよそ2万年前にさかのぼる。この時期の気温は現在より10℃近くも低く、海面は約100m低下したため、北海道とシベリアが陸続きとなった。

その当時、今日の湿原域は平らな台地で、川がこの台地を浸食し、現在の河川や谷の原型を作った。その後ゆっくりと気温が上昇し海氷が融け始めたため、陸地へ向かって海が広がる縄文海進が始まった。

約6千年前には最も奥深くまで海が進入し、現在の湿原域のほとんどが海に覆われ。この頃を境に気温は徐々に下がりはじめたため海は退き、約3000年前にシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖を海跡湖として残し釧路湿原が誕生した。

釧路湿原の約80%をヨシやスゲの湿原が占めている。ここは川や湧き水で潤されており、常に地下水位が高いという特徴がある。

地表面が地下水位よりも下にあるので、低層湿原とも呼ばれており、ヒメカイウ、ミツガシワなどの植物が多く見られ、ハンノキが林を作っている。

また湿原のいたる所には、池や沼の表面が植物の成長によって埋められてできた谷地眼(やちまなこ)と呼ばれる深い壷状の沼地がある。

ヨシやスゲなどの植物遺体がさらに堆積すると、やがては流水の影響をまったく受けないミズゴケ湿原になる。ミズゴケ湿原の地表面は地下水位よりも高くなるため、高層湿原とも呼ばれる。

高層湿原が釧路湿原に占める割合はわずか2%程度で、ヒメシャクナゲやイソツツジ、ツルコケモモ、モウセンゴケなど、高層湿原特有の植物が見られる。

 

縄文時代早期の土器。

道東の早期には,テンネル・暁式→条痕文系土器群→石刃鏃石器群を伴う土器群という大きな変遷がある。

条痕文系土器群とは,東釧路Ⅰ式・大楽毛式・下頃辺式・沼尻式などと呼ばれてきたものを総称したものである。

沼尻式土器。貝殻を押しつけたり引きずったりして施文した文様を特徴とする貝殻文・条痕文土器のグループで、沼尻遺跡で出土する条痕文のある平底土器。道南西部では土器の底がとがる尖底土器が中心となるのに対し、道東部では平底土器になる。平底土器は液体や食糧などを入れるのに用いられたもので、尖底土器は煮炊き用として使用されたものであった。

大楽毛式土器釧路湿原西側の代表的な遺跡大楽毛遺跡から出土。口縁部に微隆起線を大きく波型に貼付した土器。微隆起線上には刻み目を付ける例が多く、胴部には貝殻条痕文が施されている。

東釧路Ⅰ式土器。筒形・薄手で、土器の表面に繊維質の工具で横方向に擦ったあとが残された特徴をもつ。口が平らなものと波状のものがある。表面に明瞭な文様はない。

 

東釧路貝塚。

東釧路貝塚は、北海道釧路市貝塚一丁目にある縄文時代の貝塚遺跡。国の史跡に指定されている。

北海道釧路市貝塚にある縄文時代早期から近世にわたる、14層以上をもつ複合遺跡で、とくに縄文時代前期の貝塚としては、北海道内では最大規模である。根室本線の東釧路駅に南接し、釧路湿原に面する標高15m前後の平らな台地にある。

縄文時代前期の貝塚の大きさは、東西120m、南北90mの範囲で大小あわせて11のブロックが確認されている。貝層は厚いところで1mもあり、貝類の70%がアサリで占められ、カキ、ホタテ、ウバガイ、オオノガイなどの現生種とともに暖海性のアカガイ、シオフキなども含まれる。

魚類ではニシンが多く、サケ、マス類もみられる。

トド、アシカなどの海獣類や魚類、鳥類などの骨、また、押型文土器も出土している。

食料が手に入った時に行う儀式の場としても利用されていたとみられ、貝層中にはイルカの頭骨が放射状に配列されていた。トド、犬を埋葬した跡があり、イヌにはベンガラが振りかけられており宗教性をうかがわせる。

下層からは縄文時代早期の小貝塚、土器および多数の屈葬人骨が出土している。

墓壙は貝塚の広がる北東側から南東側にかけて、縄文時代前期を中心として、まとまって見つかっており、未発掘分も含めて200基ほどあると考えられる。それに対し住居跡は1軒しか発見されていない。

縄文時代早期の土器群(東釧路I式~IV式)が貝層下から、貝層中からは東釧路V式土器が出土した。また、縄文前期の豊富な骨角器(骨針、組合せ式釣針、装飾文様のある銛、ヤス、ヘアピンなど各種)も出土している。

東釧路III式土器。

東釧路貝塚で出土した土器は地層の下のほうから、東釧路I式、II式、III式、IV式、V式と名付けらた。

東釧路III式は縄文時代早期の終わり頃、北海道内に広く分布した土器で、鉢型の土器で底が平らでクの字状に張り出す特徴を持っている。

縄文時代に入って縄文の文様がもっとも発達した時で縄や紐を転がしたり、押し付けたりして文様がつけられている。

北筒式土器(ほくとうしきどき)縄文時代中期、約4500年前から、4000年前ころまでの円筒形の縄文土器。円筒形の器形は、東北北部・道南部の円筒土器文化から引き継がれたものである。

北筒Ⅰ式土器は、のちにモコト式土器と呼称され、北筒式とは異なる型式として認識されている。

北筒Ⅱ式土器は初期の土器で、北見市常呂遺跡から出土した最古のトコロ6類土器と次の段階のトコロ5類土器・細岡式土器に相当する。

最も古いグループのものは「トコロ6類土器」と呼ばれている。口の部分がやや分厚く作られ、その下に丸い穴がめぐる。胴部は下まで隙間なく縄文がつけられている。

釧路市北斗遺跡からは、これまで時期的な変遷が不明瞭であった北筒様式の土器群が層位的に発見され、第1段階から第5段階にいたる内容がはじめて明らかにされるにいたった。

釧路市 史跡北斗遺跡展示館②北斗遺跡の縄文時代