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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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京都 五山送り火 大文字山の大文字

2025年08月18日 16時08分49秒 | 京都府

2025年8月16日(土)。五山送り火(ござんのおくりび)。如意ヶ嶽(大文字山)の大文字。出町橋。

五山送り火は、毎年8月16日に、「大文字」(京都市左京区浄土寺・如意ヶ嶽。20時00分点火)、「松ケ崎妙法」(京都市左京区松ヶ崎・西山及び東山。20時05分点火)、「船形万灯籠」(京都市北区西賀茂・船山。20時10分点火)、「左大文字」(京都市北区大北山・大文字山。20時15分点火)、「鳥居形松明」(京都市右京区嵯峨鳥居本・曼荼羅山。20時20分点火)の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。

「大文字焼き」と俗称されていたが、1990年頃に日本文化史・茶道史の熊倉功夫教授が「今川焼のような焼き菓子みたいな表現ではなく、五山送り火が正しい表現だ」と指摘していたことを思い出す。

毎年ニュースで映像を見ているので、京都周辺での宿泊を要するイベント見学は避けていたが、8月6日にふと思いついて、トラベルコで8月16日(土)の安宿を探すと、7月15・16日に宿泊した祇園近くのホステル祇園 SORAが2460円で予約できた。宿泊税200円は現地で追加払い。

どこで見るかを検索すると、有料であれば五山全部を見られる場所もあるが、一般的には、京都御所の東側が「大」を見るポイントらしい。次に、京阪出町柳駅付近の河合橋だと、「大」と「妙法」の「法」が見られるらしい。宿から京阪三条まで徒歩10分程度なので、河合橋に行くことにした。

16日夕方からの行事なので、それ以外にどうするか。京の夏の旅の特別公開をチェックして、京都駅に近い「東本願寺御影堂門」と宿に近い「先斗町歌舞練場」を見学して、宿にチェックインすることにした。

17日(日)は、猛暑でも大丈夫な電車の乗り鉄の旅にすることにして、出町柳駅から叡山電車の鞍馬駅経由で八瀬駅から比叡山ケーブル・ロープウェイで比叡山頂上に行き、東塔バス停から坂本ケーブルまで歩きケーブルで坂本に降って、京阪電車比叡山坂本駅からワンデーフリー券で京津線の御陵駅、石山坂本線の石山寺駅へ行き、京阪石山駅でJR石山駅からJR東海道線に乗り換えて、名古屋まで帰るという行程にした。

JRは身障者半額なので、大曾根・京都が1310円、石山・名古屋が1160円。坂本ケーブルが半額で440円。残りは通常運賃で、京阪びわ湖1日観光チケットは700円。比叡山ケーブル・ロープウェイは1000円。

地域一帯がテーマパークとすれば、アトラクション料金として納得できる消費額である。

東本願寺。御影堂門。

8月16日(土)、名古屋の自宅を7時30分頃に出て、JR東海道線に乗り京都駅に10時50分頃に着いた。東本願寺は家の宗派であるので、5回程度は参拝し、渉成園も母親と見学している。通常は京都駅から歩くのだが、バスに乗ろうかと迷ったが歩くことにした。

御影堂門をくぐった南側階段下に特別公開の受付があった。料金は800円であるが、ひょっとしてと思い、障害者割引はあるか尋ねると半額となるといい驚いた。800円が400円になった。1980年代に毎年のように秋の特別公開に通ったが、当時は500円だった。最近は、1000円に値上がりしており、見学したことのある塔頭なども多いので、あまり関心がなかったが、半額であれば再訪してもいいかなと思った。

たまに、楼門の上階を見学することはあるが、久しぶりだ。

京都タワーはロウソクの形だという。

室内には釈迦如来三尊像が安置されている。

見学後、両堂に参拝し、参拝者控室で休憩し昼食のパンを食べた。

見学後地下鉄五条の駅まで歩いたが、猛暑は危険だ。頭痛がしたので軽度の熱中症かと思ったぐらいだ。

地下鉄五条駅に着いたが、先斗町へは河原町三条までバスに乗ることにした。

「先斗町歌舞練場」は、祇園祭のときに場所を知ったが、特別公開をしていたとは知らなかった。受付で400円を払うと、スタンプ用紙はあるかと尋ねられた。2か所のスタンプ印があると、ソフトクリームやアイスコーヒーなどを無料でいただけるチケットがもらえるという。16ある店は京都各所に散在している。翌日、出町柳駅に近い旧三井家下鴨別邸の喫茶室で抹茶シューアイスを食べた。ここは、施設入場料が必要だが、2年前に見学したことがあり、身障者無料と知っていた。

「先斗町歌舞練場」1階奥から鴨川。三条大橋。

2階観覧席。

3階廊下。映画「国宝」のロケ地。

見学後、河原町通りに戻り、業務スーパーで夕食・朝食などを購入して三条大橋・祇園経由で新橋通りにある宿へ行き16時ごろにチェックインした。大文字送り火は20時からで河合橋へは30分もあれば着ける。

ゲリラ豪雨の時期なので雨雲レーダーをチェックしたり、食堂で夕食を食べながらタイミングを見計らった。

17時ぐらいから雨雲が湧き出した。18時を過ぎても、ゲリラ的に不規則に動いていた。18時30分頃にいったん止んだので、折り畳み傘を持参のうえ宿を出て、京阪の三条駅に向かった。

19時前、出町柳駅に着くと、河合橋への出口付近は混雑しており、警察が道路規制を始めていた。

河合橋を西に歩くと、「デルタ」が閉鎖されかかっていて、かろうじて入ることができた「デルタ」という地名は初めて聞いた。東の高野川と西の賀茂川に囲まれた三角州を指すという。折り畳み椅子は持っていないので、道路に近い記念碑の土台石に座って20時を待った。

警官たちが、デルタは入場規制のため、入れないので、西の(賀茂川)河川敷へ向かえと通行人に怒鳴っていたが入口では、言い争いのような光景になっていた。ただ、警備上の抜け穴があって、欧米人10人ほどが、道路横に腰掛けながら体を転換してデルタに入ってきたのが笑えた。

19時半現在、京都府南部に大雨警報が発令されたという。雨が時折降ってきたので傘をさしてしのいだが、強い雨ではなかった。雨雲レーダーで見ると京都御所付近が強雨域になっていた。警官は河川敷が増水になると移動してもらうと脅していた。

デルタは、樹木が繁茂しており、下の河原も対岸のビル群にさえぎられて見えないのではないかと危惧していた。

19時55分になると騒がしくなり、20時になると点火されたようだが、河川敷上部からは、はっきり見えなかった。

道路側に近い場所に戻ると、樹木の間にはっきり見える場所があった。

20時10分ごろ、賀茂川の河川敷へ向かうことにした。

西の橋(出町橋)を渡ると、東方向に大文字がバランスよく見えていた。橋の欄干側は立ち止まって撮影する人が多い。警官も分かっているので、よほど混雑がひどくなければ黙認してくれている。

デルタよりも賀茂川の河川敷のほうが見学好位置だったが、その河川敷には規制で入れなかったが、西詰の入り口付近が一番よく見えた。そこからUターンして東の河合橋方面へ戻っていった。

河合橋の中途を過ぎると、上流側に「妙法」の「法」が見えてきた。情報は本当だった。「妙」が灯る山とは離れているので「法」しか見えない。

河合橋を渡り終わると、20時30分に近くなっており、通路規制もあって出町柳駅周辺は大混雑になっていた。

三条駅で下りて、途中「ローソン100」によって朝食用の弁当とアイスクリームを買った。21時過ぎに宿へ帰った。

京阪電車・叡山電鉄出町柳駅。

8月17日(日)。7時30分過ぎに宿を出て、出町柳駅に向かった。

河合橋東詰。

河合橋と「デルタ」。樹木のある台地と下の河川敷は観客が密集していた。

河合橋中ほどから上流方向。昨夜は「法」が見えていた。

出町橋東詰とから賀茂川河川敷。昨夜は観客が密集していた。

出町橋西詰から大文字山方向。

大文字山。

出町橋西詰から賀茂川河川敷への降り口。ここのベンチが最高の見学場所だろう。

9時過ぎに、旧三井家下鴨別邸へ行き、喫茶室で抹茶シューアイスを食べた。

出町柳駅9時30分発の叡山電鉄鞍馬行に乗車。

叡山電鉄鞍馬駅。

叡山電鉄八瀬比叡山口駅。宝が池駅で乗換え。

叡山ケーブルから乗り継いだ叡山ロープウェイから岩倉方面を見下ろす。

山頂駅から「比叡山頂」停留所へ歩いてシャトルバスに乗り、東塔バス停で下車して坂本ケーブル延暦寺駅まで歩く。11時30分が発車した直後に着いたので、12時の発車まで待つ。

ケーブル延暦寺駅。

ケーブル延暦寺駅。2階から琵琶湖方面。

ケーブル坂本駅から連絡バスで京阪石山坂本線の坂本比叡山口駅へ。

坂本比叡山口駅。

無人駅なのでワンデーフリー券は販売していなかった。インターホンで連絡すると、浜大津駅で購入するよう案内された。

石山寺駅。

12時45分頃、浜大津駅でワンデーフリー券を購入。駅周辺を眺めようとしたが、豪雨のため断念。京津線(けいしんせん)の御陵駅まで往復。浜大津駅で石山寺駅行きに乗車。短時間駅を出たのち、石山駅まで乗車。JR東海道線へ乗換えて、名古屋駅へ16時ごろ帰った。


京都祇園祭①概観 宵山 注連縄切りと山鉾巡行 八坂神社の神輿渡御

2025年08月14日 21時23分20秒 | 京都府

2025年7月17日(木)。祇園祭のハイライト。山鉾巡行。長刀鉾。稚児による斎竹の注連縄切り。

2025年7月15日から18日まで、京都に3泊して祇園祭見学を中心に旅行した。1980年代初めに民俗行事や祭りに興味を持ち、書籍や旅行ガイドを参考に、名古屋周辺や奈良(二月堂のお水取り、若草山の山焼き、飛鳥坐神社のおんだ祭)、京都(八坂神社のおけら詣り、鞍馬寺の竹伐り会式)を見学した。その頃に、八坂神社の祇園祭が疫病除けから始まったことを知った。八坂神社のおけら詣りは12月31日19時過ぎだったので、火種をくるくる回しながら京阪の駅まで歩き、結局電車に乗る前に消したが、大阪で宿泊したような記憶がある。当時も、京都の宿は高かったので、小学校の修学旅行で泊まったぐらいか。

2年ほど前から心残りになっていた京都の民俗行事や祭りを何とか見学しようと思い立ち、2024年は8月24日に化野念仏寺の千灯供養、12月7日に千本釈迦堂の大根焚きを、いずれも日帰りで見学した。京都で泊まるということは、宿泊費の高さから考えていなかった。しかし、2024年春頃から東京での安宿探しに、10年ぶりぐらいに楽天トラベルを使い、秋ごろからはトラベルコで安宿を探すようになった。2025年になって、祇園祭を見学しておきたいという思いが強くなった。祇園祭を見学しなかったのは、夜の行事なので宿が必要になるという経済的な点が多かった。大阪だと1000円ほどの宿もあるが、大阪京都間の往復運賃も結構高い。

3月初めに、トラベルコで探すと、2715円のホステル祇園 SORAが八坂神社の近くにあった。祇園祭は宵山のコンチキチンぐらいのイメージだったので、7月15日(火)のみ予約した。その後、ネットで祇園祭の日程を調べると、7月17日9時過ぎに注連縄切りが四条通で行われると知り、7月16日(水)の宿泊も予約した。さらに、直前になった7月初めにネットを読んでいくと、祇園祭の神輿巡行が7月17日の夕方に行われると知り、7月17日(金)の宿を検索すると、ホステル祇園 SORAはもう空いてなく、丸太町智恵光院バス停近くのコンテニュー二条城北が2367円で予約できた。いずれも200円の宿泊税をフロントで払った。

祇園祭の見学ポイントは、ネットを読んでも漠然としていた。テレビニュースで見るイメージしかない。宵山と注連縄切りぐらいだ。山鉾巡行は7月17日で、その前夜が宵山、その前夜を宵々山という。

7月初めに、関連書籍を斜め読みすると、「御霊会の初見は平安時代初期863年に神泉苑で開かれた御霊会で、藤原基経らが勅命より行事を監督し、主な公卿が列席した。僧侶に金光明経・般若心経を講させ、雅楽寮の楽人に音楽を奏させ、天皇近侍の児童らに大唐舞や高麗舞を舞わせ、雑伎散楽を競わせ、市民にも自由に見学させた。

御霊とは、祟りをなす怨魂のことで、疫病の原因と考えられた。御霊会は、鎮魂のために仏を祀り経を誦し、歌舞演劇・相撲騎射など賑やかに歓を尽くすもので、すでに全国的な民間習俗になっていた。

空也に始まる踊り念仏は、この歌舞と同じ意味を持ち、のちの日本の歌舞の基調となる。

御霊会特有のものは風流で、種々の扮装をこらしたり、人形などの作りものを仮構することで、のちに山鉾に発展した。

御霊会には、本来恒常的に祀る社殿はなく、大祓が羅城門や朱雀門の外で行われたと同じく平安京の郊外各地で行われた。八坂の地も鳥辺野という葬地に近いことが祇園社造営の一因かもしれない。

行事の眼目は神輿迎えと神送りであるが、中世・近世を経て山鉾巡行を主とするようになっていった。」

(「民衆宗教史叢書第五巻御霊信仰」1984所収「祇園御霊会‐その成立と意義」柴田實、1966)

祇園祭の日程を見ると、八坂神社での神事町衆の山鉾巡行に大別される。

7月15日(火)は、八坂神社で伝統芸能奉納(15時〜18時、 日本舞踊や尺八などを奉納)。20時宵宮祭(本殿から神輿に神霊を移す神事)四条通と周辺で宵々山。

7月16日(水)は、八坂神社と周辺で、宵宮神賑奉納神事(18時から深夜まで・四条通祇園商店街)。石見神楽(18時半・八坂神社)、前祭・日和神楽(22時頃)四条通と周辺で宵山

7月17日(木)。9時に山鉾が長刀鉾を先頭に四条烏丸を出発、9時20分頃に四条麩屋町交差点で長刀鉾の稚児による斎竹(いみたけ)の注連縄切り16時から八坂神社~四条御旅所で神幸祭(しんこうさい) と神輿渡御(みこしとぎょ)。

7月18日(金)。とくに行事はないが、四条御旅所で神輿を見学。

八坂神社は約40年前に見学しただけだ。周辺の知恩院、建仁寺や塔頭も見学したことはある。しかし、祇園や四条河原町周辺はほとんど知らないに等しいし、祇園祭は一度も見学していないので地理的な感覚はなかった。

7月15日は17時過ぎから宿を出て、四条河原町から四条通を歩き、18時からの歩行者天国以降も西へ歩いたが、人通りが多いだけで山鉾を見つけられなかった。山鉾群は烏丸通近くから西に並んでいるので遠い位置にあったのだ。もう少し歩けば、またいくつかあるHPの一つの山鉾配置マップを見ていれば分かったのだが。

7月16日の18時ごろ四条河原町から再度西へ歩いた直後に阪急の祇園祭ガイドマップを拾って、山鉾の位置が分かった。これなら四条烏丸から歩き始めたほうが良かったのだ。

先頭にある長刀鉾。西方向に艦隊のように山鉾が連なっていた。

コンチキチン 京都 祇園祭 宵山 月鉾

月鉾の露店。

コンチキチン 京都 祇園祭 宵山 岩戸山

岩戸山。内部拝観。@500。

ろうそく売りのわらべ歌 京都 祇園祭 宵山 太子山

蟷螂山。

山鉾10基ほどを見学、1基は内部に登った。いったん宿に戻り、22時から八坂神社で日和神楽を見学した。

7月17日は、9時20分頃の四条麩屋町交差点での長刀鉾の稚児による注連縄切りが祇園祭のメインイベントなので、8時に四条烏丸に着いたが、路上規制があり地下街を東に歩いて藤井大丸から地上へ出るしかなくなった。これなら、四条河原町から歩いたほうが早かった

北側歩道を歩いて四条麩屋町交差点日新火災ビルすぐ東の「アディダス」店舗付近のシャッター前に陣取ることができたのは8時30分を過ぎだった。ここは好位置だった。向かいのホテルグランバッハなどのビル上階からは屋内から見学できるが少し遠い。10基ほどの山鉾を眺めたあと、くじ改めを見ようと、西へ歩いて20分ほど見たが全景が見えなかったので、南側の歩道へ移動しようとしたら藤井大丸の地点でしか移動できず、くじ改めの南側地点まで歩いた11時30分の時点でくじ改めは終わっていた。

四条麩屋町北の東側でしめ縄切を見学したあとすぐに、四条堺町南の東側へ移動して、くじ改めと神賑わいを見学したほうが良いと知った。

その後、丸太町智恵光院バス停近くのコンテニュー二条城北へ行き、15時まで待たされてチェックイン。バスに乗り八坂神社へ向かった。16時ごろに八坂神社に着くと、境内は満杯で神幸祭見学どころではなかった

八坂神社。暴れ神輿。祇園祭神輿渡御。

2025年7月17日。

17時に八坂神社前交差点の四条通り北側1車線が神輿渡御の見学用に開放され、何とか好位置を確保することができた。18時30分過ぎまで見学後、宿へ帰るため三条京阪のバス停方面へ歩くと祇園で3基のうち1基の神輿が巡行していた。

7月18日、二条城と御金神社を見学後、四条御旅所へ行くと、3基の神輿が鎮座していた。

7月17日(木)以外は、夕方以降の行事が多い。

そこで、7月15日(火)は、午前中に、龍谷ミュージアムと龍谷大学の見学

午後は京都迎賓館

7月16日(水)午前は泉屋博古館を見学した。いずれも身障者無料である。7月17日は宿の移動。

二条城。重文・本丸御殿。

御金神社。

7月18日は余分な日程になったが、宿の付近の二条城が身障者無料だったので約40年ぶりに見学し、その後、付近にある御金神社に参拝し、四条御旅所を経て、名古屋へ帰宅した。

祇園。新橋。

ホステル祇園 SORAは新橋通にある。グーグルマップを見ると、祇園のすぐ東だ。祇園が重伝建というのは初めて知った。15時過ぎに三条京阪のバス停から南下すると祇園の通りに入った。なかなか風情がある。新橋を渡り、東へ歩くとビルの2階に宿があった。

ホステルはニュージーランド、オーストラリア、ハワイ、アラスカ、ヨルダンへの旅行でYHAなどのホステルに100泊ほど泊まった。日本ではゲストハウスとよばれる。15年ほど前に沖縄の石垣島のゲストハウスでで3泊ほどしたが、違いは海外ではキッチンでスーパーで買った食材を調理できることと、2段ベッドがカーテンなしで置かれていることが多いことだ。日本はカプセルホテルに似ているが、テレビがないというぐらいの違いがある。大々的な調理はまずできない。

日本のホステルは、カーテンでプライバシーが守られているので、充分利用できると分かった。


京都国立博物館の特別展「日本、美のるつぼ」前期 見学

2025年04月26日 13時18分52秒 | 京都府

2025年4月25日(金)、名古屋から日帰り旅行で、京都国立博物館の特別展「日本、美のるつぼ」見学と近江鉄道のワンデーフリー券を利用して全線乗り回りをしてきた。京博の特別展は大阪万博にともなうもので、奈良博と大阪市美の3館が国宝を展観している。各館とも前期・後期で目玉が違い、雪舟の国宝「天橋立図」は、大阪市美では5月27日~6月8日、京博は6月10日~15日に出品されるので、スケジュールを検討することが必要になる。

4月26日からはGWになるので、その直前を狙い、近江鉄道のワンデーフリーは金土日が対象なので金曜日にした。

4月11日から22日まで千葉県を旅行したが、20日ごろから左足の膝を痛めた。京都まではJRを予定していたが、乗り換えに苦労しそうなので、急遽ハイウェイバスを利用することにして、23日にバスを予約した。

名古屋駅7時45分発の超特急バスは京都駅10時着予定で実際には10時10分着だった。バスは久しぶりだったので、第2名神経由に変わっていたことは知らなかった。東名阪が名古屋西インターから工事中なので若干渋滞していた。

京都駅に着いて、市バスに乗車し、京博に入場したのは10時35分だった。市バスの206は満員だったが208は空いていた。市バスに乗る観光客が少なめだったのは助かった。

京博もそれほど混んでいなかった。第1室でロープと行列があったのは、葛飾北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」「凱風快晴」「山下白雨」の3点で、並びかけたが、版画はどこでも見られると思い、ロープ外から眺めるだけにとどめた。

京都駅13時発の新快速で近江八幡に行くとなると、時間がないので、列に並ばずに後ろから鑑賞するようにした。見たことがある美術品が多いからでもある。撮影は1点を除き禁止。

俵屋宗達筆国宝「風神雷神図屛風」は初見だと思う。人が少なくじっくり鑑賞できた。

紙本金地著色風神雷神図〈俵屋宗達筆/二曲屏風〉

(各)縦154.5cm 横169.8cm 江戸時代 17世紀 京都・建仁寺

「款記も印章もそなわらないこの屏風が、俵屋宗達(生没年不詳)であることを疑う人はいない。尾形光琳も、これを模倣した作品を制作している。

ここに貼りつめられた金箔は、描かれる物象の形を際立たせ、金自体が本然的にもっている装飾的効果として働いている。そればかりではなく、この屏風においては、金箔の部分は無限の奥行をもつある濃密な空間に変質しているのである。つまり、この金箔は、単なる装飾であることを越えて、無限空間のただなかに現れた鬼神を描くという表現意識を裏打ちするものとして、明確な存在理由をもっている。傑作と呼ばれるゆえんがここにある。」

国宝「家形飾環頭柄頭」奈良県東大寺山古墳出土品

奈良県天理市檪本町 東大寺山古墳出土 1口

柄頭:銅鋳製刀身:鉄製 長123.0  古墳時代・4世紀 東京国立博物館 

「中国の素(そ)環(かん)頭(とう)大(た)刀(ち)をモデルにした日本列島独自の青銅製環頭です。切(きり)妻(づま)造(づくり)伏(ふせ)屋(や)建物(竪穴住居)は、家(か)屋(おく)文(もん)鏡や子持家形埴輪以外には例がない独創的な造形です。通常の竪穴住居とは異なる重要な建物であり、集会所や喪屋(もや)であるという説もあります。」

東大寺山古墳は、奈良盆地東縁の沖積地との比高差70mの低丘陵尾根上に位置する。自然地形を利用した北向の前方後円墳で、全長約130m、後円部径約80m、前方部幅約50mである。昭和36・41(1961・66)年に発掘調査され、後円部で葺石と円筒埴輪列のほか、靫形・甲冑形埴輪が確認された。後円部粘土槨から碧玉製腕飾類(鍬形石・車輪石・石釧)・滑石製台付坩など、棺外から鉄剣・環頭(素環頭・青銅製環頭)大刀などの武器・武具類・革製漆塗楯などが多量に出土した。

「中平」銘金象嵌花形飾環頭大刀は紀年銘をもつ日本最古の遺物で、中国製刀身部を改造して三葉環頭を基に退化した直弧文ないし竜文を施した日本列島独自の環頭部に交換したと考えられる。他に環頭大刀・木製把頭大刀13本、鉄剣・ヤリ25点以上、銅鏃261点、革製短甲1点、巴形銅器7点出土した。玉類計62点、鏃形石製品45点、坩形石製品13点が出土し、碧玉製腕飾類計51点は全国8番目であるが、銅鏃・坩形石製品と鍬形石26点は最多である。

宝賀寿男氏の説では、東大寺山古墳の被葬者は、4世紀前半、崇神朝に活躍し、王族の武埴安彦の謀反を阿倍氏の祖・大彦命とともに討伐した海神族和珥氏の3代彦国葺命という。

唐物茄子茶入 付藻茄子 静嘉堂文庫美術館

九十九髪茄子ともいう。当初は足利義満が所有していたと伝えられている。その後足利義政により山名是豊に与えられた。その後伊佐宋雲の手に渡り朝倉宗滴(朝倉教景)が五百貫で購入したとされている。後に宗滴から越前小袖屋に質入れされた。1558年に松永久秀が一千貫にて入手する。1568年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長への降伏のしるしとして献上した。

織田信長没後、本能寺の焼け跡から拾い出された九十九髪茄子は豊臣秀吉に献上された。しかし、秀吉は焼けて釉薬の輝きが失われた九十九髪茄子を好まず、有馬則頼に与えた。有馬則頼の没後、九十九髪茄子は大坂城に戻されるが、1615年大坂城落城の際に再度罹災する。

徳川家康の命により藤重藤元・藤厳父子が大坂城焼け跡から探し出し、破片を漆で継ぎ合わせて修復を行った。家康は修復の出来映えの褒美として藤元に九十九髪茄子を与えた。以後、藤重家に伝来したが、1876年(明治9年)に岩崎弥之助に譲られた。

青磁輪花茶碗 銘 鎹(かすがい)  マスプロ美術館

馬蝗絆(ばこうはん)ともいわれる。平 重盛(1138〜79)が、南宋の国と天目山に3000両の喜捨をした。その返礼に青磁の茶碗が贈られてきた。これがその茶碗で、1セット2個。龍泉窯、南宋時代の砧手で、青磁の色、形、共に最上手のものであった。

足利義政が後に、この茶碗を手に入れたが、熱湯のためかヒビ割れができたので、明の国に取替えを要求。しかし、このような茶碗はもう焼成できないと、2個ともヒビ補強にカスガイを打って返却されてきた。その後、馬蝗絆 (イナゴ絆)と呼ばれ名声を博し、青磁といえば、先ず馬蝗絆が筆頭にあげられるようになった。

馬蝗絆は、足利将軍家に伝えられた以後、織田三五郎(信長の弟である有楽の孫)に伝来、その後、角倉家、平瀬家等に伝来。1951年、東京の久米邸で、この兄弟2個が出会い、比較鑑賞された。

 

12時15分ごろに京博を出た。25分ごろに京都駅行きの市バスに乗車、40分頃に着いた。


京都市 常照皇寺の九重桜 国天然記念物

2025年03月29日 08時29分40秒 | 京都府

国天然記念物。九重桜。常照皇寺(じょうしょうこうじ)。京都市右京区京北。

2021年4月1日(木)から3日(土)まで京都府を旅行した。目的は常照皇寺の桜。それだけでは勿体ないので1週間程度の期間を予定したが、3日に短縮して、周山城、美山かやぶきの里、綾部市内の大本教本部址などを目的地とした。美山民俗資料館は現在土日祝日のみ開館。

京都は1980年ごろから90年代初めまで毎年10日ほど日帰りで観光し、桂離宮・修学院離宮・苔寺や秋・春・冬・夏の非公開寺院、平安神宮・醍醐寺三宝院・仁和寺の桜などで150回ほど観光しているので、70年代に発行されたJTBのガイドブックに出てくる名所はほとんど訪れたが、化野念仏寺、城南宮は未訪。常照皇寺はバスが不便なので、いずれはと思い、花粉症がひどくなくなった2年前から4月中旬に訪問するつもりがずれ込んだ。京都府で唯一桜として天然記念物に指定されている常照皇寺の九重桜の開花情報をネットでチェックしていたら3月27日に九重桜は満開近く、「左近の桜」がチラホラだったので、急遽訪問することに決めた。

4月1日9時30分に名古屋市守山区新守山駅近くの業務スーパーを出て、国道21号線岐阜大垣経由で滋賀県米原に入り、ナビに従い琵琶湖沿いの湖岸道路を進み、琵琶湖大橋へ。そのまま北西の山中へ分け入ると国道477号線が全車1車線の離合困難区間が15分ほど続く。登山アクセスで慣れてはいるが、久しぶりなのでライトを点灯し、2回3台ほどとミラーを折り畳んで離合。花背峠から西に進むと、桜が各所で満開の見頃だった。14時30分ごろ常照皇寺の駐車場に到着

常照皇寺山門前の紅枝垂桜。

常照皇寺山門前の紅枝垂桜。

常照皇寺。案内。この寺の開山は、南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳上皇である。光厳上皇は観応3年/正平7年(1352年)、大和国賀名生の南朝後村上天皇行宮にて落飾(出家)し、禅宗に帰依した。帰京の後、貞治元年/正平17年(1362年)、丹波山国庄を訪れ、同地にあった成就寺という無住の寺を改めて開創したのが常照皇寺の始まりである。上皇はその2年後に示寂し、当地に葬られた。

常照皇寺。山門。行きは横の脇道から登り、帰りは石段を下った。

常照皇寺。勅額門。

勅額。

常照皇寺。勅使門下。

門の上右横は「御車返しの桜」上部。その右は「九重桜」。

受付で500円支払って入場。方丈と庭へ。

常照皇寺。方丈南の「御車返しの桜」。一重と八重が一枝に咲く。

まだつぼみだった。

常照皇寺。方丈と「御車返しの桜」。

常照皇寺。方丈。尊釈迦如来立像は通常と異なり、天井近くの鴨居上の仏壇に安置されている。

常照皇寺。九重桜とシャクナゲ。

常照皇寺。方丈と開山堂(怡雲閣)。

常照皇寺。「左近の桜」。御所から株分けしたという。

常照皇寺。枝垂桜。

崖上の仏堂から九重桜。

九重桜と開山堂(怡雲閣)。

九重桜と開山堂(怡雲閣)。

九重桜。

九重桜と青空。

方丈から九重桜。

方丈から九重桜と開山堂(怡雲閣)。

方丈北の庭園。左に滝の水音が聞こえる。百羅漢のような風情の石組み群である。

方丈北。庭園と開山堂(怡雲閣)。中央上が光厳天皇山国陵と思われる。

開山堂渡廊下から九重桜。

開山堂(怡雲閣)。方丈も含めて、柱上に仏像が置かれているのが特徴だと語る人がいた。

開山堂(怡雲閣)。

開山堂(怡雲閣)。

 

常照皇寺を出て、道の駅「ウッディー京北」へ向かった。翌日は明智光秀の山城であった周山城の見学から始まる。


京都 北野天満宮 史跡御土居のもみじ苑公開 

2024年12月10日 09時47分12秒 | 京都府

北野天満宮。史跡御土居のもみじ苑公開

2024年12月7日(土)京都へ行き、千本釈迦堂の大根炊き北野天満宮の紅葉を見学した。13時10分ごろに千本釈迦堂を出て、西に10分ほど歩き北野天満宮の境内に入った。史跡「御土居(おどい)」は、数年前にブラタモリで紹介されてから、実際に見学しようとしていたが、観光名所ではないので訪問しずらい。

もみじ苑公開は、2024年10月25日(金)~12月8日(日)。12月15日(日)まで延長。

「御土居(おどい)」は豊臣秀吉公が築造した京廻りの土塁で、史跡に指定されている。北野天満宮の「御土居」は原型に最も近く、そこに並ぶカエデの紅葉は、脇に流れる紙屋川の水面に映え、野趣に富んだ風景が楽しめる。中学生以上:1200円(お茶菓子付)

豊臣秀吉公の築いた史跡御土居に自生する約350本のモミジが、紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋と共演し、赤や黄に見事に染まった木々が紙屋川の水面に映え渡り人々を錦秋の世界へ誘う。

桃山時代、豊臣秀吉公は洛中洛外の境界、水防のための土塁「御土居」を築いた。その一部が現在も残る境内の西側一帯は、長らく自然林で自生のものと後に植林されたものを含め、現在、約350本の紅葉を有する名所「史跡御土居のもみじ苑」となっている。

紙屋川にかかる朱塗りの太鼓橋「鶯橋」や、茶室の梅交軒に設けた舞台、国宝御本殿をはじめ境内を一望できる展望所からの眺めは絶景である。

紅葉の間から国宝の御本殿を望む。国宝御本殿と約350本の紅葉が織りなす絶景。

御祭神 菅原道真公を祭る北野天満宮は天神信仰発祥の地であり、日本中に12000社もあるといわれる全国天満宮・天神社の総本社。桃山時代に豊臣秀吉公は洛中洛外の境界、水防のための土塁「御土居」を築いた。その一部が残る境内の西側一帯は史跡として指定され、現在、約350本の紅葉を有する名所「もみじ苑」となっている。また展望所から眺める国宝御本殿と紅葉の風景は正に絶景

御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。

台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。

 江戸時代になると天下太平の世が続き,外敵の脅威もなく御土居は次第に無用の存在となり,また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され,北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。

 昭和5年(1930),市内に残る御土居のうち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,また,広く我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定,昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が指定地となっています。

 また,これら指定地以外では,北区の大宮交通公園内や中京区の北野中学校内でも,部分的に御土居が残っています。

茶室の梅交軒に設けた舞台

紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋

中央に暗渠排水口が残る。

紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋

下から上を見上げる。

 

もみじ苑出口にある茶店でほうじ茶を飲んで見学を終えた。14時ごろだったが、入場する人もまだ多い。外人客もいるが少なかった。

バス停には長い行列ができていたが、203系統のバスが来ても乗り込む乗客は少なく、それほど混まずに地下鉄今出川まで乗車できた。

京都 千本釈迦堂の大根炊き