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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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京都国立博物館の特別展「日本、美のるつぼ」前期 見学

2025年04月26日 13時18分52秒 | 京都府

2025年4月25日(金)、名古屋から日帰り旅行で、京都国立博物館の特別展「日本、美のるつぼ」見学と近江鉄道のワンデーフリー券を利用して全線乗り回りをしてきた。京博の特別展は大阪万博にともなうもので、奈良博と大阪市美の3館が国宝を展観している。各館とも前期・後期で目玉が違い、雪舟の国宝「天橋立図」は、大阪市美では5月27日~6月8日、京博は6月10日~15日に出品されるので、スケジュールを検討することが必要になる。

4月26日からはGWになるので、その直前を狙い、近江鉄道のワンデーフリーは金土日が対象なので金曜日にした。

4月11日から22日まで千葉県を旅行したが、20日ごろから左足の膝を痛めた。京都まではJRを予定していたが、乗り換えに苦労しそうなので、急遽ハイウェイバスを利用することにして、23日にバスを予約した。

名古屋駅7時45分発の超特急バスは京都駅10時着予定で実際には10時10分着だった。バスは久しぶりだったので、第2名神経由に変わっていたことは知らなかった。東名阪が名古屋西インターから工事中なので若干渋滞していた。

京都駅に着いて、市バスに乗車し、京博に入場したのは10時35分だった。市バスの206は満員だったが208は空いていた。市バスに乗る観光客が少なめだったのは助かった。

京博もそれほど混んでいなかった。第1室でロープと行列があったのは、葛飾北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」「凱風快晴」「山下白雨」の3点で、並びかけたが、版画はどこでも見られると思い、ロープ外から眺めるだけにとどめた。

京都駅13時発の新快速で近江八幡に行くとなると、時間がないので、列に並ばずに後ろから鑑賞するようにした。見たことがある美術品が多いからでもある。撮影は1点を除き禁止。

俵屋宗達筆国宝「風神雷神図屛風」は初見だと思う。人が少なくじっくり鑑賞できた。

紙本金地著色風神雷神図〈俵屋宗達筆/二曲屏風〉

(各)縦154.5cm 横169.8cm 江戸時代 17世紀 京都・建仁寺

「款記も印章もそなわらないこの屏風が、俵屋宗達(生没年不詳)であることを疑う人はいない。尾形光琳も、これを模倣した作品を制作している。

ここに貼りつめられた金箔は、描かれる物象の形を際立たせ、金自体が本然的にもっている装飾的効果として働いている。そればかりではなく、この屏風においては、金箔の部分は無限の奥行をもつある濃密な空間に変質しているのである。つまり、この金箔は、単なる装飾であることを越えて、無限空間のただなかに現れた鬼神を描くという表現意識を裏打ちするものとして、明確な存在理由をもっている。傑作と呼ばれるゆえんがここにある。」

国宝「家形飾環頭柄頭」奈良県東大寺山古墳出土品

奈良県天理市檪本町 東大寺山古墳出土 1口

柄頭:銅鋳製刀身:鉄製 長123.0  古墳時代・4世紀 東京国立博物館 

「中国の素(そ)環(かん)頭(とう)大(た)刀(ち)をモデルにした日本列島独自の青銅製環頭です。切(きり)妻(づま)造(づくり)伏(ふせ)屋(や)建物(竪穴住居)は、家(か)屋(おく)文(もん)鏡や子持家形埴輪以外には例がない独創的な造形です。通常の竪穴住居とは異なる重要な建物であり、集会所や喪屋(もや)であるという説もあります。」

東大寺山古墳は、奈良盆地東縁の沖積地との比高差70mの低丘陵尾根上に位置する。自然地形を利用した北向の前方後円墳で、全長約130m、後円部径約80m、前方部幅約50mである。昭和36・41(1961・66)年に発掘調査され、後円部で葺石と円筒埴輪列のほか、靫形・甲冑形埴輪が確認された。後円部粘土槨から碧玉製腕飾類(鍬形石・車輪石・石釧)・滑石製台付坩など、棺外から鉄剣・環頭(素環頭・青銅製環頭)大刀などの武器・武具類・革製漆塗楯などが多量に出土した。

「中平」銘金象嵌花形飾環頭大刀は紀年銘をもつ日本最古の遺物で、中国製刀身部を改造して三葉環頭を基に退化した直弧文ないし竜文を施した日本列島独自の環頭部に交換したと考えられる。他に環頭大刀・木製把頭大刀13本、鉄剣・ヤリ25点以上、銅鏃261点、革製短甲1点、巴形銅器7点出土した。玉類計62点、鏃形石製品45点、坩形石製品13点が出土し、碧玉製腕飾類計51点は全国8番目であるが、銅鏃・坩形石製品と鍬形石26点は最多である。

宝賀寿男氏の説では、東大寺山古墳の被葬者は、4世紀前半、崇神朝に活躍し、王族の武埴安彦の謀反を阿倍氏の祖・大彦命とともに討伐した海神族和珥氏の3代彦国葺命という。

唐物茄子茶入 付藻茄子 静嘉堂文庫美術館

九十九髪茄子ともいう。当初は足利義満が所有していたと伝えられている。その後足利義政により山名是豊に与えられた。その後伊佐宋雲の手に渡り朝倉宗滴(朝倉教景)が五百貫で購入したとされている。後に宗滴から越前小袖屋に質入れされた。1558年に松永久秀が一千貫にて入手する。1568年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長への降伏のしるしとして献上した。

織田信長没後、本能寺の焼け跡から拾い出された九十九髪茄子は豊臣秀吉に献上された。しかし、秀吉は焼けて釉薬の輝きが失われた九十九髪茄子を好まず、有馬則頼に与えた。有馬則頼の没後、九十九髪茄子は大坂城に戻されるが、1615年大坂城落城の際に再度罹災する。

徳川家康の命により藤重藤元・藤厳父子が大坂城焼け跡から探し出し、破片を漆で継ぎ合わせて修復を行った。家康は修復の出来映えの褒美として藤元に九十九髪茄子を与えた。以後、藤重家に伝来したが、1876年(明治9年)に岩崎弥之助に譲られた。

青磁輪花茶碗 銘 鎹(かすがい)  マスプロ美術館

馬蝗絆(ばこうはん)ともいわれる。平 重盛(1138〜79)が、南宋の国と天目山に3000両の喜捨をした。その返礼に青磁の茶碗が贈られてきた。これがその茶碗で、1セット2個。龍泉窯、南宋時代の砧手で、青磁の色、形、共に最上手のものであった。

足利義政が後に、この茶碗を手に入れたが、熱湯のためかヒビ割れができたので、明の国に取替えを要求。しかし、このような茶碗はもう焼成できないと、2個ともヒビ補強にカスガイを打って返却されてきた。その後、馬蝗絆 (イナゴ絆)と呼ばれ名声を博し、青磁といえば、先ず馬蝗絆が筆頭にあげられるようになった。

馬蝗絆は、足利将軍家に伝えられた以後、織田三五郎(信長の弟である有楽の孫)に伝来、その後、角倉家、平瀬家等に伝来。1951年、東京の久米邸で、この兄弟2個が出会い、比較鑑賞された。

 

12時15分ごろに京博を出た。25分ごろに京都駅行きの市バスに乗車、40分頃に着いた。


京都市 常照皇寺の九重桜 国天然記念物

2025年03月29日 08時29分40秒 | 京都府

国天然記念物。九重桜。常照皇寺(じょうしょうこうじ)。京都市右京区京北。

2021年4月1日(木)から3日(土)まで京都府を旅行した。目的は常照皇寺の桜。それだけでは勿体ないので1週間程度の期間を予定したが、3日に短縮して、周山城、美山かやぶきの里、綾部市内の大本教本部址などを目的地とした。美山民俗資料館は現在土日祝日のみ開館。

京都は1980年ごろから90年代初めまで毎年10日ほど日帰りで観光し、桂離宮・修学院離宮・苔寺や秋・春・冬・夏の非公開寺院、平安神宮・醍醐寺三宝院・仁和寺の桜などで150回ほど観光しているので、70年代に発行されたJTBのガイドブックに出てくる名所はほとんど訪れたが、化野念仏寺、城南宮は未訪。常照皇寺はバスが不便なので、いずれはと思い、花粉症がひどくなくなった2年前から4月中旬に訪問するつもりがずれ込んだ。京都府で唯一桜として天然記念物に指定されている常照皇寺の九重桜の開花情報をネットでチェックしていたら3月27日に九重桜は満開近く、「左近の桜」がチラホラだったので、急遽訪問することに決めた。

4月1日9時30分に名古屋市守山区新守山駅近くの業務スーパーを出て、国道21号線岐阜大垣経由で滋賀県米原に入り、ナビに従い琵琶湖沿いの湖岸道路を進み、琵琶湖大橋へ。そのまま北西の山中へ分け入ると国道477号線が全車1車線の離合困難区間が15分ほど続く。登山アクセスで慣れてはいるが、久しぶりなのでライトを点灯し、2回3台ほどとミラーを折り畳んで離合。花背峠から西に進むと、桜が各所で満開の見頃だった。14時30分ごろ常照皇寺の駐車場に到着

常照皇寺山門前の紅枝垂桜。

常照皇寺山門前の紅枝垂桜。

常照皇寺。案内。この寺の開山は、南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳上皇である。光厳上皇は観応3年/正平7年(1352年)、大和国賀名生の南朝後村上天皇行宮にて落飾(出家)し、禅宗に帰依した。帰京の後、貞治元年/正平17年(1362年)、丹波山国庄を訪れ、同地にあった成就寺という無住の寺を改めて開創したのが常照皇寺の始まりである。上皇はその2年後に示寂し、当地に葬られた。

常照皇寺。山門。行きは横の脇道から登り、帰りは石段を下った。

常照皇寺。勅額門。

勅額。

常照皇寺。勅使門下。

門の上右横は「御車返しの桜」上部。その右は「九重桜」。

受付で500円支払って入場。方丈と庭へ。

常照皇寺。方丈南の「御車返しの桜」。一重と八重が一枝に咲く。

まだつぼみだった。

常照皇寺。方丈と「御車返しの桜」。

常照皇寺。方丈。尊釈迦如来立像は通常と異なり、天井近くの鴨居上の仏壇に安置されている。

常照皇寺。九重桜とシャクナゲ。

常照皇寺。方丈と開山堂(怡雲閣)。

常照皇寺。「左近の桜」。御所から株分けしたという。

常照皇寺。枝垂桜。

崖上の仏堂から九重桜。

九重桜と開山堂(怡雲閣)。

九重桜と開山堂(怡雲閣)。

九重桜。

九重桜と青空。

方丈から九重桜。

方丈から九重桜と開山堂(怡雲閣)。

方丈北の庭園。左に滝の水音が聞こえる。百羅漢のような風情の石組み群である。

方丈北。庭園と開山堂(怡雲閣)。中央上が光厳天皇山国陵と思われる。

開山堂渡廊下から九重桜。

開山堂(怡雲閣)。方丈も含めて、柱上に仏像が置かれているのが特徴だと語る人がいた。

開山堂(怡雲閣)。

開山堂(怡雲閣)。

 

常照皇寺を出て、道の駅「ウッディー京北」へ向かった。翌日は明智光秀の山城であった周山城の見学から始まる。


京都 北野天満宮 史跡御土居のもみじ苑公開 

2024年12月10日 09時47分12秒 | 京都府

北野天満宮。史跡御土居のもみじ苑公開

2024年12月7日(土)京都へ行き、千本釈迦堂の大根炊き北野天満宮の紅葉を見学した。13時10分ごろに千本釈迦堂を出て、西に10分ほど歩き北野天満宮の境内に入った。史跡「御土居(おどい)」は、数年前にブラタモリで紹介されてから、実際に見学しようとしていたが、観光名所ではないので訪問しずらい。

もみじ苑公開は、2024年10月25日(金)~12月8日(日)。12月15日(日)まで延長。

「御土居(おどい)」は豊臣秀吉公が築造した京廻りの土塁で、史跡に指定されている。北野天満宮の「御土居」は原型に最も近く、そこに並ぶカエデの紅葉は、脇に流れる紙屋川の水面に映え、野趣に富んだ風景が楽しめる。中学生以上:1200円(お茶菓子付)

豊臣秀吉公の築いた史跡御土居に自生する約350本のモミジが、紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋と共演し、赤や黄に見事に染まった木々が紙屋川の水面に映え渡り人々を錦秋の世界へ誘う。

桃山時代、豊臣秀吉公は洛中洛外の境界、水防のための土塁「御土居」を築いた。その一部が現在も残る境内の西側一帯は、長らく自然林で自生のものと後に植林されたものを含め、現在、約350本の紅葉を有する名所「史跡御土居のもみじ苑」となっている。

紙屋川にかかる朱塗りの太鼓橋「鶯橋」や、茶室の梅交軒に設けた舞台、国宝御本殿をはじめ境内を一望できる展望所からの眺めは絶景である。

紅葉の間から国宝の御本殿を望む。国宝御本殿と約350本の紅葉が織りなす絶景。

御祭神 菅原道真公を祭る北野天満宮は天神信仰発祥の地であり、日本中に12000社もあるといわれる全国天満宮・天神社の総本社。桃山時代に豊臣秀吉公は洛中洛外の境界、水防のための土塁「御土居」を築いた。その一部が残る境内の西側一帯は史跡として指定され、現在、約350本の紅葉を有する名所「もみじ苑」となっている。また展望所から眺める国宝御本殿と紅葉の風景は正に絶景

御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。

台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。

 江戸時代になると天下太平の世が続き,外敵の脅威もなく御土居は次第に無用の存在となり,また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され,北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。

 昭和5年(1930),市内に残る御土居のうち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,また,広く我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定,昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が指定地となっています。

 また,これら指定地以外では,北区の大宮交通公園内や中京区の北野中学校内でも,部分的に御土居が残っています。

茶室の梅交軒に設けた舞台

紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋

中央に暗渠排水口が残る。

紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋

下から上を見上げる。

 

もみじ苑出口にある茶店でほうじ茶を飲んで見学を終えた。14時ごろだったが、入場する人もまだ多い。外人客もいるが少なかった。

バス停には長い行列ができていたが、203系統のバスが来ても乗り込む乗客は少なく、それほど混まずに地下鉄今出川まで乗車できた。

京都 千本釈迦堂の大根炊き 


京都 千本釈迦堂の大根炊き 

2024年12月09日 11時28分31秒 | 京都府

京都・千本釈迦堂の「大根炊き」。京都市上京区溝前町。

2024年12月7日(土)京都へ行き、千本釈迦堂の大根炊き北野天満宮の紅葉を見学した。千本釈迦堂は初めてだったかもしれない。

千本釈迦堂の大根炊きは、師走の風物詩として全国ニュースでよく見てきた。これだけでは、勿体ないので近くで何かないかとネットで探すと、北野天満宮の御土居にある「もみじ苑」で特別公開が行われているという。「御土居」はブラタモリで豊臣秀吉が洛中と洛外の境に築いた土塁として紹介され、北東部に数か所残存しているので、見学しようと数年来機会を狙っていたところだったので好都合だ。

京都の紅葉は1980年代初めに高雄(神護寺・高山寺)を皮切りに、修学院離宮、大原、東福寺の通天橋など1980年代にほぼ見てしまい、90年代以降は日本100名山完登の途次や、各県への旅のさいに全国各地で紅葉を見ているので、わざわざ紅葉見学に出かける気持ちはない。

JR東海道線の名古屋から京都まで、障害者割引で往復2640円。8時3分に名古屋駅を出て、京都駅に10時13分ごろ着いた。地下鉄で今出川駅に行き、市バス203に乗車して11時10分ごろ上七軒のバス停に着いた。運賃は京都駅から130円+120円。

11月下旬に計画したが、11月29日から12月5日まで、八丈島・青ヶ島と東京都を見学して歩き回り、足を痛めたので、前日は迷ったが決行した。日曜日のほうが土曜日より混雑することは予想できた。ただし、計画では今出川に戻ったあと、相国寺も見学しようと思っていたが北野天満宮を出たときに中止した。

14時過ぎに北野天満宮からバスに乗って往路を戻り、14時40分ごろ京都駅に到着。15時発の東海道線新快速に乗り、米原・大垣経由で17時13分に名古屋駅に到着。18時には自宅へ帰った。

 

千本釈迦堂の大根炊き。

2024年12月7日(土)・8日(日)10:00~16:00。

厄除けの大根炊き供養は、 お釈迦様が修行中に悪魔の誘惑に負けず、12月8 日の夜明け前にさとりを 開かれた事にあやかって、 4本の大根を縦半分に切って8本にして、切り口に梵字を書いて供え、参詣者への「悪魔除け」とした。これが 大根炊きのはじまりとされている。

今は 法要が行われ、味付けして煮込んだ大根が油揚げとともに大釜で焚かれ、参拝者に振舞われる。

料金は1000円。

千本釈迦堂と通称される大報恩寺は、真言宗智山派の寺院で、本尊は釈迦如来。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。

鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で、比叡山で修行の後、当寺を建立した。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商から寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年(昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264年 - 1275年)。

本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなかった創建当時のもので、洛中最古の現存建造物で国宝となっている(「京都市内」最古の建造物は醍醐寺五重塔)。

上七軒交差点北側の案内看板。

千本釈迦堂の行列。

11時ごろ、門前に着くと、境内外の道路に200人ほどが並んでいた。その後ろに並んだが、この行列は授与券を買った人が並んでいると前の人たちが教えてくれた。案内人はいるが大声では教えてくれない。

あわてて、境内を進んで本堂前で「大根だき券」を1000円で購入した。ここには列はなかったので若干のタイムロスで済んだ。

境内に入っても200人ほどが前に並んでいた。ただし、流れは意外と早い。大根3個と油揚げだけなので食事は簡単に終わり、回転は速い。

食事用テントの奥に大根炊きの授与所がある。

12時10分ごろに食べ始めた。大根は3個だが、1個は崩れていた。おでんの大根は美味い。熱い。けっこう腹が膨れる。並んでいるときに菓子パン2個を食べたせいもあるだろうが。

本堂から。

大根を食べてから、本堂・霊宝殿を拝観した。拝観料700円(600円)。

当日、本堂は一般開放されていたが、本堂内の一室にある「おかめ像」展示室は上記拝観料が必要。

本堂裏庭の千体地蔵塔。

「おかめ像」展示室。

霊宝殿では、2024年8月27日に国宝に新指定された旧重要文化財の木造六観音菩薩像6躯を拝観した。鎌倉時代前期、肥後別当定慶(康運)作。六観音とは六道輪廻の思想と観音信仰が日本で結びついたもので、六種の観音が六道に迷う衆生を救うとされている。真言宗系の六観音は聖観音(地獄道)、千手観音(餓鬼道)、馬頭観音(畜生道)、十一面観音(阿修羅道)、准胝観音(人道)、如意輪観音(天道)で、大報恩寺には6躯一具が完存している。准胝観音像内の墨書銘は、貞応3年(1224年)とある。

おかめ塚。

本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている。

本堂を造営する際、大工の棟梁であった長井飛騨守高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言アドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている。

 

13時10分ごろに千本釈迦堂を出て、西に5分余り歩いて北野天満宮の境内に入った。