2025年4月25日(金)、名古屋から日帰り旅行で、京都国立博物館の特別展「日本、美のるつぼ」見学と近江鉄道のワンデーフリー券を利用して全線乗り回りをしてきた。京博の特別展は大阪万博にともなうもので、奈良博と大阪市美の3館が国宝を展観している。各館とも前期・後期で目玉が違い、雪舟の国宝「天橋立図」は、大阪市美では5月27日~6月8日、京博は6月10日~15日に出品されるので、スケジュールを検討することが必要になる。
4月26日からはGWになるので、その直前を狙い、近江鉄道のワンデーフリーは金土日が対象なので金曜日にした。
4月11日から22日まで千葉県を旅行したが、20日ごろから左足の膝を痛めた。京都まではJRを予定していたが、乗り換えに苦労しそうなので、急遽ハイウェイバスを利用することにして、23日にバスを予約した。
名古屋駅7時45分発の超特急バスは京都駅10時着予定で実際には10時10分着だった。バスは久しぶりだったので、第2名神経由に変わっていたことは知らなかった。東名阪が名古屋西インターから工事中なので若干渋滞していた。
京都駅に着いて、市バスに乗車し、京博に入場したのは10時35分だった。市バスの206は満員だったが208は空いていた。市バスに乗る観光客が少なめだったのは助かった。
京博もそれほど混んでいなかった。第1室でロープと行列があったのは、葛飾北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」「凱風快晴」「山下白雨」の3点で、並びかけたが、版画はどこでも見られると思い、ロープ外から眺めるだけにとどめた。
京都駅13時発の新快速で近江八幡に行くとなると、時間がないので、列に並ばずに後ろから鑑賞するようにした。見たことがある美術品が多いからでもある。撮影は1点を除き禁止。
俵屋宗達筆国宝「風神雷神図屛風」は初見だと思う。人が少なくじっくり鑑賞できた。
紙本金地著色風神雷神図〈俵屋宗達筆/二曲屏風〉
(各)縦154.5cm 横169.8cm 江戸時代 17世紀 京都・建仁寺
「款記も印章もそなわらないこの屏風が、俵屋宗達(生没年不詳)であることを疑う人はいない。尾形光琳も、これを模倣した作品を制作している。
ここに貼りつめられた金箔は、描かれる物象の形を際立たせ、金自体が本然的にもっている装飾的効果として働いている。そればかりではなく、この屏風においては、金箔の部分は無限の奥行をもつある濃密な空間に変質しているのである。つまり、この金箔は、単なる装飾であることを越えて、無限空間のただなかに現れた鬼神を描くという表現意識を裏打ちするものとして、明確な存在理由をもっている。傑作と呼ばれるゆえんがここにある。」
国宝「家形飾環頭柄頭」奈良県東大寺山古墳出土品
奈良県天理市檪本町 東大寺山古墳出土 1口
柄頭:銅鋳製刀身:鉄製 長123.0 古墳時代・4世紀 東京国立博物館
「中国の素(そ)環(かん)頭(とう)大(た)刀(ち)をモデルにした日本列島独自の青銅製環頭です。切(きり)妻(づま)造(づくり)伏(ふせ)屋(や)建物(竪穴住居)は、家(か)屋(おく)文(もん)鏡や子持家形埴輪以外には例がない独創的な造形です。通常の竪穴住居とは異なる重要な建物であり、集会所や喪屋(もや)であるという説もあります。」
東大寺山古墳は、奈良盆地東縁の沖積地との比高差70mの低丘陵尾根上に位置する。自然地形を利用した北向の前方後円墳で、全長約130m、後円部径約80m、前方部幅約50mである。昭和36・41(1961・66)年に発掘調査され、後円部で葺石と円筒埴輪列のほか、靫形・甲冑形埴輪が確認された。後円部粘土槨から碧玉製腕飾類(鍬形石・車輪石・石釧)・滑石製台付坩など、棺外から鉄剣・環頭(素環頭・青銅製環頭)大刀などの武器・武具類・革製漆塗楯などが多量に出土した。
「中平」銘金象嵌花形飾環頭大刀は紀年銘をもつ日本最古の遺物で、中国製刀身部を改造して三葉環頭を基に退化した直弧文ないし竜文を施した日本列島独自の環頭部に交換したと考えられる。他に環頭大刀・木製把頭大刀13本、鉄剣・ヤリ25点以上、銅鏃261点、革製短甲1点、巴形銅器7点出土した。玉類計62点、鏃形石製品45点、坩形石製品13点が出土し、碧玉製腕飾類計51点は全国8番目であるが、銅鏃・坩形石製品と鍬形石26点は最多である。
宝賀寿男氏の説では、東大寺山古墳の被葬者は、4世紀前半、崇神朝に活躍し、王族の武埴安彦の謀反を阿倍氏の祖・大彦命とともに討伐した海神族和珥氏の3代彦国葺命という。
唐物茄子茶入 付藻茄子 静嘉堂文庫美術館
九十九髪茄子ともいう。当初は足利義満が所有していたと伝えられている。その後足利義政により山名是豊に与えられた。その後伊佐宋雲の手に渡り朝倉宗滴(朝倉教景)が五百貫で購入したとされている。後に宗滴から越前小袖屋に質入れされた。1558年に松永久秀が一千貫にて入手する。1568年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長への降伏のしるしとして献上した。
織田信長没後、本能寺の焼け跡から拾い出された九十九髪茄子は豊臣秀吉に献上された。しかし、秀吉は焼けて釉薬の輝きが失われた九十九髪茄子を好まず、有馬則頼に与えた。有馬則頼の没後、九十九髪茄子は大坂城に戻されるが、1615年大坂城落城の際に再度罹災する。
徳川家康の命により藤重藤元・藤厳父子が大坂城焼け跡から探し出し、破片を漆で継ぎ合わせて修復を行った。家康は修復の出来映えの褒美として藤元に九十九髪茄子を与えた。以後、藤重家に伝来したが、1876年(明治9年)に岩崎弥之助に譲られた。
青磁輪花茶碗 銘 鎹(かすがい) マスプロ美術館
馬蝗絆(ばこうはん)ともいわれる。平 重盛(1138〜79)が、南宋の国と天目山に3000両の喜捨をした。その返礼に青磁の茶碗が贈られてきた。これがその茶碗で、1セット2個。龍泉窯、南宋時代の砧手で、青磁の色、形、共に最上手のものであった。
足利義政が後に、この茶碗を手に入れたが、熱湯のためかヒビ割れができたので、明の国に取替えを要求。しかし、このような茶碗はもう焼成できないと、2個ともヒビ補強にカスガイを打って返却されてきた。その後、馬蝗絆 (イナゴ絆)と呼ばれ名声を博し、青磁といえば、先ず馬蝗絆が筆頭にあげられるようになった。
馬蝗絆は、足利将軍家に伝えられた以後、織田三五郎(信長の弟である有楽の孫)に伝来、その後、角倉家、平瀬家等に伝来。1951年、東京の久米邸で、この兄弟2個が出会い、比較鑑賞された。
12時15分ごろに京博を出た。25分ごろに京都駅行きの市バスに乗車、40分頃に着いた。