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会津若松市 福島県立博物館 会津若松城 茶室「麟閣」

2024年07月09日 15時00分34秒 | 福島県

福島県立博物館。福島県会津若松市城東町。

2024年5月29日(水)。

飯盛山の見学を終え、会津若松城三の丸跡にある福島県立博物館へ向かった。歴史系部門を見学しようとしたが、常設展通史展示室は、排煙設備の不具合により観覧できなかった。見学後、受付で会津若松城の無料駐車場を尋ねると、博物館の駐車場に車を置いて見学することを勧められた。

館内の三の丸アベニューで、会津若松城と城下町の模型が展示され、戊辰戦争の戦況を再現している。

会津若松城は1990年代末に磐梯山の登頂後に、最上階まで老母を連れていったことがあり、2回目で入場を迷ったが、城内の茶室「麟閣」を含め身障者無料なので、入場することにした。

博物館を出て、市営有料駐車場の前から城内に入ると、廊下橋でカップルが前撮りの写真を撮っていた

廊下橋。以前はこちらが大手口で、正面にふさわしい立派な橋がかけられていた。その名が示すように、屋根の付いた橋だったのではないかと考えられている。明治以降も何度か架け替えられ、現在では鮮やかな朱塗りの欄干となっている。

若松城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていた。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心であった。藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり幕末には戊辰戦争の激戦地となった。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館がある。天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。

1384年(至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。遅くとも15世紀半ばまでには黒川城とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。

1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にし、米沢城から本拠を移した。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。

代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。

1593年(文禄2年)、望楼型7重の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。

1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。

翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている

1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。

1868年(慶応4年)、戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争(会津城籠城戦)にて、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。1か月間籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾して9月22日(太陽暦11月6日)開城した。

城域が位置する台地の西端に主郭。内濠を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸と続き、台地下の北側に北出丸、西側に西出丸がある。三ノ丸以外の各門は枡形石垣門になっていた。主郭は、天守とそこから南と東に伸びる走長屋(多聞櫓)により区分けされており、南東側の御殿等を配置した区域が本丸、その北から西側をL字に取り囲む区域が帯郭となっている。主郭の虎口は全て帯郭に接続しており、天守の下にある鉄門を経て本丸に至る。現在の縄張は、主郭の東、北、西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御し、その馬出の虎口も桝形とする防御プランであり、郭の構成はシンプルだが相当に厳重な縄張りとなっている。

元々は東西に伸びる舌状台地を堀切で区切った連郭式の縄張であり、三の丸側が大手であった。後に城下の街道の整備により大手を北側に変更し、防御のために北と西にあった馬出を出丸として拡張し現在の縄張となった。現在残る城下町も、主として城の北側に広がっている。

北、西の出丸は、主郭が位置する台地の下にあり、出丸を突破しようとする敵を高低差を利用して攻撃可能となっている。主郭の櫓は出丸の虎口を制圧可能な位置に配置されているなど、重層火力が発揮できるように考慮されており、特に大手である北出丸虎口は、出丸、主郭帯郭、櫓、隣接する出丸からの射撃が集中し、その防御の堅さから「鏖丸(みなごろしまる)」と称されたと伝わっている。東側の二ノ丸も馬出状の郭であるが、高低差を利用できないため堀切を水濠まで掘下げて約20mの高石垣とし、橋は城内唯一の木橋(廊下橋)とすることで防御している。出丸を持たない本丸南側は、濠と湯川により三重に防御されていた。

天守閣に入ると、地下部分から始まった。

北東。飯盛山方向。

南東。茶室「麟閣」方向。

南。向羽黒山城跡方向。

茶室「麟閣」。豊臣秀吉の奥州仕置によって、天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り、近世的支配を確立していきました。氏郷は織田信長の娘婿であり、文武両道に秀で、特に茶道では利休の弟子(利休七哲)の筆頭にあげられるほどでした。天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家断絶に危機に瀕した時に、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家再興を秀吉に働きかけました。その結果、文禄3年(1594)に少庵は許されて京都に帰り、その子宗旦(そうたん)に千家茶道が引き継がれました。そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の三千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。

かくまわれている間に建てられたと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。

しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治のはじめに城内の建物が取り壊される際、茶人・森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、大切に保管しました。会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念して、この氏郷・少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築しました。

会津若松の中世・近世史。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、たくさんの鎌倉御家人が奥州に領地を与えられました。会津では、相模の三浦氏の一族である佐原義連に会津北部、同じ相模の山之内通基に伊北郷(只見川流域)、下野の小山氏の一族である長沼宗政に長江荘(田島・下郷一帯)、長沼の一族である河原田森光に伊南郷(伊南川流域)がそれぞれ与えられ、鎌倉幕府の勢力が植え付けられました。

会津北部を与えられたと伝えられる佐原義連の父三浦義明は源頼朝の挙兵に従って居城衣笠城で壮烈な討ち死にをとげ、その子義澄は相模国守護となり、三浦氏は北条氏と並んで鎌倉幕府を支える有力御家人となりました。

義連はこの義澄の末弟で、相模の国(神奈川県)の佐原郷(横須賀市)を領したことから佐原氏を称しました。義連の孫、盛時らは母方のつながりから三浦氏と北条氏が覇権を争った宝治合戦(1247)の際、本家である三浦氏に反して執権北条時頼に味方し、滅亡を免れました。

佐原の盛連の六人の子が領地を分割して与えられ、中世における会津支配勢力になったと伝えられます。長男経連は中通りと会津を結ぶ猪苗代の地を与えられ猪苗代氏次男広盛は会津盆地の中心である湯川村北田を与えられ北田氏三男盛義は藤倉二階堂で知られる河東町藤倉を与えられ藤倉氏四男光盛は東山山麓の黒川(会津若松市)を与えられ相模の国葦名郷を領したため葦名氏をそれぞれ称しました。また、五男盛時は会津最北端の地である叶荘(熱塩加納村)を与えられ加納氏、また、六男時連は新宮荘(喜多方市)を与えられ新宮氏を称し、今日の耶麻郡一帯、喜多方市、湯川村、河東町そして会津若松市という会津北部に子孫が分地されました。これら三浦一族は時に争い、時に連合し中世の会津覇権を競い合いました。

四男光盛の血を引く葦名氏の勢力が徐々に強まり、会津守護と呼ばれる支配構造を確立することとなりました。葦名氏は会津に領地を与えられましたが、同時に鎌倉幕府においても重要な地位を占めていたため、通常は鎌倉に住み会津に常駐していなかったと思われます。しかし、光盛の孫の盛宗の時代には黒川の地に諏方神社、東明寺、興徳寺、実成寺、実相寺など、葦名氏にゆかりの深い神社やお寺が創建されたことから、葦名氏の勢力が黒川を中心に広がってきたものと考えられます。

建武年間の動乱で鎌倉幕府が滅亡し、盛宗の子盛員が北条氏に味方し戦死したことから、盛員の子直盛は鎌倉における勢力を失い14世紀後半に会津に入りし、佐原一族をはじめ在地の勢力と会津の覇権をめぐって血で血を洗う抗争を続けることとなります。

この直盛が至徳元年(1384)、小田木(会津若松市小田垣)に館を築いたのが、鶴ヶ城のはじめと伝えられ、鶴ヶ城或いは黒川城とも称す」とあります。

小田木の地(今の三の丸周辺)は東に小田山をひかえ、周囲を車川(後に外堀)と湯川に囲まれた小高い要衝の地だったので葦名氏の会津支配の中心地となり鶴ヶ城として伝えられることとなりました。

黒川に館をかまえる葦名氏が会津守護として支配を確立するのは16世紀のことですが、これに伴って会津各地の豪族は葦名氏へ反抗を強めます。その結果、同族であった加納氏・新宮氏・北田氏などは相次いで滅び、葦名四天王と呼ばれる松本、富田など家臣団も反乱を繰り返すこととなります。

葦名氏が戦国大名として、頂点に達したのは16世紀の後半、葦名盛氏の時代です。盛氏は伊北郷(只見川流域)の山ノ内氏、猪苗代の猪苗代氏などを相次いで従え、南山鴫山城(田島町)の長沼氏を除く会津一円を支配下に収めました。さらに天文19年(1550)安積郡三春城主の田村隆顕を破って仙道(福島県中通り)に進出し、永禄年間には二本松城主の畠山氏須賀川城主の二階堂氏を従え、白河城主の結城白川氏と同盟して常陸の国(茨城県)の佐竹氏や出羽国(山形県)の伊達氏と戦いました。

越後の国(新潟県)の長尾・上杉氏に対しては、狐房城(新潟県津川町)を拠点として蒲原地方に勢力を伸ばすなど、奥州屈指の戦国大名として名声を高めました。

その結果、永禄6年(1563)の室町幕府の「諸役人附」において大名として認められ全国50余人の中で奥州では伊達氏と並んで名を連ねるほどになり、葦名氏中興の祖として仰がれました。

戦国武将として活躍した盛氏でしたが、黒川を城下として発展させるかたわら、水墨画の巨匠雪村を会津に招くなど、室町文化の良き理解者でもありました。

永禄11年(1568)盛氏は家督を盛興に譲り、自分は岩崎山の向羽黒山(会津本郷町)に隠居城を築きましたが、盛興は病弱で嫡子を残さずに亡くなり、二階堂盛義の子盛隆を養子に迎えました。ここから葦名氏は衰退し、天正8年(1580)盛氏が亡くなると、葦名氏の血をひかない盛隆に対する反抗が強まり、ついに盛隆は家臣に殺害されました。その子亀王丸はわずか3歳で亡くなり、その後に伊達政宗の弟小次郎を迎えるか、佐竹義重の子義広を迎えるかで、大きな争いとなりました。その結果、義広が迎えられましたが、佐竹氏から送られてきた家臣と葦名氏の家臣の対立は日に日に強まり、名族葦名氏は大きな危機を迎えることとなりました。

伊達政宗が葦名氏の内紛を見逃すはずはありません。盛氏が亡くなったあと、仙道(福島県中通り)の支配権を着々と固めていた政宗は、葦名氏に背いた猪苗代盛国の内応によって、天正17年(1589)猪苗代城に入りました。そのころ葦名義広は、父佐竹義重とともに伊達領を攻めるため須賀川へ出陣していましたが、政宗が猪苗代へ入城したと知らされ、黒川へとって返し、直ちに猪苗代方面へ軍を向けました。この時攻める伊達氏の兵力は内応した猪苗代勢を加え2万3千、守る葦名氏の兵力は1万6千と言われています。

天正17年6月5日に、総勢4万にも及ぶ両軍は磐梯山麓の摺上原に対陣し、午前6時に戦いの火蓋が切られました。午後になって西風が東風に向きを変えた頃から戦況は急転し葦名・伊達の命運をかけた決戦は伊達勢の一方的な勝利となりました。

敗れた義広はわずかばかりの兵とともに黒川へ、そして常陸へと逃れ、戦国の雄葦名氏は、4世紀にも及ぶ会津支配に終わりを告げたのです。義広が江戸初期、佐竹氏の秋田移封にともなって角館へ移り、桜で有名な美しい城下町を築いたことはあまり知られていません。

葦名氏を滅ぼした伊達政宗は6月11日の雨の中、黒川城へ入城し、現在の山形県・宮城県・福島県の三県にまたがる広大な領地を得て奥州の覇権を確立し、さらに関東への進出をねらいました。

しかし、すでに豊臣秀吉の政権が確立され天正18年(1590)の小田原攻めで全国の支配を決定的にしたため、政宗は秀吉に従い、会津の地を手放して陸奥国岩手山(宮城県)へとうつり、政宗の会津支配はわずか、1年余りで終わりました。

政宗のあと、会津は伊勢松坂(三重県)の領主蒲生氏郷に与えられました。氏郷は弘治2年(1556)、近江国日野城主(滋賀県)蒲生賢秀の子として生まれました。その非凡な才能を織田信長に愛され、娘冬姫と結婚することとなりました。

その後、秀吉のもとで小牧・長久手の合戦に活躍し、伊勢国松ヶ島(後の松坂)に12万石を与えられ、九州征伐・小田原征伐の功のよって会津40万石、後に92万石の領主となりました。

氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られますが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する文化人としても有名です。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです。利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれています。

氏郷は会津に入ると鶴ヶ城の整備に着手しました。氏郷の郷里近江の国からたくさんの技術者を呼び寄せ、現在も残されている野面積み(のづらづみ)の天守台を築き、七層の天守閣を建てたと伝えられています。

また、葦名時代の手狭な城下を一新し、郭内から神社やお寺を外に出して家臣の屋敷を連ね、車川を利用して外堀を築き、郭外には庶民を住まわせ、その要所に神社やお寺を配置するなど今日の会津若松市街地の骨格を定めました。そして郷里である近江国蒲生郷の「若松の森」にちなんで黒川を若松と改めました。

さらに商工業の発展を奨励するため、日を定めて市を設けたほか、近江から木地師と塗師を招き、会津の地場産業として今も大きな役割を占めている会津漆器の基礎を作りました。また酒造や金工など、上方の優れた技術を会津へ移入することで後世に伝えられる産業の振興を図りました。

氏郷は文禄4年(1595)、40歳の若さでこの世を去りました。当時の名医、曲直瀬道三によれば、死因は下毒症とされていますが、あまりにも若すぎる死にいくつかの謀殺説も伝えられています。氏郷の死後、その子、鶴千代(のちの秀行)が13歳の若さで跡を継ぎますが、慶長3年(1598)幼弱で家中を統率できないという理由で、下野国宇都宮18万石(栃木)に減封されました。氏郷未亡人である冬姫が秀吉の意に従わなかったからとも伝えられています。

蒲生秀行が宇都宮へ去った後、慶長3年(1598)越後国(新潟県)から上杉景勝が120万石で入封しました。景勝の領地は旧蒲生領に出羽国庄内3郡を(山形県)を加え、豊臣政権下にあって徳川240万、石毛利120万5千石に次ぐ天下第3の大名であり、5大老の一人となりました。また、景勝の寵臣直江山城守兼続は豊臣秀吉に愛され、景勝の領地の内30万石(山形県)の大領地を与えられ、石田三成と親交を深めました。

秀吉が慶長3年に亡くなると、5大老の一人である徳川家康はその力を強め、石田三成をはじめとする豊臣家家臣団との対立を深めました。この時景勝は三成との交流から反家康に傾斜していきます。

慶長5年(1600)家康が会津攻めを決断し、家康の軍が京都を出たと知った景勝は、北の伊達政宗や最上義光、南の家康に備えるために国境の警備に全力をあげました。そして、景勝を討つために北上した家康の背後を襲い、南北から挟み撃ちにしようと三成は反家康の兵をあげ、関ヶ原の戦いの幕があけました。このため、家康は下野国小山(栃木県)から江戸へ引き返し、西へと向かいました。慶長5年9月15日、家康は天下分け目の関ヶ原合戦に臨み、三成以下の西軍に大勝しました。

この結果伊達氏、最上氏、堀氏などの近隣諸侯を相手に奮戦していた景勝も家康の軍門にくだり、慶長6年(1601)に会津120万石から出羽国米沢30万石へと減封されることとなりました。

蒲生氏郷の子秀行は、徳川家康の娘振姫を妻とし、関ヶ原の戦いでは家康の命令により居城の宇都宮で上杉勢の南下に備えていました。その功によって慶長6年再び会津60万石に封じられました。

会津に入った秀行は、鶴ヶ城の整備や町方の振興に努めましたが、慶長16年(1611)8月会津地方を大地震が襲い、鶴ヶ城の石垣が崩れ、天守閣は傾きました。

こうした中で心労が重なった秀行は、翌年の春から病に伏し、5月に30歳の若さで亡くなりました。秀行の嫡子亀千代(のちの忠郷)は、この時わずか十歳、領内の経営は未亡人である振姫と重心の手に委ねられることとなり、この体制が家中に紛争を招きました。 

未亡人となった振姫は仕置奉行岡重政と対立し、その処分を父である家康に願い出ました。家康は重政を駿府に呼びだし、取り調べの上、死罪を命じました。重政は36歳の若さでした。しかし、重政の死後も忠郷が若年のため家中の紛争が絶えませんでした。

こうした中、忠郷も父秀行と同様に寛永4年(1627)25歳の若さで世を去りました。

蒲生忠郷に嗣子がなかったため、会津には賤ヶ岳七本槍で名高い加藤嘉明が伊予松山(愛媛県)から40万石で鶴ヶ城へ入城しました。

嘉明は会津に入ると検地を実施し、村々の石高を調べて所領を確定する一方、これまで背あぶり峠を通っていた白河への街道を滝沢峠の新道に改めるなど、領内の整備に努めましたが、寛永8年(1631)69歳で亡くなりました。

嘉明の後を継いだのは嗣子の明成で、寛永16年(1639)に鶴ヶ城に大改修に着手しました。今日の鶴ヶ城の姿が整えられたのは、この時です。

まず、北と西にあった馬出が拡張されて北出丸と西出丸となり、本丸への進入が一層困難となりました。ついで、これまで東に向いていた(廊下橋の方向)大手口も、北へ改め、甲賀町通りから北出丸、椿坂、太鼓門、帯郭を経て本丸へいたる順路が確保されました。

さらに二ノ丸、北出丸、西出丸から本丸への出口に新しく枡形の石垣が設けられ、本丸への順路は二重に防がれることになりました。そして慶長16年(1611)の大地震で傾いたままになっていた天守閣を改築し、その外壁に惣塗籠の手法を導入して、白亜五層の天守閣が誕生したのです。

こうした城の大改修は幕府の好むものではなく、寛永20年(1643)に堀主水事件(重臣との対立)を理由として会津40万石は幕府に召し上げられることになりました。

2代将軍秀忠の庶子・保科正之が出羽(山形県)から入部しました。秀忠は正室の怒りをおそれて、実子として認めなかったため、武田信玄の娘の見性院のもとで養育され、7歳の時に信濃国(長野県)の城主保科正之の養嗣子となりました。

父秀忠の生前は父子としての対面はありませんでしたが、3代将軍家光は正之を実弟として認め、寛永13年(1636)には出羽山形20万石、寛永20年(1643)には、会津23万石と高遠3万石と比べて破格の待遇をうけることとなりました。

正之は会津に入ると領内を巡視し、民政18条や郷村収納の法をはじめ数々の法令を定めて領国内の支配構造を確立しました。また家訓十五条を定めて徳川本家に対する忠誠や藩士の心構えを明らかにし、会津松平藩政の精神的な柱としました。さらに殉死を禁じて戦国の気風を断ち切り、神社を再興して仏事を抑え、会津風土記を編纂して領内の由来を明らかにするなど、9代続く会津松平藩の基礎を築きあげました。

正之が寛文12年(1672)62歳で亡くなると、その子正経、ついで正容が後を継ぎ、この正容の代に松平の姓と葵の紋を幕府から与えられ徳川親藩に組み込まれることとなりました。正之は謹直な名君でしたが、その朱子学的な保守は会津藩の精神風土となり、ともすれば時流に遅れがちな気風を残すことにもなりました。

五代藩主容頌は寛延3年(1750)7歳で藩主となり、9代の藩主中最も長い55年を治めることとなりますが、藩財政は40万両を越える借金となって容頌を苦しめました。

このため容頌は、俊才田中玄宰(はるなか)を家老に登用し、藩政の一大改革に着手しました。

玄宰は藩政の基礎が農・工・商の振興にあり、それをなし遂げるためには士=家臣団の教育と人材登用を断行しなければならないと決意しました。このため、熊本の古屋昔陽を招いて藩祖正之が排斥した古学派を導入し、藩政に役立つ家臣団の育成を図りましたが、正之以来の藩風を変えようとする玄宰の試みは藩主容頌をはじめ藩内の大きな抵抗にあい、天明4年(1784)には一時、家老を辞したほどでした。しかし、財政危機に対応できる人物が他に見あたるはずもなく、玄宰は再び家老に復帰して藩政改革を進めることになりました。

まず、藩士の学風を切り替えるために藩士の就学を義務づけ、産業の振興に役立つ知識や技術の習得を含んだ文武一体の教育をはじめました。この学制改革は、享和3年(1803)藩校会津日新館の完成となって結実し、実学尊重の気風が会津に根付くことになりました。

ついで、薬用人参の栽培、漆器や酒造、陶磁器、そして絵ろうそくの改良など、産業の振興を進めました。また、城下の豪商林光正とともに人材の育成に努めました。 

こうして藩政改革を進めた玄宰でしたが、藩主容頌の後を継いだ容住、容衆がいずれも若死にしたこともあり、玄宰の死後その実学優先の思想は年々保守的なものとなり藩政も再び疲弊することになります。

会津藩は、幕末の動乱期において数々の幕命を受けることになります。その最初は北辺警備で、ロシア侵攻に備えるため樺太、蝦夷地に出兵し、ついで江戸湾の警備にあたり、黒船に備えて房総半島、三浦半島、そして品川沖に砲台を築きました。そして戊辰の悲劇を生んだ京都守護職です。

九代藩主の容保は、美濃国高須藩主の六男として生まれます。八代藩主容敬に男子のなかったことから、12歳で養嗣子に迎えられ、嘉永5年(1852)18歳で藩主になりました。当時の会津藩は、田中玄宰による実学尊重の精神が藩祖正之以来の保守的な学風へもどりつつあり、正之の残した家訓の第1条「大君の義 一心大切に忠勤に存ずべく」とある徳川本家への忠誠心は不可侵のものになりました。

そうした中にあって、幕府は尊王攘夷派が横行する京都の状況に手を焼き、雄藩をもって京都守護職を設けることにしました。藩内においても家老西郷頼母はじめ自重論が根強かったのですが、家訓をたてに受諾を迫る幕老に容保は従わざるをえませんでした。

そして、文久2年(1862)容保は、1千名の精鋭を引き連れて京都へ向かい、黒谷の金戒光明寺に本陣を構えました。容保の実弟で、桑名松平家11万石を継いだ定敬が京都所司代を命じられて、会桑両藩による京都の治安維持がはじまり、容保兄弟は尊王攘夷派の恨みを一身に受けることになりました。

慶応3年(1867)11月、薩長両藩を中心とする倒幕派が攻勢に転じると、十五代将軍慶喜は大政奉還し、徳川家を中心とする天皇親政を目指しますが、倒幕派の策に敗れると一転して大坂より兵を進め、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で戊辰戦争は火蓋を切りました。兵装を近代化した新政府軍の前に幕軍は大敗し、ついに江戸開城によって徳川三百年の歴史は終わりを告げました。

しかし、弟定敬ともども朝敵の筆頭にあげられた容保にとって、これからが悪夢のはじまりでした。主戦派に後押しされた容保は、軍制を改革して朱雀・青龍・玄武・白虎の諸隊を設け、洋式銃を買い集めるなど、来るべき新政府軍との戦いに備えはじめました。こうして5月には奥羽越列藩同盟が成立して、新潟から東北にかけての諸藩は、新政府軍との武力衝突をはじめたのです。

初戦では新政府軍の兵力不足もあって列藩同盟は善戦しますが、越後長岡城(新潟県)や二本松城の落城のころから戦雲は急速に傾き、8月20日には新政府軍に会津攻撃の命令が下りました。福島へ通じる街道の母成峠から会津に侵入してきた新政府軍は、白虎隊などの予備兵の抵抗を蹴散らし、8月23日には鶴ヶ城を囲みました。この時、白虎隊士中二番隊や西郷頼母一族の自刃など、幾多の悲劇が生まれたのです。

孤立無援の中で容保は籠城し、1ヶ月にもおよぶ戦闘に耐え続けました。しかし、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日、容保は降伏を決意します。

藩主容保以下の将兵は、猪苗代や塩川などに謹慎して敗戦処理を待ちました。その結果、家老萱野権兵衛の切腹によって会津松平家の断絶はまぬがれ、容保の子容大に斗南藩3万石(青森県東北部)が与えられました。北辺の酷烈な地を目指し、山川浩をはじめとする沢山の会津藩士とその家族が会津を去りました。(会津若松観光ビューロー)

 

会津若松城見学後、南の向羽黒山城跡へ向かった。

会津若松市 飯盛山 会津さざえ堂 白虎隊十九士自刃の地


イコン 山下りん 北海道立釧路芸術館

2024年07月09日 10時22分31秒 | 北海道

イコン。山下りん。「日本の洋画130年 具象表現の栄光」。北海道立釧路芸術館。釧路市幸町。

2022年6月12日(日)。

モシリヤチャシを見学後、山下りんのイコン(聖画)を鑑賞するため北海道立釧路芸術館へ向かった。

旅行前の事前チェックで北海道立釧路芸術館を調べ、6月19日まで展覧会「日本の洋画130年 具象表現の栄光」が開かれ、山下りんの作品が展示されることを知った。障害者は無料なので訪れることにした。函館のハリストス正教会にも作品があるが工事中のため拝観できないと知ったので、いい機会になった。

山下りんの作品を最後に見たのは2005年の愛知県豊橋市のハリストス正教会であった。その前にも見たことがあるだろうが記憶はない。山下りんを知ったのは映画「イコン伝説 追憶のエルミタージュ」が公開された1992年頃だろう。映画も見ている。当時、NHK新日曜美術館などで、少しは一般にも知られた存在になり、その後も時折テレビなどで紹介されているようだ。

本展覧会では、笠間日動美術館所蔵のイコン2点に加え、釧路ハリストス正教会ならびに上武佐ハリストス正教会(中標津)のイコン11点を合わせて14点が展示された。

 

笠間日動美術館所蔵、「宗徒ノ画(ヤコブ像)」、「機密の晩餐」。

上武佐ハリストス正教会所蔵、「至聖生神女之誕生(十二大祭図)」、「至聖生神女之進堂(十二大祭図)」「至聖生神女之福音(十二大祭図)」、「ハリストス降誕(十二大祭図)」「主之迎接(十二大祭図)」「主之洗礼(十二大祭図)」、「主之顕栄(十二大祭図)」、「主之入城(十二大祭図)」、「主之昇天(十二大祭図)」「至聖生神女之就寝(十二大祭図)」、「聖架之挙栄(十二大祭図)」。

釧路ハリストス正教会所蔵、「コゼリシチナの聖母」。

 

山下りん(1857年~1939年)は、日本人最初のイコン画家として知られる。正教徒で聖名はイリナ。

常陸国笠間藩(茨城県笠間市)の出身。兄と弟の三人兄弟で、りんが7歳の時に父が亡くなり、貧しい生活であった。幼いころから画家を目指し、家族の反対を押し切り上京したのが16歳の時である。明治10年、日本最初の工部美術学校へ入学したが、教師の指導に不満を覚え、同13年退学した。学生時代にロシア正教宣教師ニコライの洗礼を受け入信し、ロシアへ留学。明治16年に帰国した後、イコン画家(聖画家)として明治から大正にかけて建てられたロシア正教会の聖堂のために多くのイコン画を描き続けた。大正7年に故郷、笠間に戻ったが、一切絵筆をとることはなかった。イコン画に生涯を捧げ、独身を通したりんは、晩年、好きな酒を楽しみ、悠々自適な生活を過したようである。

1873年(明治6年)に東京府に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。

同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエロが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院でイコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した。

帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン制作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北・北海道を中心に300点あまりの聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア・イコンを通じて山下りんがギュスターヴ・ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。

山下りんのイコンは全て模写であり無署名である。教会内では目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに努めた。

ロシア革命後は正教も衰えたため、1918年(大正7年)、61歳で郷里の笠間に戻った。晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。満81歳で没。墓所は笠間市の光照寺。

 

明治の女性画家・山下りんの生きざま:朝井まかて『白光』―芸術と信仰のはざまでもがきながらも見いだした「道」

2021.09.10  nippon.com

死なば死ね。生きなば、生きよ」―山下りんが残したこの言葉が、朝井まかてさんを突き動かした。

山下りんは安政4年(1857年)、笠間藩(現在の茨城県笠間市)に武士の娘として生まれた。幼い頃から絵が好きで、15歳の頃に画業を志し、「明治の世にて、私も開化いたしたく候(そうろう)」と家出までするが、連れ戻される。後に再び上京を果たし、浮世絵、日本画、洋画を学ぶ。

明治10年(1877年)日本初の官立美術学校・工部美術学校に女子一期生として入学。翌年友人の誘いで東京・神田駿河台にあるロシア[ハリストス]正教の教会を訪ね、宣教師ニコライと出会う。間もなく洗礼を受けたりんは、同13年、ニコライの推薦を受けてイコンを学ぶためにロシアのサンクトペテルブルクに留学した。

「りんは克明に滞露日記をつけていましたが、あまりのやるせなさゆえに“心悪シ”とのみ書きつけてあることも。その時一体何が起きたのか、周囲の心情も想像しながら描写していきました。自らが想像した場面であっても観察者に徹し、写生していくという感覚です」

修道院の工房で、来る日も来る日もギリシャの古いイコンを模写するようにと言われ、りんは修道女たちに反発する近代西洋画を志し、その技術を習得したいと願う彼女には、昔ながらのイコンは平板で稚拙にしか見えず、嫌悪感すら抱いたのだ。結局、当初5年間の予定だった留学は、1年半で終わる。

絵画技術の成熟前に生み出されたイコンですから、彼女が学びたいものじゃない。しかも生来の才能に恵まれて本当に巧(うま)い人ですから、下手な絵が嫌いなんです(笑)。ロシア語もままならないのに指導の修道女に逆らい、堂々と抗議もします。明治の女性は本当に強いですよ。ただ、当然のこととして、りんは “可愛くない留学生” になる。やがてストレスで体調を崩し、失意のまま帰国します。

りんは帰国後、日本で唯一の聖像画師になりますが、留学までさせてくれた教会を出てしまいます。そして、あまり時を経ずに教会に戻りました。私にはその理由も謎でした」と言う。

当時の留学帰りの女性が世間の理解を得るのは難しく、経済的に自立して生きるのは至難の業だ。だが、腕のたつ画家であるりんは、翻訳本の挿絵や肖像画、石版画印刷の下絵など明治日本ならではの仕事に携わっていた。経済的な理由で教会に戻るほど切羽詰まった状況ではなかったはずだと、朝井さんは推察した。

「りんが教会を出ていた頃、ニコライは駿河台の大聖堂建設を巡り、古い信者との間で軋轢(あつれき)が生じていました。莫大な費用を投じて聖堂を建てるなら、苦しい生活に耐えながら信者を支えている地方の教会に回してやってほしいと嘆願されたのです」。りんは、孤立した恩師を支えるために教会に戻ったのではないか。

東北なまりの日本語で話し、日本の信者のための聖像画は日本人画師が描くことが大事と説くニコライ主教を、りんは信頼し、尊敬を深めていく。りんは画業で身を立て、生涯独身を貫いた。

明治以降、日本は天皇を頂点とした国体を構築し、庶民家庭でも家父長制が強化されて“良妻賢母”の価値観が喧伝されるようになりますが、りんは早くから絵師として生きる道を選んでいます。絵を描くこと以外に何も要らない、望まない。そんな生き方を、あの時代に笠間の家族がよく許したと思います。そこから兄や母の人物像が見えてきます」

彼女は近代的自我を持つ女性であり、洗礼を受けたのも西洋文化としての教会に魅了されたからではないかと思います。そして芸術を学びたい一心で留学した。芸術は究極の自己表現です。ところが聖像画は真逆で、無署名、無名が基本、画師は没我して臨まねばなりません。書いているうちに、いろいろな命題が浮かびました。彼女の信仰心はいつ発露したのか?そして、いつ、真の聖像画師になり得たのか?」

現在、北海道の函館ハリストス正教会をはじめ各地の正教会に残されているりんの作品は数百点にのぼる。無署名だが、専門家の長年の研究により彼女が描いたと分かったものだ。目鼻立ちが柔らかでどこか日本人のような顔立ちのキリストや聖母が描かれ、全体的に温かみを感じさせる

白内障を患ったりんは、62歳で笠間に戻って隠居生活に入り、82歳で生涯を閉じるまで一切制作はしなかった。

 


「パワハラ臭ぷんぷん」石丸伸二氏 ラジオ番組での対応が“高圧的”と批判続出

2024年07月08日 19時16分55秒 | 社会

「パワハラ臭ぷんぷん」石丸伸二氏「本当に熟読されました?」とライターを逆質問…ラジオ番組での対応が“高圧的”と批判続出

Yahoo news 2024/7/8(月) 女性自身

現職である小池百合子氏の圧勝で幕を閉じた東京都知事選。有力候補とみられていた蓮舫氏(56)を上回る得票数を獲得し2位となった石丸伸二氏(41)への注目が集まっているなか、選挙後の“メディア対応”が波紋を呼んでいる。

小池氏と蓮舫の“事実上の一騎打ち”との下馬評が高かった今回の都知事選だが、蓋を開けてみると、石丸氏が蓮舫氏を約40万票も上回るという結果に。広島県安芸高田市で市長を務めた経験はあったが、国政経験もなく、東京での知名度も高くない中での躍進は、日本中に衝撃を与えた。

石丸氏は投開票後の各メディアの選挙特番にも引っ張りだこ。そんななか、物議を醸しているのが、TBSラジオで7日19時58分から22時まで放送された『開票LIVE2024~カオス!東京で何が起きていたのか』での一幕。メディア評論家の荻上チキ氏、ライターの武田砂鉄氏、アクティビストの能條桃子氏、コラムニストのプチ鹿島氏の4名がパーソナリティを務める選挙特番だ。

同番組では、各候補者へのインタビューを行っており、石丸氏は21時すぎにリモート形式で登場。まず荻上氏が「今回の都知事選挙、手応えを感じたと先ほど発信もされていましたが、特にどんな点、手応えを感じた選挙だったのでしょうか?」と質問すると、石丸氏は「うん?どのくだりをされてらっしゃいます?」といきなり逆質問。

その上で、荻上氏が「先ほどぶら下がりの中で、今回の選挙、自分たちは頑張ったと、走りきったというような話をされてたと思うんですが。はい。特にどういったところに力を入れて、どんな手応えをお感じになりましたか」と補足をすると、石丸氏は「手応えの話じゃないですよ、それ。自分たちができることを全部やったという意味です。はい。で、何かの反応では。反応ではなくて、自分たちの実感の話をしました」と返答

荻上氏が「では、どんな点に手ごたえを感じたんでしょうか」と改めて聞くも、石丸氏は半笑い気味で手応えって言うんですかね。それ。なんだろう。自分たちでこれをやろうと決めて、それを実施した、実行したという。それを手応えって言うのかな。でも、手ごたえってもっと反応のことを言うかなっていう気はします。なんか違うニュアンスで聞かれてます?」と再び逆質問するなど噛み合わない様子。

 

続いて、荻上氏から質問のバトンを受け取った武田氏は、石丸氏が今年5月に上梓した著作『覚悟の論理』(ディスカバー・トゥエンティワン社)の内容を引き合いに、こう問うた。

「(同著を)ちょっと熟読させていただいたんですけれど、メンタルが強いですねという風に言われて、なんでメンタルが強いかって言われたかというと、その相手の問題はどうなっても私は知りませんよと割り切れるというところ、と書かれていてですね、ちょっとこう、政治をやられる方からすると、この相手の問題がどうなっても私は知りませんよっていう風に言われると、ちょっとぎょっとしちゃうなというところも感じたんですけれども。選挙戦でいろんな立場の人とお会いしてお話しすることがあったと思いますけれども、この本に書かれたことっていうのは、特に考えとしては変化はないですかね?」

すると、石丸氏は「どういう点をぎょっとされたんですか。そんなにおかしなこと言ってるつもりがなかったんですけど。どこに違和感を覚えられました?」と逆質問し、武田氏は改めて、「政治ってのはいろんな意見を受け止めて、考えを変えてったり、考えを強化していったりってことの繰り返しだと思いますけれども、相手の問題がどうなっても私は知りませんよっていう風に 言い切れるっていうところが、自分のメンタルの強さだっていう風に言われると、なかなかそこに対して意見を届けるってことが難しくなっちゃうんじゃないかなっていう風に思ったんですけどね」と説明。

これに対し、石丸氏は「失礼ですが、本当に熟読されました?」と切り返すが、武田氏は「熟読しましたね」と即答し、荻上氏も「めっちゃ付箋貼ってますね」と横からフォローする。

そして、石丸氏は「そういう風な思いでは言っていません。ええ、はい。自分の責任の範囲を定義するという意味において、その話をしてます。で、政治において意見のやり取りをするってのは当たり前ですよね。それを否定はしてないはずで」と意図を説明し、このやり取りは終わった

 

なお、武田が指摘した内容は、『覚悟の論理』に実際にこう記述されている。

よく「市長はメンタルが強いですね」と言われます。そう見えるのはおそらく、もともと性格の特徴に加えて、自分の立場や役割を、相手の立場や役割と切り離して考える習慣があるからです。

どこまでが自分の問題で、どこからが相手の問題か、明確に線を引いている。その結果、極端に言えば、相手の問題は「どうなっても私は知りませんよ」と割り切れる。だからメンタルが強く見えるのでしょう》

 

荻上、武田両氏と石丸氏のやり取りの時間はわずか5分ほどだったが、終始質問に対して逆質問をするなどした対応に“高圧的”と感じた人も多かったようだ。X上ではこのような声が。

 

《チキさん&砂鉄さんの石丸へのインタビュー聞いたけど、過去にモラハラパワハラ受けたことがある人は聞いたら動悸が止まらないと思う。はなから質問に答える気もなく、論破口調で冷笑系。10代20代ほんとに石丸人気なの?》

《砂鉄さんと石丸氏のやり取り怖かった… パワハラ系上司が思い出されて心臓バクバクした

《荻上チキsession、石丸候補いきなりめちゃくちゃ感じ悪い……

《TBSラジオの石丸インタビューすごいな 5分間でもうパワハラ臭ぷんぷんでびっくり こんな人やっぱり政治家にしちゃダメだよ》

 

武田氏も8日に自身のXアカウントで、こう綴っている。

《昨晩のTBSラジオ開票特番での石丸氏。これまで、相手が動揺したり絶句したりする場面を意図的に作り出し、優位に立っていると思わせる構図を作り続けてきたのだろうが、受け止めるほうが動揺したり絶句したりしなければ、一瞬で彼自身の不安定さが明らかになる》

 

“石丸旋風”は果たして吹き荒れるのか――。


会津若松市 飯盛山 会津さざえ堂 白虎隊十九士自刃の地

2024年07月08日 14時13分16秒 | 福島県

飯盛山。会津さざえ堂。福島県会津若松市一箕町(いっきまち)八幡弁天下。

2024年5月29日(水)。

会津大塚山古墳見学後、東近くにある飯盛山へ向かった。「会津さざえ堂」と「白虎隊十九士自刃の地」見学が目的である。石段下交差点西近くの会津若松市営の無料駐車場に駐車して、石段へ向かうと、有料のエレベーターがあったが、高いので利用せず、石段の中ほどから迂回して緩やかな坂道を登ると、右の石段上にさざえ堂が見えた

建物内部の階段が上り下り別になる三匝堂(さんそうどう)の形式は、どこかで体験しているが、ここだったかは記憶がない。1990年代末に日本百名山の磐梯山を登頂したあとに、会津若松城を見学したが、飯盛山を横に見て通過してしまった記憶がある。1980年代からJAFの雑誌で知っていた。

さざえ堂近くにある受付で料金を払って入場した。

重文・旧正宗寺三匝堂(会津さざえ堂)。

会津さざえ堂寛政8年(1796)飯盛山に建立された高さ16.5m、六角三層の仏堂である。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という。当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)という寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物である。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていた。

栄螺堂(さざえどう)は、江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた特異な建築様式の仏堂で、堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、通称で「栄螺堂」「さざえ堂」などと呼ばれる。

上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという珍しい建築様式を採用していることが特徴である。  

頂上。上り下り折り返し地点。

反対側。

会津さざえ堂から進むと、広場に出て、白虎隊十九士自刃の地への坂道を下っていく。

 

「白虎隊十九士自刃の地」。人物像の視線の先に会津若松城がある。

江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊が結成され、抗戦した。そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し、撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の城下町が燃えているのを確認し入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃した地である。

白虎隊十九士自刃の地から見る鶴ヶ城(会津若松城)。

 

このあと、会津若松城三の丸跡にある福島県立博物館へ向かった。

福島県会津若松市 国史跡・会津大塚山古墳


釧路市 ハルトルチャランケチャシ跡 モシリヤチャシ跡

2024年07月08日 10時17分34秒 | 北海道

国史跡・ハルトルチャランケチャシ跡。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

釧路市立博物館を12時30分ごろから1時間ほど見学し、出るときにチャシ見学についてマップやガイドなどがないかと受付で尋ねると学芸員が対応した。モシリヤチャシ見学はやはり事前予約が必要だという。駐車場は公には言えないが城山会館前にあるという。

ハルトリチャランケチャシは、ここから近く西側に駐車場もあるという。春採台でザ・ビッグとダイソーに寄る予定もあったので、雨が降ってはいるがハルトリチャランケチャシへまず行くことにした。

ハルトルチャランケチャシは、鶴ヶ岱(つるがだい)チャランケチャシともいい、チャランケ(話し合い・談合)を行うチャシ(砦)を意味するアイヌ語から由来する。ちなみに、チャランケはのちに和人が名づけたもので、アイヌ固有の呼称ではない。2つの堀跡が残るチャシ跡は東西30m、南北18mほどの規模で、300年以上前の江戸時代のものと推定されている。この付近はアイヌ民族がトーコロカムイ(湖の神様)の遊ぶ聖地として大切にしてきたところで、1916年(大正5)に、その場所からチャシ跡が発見された。

ハルトルチャランケチャシ跡の南岸から春採(はるとり)湖対岸の釧路市立博物館方向。

ハルトルチャランケチャシ跡。2つの堀跡。

史跡・モシリヤチャシ。釧路市城山町。東側の城山会館前付近から。

言い伝えによれば、1751年(宝暦1)に、この一帯で勢力をふるったトミカラアヤノという名前のアイヌが築造したものという。釧路市立博物館には、トミカラアヤノの一族の系図などが展示されている。

「モシリヤ」とはアイヌ語で「島のある川」の意である。

チャシ(砦)は長径約170m、短径約70mの北東側三段、南西側二段の楕円形の丘で「お供え山」という鏡餅のような外観をしている。

内郭(本砦)と外郭(副砦)に分かれており、内郭の周囲には空堀がめぐらされ、その堀をつくった際に出た土砂を利用して土塁がつくられた。竪穴、貝塚も残っている。1935年(昭和10)に同市内のチャランケチャシ、春採台地竪穴群などとともに「モシリヤ砦跡」として国指定の史跡に指定された。

モシリヤチャシ跡は急な斜面があり危険なことから、見学を希望される場合には事前に釧路市埋蔵文化財調査センター(電話:0154-43-0739)にご相談ください。

モシリヤチャシ跡。北東隅。

モシリヤチャシ跡。北西隅の駐車場横にフェンスが切れて登り口があることに気付いた。

モシリヤチャシ跡。中腹。

モシリヤチャシ跡。中腹。雨のため足場が悪いので頂上へ行くのは諦めた。

モシリアのチャシに係わるヲニシトムシから続くタサニシの家系図(釧路市立博物館)である。この中で、メンカクシ(精一郎)が文献にはよく出てくる。

安政5(1858)年,釧路を訪れた松浦武四郎は,その地の乙名(首長)メンカクシ(和名精一郎)から,いわゆる釧路アイヌの先祖の活動の様子を聞取りしている。

トミカラアイノ,タサニシ,ヘケレニシの三名については,他の文献にも登場し,実在の人物であることが確かである。

二代目トミカラアイノの名は,「松前志」(松前広長,天明元年=1781年)にみることが出来る。すなわち宝暦中東部夷地のクスリノ酋長「トヒカライン」と云へる夷人福山(現松前町)に来て領主へ謁す」とあり、宝暦6(1756)年のことという。

文化6(1809)年の「東行漫筆」(荒井保恵)に,『安永8(1779)年頃のこと,タサニシは釧路アイヌの長で あり,彼自身が将となって桂恋のチャシに軍を集めたという。

「寛政蝦夷乱取調日記」寛政元年(1789)に、「クスリの長人タシャニシ病気・・・」とあり、クナシリ・メナシの戦いの時には釧路の首長であったことがわかる。

 

北海道地理No.54(1980年1月)

チャシ分布に対するチャシ地名からの接近 小林和夫 関係分抜粋

釧路アイヌの戦についての松浦武四郎の記録は次のようなものである。

『何処よりかは知らず,一人の男夷雲にのり来り此の場所へ下り、自らヲニシトムシといひて,此辺りに住ける女の子を妻とし,当所へ城郭を築き,此近隣の土人を随ひけるに,其二人の中に男子二人を産み,其兄はトミカラアイノといひ,其会所元より八丁程南なるハルトルといへるへ城を構へ,弟トミチアイノ,此の川筋十余里上のシラリウトルといへるへ城を築き之に住し,其辺りよりニシベツ辺り迄を境とし居りけるが,其を聞

て東西の夷人共其処へ下り来て,此辺りの酋長と称して城棚を構へ居る事不法なりとネモロ,アツケシ,シヤリ,トコロ,トカチの土人四方八方より申合て此処へ攻来りし』ということであった。

ヲニシトムシは,『聯籠域ひるむ色なきまゝ,其寄せ手攻めあぐみけん,少しく攻め手緩みし時,ヲニシトムシ此辺りの浜へ少し其地勢を考,此処にてはよろしからずと急て居館を川口より十丁斗上なる今のチヤシコツへ引移し,川を堀通し,其前なる谷地を要害になし,いかなる勢にて攻来るとも何事かあらんと是に籠りありけるが,又々四方より攻来り,又々数月の対陣に及びけるに,此度前よりは又々要害堅固になりしかば,猶更 ひるまざるに,攻手今は詮方なしと皆其旗下に屈し過ける』という。

トミカラアイノは,『ハルトルの城を築き居住せしが,根室・厚岸・十勝三方より攻来り落城に及び,後サル シナイに城を築き居し時,また攻来りしが,前の谷地を堀となして防,勝利を得,城を子に譲り,ニシベツの 方に行住せしと』いうことである。

トミチアイノは,『シラリウトルの上に城を築き,舎利・根室の兵と戦,勝しと』いうことである。

またトミカラアイノの長子タサニシは,『サルシナイのにて諸方の敵を防ぎし』ということで,次子ヘケレニシは,『今のヌサウシの城に居しと』ということである。

『ヌサウシの城』は「幣舞のチャシ』,『ハルトルの城』は「春採湖畔のチャシ」,或るいは「ウライケチャシ」,『サルシナイの城』は「モシリヤのチャシ」,『シラリウトルの城』は「シラルトロチャシコツ」と呼ばれているチャシ跡であるという。

(シラルトロチャシは釧路湿原北東端シラルトロ湖北岸・標茶町コッタロ原野にある。)

宝暦6(1756)年6月,トミカラアイノが『クスリ酋長』として福山を訪れ,松前藩主に謁見しているが,これは『目見』である。この目見は,アイヌがいう「ウイマム」であり, 酋長代替りの挨拶と考えられる』。初代ヲニシトムシの死によって,トミカラアイノが『クスリの酋長』に就任した,その挨拶であった。

釧路アイヌの戦が,主としてヲニシトムシ,トミカラアイノ,トミチアイノの父子二代が,互に協力し連携して遂行したものとみられることからすれば,ヲニシトムシの死は,戦は既にその時期一応の終熄をみていたということになる。

この宝暦期頃には,松前藩の支配力はこの奥蝦夷地へも滲透し終えていた。

「東行漫筆」によれば,安永8(1779)年頃には,既にタサニシは釧路アイヌの『乙名』,すなわち酋長となっていて,釧路東岸の桂恋(かつらこい)のチャシに軍を集結し,釧路アイヌの『たから物』を掠奪に来るという国後アイヌのツキノエに備えている。

タサニシ一族は、釧路川筋や西別川上流の虹別(標茶町)と密接な関係をもっていた。虹別は、摩周湖から根室へ流れ出る西別川の上流に位置している。西別川は「ヌーシベツ」と呼ばれるほどサケの遡上で有名な川で、鮭の豊漁の川であり、クマやワシ猟に向いた土地であった。

トミカラアイノが,サルシナイのチャシをタサニシに譲り,その後移り住んだニシベツは,根室アイヌの領有する西別川の上流であり、根室アイヌが領有権を主張したので最終的には釧路アイヌが買い取ったという。

 

モシリヤチャシを見学後、山下りんの聖画を鑑賞するため北海道立釧路芸術館へ向かった。

釧路市立博物館③アイヌ文化 チャシ トミカラアイノ タサニシ