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青森市 青森県立美術館②棟方志功 今純三 ミナ・ペルホネン

2024年04月30日 16時27分15秒 | 青森県

青森県立美術館。青森市安田近野。

2022年9月29日(木)。

棟方志功(むなかた しこう)、[1903-1975]。

1903(明治36)年、青森市に鍛冶屋の三男として生まれた棟方志功は、幼い頃より絵を描くことを好み、ほぼ独学で油彩画を手がけるようになります。18歳の時、文芸誌『白樺』に掲載されたゴッホの《向日葵》を見て感銘を受け、油彩画家を志して、友人の松木満史、鷹山宇一、古藤正雄とともに美術サークル「青光画社」を結成、展覧会などを開催しながら絵画について研究を重ねます。

1924(大正13)年に上京して帝展入選を目指しますが、落選を繰り返します。セザンヌなど後期印象派を学んだことが感じられる《八甲田山麓図》は当時の作品です。一方、この頃に「国画創作協会第5回展」に出品された川上澄生の《初夏の風》を見て感銘を受け、木版画を制作するようになり、1928(昭和3)年には日本版画協会展において初入選を果たし、また同年、油彩画《雑園》で念願の帝展初入選も果たします。

《星座の花嫁》に代表されるこの時期の棟方の版画は、川上澄生の影響を強く感じさせるものでしたが、その後、1933(昭和8)年の《萬朶譜》、1936(昭和11)年の《大和し美し》といった代表作を制作、黒と白を基調とした独自の表現スタイルを見出します。特に《大和し美し》が「第11回国画会展」に出品された際、陶芸家濱田庄司の目にとまったことをきっかけに、柳宗悦の知遇を得、その後、民芸運動の作家達との交流の中で仏教や古典文学等の知識を深めながら、より強固な独自の表現を切り開きました

1938(昭和13)年には謡曲「善知鳥」に題材をとった《勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅》で「第2回新文展」の特選を得ましたが、これは官展において版画が受賞を果たした初の快挙でした。翌年には代表作《二菩薩釈迦十大弟子》を発表、また、1942(昭和17)年より著書の中で自らの木版画を「板画」と呼び、他の創作版画との差別化を図るようになります。

第二次大戦中は東京にとどまりますが、終戦直前の1945(昭和20)年4月に富山県福光町(現・南砺市)に疎開。同年5月の東京大空襲で自宅を焼失し、板木の多くを失いました。福光には1951(昭和26)年まで滞在。

戦後の棟方は、1955(昭和30)年に「第3回サンパウロ・ビエンナーレ」で版画部門最高賞を、1956(昭和31)年に「第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で国際版画大賞を受賞するなど国際的な評価を確立し、1959(昭和34)年にはロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招きにより初めて渡米、各地で個展を開催し、大学で「板画」の講義を行います。また、約9ヶ月の渡米中ヨーロッパへも足を延ばし、各地の美術館を見学します。

1960(昭和35)年頃から眼病が悪化し、左眼が殆ど失明状態となりますが、その旺盛な制作活動は衰えを見せず、1961(昭和36)年には青森県庁新庁舎の落成を記念し、幅7mの巨大な《花矢の柵》を制作、その後も《大世界の柵》など大型の作品を手がけました。1970(昭和45)年には文化勲章を受章。「板画」の他、自ら「倭画」と名づけた即興的な日本画を数多く制作、大衆的な人気をも獲得していきました。

1973(昭和48)年、鎌倉市に財団法人棟方板画館を開館しましたが、翌年に健康を害して入院、1975(昭和50)年5月に東京の自宅で死去。同年11月、青森市に棟方志功記念館が開館しました。

今純三(こん じゅんぞう) [1893-1944]

今純三は、1893(明治26)年、弘前市の代々津軽藩の御典医を務めた家に生まれました。5歳上の次兄は「考現学」を創始し、民家研究の分野でも重要な足跡をのこした今和次郎です。1906(明治35)年に家族とともに上京しますが、神経衰弱が原因で医学に進むことを断念し、画家を志して1909(明治38)年、太平洋画会研究所に入ります。翌年、白馬会葵橋洋画研究所に移り、1912(明治45)年には岡田三郎助が藤島武二とともに設立した本郷洋画研究所に入所します。

1913(大正2)年の「第7回文展」に《公園の初秋》が初入選、翌年の東京大正博覧会で《花と果物》、1917(大正6)年の第5回光風会展で《静物》、1919(大正8)年の第1回帝展で《バラライカ》が入選するなど画家としての道を歩み始めますが、一方で、「自由劇場」や「芸術座」などの新劇の舞台で舞台美術製作を担当し、1921(大正10)年には資生堂意匠部に勤務します。

1923(大正12)年、関東大震災で被災したのを機に青森市に転居すると、銅版画や石版画の研究・制作に着手、版画制作に重点を置くようになります。1927(昭和2)年、青森県師範学校図画嘱託となりますが、この頃より、兄の和次郎による「考現学」調査に協力し、青森の暮らしを詳細に採集したスケッチを和次郎のもとに送るようになり、同年に東京新宿の紀伊国屋書店で開催された「しらべもの[考現学]展覧会」には、純三による「青森雪の風俗帳(其1)」も出品されました。当時、純三のアトリエには、芸術家志望の若者が足繁く訪れ、純三から多くを学んだといわれています。

1933(昭和8)年に青森県師範学校を退職して東奥日報社編集局嘱託となった純三は、県内各地の自然や風俗等を考現学的な視点をもって描写した、銅版と石版による『青森県画譜』の発行に着手、翌年、全12集(100点)をもって完結させます。1935(昭和10)年にはエッチングによる「奥入瀬渓流」連作や、県内の風景、風俗を題材にした銅版画による小品集の制作にも着手するなど、1930年代後半にかけて精力的に活動をおこない、1936(昭和11)年には川崎正人らと「青森エッチング協会」を設立、1937(昭和12)年からは、西田武雄が発行していた雑誌『エッチング』で「私のエッチング技法」の連載執筆を開始します(1940年4月まで)。

1939(昭和14)年9月、版画家としての再出発をかけて家族とともに上京しますが、戦時下、西田武雄の紹介によりインキ製造所で働くことになります。1940(昭和15)年、「日本エッチング協会」の設立に参加し、1943(昭和18)年には版画研究の集大成である『版画の新技法』を三國書房より刊行しますが、困窮した生活を支えるための過重労働により湿性肋膜炎を発症し、1944(昭和19)年9月28日に亡くなりました。制作助手としても純三を献身的に支えてきた妻のせつは純三没後、青森に帰郷し、翌年の青森空襲で亡くなりますが、純三の作品は奇跡的に戦災を免れました。戦後、1950(昭和25) 年には兄の和次郎により、東京ジープ社から『版画の新技法』が再刊されています。

ミナ・ペルホネン(minä perhonen)は女性服を主に展開している日本の服飾ブランドである。1995年、デザイナー皆川明(みながわ・あきら)によりファッションブランド「ミナ(2003年よりミナ ペルホネン)」が設立される。

ミナ ペルホネンは、ハンドドローイングを主とする手作業の図案によるテキスタイルデザインを中心に、社会への考察や自然への詩情から図案を描き、織りやプリント、刺繍などのテキスタイルをオリジナルにデザインしている。2006年「毎日ファッション大賞」大賞を受賞。近年は、青森県立美術館、東京スカイツリーRのユニフォームのデザインも手がけるほか、家具や器、店舗や宿の空間ディレクションなど、日常に寄り添うデザイン活動を行っている。

 

青森県立美術館の見学を終え、南へ15分ほどの場所にある世界遺産・小牧野遺跡のガイダンス施設である青森市小牧野遺跡保護センター(縄文の学び舎・小牧野館、青森市野沢字沢部)へ向かった。

青森市 青森県立美術館①奈良美智「あおもり犬」 シャガール


青森市 青森県立美術館①奈良美智「あおもり犬」 シャガール

2024年04月30日 11時33分15秒 | 青森県

青森県立美術館。青森市安田近野。

2022年9月29日(木)。

11時過ぎに世界遺産・特別史跡・三内丸山遺跡の見学を終え、隣にある青森県立美術館を見学した。地元の女性客でにぎわっていた。

この美術館は、奈良美智の作品で有名だと予習で知った。奈良美智が、村上隆とともに高額で取引される現代美術の作家であることを知ったのは2000年代初めだろうか。2021年ごろ、NHKの日曜美術館で北海道・洞爺湖町のアトリエで過ごしながら、子供たちの作品を品評している姿を見た。

奈良美智(よしとも)1959(昭和34)年、弘前市に生まれた奈良美智は、青森県立弘前高等学校卒業後に上京し、1981(昭和56)年、愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学します。同大学大学院修士課程修了後は、ドイツに渡り(1988年)、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学、ミヒャエル・ブーテやA.R.ペンクのクラスで絵画を学びました。アカデミー修了後、1994(平成6)年にケルンに移り住んで以降、帰国するまでの約6年間は多作な期間で、《Mumps》(1996年)や《Pancake Kamikaze》(1996年)など、挑むような眼差しをもった子どもの姿を描いた奈良の代表的な作品が次々と生み出されました。また、この間、日本やヨーロッパでの個展の機会が増え、しだいにその活動に注目が集まるようになります。

2000(平成12)年12年間におよぶドイツでの生活に終止符を打ち、帰国。翌年、新作の絵画やドローイング、立体作品による国内初の本格的な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館を皮切りに国内5ヵ所を巡回します。いずれの会場でも驚異的な入場者数を記録し、美術界の話題をさらいましたが、特に作家の出身地である弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫(現弘前れんが倉庫美術館)で行われた同展は、延べ4,600名にのぼるボランティアにより運営されたもので、市民の主体的な関わりと参画の規模の大きさにおいて、展覧会の歴史上画期的なものとなりました。

青森県立美術館では1998(平成10)年から奈良美智作品の収蔵を始め、現在その数は170点を超えます。コレクション展では、展示替を行いつつ常時奈良の作品を展示しています。

青森県立美術館の敷地には、巨大な犬の立体像≪あおもり犬≫や、自身のデザインによる建造物「八角堂」内に設置されたブロンズ像《Miss Forest / 森の子》といった、建築空間を意識して作られたモニュメンタルな作品もあります。ほかにも青森県内では、十和田市現代美術館の外壁の《夜露死苦ガール》、弘前れんが倉庫美術館の《A to Zメモリアル・ドッグ》といった奈良美智作品を見ることができます。

2023年4月14日、奈良美智は大阪IRをめぐる報道の中で自身の著作物である「あおもり犬」無断でイメージの中に使用されていることをツイートした。

大阪府市のIR推進局によると、イメージ図や動画は、IR事業者であるオリックスと米MGMリゾーツ・インターナショナル側から2021年7月と9月にそれぞれ提供を受け、公表資料に掲載するなどした。2021年にも指摘を受けていたが、IR推進局からの問い合わせに対して「利用許諾を適切に取得している」と事業者は回答していた。

なお、本人は許諾しておらず、展示場である青森県立美術館も「なお、当館においては、本件での画像使用許可等の問い合わせの事実はありません。」としている。大阪府知事の吉村洋文は「美術家の奈良さんと村上さんには謝罪を申し上げます。本当に申し訳なかったと思います。」と謝罪をした一方で、「ただ一方で、何らかの奈良さん本人ではない方とのやりとりというのも実はあったんじゃないかという話も聞いています」という、著作権者を騙る第三者の存在をにおわせる言い訳をした。

twitterでは日本維新の会、大阪維新の会支持者が奈良に対して「大阪にIRは必要だけど、君の作品は大阪に必ずしも必要ではない黙々と法的処置だけしとけよ」などの誹謗中傷を行った。MBSテレビの『よんチャンTV』では著作権に詳しいという触れ込みで弁護士の河西邦剛氏が「意外に思われるでしょうが、今回の作品が屋外でお金を払わなくても見られる場所にあることがポイント」「屋外に設置されている造形物は、誰でも写真に撮ってSNSにアップするなどできてしまう。屋外にあると奈良さんの権利は大幅に制限されることがある」「今回は、PR動画に使っているだけで販売したり収益化をしていないので、まだ著作権侵害には至っていないかな、というところ」「損害賠償請求できたとしても、慰謝料的な意味合いの数十万円程度ではないか」「実際にIRに無許可でこの像を造るのはNG。また、創作者の心情にも配慮すべき」とした。

また、出演者のロザンの宇治原史規は、「PR動画に大阪の町並みを使う時、そこに誰かの著作権がある看板が映ってたら、全部許可を取らないといけないのかという話になるってことですよね」など著作権を軽視する発言を行った。しかし、(1)「あおもり犬」は青森県立美術館の壁に囲まれた敷地内にあり、明確な屋外ではない。(2)「多くの人に気軽にアートに触れてほしい」という作者の好意で私的な撮影は自由だが、PR動画という明確な商用利用までは認められていない。など多くの事実誤認の上での発言であった。

シャガール: バレエ「アレコ」舞台背景画。

20世紀を代表する画家の一人、マルク・シャガール(1887-1985)は、1942年、亡命先のアメリカでバレエ「アレコ」の舞台装飾に取り組んだ。青森県は、全4幕からなるそのバレエの背景画の内、3点を収蔵している。1点の大きさは縦が約9m、横は約15m。巨大な画面にシャガールの色彩への情熱がほとばしっている。


青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑧編組製品 縄文ポシェット 木製品 ヒスイ 石製装飾品

2024年04月29日 14時44分23秒 | 青森県

世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑧編組製品 縄文ポシェット 木製品 ヒスイ 石製装飾品

 

このあと、隣にある青森県立美術館へ向かった。

青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑦骨角器 


青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑦骨角器 

2024年04月29日 11時09分28秒 | 青森県

三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑦骨角器 

重要文化財。骨刀。縄文時代前期。

重要文化財。装身具。縄文時代前期。

重要文化財。牙玉。縄文時代前期。

重要文化財。ヘアピン。縄文時代前期。

重要文化財。錐。縄文時代前期~中期。

重要文化財。刺突具。縄文時代前期。

重要文化財。針。縄文時代前期。

重要文化財。鹿角製ハンマー。加工途中の鹿角。縄文時代前期。

重要文化財。針入れ。縄文時代前期。

重要文化財。青龍刀形骨製品。縄文時代後期。コタン温泉遺跡(北海道八雲町)。

 

青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑥石器 青竜刀形石器


青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑥石器 青竜刀形石器

2024年04月28日 10時18分08秒 | 青森県

三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑥石器

石器の変化から見た縄文時代中期末の北東北・北海道について (抄)

齋藤岳(青森県埋蔵文化財調査センター)研究紀要第19号(2014年)から抜粋

1 はじめに

これまで、縄文時代中期末大集落が途絶えるなど、変革期であると指摘されてきた。近畿地方でも中期末に変革期を迎えるが、①土器の様相から、変化は岐阜県西部から滋賀県を経由して近畿地方各地に広がった②土器の在地化の様相から湖北地方まで人の移住があり、その影響で琵琶湖湖岸部と比叡山北部の集団がいち早くこの文化を取り入れたとする研究がある。人の移住とその範囲を推定した重要な研究である。

北東北では土器や石器、集落構造、炉の変化、トチ利用の状況変化と顕在化など、さまざま変化が指摘されてきた。

三内丸山遺跡出土の土器胎土の成分分析を行った結果、大木10式併行期の土器と円筒土器の胎土成分が同じであり、土器の形態や製作技法が東北中南部のものに類似するので、その製作者が移住してきたと推定できるという。中期後半から後期前葉における複式炉、斧形土製品、狩猟文土器、キノコ形土製品などの状況から南東北から北東北への人の移住も考えられる。

3 抽出遺跡と出土品について

(1)三内丸山遺跡と出土品

三内丸山遺跡では、中期末の大木10式併行期に石器が大きく変化する。三内丸山遺跡では中期末になってから集落が北西に偏ることは指摘されてきた。この時期には遺跡北側斜面の第6鉄塔地区や斜面中段に形成された平坦部にも住居が形成される(第683号住居跡)など、これまでと異なる場所にも住居が構築される

三内丸山遺跡は長大な墓域と道路、掘立柱建物跡群や大型住居など大きな施設(社会資本)が中期後葉まで蓄積・維持されてきた。居住域の変化は、これまで維持されてきた施設と位置的にも距離をおく。

傾向として青森県域の中期末には竪穴住居跡の掘り込みが浅いものが増えてくる。これは東日本全体の現象のようで、北海道中央部でも「縄文時代中期末~後期初頭の竪穴住居跡は、今までの調査例をみると掘方が浅い傾向がある」とされ、東京都調布市でも「中期末になると住居の検出レベルが相対的に高くなる。

また、中期末には青森県内の炉の形が変化し、東北南部の複式炉の系譜をひく石囲炉が出現する。以上から、竪穴住居の構築や建物・集落の維持管理など男性がかかわる領域で大きな変化が起こっているといえる。

もう一つの男性の関わる領域として、石器の製作と維持管理がある(切削用の石器や磨石・石皿には女性も関係するが、女性がかかわる土器製作の特徴により女性の移住は指摘されている)。

石鏃の形態は土器文化圏と密接に関連するとされており、三内丸山遺跡の石鏃形態の変遷を追うと、前期中葉では二等辺三角形の無茎鏃が主体で、前期末に柳葉形のものが多いが、中期前葉以降は有茎Y基鏃が多くなり断面形の厚みが増す。中期中葉には加工の粗さが目立つようになる。中期後葉は前後の時期と混じる資料が多く不明な点があるが、基本的には中期中葉の系統を引く。中期末の大木10式併行期になると、伝統的な形である有茎石鏃を含め、小形の石器が目につくようになる。従来どおりの大きさの石鏃は茎の有無を問わず厚みがあるが、小形の石鏃は断面も薄く、押圧剥離の丁寧な加工がなされる。

石錐は、つまみのついた棒状のものが中心となる。石箆は撥形のものが目立つ。石材は玉髄質珪質頁岩の石鏃等が一定数出土するようになる。玉髄質珪質頁岩は小形の礫から両極打法で剥片を生産したものが多く、剥片生産技法における変化も伴う。

特筆すべき出土例として、小三内地区の第8号住居跡の出土品がある。住居跡の炉は壁際に近い石囲炉で、前庭部をもち、南東北に由来する複式炉の系譜をひく。青森県内の大木10式併行期に多い形である。出土土器は大木10式併行期と最花式土器、そして北海道系の煉瓦台式土器である。

出土石器のうち、茎が長く左右非対称な石槍は北海道によくみられる形であり、青竜刀形石器は函館市戸井・南茅部地区が製作地であることから北海道系の石器も含む。

北海道式石冠は一部搬入品と考えられる資料を除くと青森県域では中期中葉に突然、出現する。楕円礫の側面を機能面とするものが多く、楕円礫の半割面を機能面とする前期以来の典型例とは異なる。

円筒土器文化に特有とされる半円状扁平打製石器が第5・10・11次調査区からは出土していない。三内丸山遺跡の他の住居跡でも中期中葉では半円状扁平打製石器の確実な共伴例はない。そのため、青森県域では大木10式併行期には、半円状扁平打製石器と北海道式石冠は出土例がない

4 まとめ

三内丸山遺跡の大木10式併行期の石器群から出発し、北海道中央部から東北地方の石器群を俯瞰した。

北海道では中期末になっても円筒土器文化からの伝統が石器に残るといえる。有茎石鏃や石槍の出土と形態、北海道式石冠と半円状扁平打製石器が残存することにあらわれている。長年にわたる青色片岩・緑色岩の磨製石斧と中期後葉以降の青竜刀形石器の青森県域への供給は続くが、石器が変化しない。

集落等の継続性でみてみると、北海道では中期末から天祐寺式(余市式)への継続性は良い。大きく変化するのは青森県域である。

そして、これらの事象がなぜ起こるのかについて考えたい。隣接地域から文化要素が流入する場合、情報・物・人のいずれかの移動によると考えられる大木10式併行期に南から青森県域に入ってきた要素については、情報・物のみの移動では、石器製作の根幹をなし剥片剝離技法や製品の形・大きさまで左右する石材の嗜好性の変化はおこらないと考えるのが妥当であろう。現在でも「技術移転」は容易なものではなく、技術者も共に移動する。異なる石材と、異なる形の石器が一時的なものとしてではなく、根付くためには移住者の定住が不可欠である。石鏃の形状や大きさの変化は矢柄の変化を伴う。石鏃を作り、弓矢を使う男性が入ってこないと、こうした変化は起こらないと考える。

北海道での状況を考えると、さらに明確になる。岩手県内でも青竜刀形石器や青色片岩・緑色岩製の磨製石斧は出土しており、北海道の渡島半島部の人も青森県域を介して大木式文化の石器の情報を知っていたはずである。三内丸山遺跡小三内地区第8号住居跡のように、北海道の渡島半島から男性が青森県域に来たと推定できそうな例もある。しかし、北海道南部では、基本的に有茎石鏃が出土する。物のみ移動した例が多いと考えるのが妥当であろう。大木式の石器を使った人は、北海道に渡ったとしても少数であったため、多数をしめる人の中に吸収されてしまったと考えて良いのではないだろうか。中期中~後葉においても同様だったため、円筒系の石器構成は変化せずに半円状扁平打製石器と北海道式石冠が中期末まで残存したと考えると整合性がある。

次に、人の移動の順序について推論する。青森県域の中期中葉では六ヶ所村富ノ沢(2)遺跡など太平洋岸で大木8a式などが出土し、後葉の大木8b式は八戸市松ヶ崎遺跡から多数出土する。八戸市松ヶ崎遺跡や階上町野場(5)遺跡で、最花式段階に小形無茎石鏃や錐先の長い石錐が出土しており、八戸市周辺から男性の移住が始まった可能性がある。

基本的に、深鉢等の煮炊きの土器は女性が作るものと考えられ、婚姻関係を通じた女性の移住が先行し、これまでの交流を深める形で女性のみならず男性も入ってきたと考えたい。アスファルトや赤彩漆塗り土器など物と、その背後にいる人のよく動く時代性が背景にある。

中期後葉以降、一戸町御所野遺跡で大木8b・9式土器や斧状土製品が出土するようになるなど、八戸市は北上してゆく大木式(系)文化に近く、岩手・宮城県の太平洋岸と在地石材の両極打法による剥離技法が共通する地域であることにも注意したい。そして、八戸市松ヶ崎遺跡や三内丸山遺跡にみられる小形の有茎石鏃に、大木式系石器の定着と青森県域との文化伝統の融合を考えたい。

社会学には内集団と、外集団という考え方がある。一つの集団ができると、最初は多様であった考え方が一つにまとまってくる。そして、外の集団は協調すべき相手としてよりも競争相手等の外集団として意識される。青森県域で大木式土器圏からの移住者を受け入れて、文化融合等の変化が起こったとき、北海道側からみると、青森県域は外集団化した可能性も考えたい。

最後に、なぜ、南からの男性が北海道側にわたる人が少なかったのかについて考える。筆者は、大木式の男性にとって女性の婚姻関係等で既知の円筒の世界(青森県域)から、一つ海を越えた心理的な遠さと関係していると考えている。一方では北海道と青森県域とは石斧や儀礼的な道具である青竜刀形石器の流通にみるように交流は中期後葉以降も物を中心に続く。しかし、渡島半島では大安在B式、ノダップⅡ式、煉瓦台式といった異なる土器を使用するようになる

円筒土器文化圏の一体性が弱まるように見えることについて、筆者は、青森県域に見慣れない人が増えてきたため、北海道側で本州側に対して心理的な距離感がうまれた可能性を考えている。青森県域で大木10式併行期に集落構造が変化し、継続性が弱まる事も人の流入による変化が起こったということで説明できる。

そして大木式の影響を直接受けない石狩低地帯では、天神山、柏木川式など円筒系の在地性の強い土器・石器が継続することも渡島半島部で北との結びつきを相対的に強くしたのではないだろうか。

その後、後期前葉になって、津軽海峡の両岸は十腰内文化圏を形成する。おそらくは青森県域で大木系の移住が途切れ、石器の小型化など大木系の石器をはじめとする文化の要素を消化した後に、両岸の交流は活発化したのであろう。磨製石斧をはじめとして物の交流は続くうえ、北海道南部の人々は自分たちの出自を本州側と意識し、青森県域の人も先祖が北海道にわたったという認識をもっていたためであろう。

青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑤土偶、岩偶